第16話 6月12日【影山秋】
【影山秋】
殴られたあの一件から数日が過ぎたが、今日まで高木たちは僕に再び実力行使で訴えることはしてこない。僕は保健室の池田先生の指示通り、早退して病院に向かった。検査の結果は「異常なし」だった。顔の腫れもおさまってきたし、こうしてりんごジュースを飲んでいても口の中に痛みはない。
異常といえば、「行ってきます、のキス」だけど、あれ以降も月島とは普通に話してるし、特にこだわることもないのかな、なんて考えている。月島にとって大事だったのはその前に話していた「決意表明」の部分なわけで。だから、飯田と菊地原がニヤニヤしながら「どうだったよ」と聞いてきた時も、深く考えずにありのままを話したら、驚かれた。むしろ、二人の驚き方の方が異常だった。僕の記憶が思い出し笑いと共に蘇る。
――放課後の教室、僕がいつも通り教室で一人で勉強していると、二人が入ってくる。
「ようよう影山ちゃん、どうだったよ」
「頭は異常なかったよ」
「そんなことは前にも聞いたんだよ」
飯田が僕の返事をつまんでゴミ箱に捨てる。
「月島さんとだよ、あの後二人きりだっただろ」
「つきしましゃ~ん」
菊地原が甘すぎて不快な外国のお菓子のような声を出す。全身でモジモジしている彼は、見るに堪えない様相だ。
僕はさっぱりとおろし醤油味の答えを返す。
「月島が、僕に決意表明して、キスした」
そう簡単に説明すると、菊地原は創作ダンスを演技するかのごとく、太い体ををひねりながら「んんん」に濁点がついた唸り声をあげ、身もだえる。一方飯田は、軽くその場で一度垂直跳びをしたあと、信号待ちをしている市民ランナーのようにその場でランニング足踏みを始める。
「なんなんだお前たち」
ただでさえ暑いのに、さらに暑苦しくなる。僕の発言を飲み込んで消化し、エネルギーとして発散させるには、そうとうの時間を要するみたいだ。
「ずるい、ずるいヨオ」
菊地原が体を傾かせながら親指をしゃぶっている。僕は余りの惨劇に吐き気を催し、目をつぶることにする。
「どこ」
「どこって」
「どこにチュウされたんだああ」
市民ランナーが空走りで暴走している。
「いや、ここだよ」
僕は腫れた頬を指す。すかさず、そこを目がけて菊地原が粘着質な唇を押し当てる。いきなり道端の陰から出てきたウシガエルに引っ付かれたような気分になる。
僕は何が起きているのか全然理解できない。さっきから吐き気だけが止まらない。
「はい、これで引き分けぇ~、引き分けとなります」
飯田が勝手に審判をしている。
「月島さんのキスと菊地原のキスで、引き分けなりい~」
能とか狂言にあるような言い回しをする飯田に対し、僕は完全に混乱状態だ。青陵の子に話しかけた時以上の。
人って簡単に混乱することが出来るんだ、と僕は思った。
「意味が全っ然分からない」
菊地原も、さらに意味不明な捨て台詞を吐く。
「お前は今、引き分けなんだからな! 」
飯田の笛により、僕と二人は強引に引き分けに持ち込まれてしまった。
まあ、いずれにせよ、勝者も敗者もいないってのは、いいことなのかもしれない。
僕も、二人のバカらしさに、思わず笑ってしまっている。何故かその後、のぼせ上った二人から、高木たちへの報復の提案をされ、「俺達、なんでもやるから」と協力の打診があった。僕は「まあ考えとくよ」とだけ二人に告げた。最近、僕の周りには情緒が不安定なやつらばかりだ。
そんなことは置いておいて。今日の昼も三人で、しかも僕は自分の席で、食べられるようになっていた。かといって、サバンナから捕食者が去ったわけではない。高田は常にイライラしているように見えるし、事あるごとに中根や遠藤は露骨にバカにしてくるようになった。僕だけではなく、菊地原や飯田までも。だけどみんな呑気なもんだ。
「おいオタクども、って一括りに言われてもなあ」
中根にさんざん罵られたあとも、飯田はどこ吹く風だ。
「ちゃんとジャンルが分かれてるってこと、知らないんだろうなあ。バレーと野球ぐらい違うぞ」
菊地原が珍しく真っ当な事を言っている。
「俺はアニオタ、菊地原はギャルゲオタ、んで、影山は浅く広くのニワカ」
「おいおい、なんか失礼だぞ。文系男子っていう丁度いい言葉があるじゃないか」
僕は無感情で、卵焼きの入った口だけを動かし、周りを見渡す。クラス全体の、僕に対する平均気温は、以前よりもグッと低くなった。クラスのほとんどが「影山には関わらないでおこう」と考えているんだ。外の気温は夏に向け、ぐんぐん高まってきているのに、僕の周りだけ大寒波だ。そんな中、冬の沖縄のように一か所だけ、ぽかぽかと春の陽気を纏っているのが月島たちだ。鈴木と前田と三人で、大笑いをしている。月島の、痛みを知る旅は、なかなか順調のようだ。夏目たちはいつも通りスマホを各々いじりながら気怠そうにしている。夏目は、気怠さを通り越して体調が優れないように見える。自慢の長い茶髪も、輝きを失っているような気がする。雨に打たれて風邪ひいたのかな。
「私、いなくなろうと思ってる」
雨の中、夏目の言葉は危機迫るものがあった。でも、その日の翌日から今日まで、夏目はちゃんと学校に来てるし、目に見えない幽霊になったわけでもない。そんな夏目は佐伯と篠原に「ちょっとお手洗い」と断りを入れ、カバンを持って出て行った。本当に体調が良くないのか、夏目の細い体がさらに細く見えた。
「で、どうするよ名探偵」
飯田が覗き込んでくる。僕は全然別のことに思いを巡らせていたので、何のことだか分からない。
「復讐だよ、復讐」
菊地原が親指を立てて、首がないくせに首を掻っ切るポーズをする。
「おい、それは処刑のポーズだ。それにお前、掻っ切るのは首だ、顎じゃない」
「首を指してんの」
菊地原が顎を上げて顎と首の境目を見せようとしてくる。顎と胴体のはざまに一本の皺が通っているだけで、やはり首はない。
「復讐、ねえ」
僕が片肘をつき、興味なさげに相槌を打つと、
「俺達、なんでもやるって言っただろ」
と菊地原が男気を見せてくる。飯田も首が千切れそうなほど頷いている。
ありがとう。そんなお前らが、僕は好きだ、なんて言えないから心の中で感謝する。
なんでもやる、か。僕は保健室で池田先生との会話を思い出す。
三人が保健室から出て行ったあと、池田先生は僕に最寄りの病院の情報や、担任の杉山先生には私から早退を伝えておくという話のあと、最後にこう告げた。
「殴ってあなたにケガを負わせた生徒は、あなたが病院で診断書等を揃え、警察に持ち込むと傷害罪に問われることになります」
なるほど、高木が逮捕されるかもってことか。あと中根もついでに。いい案かもしれない。その選択は、多くの場面で有効になるとは思う。例えば絶望している時だ。逃げ場がなく、戦っても無意味だと感じた時、暴力が日常的になっていて自分の存在意義が分からない時、もう死んだら楽になれるのに、と思った時。逃げなんかじゃない、正しい選択だ、と僕は思う。僕も、歩く道が一本でも違っていたら、その選択肢を迷わず選んでいただろう。
でも僕は、いまいち腑に落ちなかった。
変な話だが、殴られた今、僕は希望に満ち溢れてるんだ。
だから調子に乗って先生に尋ねてみた。
「先生、名探偵はなぜ名探偵と呼ばれると思いますか」
「難事件を解決するからでしょ。暗号なんかを解いて。踊る人形なんて普通の人は解けないじゃない」
先生は意外にも推理小説の道にも明るかった。
「そうじゃないんですよ」
「あら、じゃあなぜ名探偵と呼ばれるの?」
「自分で、事件を解決するからなんです」
僕はこう言ったあと、少し恥ずかしくなった。多分、「ドヤ顔」ってのをしてたんだ。先生は僕のドヤ顔に皮肉交じりの表情をする。処置で使った器具を片付けながら
「あんたは名探偵じゃなくてただの高校生なんだから、好き勝手に選べばいいのよ」
あんたバカねえ、と笑っていた。
好き勝手に選べばいい、か。いいことを聞いたな、とその時の僕は思った。
高木たちが動くなら、この昼のあとかもしれない。
「なんでもすんのか」
僕は二人の顔を見てあっけらかんと言う。二人は自信をもって、おう、と返事をする。
「じゃあ、飛んじゃおうか」
『アウトレイジビヨンド』の名ゼリフ、「野球やろうか」をオマージュした僕の言葉は、威厳さが完全に取っ払われた間抜けなトーンで放たれる。
菊地原も飯田もぽかんと口を開けているだけだ。これでは全員アホ面なだけだ。
僕は気を取り直して二人に計画を話す。二人の顔が、だんだんと曇っていくのが分かる。
「まあ、影山がそれでいいなら、なあ」
菊地原が飯田に問う。
「まあ、影山がそれでいいなら」
二人とも同じリアクションだ。イマイチ納得ができていない表情だ。
僕が話し終えると、二人は席に戻っていく。その様子をなんとなしに見ていると、こちらに近づいてくる高木と視線が合う。数日間空腹の状態で、やっと獲物にありつけた獣のような目だ。ポケットに手を突っ込みながら闊歩し、僕の横に立つと体を傾け、耳元でこう告げる。
「これからお前を潰す」
ついにこの時が来た。次は本来、杉山先生の授業だが、先生は来ない。先週から決まっていたことだ。先生は出張で、この時間は自習になる、と。加えて、先生はクラスの生徒たちに指示した。
「自習中に修学旅行の班を決め、自由行動で行きたい場所を決めておくように」
キンコンカンコン、と、最終ラウンドのゴングが響き渡る。
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