第14話 6月8日【夏目陽奈】

【夏目陽奈】



 家で珍しく課題をこなし、紅茶をお気に入りの茶色のマグカップに淹れる。日曜の午後は明日の学校のことを考えるから、気が重い。後悔先に立たずって言葉、本当にその通りだと思う。私はミカにもエリカにも高木にも、そして影山にも、未だヒカルちゃんのことを伝えられないでいる。一度は伝えようと思い、誰にもバレないようにと、影山のいる放課後の教室に向かったことがある。でも、すでに先客がいた。月島さんだった。彼女は深い傷を負って教室から出てきた。「なんかおかしい?」と号泣しながら私を睨む彼女は、正義の塊の様だった。あの子は何にもおかしくない。おかしいのは私だ。私が蒔いた種のせいで、いや、蒔かなかった種のせいで、もう後戻りができないことを私は悟った。ここ数日でいろいろ変わってしまった。影山が殴られている時も、何もできなかった。ひとり、ガクガクと膝を震わせているだけだった。そのあとミカが楓と揉めていたことも、もう全部忘れよう。私には全部関係ないことなんだ。

 気分転換に爪でも手入れしようと思った矢先だった。

 エリカとミカとのグループラインの通知が私のスマホを光らせる。

 通知が来たときは、誰に対してもそうだけど、一呼吸おいてから見るようにしている。

 エリカとミカの時は、特に一呼吸っていうよりも深呼吸かな。

さっき淹れたばかりの紅茶が入ったマグカップを手に取り、ふうー、ふうーっと息を吹きかけ熱を冷ます。

 恐る恐る一口、飲んでみる。やっぱりまだ熱すぎる。強引に喉を通したから、胃の中も熱がっている。

 だんだんと体の中の熱さが引いたところで気合を入れ、ラインに目を通す。

 エリカからだ。派手な絵文字とスタンプに目がチカチカする。


 ミカと翔と颯太でカラオケ来てるよ

 シュウも部活終わったら来るみたい

 ヒナも良かったらおいで!


 私にはだいたい察しがついている。

 ミカは中根翔と、エリカは遠藤颯太と付き合ってて、一緒に遊ぼうってことでカラオケに来た。私と高木の話題になり、そのうちの誰か――おそらくミカ――が高木と私も呼ぼう、と提案したのだろう。

 こんな感じで何回か休日の遊びに誘われたことがある。

 以前まではなんとか上手いこと口実をつけて断ってきたけど、今回も断ってしまったら、ちょっと気まずくなりそうな予感がした。私は、もちろん、という雰囲気を出して返信する。

そのあとの私は大忙しだ。

 急いで髪の手入れと着ていく服と化粧と、その他諸々に気を遣って支度を整える。爪は、まあいいや。ピアスも電車で付ければいいし。どうせ2,3時間だから、とバッグに財布とスマホとピアスだけを入れて、ヒールの付いたサンダルを履き玄関を出る。

 息を切らして金井山駅からの電車に乗り込む。なんだろう、呼び出しって変に焦る。化粧崩れてないかな、大丈夫かな、と思いスマホをバックから取り出す。

 「あせりはきんもつ」とはよく言ったものだ。

 スマホを取り出した時に、スマホのケースに引っかかったピアスがこつん、と床に落ちた。落ちたピアスは、電車の進行方向とは逆にころころ、ころころと左右不規則に転がっていく。私は何とか早くピアスを拾い上げようとして左足を前に出す。


ぐにん


 左の足関節が私の意図しない方向に曲がり私は倒れそうになる。すんでの所で座席と座席の間にある銀のパイプに右手を伸ばし、掴まる。ヒールのサンダルを履いていたことに今更気づいた。そんなことはお構いなしに私のピアスは歩みを止めず、向こう側に転がっていく。私の手の届かないところへと、どこまでもどこまでも転がっていくピアスは、やっとのことで終着駅を見つける。あらかじめしゃがんで待ち構えていた細くて骨ばった両手の元へ、柔らかく、優しく、すっぽりと収まる。


 電車のドアが閉まる。発車のベルが鳴り響いた。


 その細くて骨ばった両手の持ち主は影山だった。

 影山も、私と同じく金井山駅から電車通学で作星に通っている事を思い出す。

 コケて捻った左足首を引きずり、私は影山の元まで歩く。想像以上に痛い。吊革と銀のパイプを利用して、なんとかたどり着く。


「ありがと」


 ぶっきらぼうに一言ひねり出すのがやっとだ。足がぐにんってなるし、歩き方がゾンビみたいだし、おまけにピアスを影山に拾われるし。顔から火が出そうだ。早く返して、私のピアス。それでもって、大丈夫ですか、とか言え。そうしたら私は、うん、大丈夫、って言って終わるから。


 だけど、返ってきたのはピアスじゃなかった。


「夏目って意外とおっぺけぺーなんだな」という言葉と、わはは、という笑い声だ。


 私は本当に顔から火が噴き出るかと思った。怒りを通り越して、変な気分だ。私はなぜか今まで出したことのないような笑い声をあげていた。変な気分だ。すっごくすっごく恥ずかしいけど、少し気持ちいい。これは痛快っていう感情なのかな。痛快って言葉は、自分自身に対して使える言葉なのだろうか。


「影山のばか、なんなのおっぺけぺーって、意味わかんない」

「僕も」

 影山は腫れがまだ引いていない頬で朝日のような笑顔を私に見せた。私もヒマワリのように、笑ってた、と思う。


 電車は駅を出発して加速する。


 「じゃあピアス」返して、と右手を差し出すけれど、影山は、だめだめ、付けていくんでしょ?と返してくる。「そうだけど?」それが何?と聞くとじゃあ消毒しなくちゃ、といって空いていた座席に腰掛け、大きな肩掛けバッグから出したキレイキレイの除菌シートを1枚引っ張ってくる。いいよ、と私が言うと、これアルコール除菌で大丈夫なやつだよね、持ってんの?と聞いてくる。持ってると嘘を言おうとしたら、そんな小さなバッグには入ってないでしょ。入ってるのはティッシュとハンカチと財布ぐらいじゃん、と畳みかけてくる。


「はずれ、ティッシュもハンカチも入ってませんー」

 わはは、と影山は笑いながらも丁寧に私の小さいピアスをキレイキレイで拭く。そのあと、これまだ使ってないやつだから、とハンカチを取り出して空拭きまでしている。途中でやめさせることもできるけど、そうしなかった。なんか、慣れてるなあって関心した。ピアスを拭くことじゃなくて、もっと広い意味で。影山っていう人間は、こういうことよくやる人なんだろうなって。


 しっかりと消毒されたピアスを影山から手渡される。

 影山はこれから大都宮図書館に行って本を借りるようだ。『罪と罰』って本。こんな私でも名前ぐらいは聞いたことある。

「参考に読もうと思って。僕、小説書いてるから」

 影山がヒカルちゃんを助けた時の顔になる。

「うん、知ってる」

「夏目も見てたのか」

「うん、見てた」

「うん」

 影山は苦笑いをしている。

「なんとか、もう少しで完成しそうなんだ」

「そっか」


 私達二人は大都宮駅で電車を降りた。

 あのさ、と口に出そうとした私が影山の横顔を見ると、影山はもう、何かを考えている様子だった。きっと小説についてのことだ。影山の真剣な眼差しに直面すると、私は言葉を失い、再びヒカルちゃんのことを告げる機会を失ってしまった。

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