第13話 6月5日【月島千春】

【月島千春】



 影山君は高木君の二発目の右フックを顔面で受けると、勢いのまま床に沈んだ。教室は、微動だにしない。私は考えなしに彼を抱きかかえる。彼の目には涙が、口の中からは血が出ている。

「かげやまくん、かげやまくん、大丈夫?」

 影山くんは反応しない。私は彼を抱きかかえようとするが、気持ちだけではどうにもならない重さだった。

「手伝って、だれか」

 私は髪を振り、喚き散らす。なりふり構ってなんかいられない。

 すぐに飯田君と菊地原君が両脇を抱える。

「いくよ」

 そう二人に確認し、保健室に向かう。二人とも、目に涙を溜めている。おそらく、私も。

 保健室に着くと、先生がいて、悠長にご飯を食べている。

 私は気が動転し、支離滅裂になりながらも、なんとか彼を助けてほしい、と訴える。

「まずは落ち着きなさい。あんたたち」

 彼をベッドに寝かせると、先生は穏やかな口調で名前やクラスを聞く。

 先生は手慣れた手つきで呼吸の確認をしたり、脈や心拍数を測ったりする。

「どうやら気絶のようね。座って待ってなさい」

 そう指示され、私たちは影山君のベッドの脇に椅子を三つくっつけて座る。

 飯田君と菊地原君は、すまねえ影山、ごめんな、なんて謝罪の言葉を、おのおの繰り返している。影山君がこうなる可能性があることが事前に分かってたのに、阻止できなかった不甲斐なさから自責の念を抱いているんだろう。


 私はどうだろう。中根君の不穏な空気を察して、せっかく助けてあげようとしたのに、「穢れるのが怖いんだろ」なんて酷いこと、言われて。まあ、本当のことなんだけどさ。でも、事実をそのまま突きつけられるのは、混じりっけなしの100%のグレープフルーツジュースと一緒で、苦くて酸っぱい。だから、もう影山君なんて知らない、なんてさっきまでは思ってたはずなんだけど。どうしてか、私はここに座っている。


 そんなことを思っていると影山君の意識が戻りそうになる。私は慌てて先生を呼ぶ。


「その足は、月島だ」


 やらしいオジサンみたいなこと言ってる。

 でも今は、やらしいことを言ってくれた方が、影山君は生きてるんだって強く思える。私は安心のあまり、影山君の胸元に飛び込む。飯田君と菊地原君も、思いは同じだ。意識が戻った影山君は、私たちに軽口を浴びせたり、先生の話を聞いたりしている。影山君が無事で本当に良かった。私は池田先生から影山君は「次の授業の時間には戻れる」けれど「すぐ早退する」ことを聞き、保健室をあとにする。


 保健室から教室までの廊下で、飯田君と菊地原君は高木君たちへの復讐を計画している。「朝イチでカメラを仕掛けておいて影山が殴られるところを盗撮するのはどうだ」

「また殴られんのかよ、影山。今度こそ死ぬって」

「じゃあ今度は俺が殴られる」

「菊地原、お前、殴られる前にビビッてションベン漏らすだろ」

「飯田、お前もだ」

「じゃあ私が殴られようか」

 私がそう言い『YAH YAH YAH』のサビを歌い出す。

 二人の会話が止まる。

「それ、殴りに行こうかって歌」

「だいぶ古いっすね」

「私でもいいじゃん」

「いや、月島さんはなあ」

「だめっすよ~そんなこと」

 私はにやっと笑う。

「うそうそ、冗談冗談。でもさ、影山君、復讐とか、考えてないんじゃないかなあ」

「どうだろうね、あいつ、変に観察力がいいからなあ」

「影山なら高木たちを出し抜くなんて余裕っすよ」

 たしかに、名探偵だからなあ。でも影山君、殴られて気絶して、なんだかスッキリした顔になった。


 教室の前まで来たところで、廊下に楓とかおりが立っていることに気づく。

 楓が、目を腫らして泣いている。私は慌てて駆け寄る。飯田君と菊地原君もつられて楓に駆け寄るが、かおりが

「飯田と菊地原はいいの。あっち行ってて」

 とストレートに命令する。二人は素直に従って教室の中に入っていく。


「どうしたの?」

 私は楓を見る。楓は肩を震わせながら、ひっく、ひっく、とすすり泣いている。

 私は楓の肩を両手で包む。かおりに目線を向けるが、何も答えを返して来ない。楓の返答を待っているようだ。

「なにがあったの?」

 改めて聞き直しても、楓は泣き止む様子はない。これ以上我慢できないと、楓の肩を包む手を放そうとした時だった。楓が涙で覆われた顔を私に向ける。そして、泣きながら、笑った。

「わたし、やったよ」

 そう言うと私の胸に楓は飛び込んでくる。やったよ、やったよ、と私の制服に何度も報告する。

「楓、ミカたちと戦った」

 かおりが優しく笑いながら楓の頭を撫でながら、さっきあった出来事を私に説明する。

「千春が影山を運びに行く時さ、机とか椅子とか倒れてて、中の物とか床にバーっと出てたじゃん」

「そうだったね」

 私は少し前の状況を思い出す。影山君が殴られて吹っ飛んで、机の中の教科書やノートが辺り一面に散らばっていた。

「千春が出てったあと、高木たちは、影山をぶっ飛ばしてやった、って盛り上がってたのね」

「サイアクだね」

「そう。それで、散らばった物の中に影山のノートがあってさ、中根が手に取ったの」

ノート、の所をかおりは強調する。ノート、普通のノートじゃない。まさか......

「中根が面白半分でめくったそのノートにはさ、影山の小説が書かれていたの」

私の悪い予感は的中する。

「高木とか遠藤も集まってきて、音読とか始めちゃって」

 うわ、と思わず声が出る。想像しただけで泣けてくる。影山君、気絶してて良かった、なんて思ってしまう。

「で、バカにするわけ。気持ちわりーとかダセーとか」

 私は言葉が出ない。

「気づいたらさ、その集団の背後に楓がいたのよ。で、ノートをあいつらから取り上げた。ピュッて」

 かおりは右手で素早く摘み上げる真似をする。

 少し落ち着いてきた楓が口を開く。

「わたし、やめなよ、って言った」

 そうだね、とかおりが柔らかく相槌を打つ。そして一層優しく楓の髪をなでる。楓が続ける。

「そしたら、ミカが、ダサいのは黙ってろよって私に言ってきて」

 私はぎゅっと楓を抱きしめる。私も知っている。私達と一緒に行動を共にする前に楓は、佐伯さんや篠原さんからグループの追放宣告を受けていたことを。

「知ってると思うけど、私、前はミカたちといて、はじかれて、そのミカが、言ってきて」

 楓をグループから追放した張本人のミカに改めて言われたんだ。

「つらかったね」

 うん、と言ってしばらくまた声にならない声を楓はあげている。

「私、頭が真っ白になって、何も言えなくなっちゃって」

 その気持ち、痛いほどよくわかる。

「でも、かおりが」

 そう楓が言いだした時、かおりは我慢していた気持ちを抑えきれなくなり、目元にあるスカイブルーのハンカチは、だんだんと色味が濃くなっていく。

「かおりが、楓負けんな、って、言ってくれて」

 普段クールでのらりくらりしてる、かおりが、後押ししたんだ。普段はそんな一面をおくびにも出さないかおりが。きっと、命がけだったんだ。

「わたし、ミカに、お前が一番ダサいって、言ってやった」

 涙って無尽蔵なのかな。さっき流したのに、懲りずにまた出てくる。

「楓、よく頑張ったね。偉いよ。かおりもね」

「でも、ミカは、私の何十倍も私の悪口を言ってきて」

 楓はその時を思い出し、また、熱い雫を私の胸に落とす。

「いいのいいの、そこはもう、ね」

 勝った負けたじゃない。戦った、それが楓にとっては大きなことなんだ。すごいよ、偉いよ。

その後の話だと、泣き崩れる楓を席に戻し、かおりが一人で影山君の椅子や机や中の物を元に戻したようだ。戻してる時、エリカから「この偽善者」と言われたけれど、代わりに「この小悪党」と言い返してやったって。

 かおりって、やる時はやる子なんだ。


 三人でひとしきり泣いた後、かおりがノートを持ってくる。ピンクのCampusノートだ。そこには「Fight the cats 12」と書かれていた。

「これ、千春から渡して」

 楓が持っていると危なそうだから、私が持ってた、と説明する。

「でも、次英語だし、影山君そのまま早退するって」

 私がそう言いかけると、かおりは

「じゃあ、待ってれば」

 と、被せてくる。かおり、なんか一皮むけたんじゃない。

「元はと言えば、影山を助けたいって言った千春の責任なんだから」

 冗談っぽくかおりは笑う。

「千春のせいで、私もめちゃくちゃだよう」

 楓がいつもの調子に戻っている。

「影山の風に当てられた、っていうの?こういうの」

 かおりが遠くの方、保健室をみている。

「なんか、普通だったらやらないようなこと、しちゃったなあ」

 しみじみと語るかおりの横顔は、とてもきれいだ。

「とにかくさ、千春がそれ渡しといてよ、私達、もう行くから」

 私はかおりがポイっと渡してきた影山君のノートを反射的に受け取ってしまう。影山君のノートは、1ページ1ページがちゃんと分かれている。私が穴が空くまで読み込んだ、『かいけつゾロリ』みたいに。

「じゃあね~千春~」

 楓も続く。いたずらっぽく笑っている。

「あ、ちょっと」

 もうほとんどクラスの人たちは移動していた。閑散とした廊下で、私は授業に向かう楓とかおりの背中をただ見ている。

 距離が空く。さきほどまでの粗熱が逃げていく。私の温度が、周りの生徒の温度と同じぐらいになったとき、二人は立ち止まり、くるっと振り向く。かおりが良く通る声で私に言う。

「ちはるー。私、なんだかんだでスッキリしてる」

「わたしもだよ。気持ちが、とってもいいよー」

 楓ものびのびとした声をあげる。

「あとはさあ、千春だけだよー」

 わたしだけ、か。

「好きにやっちゃいなー」

 私の好きなようにって、なんだろう。私の息苦しさが、楓とかおりにも伝わっていたんだな、きっと。私はそう確信する。

「わたったあ、二人ともありがとう」

 私はお礼を述べて教室に戻る。

 チャイムが鳴る。教室の電気は、消しておこう。先生に見られるとまずいな。そういえば私も、影山君のせいで、普段やらない事をしてるなあ。


 ふう、と一息、席に着く。窓ガラス越しに緑葉が生い茂っている。これから夏がやってきて、太陽の光をめいいっぱい浴びた木々は、ぐんぐんと成長していくんだ。これからの私は、どうかな。影山君のノートは、若葉の匂いがする。どこか、懐かしい匂いだ。影山君は、猫の話を書いているのかな。どんな話だろう、気になるな。彼のことだから、きっと、気持ちが入った、人の心を動かす、いい文章なんだろうな。


 がらがら、と後ろの扉が空く。あまり足音を立てないで、影山君が入ってくる。


「やあ」


 私は、できるだけ驚かせないように声をかける。


「死ぬほど驚いた」

 やっぱり、そうか。ごめんごめん、と謝る。影山君は何も聞かない。どうしてここにいるの、とか、どうして月島がいるの、とか。

 私は帰り支度をする彼にノートを渡す。

「まずいぞ、これは」

 あわあわしている彼の真ん前の席に私はまたがり、椅子の背もたれの上で手を組む。ことの経緯を説明する。

 高木君たちがバカにして読んでたところを楓が取り返したこと。

 彼は「えっ鈴木が?」と目を見開く。私は口元が緩んで「うん」と答える。そのあと楓がミカと戦ったこと。かおりが楓に援護射撃したり、一人で影山君の机とかを元通りにしたこと。このノートを私が渡せとかおりから言われたこと。

 彼は手を休め、黙って聞いている。一通り私が話し終わると彼が肩を落とす。

「悪いことしたなあ。やっぱり僕、高木の言う通り、クラスのみんなに迷惑ばかりかけてる」

「ちがうよ、そうじゃないよ」

 私は、楓やかおりに起こった変化を話す。

「楓もかおりも、なんか、スッキリ爽快って感じみたい」

「爽快?」

「うん、普通じゃやらないこと、できたってさ」

 彼はすうっと息を吐く。さっきのことを思い出して自分なりに何を感じたか考えているんだ。

「僕も、酷くカッコ悪かったけど、実は、スッキリしてるんだ」

「やっぱり。楓やかおりとおんなじ顔、してるもん」

「でも、こんなに腫れあがってはいないだろ」

 彼は自分の左頬を指さす。内出血でそこだけ皮膚が盛り上がっている。もちろん、そういう外見の話じゃないって彼はわかってる。心の方の話だって。心の方の話で言うなら、私の話も聞いてもらおうじゃないか。


「わたしはさ、穢れるのが怖いって君に言われて、もう君なんて知らないんだからって思った」

「あのときは、本当にごめん。そんな風に言わないと、引き下がってくれそうになくて」

「私は穢れを恐れてるって全然思ってなかったの? 」

「ちょっと思ってた。心が潔癖だなって。でも、それを隠すのがうまい」

 さすが影山君だ。やっぱり名探偵だ。そして、誠実だ。自分のほんとうの気持ちを出すことから逃げない。


「君には敵わないなあ」

 私は追い詰められて諦めた犯人のように白状する。私はこれ以上穢れたくなかったこと。それが独りよがりの考えだと自分で気づいていたのに辞めることはせず、周りを巻き込んでしまったこと。そして、おおもとの罪の意識の芽生えは、影山君がきっかけだったこと。

「え、僕が何かしたのか? 」

 影山君は少し斜め前を向いて、何か思い出そうとしていた。

 まるで浮気をしている夫が、妻から「私に隠し事があるでしょ」と言われた時のように焦りだす。

「い、飯田と菊地原から、な、何か聞いたのか?」

 私は笑って否定する。ちがうよ、というと彼はほっとした表情を浮かべる。


「ねえ、覚えてる? 影山君が今のミザルーを拾った時のこと」

「うん、なんでか、高木に殴られる前に思い出した。両親を説得するって言ったら女の子が応援してくれたんだ」

 少し間隔があく。私の記憶が、彼の記憶と交わる。彼は、謎解きクイズの正解が分かった時のように、はっとして目を見開く。さすが勘がいいんだから。

「かいけつゾロリ」

 私はぽつん、と呟く。影山君が雷に打たれたみたいに背筋を伸ばして硬直する。

「あれ、わたしなんだ」

 そこから先はもう、勢い任せ。影山君の驚きも置いてきぼりにするくらいの。

 本を取り返してくれたこと。ベンチに座って夢を語ったこと。子猫を見つけ、出会わなければよかったと思ったこと。子猫が彼の家族になることが決まって安堵と同時に罪悪感が芽生えたこと。烙印代わりに 君の名前をずっと覚えていたこと。

「これが私の罪と罰だよ」

 そして、君の名前に再び巡り会ったこと。

「君は、私のヒーローで、罪を教えた人で」

 これでぜんぶ、ぜんぶだ。


「初恋の人」


 私の息切れが、二人きりの教室に響く。


「今までの私はさ、臭そうなものには、匂いも嗅がずに蓋をしてきたんだ」

 影山君が黙ってじっと私を見ている。私の声と、声の周りの色や形まで見ているような、そんな態度だ。

「争いが起こる前に争いを止めようとしたりね。なんで争いが起きるかを理解してないくせにさ。争いはいけないものだって頭ごなしに思ってたんだ」

 私は、全部を使って君に伝えたい。これまでの私とこれからの私を。

「でも、影山君が殴られた」

 うん、と彼はうなずく。

「君は、とっても痛かったと思う」

 そうだね、と彼は微かに笑みを浮かべる。殴られたことだけじゃなく、心の方も。

「楓もかおりもボロボロになった」

 あとは私だけ、か。


「君をを見ていたら、心が突き動かされたんだ」

 正面からちゃんとぶつかり合うことの大事さが、君を見ていて分かったんだ。

「それで、これからの私はさ」

 私はいつでもどこでも潔白でありたい、穢れたくない、と思いながら過ごしてきた。でも、汚れや穢れに触れないと、どれが汚れでどれが穢れか判断できなくなる。真っ白な壁をずっと見続けていると、それがやがてくすんできたり黄ばんできていても、自分じゃ気がつかなくなるように。だから、


「痛みから逃げないで、ちゃんと痛みが分かる人になりたい」


 そう告げると、私は身を乗り出し、潔白と穢れが混じった空気を吸い込む

 そして君の腫れた頬にキスをする。

 

 君への餞別、そして、これからの私へ。新たな門出に。

「行ってきます、のキス」

 そう私が言うと、それは意味が違ってくるんじゃないか、と君は笑った。

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