第12話 6月5日【影山秋】

影山秋】



 授業の終了とともに昼食の時間を示すチャイムが鳴る。菊地原が僕の真後ろでゆっくりと椅子を引きずる音がする。少しして、

「一緒に行こうぜ」

 と僕を誘う。きっと、菊地原はかなり勇気を出した。クラスってこういう時だけ敏感に反応するんだ。誰も聞いてないようで、実は聞いていて、みんな様子を伺っている。今日はまだ教室にクラスが全員残っている。クラス全員に聞かれているというプレッシャーに負けずに菊地原は僕に話しかけてくれる。続いて離れた席にいた飯田もやってきて

「おう、行くぞ」

 と僕に声をかける。大した口調だが語気は極めて弱い。

「おう、行くぞ、だって」

 佐伯の人を小馬鹿にした笑い声が聞こえる。飯田が俯いて涙目になる。

 僕は二人に向かって話す。

「いや、今日も二人で行ってこいって。僕はやらないといけないことがあるから」

 そうか、と肩を落とし落胆した表情を二人は見せる。二人が教室から出ていく手前で、僕は

「それにさあ、お前たち、ダサくなんかないよ」

 と、二人と、佐伯と、クラス全員に聞こえるボリュームで言い放つ。

「影山! 」

 二人の体が翻り、僕の元へ再び向かってくるよりも早く、中根が目の前に立つ。

 顎を使い、どけ、と僕に指示する。僕は押し黙ったまま席に座り続ける。

 中根は眉を歪ませ、笑みを見せる。

「なーに意地張ってんだよ。お前今の自分の状況分かってんのか」

 さっき「お前たちはダサくない」と言い、佐伯を否定したから、その彼氏である中根ははらわたが煮えくり返っているんだ。目が血走っている。メンツを保つことでコイツは生きてるんだ。ヤクザと一緒だ。でも、コイツじゃない。コイツと僕の争いだけでは終わらせない。

 僕は前を向いてじっと待つ。じりじりと緊張感が上がっていく。

「何も言えねえのかよコイツ」

 遠藤が追い打ちをかける。

「どけっつってんだよ」

 中根が拳を振り下ろす。鈍い音がする。遠くの女子の小さい悲鳴が聞こえる。痛い。ただただ、痛い。いきなり頭頂部に拳で衝撃を与えられた事実に僕は動揺する。昨夜の固い決意が一瞬で揺らぐ。本当は両手で殴られたところをさすりたいけど、その衝動を何とかやり込める。

「お前が気持ち悪いことしたせいでみんな迷惑してんだよ」

 中根と遠藤の語気が荒くなる。苛立ちがピークに達する。僕の心は、いまにも崩れそうなジェンガのようになりながらも、崖っぷちでなんとか耐え続ける。すると、満を持してあいつが口を開く。


「お前、ここにいる資格ねえよ」


 高木だ。昨日の朝、高木に「気持ちわりい」と言われたことを僕は思い出す。

「そこに地蔵みてーに座り続けるなら、クラス全員に謝れや」

 高木が近寄ってくる。あの時僕はなぜ謝ったんだろう。このクラスの正義の代行者然としてやってきた高木が僕を裁こうとする。正しいことが正義じゃない。それはこのクラスに限った話じゃない。強いものが正義なんだ。いつでも、どこでも。強いものがルールを決める。このクラスの法律は、高木を中心としたこいつらだ。高木が言うことが、正しいことになる世界だ。

「次、強いの行くぞ」

 高木は淡々と、次の展開を僕に告げる。これは脅しなんかじゃないことは僕でもわかる。わかってるんだ。生きるためには、退かなければいけない場面もある。みんなそうやって折り合いをつけて生きていくのだから。

 僕の体は、さっきから全然震えが止まらない。こんなに不安定ならば、一度は高木に従ってしまおうか。作戦を立て直して、あいつらが僕の存在なんか忘れたころに、背後からグサリ、と一泡吹かせてやろうか。


 お前はそれでいいのか


 どこかで誰かが僕に向かって問いかける。ふと机に目を落とすとそこには「Fight the cats 12」と書かれた小説構想ノートが中から顔を覗かせている。教科書と一緒に紛れ込んでここまで持ってきてしまったのか。僕はノートの中身、自分で書いたジャジャと女の子の話を思い出す。ジャジャも、女の子も、よく頑張って戦ってた。僕は、自分の描いた物語から勇気をもらえたんだ。この場をちゃんとできたら、「Fight the cats」は更にカッコいい話になる予感がする。そしてジャジャの先にミザルーの姿を思い浮かべる。元はと言えば「Fight the cats」は僕がミザルーと家族になった嬉しさを思い出して想起した物語だ。そういえばあの時は、両親に「この子を家族にしたい」と訴え続けて、両親が根負けするまで相当粘ったんだった。『かいけつゾロリ』を持った女の子が僕を応援してくれたんだ。なんで今まで忘れていたんだろう。ようやくあの時の感覚を僕は思い出した。


 今しかないんだ。

 今、ここで言わないと、僕は前と何も変わらない。あの幼稚園の頃からずっと今に続く自分のままだ。今変わらないと、きっと明日もその先も永遠に変わらない気がする。熱の込められた小説なんて一生書けない未来が待っているんだ。

 息を整える。僕は、僕の未来を切り拓くために行動する。

 静かに、じっと前を見つめて僕は答える。

「ぼくは、どかない」

「はあ?なんだお前」

 今度は高木の目をしっかりと見る。心拍数が最高潮に達する。僕は言い切った。

「僕は、ここをどかないって言ってるんだばかやろう」

「今なんつった」

「ここをどかないって言ったんだ」

 ばかやろう、というよりも早く、高木の拳は僕の顔を捉える。

 僕は椅子もろとも、斜め後ろにのけぞり、大きな音と共に倒れる。倒れる際に自分の机に足がかかり、机も倒れる。机の中のノートや教科書があたり一面にぶちまけられる。

高木にぶっ飛ばされた僕は、それでも高木から視線を外すことをやめない。外しちゃいけないんだ。

 クラス中がしん、と静まり返っているのが分かる。聞こえるのは僕の胸の鼓動だけだ。

「今、わかったんだよ」

 僕は立ち上がる。

「お前たちに脅されたり殴られたりしても」

 喉の奥の方が熱くなってくる。

「別に平気なんだってことを」

 拳を握りしめる。

「でもお前たちにビビッて」

 声が震える。

「なっ何も、いっ言えなかった、じ、自分が」

 目の前が熱くてぐちゃぐちゃになる

「いっいっいっいちばん、なっなっ情けなかったんだ」

 僕が言い終えたと同時にもう一度拳が飛んできた。

「弱え奴が開き直ってんじゃねえ」という高木の言葉を遠くに聞くと、僕の意識はそこで途絶える。





 じんじんと、熱を持っている。左の頬から痛みが僕の神経に伝わっている。呼吸が苦しい。鼻が詰まっている。鼻水、鼻血、その両方かも。それにしても明かりが眩しい。僕は仰向けで寝てるのか。僕は光ができるだけ目に入らないように、首を横に曲げ、少しずつ瞼を開く。


「気がついた、気がついたよ先生」


 ほんの近くで女子の声がする。瞼をより広げてみると、僕の横には制服のチェック柄で学校推奨の長さのスカートと、白いソックスと、つま先だけ緑色の、きれいに洗われた上履きと、白くやや細めの太腿とふくらはぎが目に入る。

「この足は、月島だ」

本当は、最初の声で分かってたけど。

「あら正解。名探偵ポアロね」

奥の方でせわしなく動く年を重ねた声だ。

「僕は、ホームズの方が好きなんだ」

そう言いつつさらに周りをよく見ると、スカートの隣には、チェック柄のズボンが2着見える。


「太ったズボンが菊地原で、ニキビ面のズボンが飯田だ」

「ニキビ面のズボンね、あんた面白いわねえ」

 また奥から呑気な声がする。

「全然面白くねえ」

 飯田の声だ。

 僕はやっと目を開くことが出来た。六本の足の上には、三人の顔がある。みんな同じ表情だ。

「お前たち、なんで泣いてんの?」

 僕がそう言うと三人は、わっと僕に覆いかぶさってきた。

 顔はジンジンと熱をもって痛むけど、悪くない。いや、とてもいい気持ちだ。心がすうーっとしている。まるで、一気にフリスクを口の中に放り込んだ時のように。口の中が切れてる今、本当にフリスクを食べたらきっと死んじゃうと思うけど。

 菊地原と飯田は僕に、何度も何度も謝った。

 あいつらが怖くて影山を助ける勇気が出なかった、ごめん、ごめんな、と。

「でも、助けにきてくれたじゃん」

 というと、更にうるさくなる。

「助けに行ったけど、足がすくんで、影山が殴られるのを、ただ見てただけだった」

 僕はもういいって、と答える。それよりお前らなあ

「えーん、えーん、って、十七歳にもなる男二人が出す泣き声じゃないだろ」

「かげやまくんも泣いてたああ」

「月島までこんな状態かよ」


 仕切りのカーテンが小気味よい音を立てて、奥にいた声の持ち主が入ってくる。

 白衣を着た小池先生だ。ふっくらした両手で消毒液やら綿棒やらコットンを持っている。

「だいぶ派手にやられたわねえ」

 まあ、はい、と僕はあいまいな返事をする。

「記憶はある?」

 先生は手際よく処置を続けながら問いかける。

「高木の二発目までは。え、ぼく、もっと殴られてたの?」

 三人に問いかけると、飯田が、いや、二発で合ってる、正解、さすが名探偵ポアロ、と返す。

さっきの仕返しだな。僕は自然と可笑しくなって笑ってしまう。

「この子達があんたを運んできたのよ」

 先生はざっと経緯を僕に説明する。お昼になって少ししたら僕が三人に抱えられてやってきて、飯田から「死んだかも」と言われて驚いた、とか、菊地原が僕に人口呼吸しようとして止められた、とか、月島がわんわん泣いて「助けてください」と叫んでた、とか。

 三人はそれぞれバツの悪そうな顔をして僕と目を合わせてくれない。

「阿鼻叫喚ってこういう時に使うんだな」と僕が呟くと、何言ってんの、ほんとに死んじゃったのかと思ったんだから、と月島が捲し立てる。


「応急処置はしておきました。記憶もあるようですし、救急車は必要ないようです」

先生が仕事の口調に変わる。

「ただし、頭を打った可能性もあるから、脳神経外科の病院に行くこと。わかった? 」

 僕はうなずく。

「外傷は打撲と唇や口の中の裂傷ね。骨や歯は折れてないと思うけど、レントゲンで診てもらうことも、ひとつの手です」

 それと、と言い先生は一呼吸する。

「三人は教室戻って」

 僕は三人にお礼を言って見届ける。

「放課後には戻れそう?」

 月島が心配そうに尋ねる。

「次の授業中には戻れるわよ。でもあんた、今日は早退なさい」

 先生は三人が保健室から退室したのを見て、僕に先ほど言いかけた話の続きをする。

 最寄りの病院の情報や、担任の杉山先生には私から早退を伝えておくという話とか、これからの手続きの話とか。最後に「好き勝手選べばいい」と池田先生は言うと、僕は先生に一礼して保健室を出る。授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。


 教室に帰る道すがら、廊下にあるロッカーや非常ベル、中庭に植えられたヒメリンゴの木、僕が見てきた景色が今までよりも鮮やかに見える。

 2年D組の教室の前にやってくる。電気がついていない。なんでだろう、と一瞬疑問が湧いたが、ああそうか、とひとりで合点する。次は英語だ。ネイティブの先生との授業だから英語室に移動したのか。僕は本当に頭を打って記憶が飛んでしまったのかもしれない、と少し心配になる。病院に行かなくちゃ。それに、クラスのみんなと会うのは気が引けるから、次が英語の授業で助かった。そそくさと荷物をまとめて帰ろう、と思い教室の扉を開ける。僕の机と椅子は、元通りに四本足で立っていた。誰かが戻してくれたんだろう。なんだかこの椅子も机もさっきよりシャープになっている気がする。僕は歩みを進める。


「やあ」


 突然背後から声がする。心臓が飛び出しそうになる。今度こそ死ぬかと思った元凶、声の主は月島だった。誰もいないと思っていた教室に、ただひとり、座っていた。

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