第10話 6月4日【月島千春】
【月島千春】
人の悪口をひとつ聞き流すたび、何かひとつを諦めているような感覚になる。
私は罪を背負って生きている。私は、罪滅ぼしのために生きているんだ。インターネットで調べてみると、こんな私の気持ちには名前が付けられていて、「贖罪」というらしい。キリスト教の言葉で、善い行いをすることによって罪を償うこと、という意味だ。私は最近そんなことをよく考える。
きっかけは今でもよく覚えている。彼はきっと知らないだろうけど。
私が私の罪に気づいたのは六歳の頃だ。当時から私は本が好きで、ママから『かいけつゾロリ』を誕生日にもらって、嬉しくて、みんなが近所の公園で遊んでいる時だって手放さなかった。
ある日、いつものように公園で『かいけつゾロリ』を読んでいると、元気のいい男の子がやってきて、私の読んでいるそれを何も言わずに取り上げた。私は大事なものを取り上げられ、泣きながら返してよ、とお願いするけど返してくれなくて。男の子もいじわるしたかったんじゃなくて、ただ、その本が好きだっただけなのしれないけど、私、泣き叫んじゃって。それで男の子も後には引けなくなっちゃって。他の子も変に騒ぎ出してしまい、誰も気持ちの収集がつかなくなったときだった。
私よりも背がずいぶん小さかった男の子が、「かえしてあげなよ」って言ってくれた。でも、本をとった男の子は収まりがつかなかったのか、彼にげんこつをした。彼は私以上に大泣きして、これから逆らわないことを条件に許しをもらっていた。気が済んだ男の子は私に本を返してくれた。彼を慰めていると、やがて男の子たちが帰っていった。
「きみも本が好きなの?」と私が聞くと、さっきまで泣いていた彼がにっこりと笑った。彼も本が好きで、ベンチに座っていろいろ話した。ゾロリの話になると、「ぼくは魔王のこと、嫌いになれないんだ」と彼は言った。どうして、と聞くと「だって魔王ってゾロリをやっつけるために、たくさんワナを張ったり、お化けを出したり、いろんなことを考えて過ごしているんだ」と話す。私が「悪いことばっかりじゃない」と非難すると、「悪いことなんだけど、それを読むとぼくはドキドキしたり、ハラハラしたり、続きがワクワクしたりするんだ」と、彼はまるでたった今冒険を終えたゾロリのようだった。そして「ぼくもあんなふうに、みんなをおどろかせたいから、いま、お話をつくってるんだ」と目を輝かせた。
しばらく話していると、公園の茂みから声がする。私達はゾロリ探検隊となって辺りを探索した。「あるくぞ、あるくぞ、どんどんいくぞ」と言いながら。ほどなく声の出所が分かった。段ボールに入ったその子は、手に持っていた『かいけつゾロリ』よりも小さな、一匹の猫だった。
にいー、にいー、と鳴いている猫を見てすぐに私と彼は、この子が捨てられた猫だと分かった。
「どうしようか」と彼が尋ねる。私は六歳のくせに、色んなことを計算していた。ネコちゃん飼いたいな。ママはダメって言うだろうな、パパはママがダメっていうからダメって言うだろうな。誕生日には本をもらったからその手は使えないでしょ。でもネコちゃんかわいそうだな。一回だけお願いしてみようかな。でももしダメって言われたら、私がここにまたおいてけぼりにすることになるんだろうな。いやだな。いやだな。見つけなければ、よかったな。
そんなことをあれやこれやと考えていると、しばらく黙っていた彼が口を開く。
「ぼくんちにおいでよ」
優しい声で子猫に呼びかける。
私はとっさに
「パパとママにダメって言われたらどうするのよ」
と、自分自身に問いかけるように非難がましく口調を荒立てた。
すると、彼は私の目をしっかりと見て
「じゃあ、きみは、この子が、このままでいいの?」
と問いただす。
私はぶんぶんと首を横に振って、「ちがうの、ちがうの」と否定し
「きみのパパとママがダメって言ったら、また、この子、ひとりぼっちになっちゃう」
と涙をためると、彼は、
「だいじょうぶだよ、ぼくは、パパとママにはガンコになれるんだ」
付け加えて
「さっきみたいに負けないから」
と自信を口にした。
「いばっていいことじゃない」と私が言うと、そうだね、と彼はうなずく。
私は彼の家の玄関まで付き添うことを申し出た。いいよだいじょうぶだよ、という彼に無理についていった。彼の家の玄関には表札がついていて、まだ幼稚園年中の私には読めない漢字で書かれていた。勇ましい足取りとは裏腹に「じゃあ行ってくるから」の声は精一杯押し出したかのように小さかった。
だいぶ時間がたった。私はその間、表札にある漢字を忘れないように、『かいけつゾロリ』のハードカバーをメモ代わりに、何度も何度も指で書く。指で書いているうちに、ある思いがこみ上げる。
なんで私は一歩踏み出せなかったんだろう。
なんで私はあの猫を、見つけなければよかった、なんて思ってしまったんだろう。
彼のパパとママがダメって言ったら、今度こそ私がお願いしてみよう
彼が勢いよく玄関を開けて、猫を抱えながら
「だいじょうぶだったー」
と晴れやかな表情になった時、ほんとに良かったという気持ちとともに、私の心の中にじわり、と罪の意識が芽生えた。私は、自分が叱られたり嫌な思いをしたくないために、この小さな命を見殺しにしようとしたんだ、と。
私はうちにかえると、手も洗わずうがいもせず、すぐに鉛筆とメモ帳を手に取り、何度も指でなぞった表札の漢字を書いた。持って行ってママに聞くと、「それは、かげやま、って読むのよ」と教えられた。
私はその後すぐ引っ越して、彼とはその時以来会えずじまいだったけれど、高校2年生になる今まで、名前はずっと覚えていた。もう二度と、罪を重ねないための烙印がわりに。
クラス替えで「影山」いう苗字を持つ男子と一緒になり、まさかと思い積極的に話しかけた。調査の結果、あの「影山」くんで間違いない。本が好き、猫を飼ってる、小説を書いてる、おまけに、口調もあの時と変わらない気がする。変わったのは背の高さぐらい。私より15センチは高い。あと穏やかな性格も当時のままかな、でも、ナンパするようになったってことは、男の子から男の人になったのかな。
とにかく、あの時の影山くんが、今ここにいる。
私を助けてくれたヒーローで、
私に罪を教えた人で、
そしてたぶん、
――私の初恋。
彼は窮地に立たされている。今こそ恩を返す時だ。彼を助けたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます