第9話 6月4日【影山秋】
【影山秋】
現代文の授業を終え、お昼になった。菊地原と飯田と三人でほとんど誰も来ることがない、美術室前の階段で弁当を食べるのがいつもの習慣だ。ここなら誰の目にも届かないから、家にいる時のような雰囲気でバカ話ができる。飯田のクラスのゴシップリポートに一喜一憂したり、菊地原の考えてきた全然面白くないギャグにツッコミを入れたり、三人でゲーム実況者の動画を見たり、とにかくこの時間が学校内で唯一の息抜きの場なんだ。
でも今日に限って言えば、様子が違う。僕がいつものように後ろの席の菊地原に、行こうぜ、と視線を送るが、菊地原は目が泳ぎ、困ったような顔をしている。
ああそうか、まだ朝の出来事の余韻が残ってるのか。
まあしょうがないや、一人で食べよう。菊地原に「今日はお前たち二人で行ってきなよ」と告げた。すると菊地原はその巨体からは考えられないほどのか細い声で「すまねえ」と答え、重々しく席を立ち、飯田の元へ歩みを寄せた。菊地原が話を伝えたのだろう、飯田は僕の方を見て申し訳なさそうな顔をしている。僕は飯田に何度も小さくうなずき、二人で食べに行くことを促した。
僕はクラス替え当時の事を思い出す。運のいいことに後ろの菊地原と漫画やゲームの話で意気投合し、すぐに仲良くなれた。菊地原が1年の時から友達であった飯田とも趣味嗜好が近く、おまけに気が合った。「あそこの階段で飯食わね?」というリサーチに定評がある飯田の発案で僕たちは昼食時は遠征に行くのが決まりだった。だから僕が自分の席で弁当を食べるのは久しぶりだ。4月の初旬以来だから、約2か月ぶりになる。
ふうっと息を吐く。僕は自分の机のフックに引っ掛けてある弁当が入ったナイロンのケース取り出し、チャックをジジジッと動かす。プラスチックの青い箸入れからプラスチックの青い箸を取り出し、弁当箱のストッパーを二つ同時にぱかっと外す。毎日同じことをしているのに、今日はぎこちない手付きになっている。
なんか緊張するなあ。でもとりあえず卵焼きを食べよう、と箸を伸ばした時だった。
「なんでお前そこで飯食おうとしてんの?」
僕の頭上から声がする。見上げてみると購買で売っているミルクティーと焼きそばパンを持ち、眉間にしわを寄せた中根が立っていた。中根は高木に比べガタイも一回り小さかったが、鋭い眼光と、吊り上がった眉毛の圧力に僕は翻弄される。
なんでってなんで。とっさのことで僕の頭の中は爆速のメリーゴーランドのごとく回転し、中根の言葉の因数分解を始めた。
「なんで」は何故ってことだ。英語で言ったらwhyだ。理由を聞いてるんだな。
「お前」は僕の事だ。
「そこで」はこの席でってことだ。答えは僕の席だからだ。
「飯食おうとしてんの」は、お昼の時間だから。
「えーっと…」
僕が中根に何も言えず混乱していると、中根はだんだんと両目まぶたの筋肉に力が入り、口元が歪んで来ているのが分かった。
「おまえ…」
何か決定的な言葉を言おうと中根の口が開いたところで僕の右耳に別の声が響いた。
「影山くん」
月島千春だった。ちょっと来て、と手招きしている。僕はさっきの逆再生を光のスピードで行う。弁当のストッパーを閉じ、箸を箸入れケースにしまい、弁当と箸入れをナイロンのケースに押し込む。弁当を持ち、そそくさと席を立つと、月島の元に向かう。怒り成分百パーセント配合の中根の舌打ちは聞こえないふりをした。
月島の両隣には前田と鈴木がいた。二人はおのおの自分の弁当を広げてはいたが、手が止まっていた。おそらく月島の思いがけない行動にビックリしているのだろう。
月島は僕に向かって空いている椅子を引き左手でポンポンと叩き、ここに座りなよ、とジェスチャーをする。僕は訳も分からず、いや、半分以上現状を理解しながら月島に指示された通りその席に座る。月島以外の二人を見ると、前田は苦笑いを浮かべ、鈴木は首や肩の筋肉がこわばっているのが分かった。そんな状況にはお構いなしで月島は話し始める。『デンジャラス・ビューティ』観たよ、あれはさ、「強さと美しさは両立するのか」ってテーマだと思ったよ、とか、ドレス姿の主人公がめっちゃくちゃ可愛かった、とか。
月島が僕の事を嫌いじゃないっていうのは凄く伝わるんだけど、なんだか居心地が悪い。強引すぎるし、ほかの二人は気まずそうだし。
僕は恐る恐るさっき座っていた自分の席に目を向ける。
やはりそうだった。中根の「なんでお前そこで飯食おうとしてんの?」発言は「俺がそこ座るからお前どけよ」と同義語だった。僕の席には中根が座っているのだ。中根の隣には遠藤、僕の後ろの菊地原の席には高木が座っているじゃないか。
僕の席は僕が知らない間にあいつらの縄張りになっていた。僕の席なのに。
ということは、月島は肉食獣達にかみ殺されそうになっていた僕を救ってくれたってことなのか。だけど......
「ありがとう、月島。だけど僕は大丈夫だから」
と僕は告げ、立ち上がる。そんなつもりじゃないよ、と僕を引き留めようとする月島とは裏腹に、前田と鈴木は安堵の表情を浮かべている。
結局僕は昼休みの間、弁当箱をもってふらふらと校内をさまよい、時間が過ぎるのをただただ待っていた。
僕が月島と一緒にいると、月島の友達に迷惑がかかるだろうし、火の粉が飛んでくる可能性だってある。飯田の情報が確かなら中根は佐伯と、遠藤は篠原と付き合っている。話が伝わり女子まで巻き込んだ騒動になれば、当然月島も攻撃の対象になることが容易に想像できる。
ここは僕一人でなんとかすべき問題なんだ。誰にも迷惑はかけられない。
そうこうしているうちに授業が終わる。菊地原は「じゃあな」と足早に教室を出ていく。飯田もそれに続く。僕は数学の青チャートを出し、ひたすら問題を解く。僕は文系だけど、数学が好きだ。答えが一つしかないって所が、特に。何が正解か分からない今の僕の気持ちが、スッキリと洗われる感じがする。
四時を回り、そろそろ帰ろうかと思った時、月島が僕に声をかける。付き添いで鈴木と前田がいるってことは、この時間まで僕が一人になるのを待ってたってことか。
僕を助けたいと、博愛の心から来る月島の優しさと願いを、僕は汚い言葉で必要以上に踏みにじった。
月島はいい奴だ。いい奴がこんな汚い問題に自分から首を突っ込む必要はない。
家に帰り小説の続きを書く。何か嫌な事があった日には、何かに没頭していないと嫌な事を思い出してしまうからだ。「Fitgh the cats」の構想ノートを取り出し、書き進めていく。あらすじはもう決まっている。ある町で猫を標的にした殺害事件が起こる。主役の猫、サニーが中心となり、その町の野良猫が人間と協力し、猫殺しの犯人を追い詰める、というファンタジーでサスペンスな話だ。
話の中に登場する野良猫の中には昔人間に捨てられたことがあったり、虐待を受けて逃げ出してきたり、あるいは飼い主に先立たれたり、いろいろと暗い過去を持つ猫もいて、人間たちに憎しみや偏見を持っている。その猫たちがストーリーの中で人間に対する思いが変化し、新しい人間に飼われることを選んだり、ピンチに陥っている子供を助けたりするのだ。
ジャジャが好きな女の子のセリフ、まだ書けないなあ。
僕はシャーペンをくるくる回しながら、たまに書いては消し、書いては消し、を繰り返す。
大まかな構成は決まっているけれど、そのシーンのセリフや心理描写に苦戦している。ジャジャと女の子の話は特に。
僕の小説の設定ノートには、こんな風に書かれている。
――ジャジャは人間に虐待され、逃げ出してきた猫だ。ジャジャが一人で公園で遊んでいると、額に傷のついた少女が現れる。その少女はジャジャに給食のパンや水を与え、優しく接してくれる。毎日のように遊んでくれる少女にジャジャは好意を持ち、お返しに顔を舐めたりするようになる。そんな日が続いたある日、ジャジャは少女の腕と背中に打撲の跡があることに気づく。ジャジャは過去の自分と同様に、少女も日常的に虐待されていることを知る。帰宅する少女のあとをつける。家の窓の外から見ているジャジャ。目に映ったのは父親らしき男から暴力を受けてうずくまって泣く少女の姿だった。ジャジャは居ても立っても居られなくなり、なんとか空いている窓の隙間を見つけ、家に侵入し、少女をかばう――
と、ここまでは設定どおりセリフも心理描写も書けている。問題はそのあとの少女のセリフだ。
お父さんに対して少女が言うセリフ。「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい」だったり、ジャジャに対して「私は大丈夫、がまんできるから」だったり、それらしいことを思いつくが、何かが違うんだ。
人間より遥かに小さい体のジャジャが、勇気を出して少女を助けたんだ。そうなったら少女も、心の底から勇気が湧いてくるんだ。彼女が言うのは「ごめんなさい」だったり「大丈夫」なんかじゃない。いま分かった。
「やめて」
シンプルなその一言を出すために僕はたくさんの月日を消費した。なんだか途方もなく、小手先だけにとらわれた方法を考えながら、僕は生きてきたんだと再確認する。答えが自分の書いている小説にあるだなんて、考えも及ばなかった。
僕は明日言ってやる、そう決意を固め、寝る準備をする。ミザルーが足に顔を擦り付けてくる。「あんた、やるじゃん」と褒めているみたいだ。僕はミザルーを撫でる片手間に明日の授業で使うファイルや教科書をリュックに詰め込む。
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