第6話 6月4日【影山秋】

【影山秋】



「ぼ、僕とお、お茶でもどうですか……だってさ」

 昨日のことを思い出し、僕は作星行きのバスに揺られながら自虐的に笑った。昨日は帰宅後、僕は制服のまま自分の部屋のベッドにうつ伏せになり、先の自分の発言について枕に向かって自問自答を行っていた。

 なぜもっと上手く話しかけられなかったのだろう、なぜ、よりによってナンパスタイルを取り入れたのだろう。


 「コンタクトを落としてしまって……僕はド近眼だから一緒にコンタクトを探してもらえますか」

 の方が何十倍もマシではなかっただろうか。ナンパよりも自然だし、もし彼女が『マイノリティ・リポート』を視聴済みならば、犯罪の予兆が自分の身に迫っている事に気づいたかもしれない。いや、そんな都合のいいことは起こらないだろうし、そもそも彼女に話しかけること自体が彼女に恐怖感を植え付けてしまった可能性だって大いにある。

 ならばいっそのこと「あの時は必死だったから何を話したのか、というか話しかけたことさえ忘れてしまった」という所まで自分の記憶を操作したいが、あいにく「話しかける前に後悔している感」がバッチリと僕の心に焼き付いているので、どのみち僕の後悔は消えないだろう。

 そして、青陵の女子を傷つけてしまったのにも関わらず、こんな風に自分の事だけを考えている僕がいること自体に、僕は腹が立った。



 そんな事はどうでもいいから夕食を寄越せと言わんばかりに、愛猫ミザルーが鳴いていた。僕はミザルーに答えるふりをして、僕自身に言い聞かせた。

 「分かってるよ、ミザルー。言葉で上手く伝えられないから、僕にはまだ、小説家は早いんだよね、分かってるって」


 そもそも、なぜあの子に話しかけてしまったんだろう。僕は、もう本当に、ただ静かに平穏に暮らしたいだけなんだ。目立つ行動は何があっても控えないといけないんだ。なぜならそれがこの世界の秩序ってものなんだから。



 僕は気持ちを立て直せないまま、2年D組の教室へと向かっていった。

 今日は飯田と菊地原に放課後にファミレスに行って僕の失敗談を話して慰めてもらおう、僕の奢りでもいいから、と思っていた。しかし、そんな僕の甘ったれた思いは叶わないのであった。


 僕が教室へ足を踏み入れた時、クラスメイト達の視線は一気に僕に集まった。


 一瞬の静寂が訪れたあと高木の「プッ」という吹き出しを皮切りに「キモい」「あり得ない」「最低」などの罵声と嘲笑が静かに伝播していった。僕はまるで静かな水面に放たれた、一つの小さくて頼りない石であった。

 昨日、僕が帰宅途中の電車内で他校の女子生徒をナンパしたという話は既に教室内に広まっていたのが分かった。


 僕が席に座り荷物を机に置いていると後ろから声がかかる。

「お前さあ、学校で友達いないからって他の高校の子ナンパするのとかマジやめてくんない? 気持ちわりいから」

 高木である。浅黒く日焼けした肌に筋肉質な左腕から繰り出される拳が僕の机をドン、と叩く。

 僕がビクッとして視線を落とすと、高木の下半身が目に入った。制服の裾を膝まで捲り上げてハーフパンツの様に仕立て上げた先には、柔らかい筋肉によって肥大したふくらはぎが見える。それとは対照的に腱がはっきりと浮き出ている細い足首は運動能力の高さを物語っている。左足首には細いミサンガが結び付けられていた。スポーツ科の面々を差し置いてエースに成り上がり、数多のゴールを決めてきた説得力が高木の足にはあった。

 僕がこの状況にそぐわぬ事を考えているのを高木は気づいたのか、僕にしか聞こえない声で

「おい、こっち見ろよ」

 と凄んで見せた。気持ちの強さと駆け引きも一流である。

「迷惑なんだよ、ばーか」

 高木はおおよそ「イケメン」と呼ばれる容姿を備えていることに疑いの余地はなく、更に結果を伴った裏打ちのある自信に満ち溢れている。このことから高木蹴たかぎしゅうという男は並大抵のイケメンが到達できない境地にいることが今回の対面で分かった。

 僕はつくづく世の中は不平等だと感じた。こんな粗暴な捨て台詞を言うくせに、こんな男らしい台詞を吐くくせに、高木にはのである。なぜこれだけ都合よく、優性遺伝と劣性遺伝の組み合わせが現代の理想の容姿を具現化できるのだろうか。

 遺伝の法則を発見したグレゴール・メンデルが生きていたら、高木に驚くだろうな。


「ごめん」


 僕の謝罪に満足した高木はスカルプチャー系の香水の特徴である男らしい香りを残し、僕の元から去っていった。その後ろ姿は猫科の獰猛な肉食獣がサバンナを悠々と闊歩する姿とよく似ていた。


 高木の行く先には佐伯や遠藤達が、にやけ顔で待っていた。

 「変質者はお前じゃん」と中根がゲラゲラと笑う。遠藤や佐伯あたりもつられて笑いだす。中根め、先生の話を聞いていないようでちゃんと聞いてるじゃないか。皮肉が利いていて中々痛い所をつく。僕に対し、有効なダメージを的確に与えてくる。


「シュウ、かっこいいね~」とその内の誰か――おそらく遠藤だ――が高木に話しかけていた。僕も名前も「シュウ」だ。きっと君たちは僕の名前を知らないだろうし、君たちにとってはカッコ悪くて変質者の方の「シュウ」だけど。


 高木が去った後も心臓の鼓動がばくばくと鳴りやまない。

 僕はとりあえず落ち着こうと思い、教科書や文具等を学校指定のカバンから取り出し、ふうっと一息つくと、高木の発言に間違いがあることに気がついた。


 まてよ――僕に友達がいないだって?

 そんな事はない。僕は今日の放課後に、ファミレスに誘おうとしている友達がいるではないか、二人も。

 そんな思いで僕はすぐ後ろの席の菊地原に体を向けるが、彼は僕と視線を合わせることなく、無表情で正面の黒板の方をぼんやりと見ていた。飯田も同様の反応である。


 ……二人は気配を消す処世術を使っている。僕と関わりを持たない事を暗に宣言しているのだ。

 そんな二人を責める気にはならないなあ、と僕は思う。まだ肉食獣が通った余熱が冷めやらぬ中、わざわざ草むらから飛び出してくるヌーやインパラはいない。しかし、僕の知る限り、このヌーとインパラは相当臆病だ。いつまで草むらに隠れているか分からない。もしかしたらずっと草むらの茂みで生活していくのかもしれない。


 はからずして高木の言う通り、僕はすっかり話せる友達がいなくなってしまったのだ。

 さすが高木だ。伊達に強豪・作星高校サッカー部のエースを張っている訳ではないのだ。


 しばらくするとチャイムが鳴り響いた。


 担任の杉山先生がやって来るかと思いきや夏目が入室してきた。

 もしメンデルが彼女を見たなら、驚くだけでは済まないだろう。泣いて感動するに決まっている。

 夏目はモデルのようなタイプの美人だ。鍛えられた細身でバネのある下半身に締まったウエスト、くっきりと見えるデコルテから首筋のライン、顔は小さく目鼻立ちははっきりしている。胸まで伸びた金色に近い茶髪も手入れがなされており夏目の雰囲気に合っている。

 高木がクラスで一番のイケメンなら夏目は学校で一番の美人である。その証拠に1年生の時の文化祭にて圧倒的大差をつけてミス作星に選ばれている。本人は授賞式に顔を出さなかったが。

 ちなみに作星高校は特進部の他に進学部、情報学部、男子部、女子部、看護学部、スポーツ科学部の計7学部が存在し、生徒数は8,320人、その内女子は4,000人を超える日本一のマンモス高校である。その頂点に夏目がいるということだ。


 夏目の登場により先程までの殺伐としたクラス内の空気が一変した。

 夏目と今まで一度も話したことの無いであろう飯田や菊地原ですら自然を装い夏目を一秒でも長く盗み見ようと努力している。全く図々しいヌーとインパラである。


 「夏目を盗み見る」ことは、2年生のクラス替えから2か月を過ぎてもなお毎朝起こる光景だ。しかし、珍しいな、と僕は思った。いつもは自分の席に近い後ろ側から入室してくる筈なのだが今日は教壇側から入室してくるなんて。

 僕が集めた視線とは異なる性質を持つクラスメイトの熱い視線を浴びながら夏目は高木のグループに気だるげな表情で挨拶をする。

「おはよ」

「ヒナ、おっせーよ」

と高木が言い放つが、その声は僕と相対した時よりもやや上ずっていたのを僕が見逃すはずはない。

 新しいクラスになってもう6月に突入している。サッカーで言うと前半の20分が過ぎたぐらいではあるが、飯田の情報によると、高木にしては意外というべきか、未だに「夏目と付き合う」というゴールを決められないでいるのだ。


 夏目は一番後ろの自分の席に向かう途中で僕と一瞬だけ視線が合った。日焼け止めの匂いなのか、香水の匂いなのか、少しスパイシーでエキゾチックな香りが僕の横を通り抜ける。


 高木の机の周りにいた女子の佐伯と篠原が夏目の席の周りで話を始めるが、僕は彼女たちの話の内容よりも、先ほどの夏目の意図が気になった。昨日の電車内で夏目がその場にいた事を僕は知っている。ならば、僕へ向けられる視線は僕の行動に対しての感情、つまりダッサいなあコイツといった軽蔑で負の情報である筈だ。しかし、あの夏目である。いちいち僕に構うことなんてないんじゃないか。あんなに綺麗なんだから。面と向かって「お前、ダサいんだよ」なんて言われたって僕は「そうです、その通りです」と真顔で答えるだろう。だって、夏目から見たら、きっとここのクラスの人間は全員ダサいんだから。そんな当たり前のことを言われたって、別に傷つかない。なのに、僕に視線を合わせてきた夏目は何が言いたかったんだろう。


 ああ、そうか。僕は理解した。僕も夏目も作星生という事には変わりはないんだ。同じ作星生として、あの時他の乗客に並列に見られたのがムカついてたのか。

なんだか僕は夏目に対して申し訳なくなってきた。


 しかし現実は流れが余りにも早く、感傷に浸る隙も与えてはくれないのだ。

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