第5話 6月3日【夏目陽奈】

【夏目陽奈ひな



授業が終わるとミカとエリカが私の元にやってきた。


 「ヒナ、今日時間ある?よかったらこれから一緒にスピカ行かない? 」

 「うん、行こっか」


 またこの感じか......もう新しいクラスになって2か月が経つのに、気を使われている感じが否めない。

 「今日時間ある? 」とか「よかったら」とか必要ない。

 「これからスピカ行かない? 」でいいのに。

 気を使われている原因が私自身にあることは、私が一番分かっている。

 中根が「あっちーなー」とイライラしている。ミカとは上手くいってなさそうだから、教室でそんなにもイライラしてるんだろう。

 私はカバンを手に取り、立ち上がろうとしたが、担任の杉山が教室に入ってきて

 「一旦席着いて」

 と指示したので、仕方なく座り直した。


 要は「不審者が増えてきたから気を付けろ」と杉山は話している。ぐだぐだと。


 「スピカ」に行くならネイルを塗っておけばよかった、なんて事を流れのままに考えていたら、思い出したくないことを思い出してしまった。


 あれは私が中学2年生の頃の話だ。夕暮れから夜にかけての時間帯に「スピカ」から帰る電車内で、私は痴漢に遭った。新大都宮駅から金井山駅までたった一駅、時間にしたら10分程だ。

 その男は普通のサラリーマンに見えた。

 グレーのスーツ、黒いスーツケース、銀のフレームの眼鏡、髪は横分け。私は乗車前に新大都宮駅のホームで男を見かけていた。

 目が合うと、男はそれまでの目つきからだんだんと、粘り気のあるジトっとした目つきに変わっていったのだ。そして、車内に入ると予め私を狙って犯行に及んだのだろう。「あの目」は今でもはっきりと思い出す事が出来る。

 あーあ、最悪だ。

 痴漢されたのも最悪だけど、ひとつも声が出なかった私も最悪だ。誰かと一緒にいないと何にもできないっていうのが、ほんと最悪だ。


 「……というわけで、最近不審者が増えてるみたいだからね、気を付けてください。」

 やっと杉山の話が終わった。

 杉山のせいで余計な記憶が蘇ってしまった。気を取り直してミカとエリカと「スピカ」へ向かおう。



 作星生でごった返したバスに私はミカとエリカと共に乗車した。

 2人は自宅が作星から近いので普段は学校に徒歩で通っている。今日はふた駅先の「スピカ」がある新大都宮駅に向かうため、路線バスで大都宮駅まで移動する。

 ミカとエリカは杉山の長い話を聞き終わった開放感からお喋りが止まらない。


 スピカに着いたらどこに行こうか

 あのブランドの服がカワイイ

 カフェで新作が出た

 杉山がウザい

 オタク達が気持ち悪い


 などなど、鳥のさえずりの様に口をついて話題があふれ出てくる。

 バスの運転手が

 「他のお客様のご迷惑になりますので、大声での会話はお控えください」

 と車内アナウンスを行っているが、2人には聞こえていないのだろう。


 私が2人ともっと仲の良い友達ならば、「ちょっとうるさい」などと注意できるかもしれないが、私は未だに2人と壁がある。よくよく考えてみると、私にはこれまで親友と呼べる友達は一人もいない。原因が私にあるのは重々承知しているから、仕方のない事だと割り切っているけど。

 周りを見ても、車内の会話のボリュームは下がるどころか更に上がっている。こんな小さなことでも注意が出来ないのが「友達」なんだ。みんなそうなんだ。同じ重さが乗せられていないから、天秤がゆらゆら、ゆらゆらとアンバランスに動いている。片方のお皿に砂つぶを1粒落とすだけで、一気にがしゃんと倒れそうな、そんな状態が「友達」なのである。そう考えたら私は少し気が楽になって、大声で喋っているミカとエリカの会話に入っていった。



 バスが大都宮駅に到着し、新大都宮駅へと向かう電車に私たちは乗車した。ちょうど3人分の席が空いていたのでそこに座った。向かいに座ったのは文新大附属の男子2人組だ。ミカとエリカはスマホを操作しながら素早く彼らに視線を飛ばした。


 「ないわ」


 「ないわ」


 残念ながら2人のお眼鏡に彼らは適わなかったようだ。

 ミカとエリカは何事もなかったかのようにスマホに目を移す。残酷に思えるが、これが日常茶飯事で行われているミカとエリカの「男子チェック」だ。


 私も手持ち無沙汰になったので、スマホを取り出してみる。ニュースサイトを開くとトップページに5つの見出しが表示された。


 ・都内での不審者情報 過去最大に

 ・高校生の性事情 倫理観の崩壊

 ・夏到来 UVカットコスメ10選

 ・虎中継ぎ田中 メッキ剥がれた今

 ・タランティーノ来日 来春映画公開


 私はこの中のひとつの記事をタップした。


 日焼けは最大の敵である。今の私に最もマッチした記事だ。これから行く「スピカ」にもドラッグストアは入っているから事前にチェックしておこう。

 ......そう考えてタップした筈なのに、出てきたのはタイガースのキャップを被った中年の野球選手の写真だった。電車の揺れのせいで押し間違えたのだ。仕方なしに私は記事を読んでみる事にした。


 記事の内容は、36歳になるタイガースのベテラン中継ぎ投手、田中敏光のインタビューだ。

 ドラフト1位指名の期待のルーキーとしてロッテに入団した田中は、初年度こそ好成績を上げることが出来たが、翌年から他球団のチェックが厳しくなり、あっさり攻略されてしまう。その時の心境を生々しく田中は語っている。


 「たまたま才能に恵まれ速い球を投げることが出来た。しかし通用したのは最初のうちだけだった」


 「自分が丸裸にされ、本当は何も持っていない事がだんだんバレていくのが本当に怖かった」


 「このままメッキが剥されていったら、自分は消えて無くなってしまうのではないか」


 私はだんだんと記事に吸い込まれるような感覚に陥り、気づくと食い入るような目で文字を追っている。


 そうだ、今の私と一緒だ、と思った。


 たまたま顔やスタイルが良く生まれただけの私は、その他に特筆すべき点は持ち合わせていない、本当はつまらない人間だ。髪や化粧やファッションに気を使うのは、本当の自分を見られたくないためにやってることで、いつか剥がれ落ちるメッキなんだ。

 メッキが剥がれるのが嫌で、人と関わる時は自分を守るためについついケンカ腰になってしまう。そうやってずっとずっと自分を守ってきた。私のメッキは錆び付いて体にこびりついて離れない所まで来ている。


 雀橋駅でまた乗客が増える。立ったままの乗客も多くなってきた。

 私は電車に揺られていた。


 記事はその後、こう綴られている。

 田中はプロ入りから7年後、タイガースに移籍し、登別監督に出会う。監督との普段の何気ない会話の中から出た


 「お前の武器は速球やない。気持ちや」


 という言葉をきっかけに田中は復調し、36歳になる今日まで、タイガースの中継ぎ投手の柱としてプロ野球の現役を続けている。


 最後に田中はインタビューでこう締めくくっている。


 「登別監督に出会い、僕は成長することが出来ました」

 「何気ない一言がきっかけになり、道が開けることがあります。きっとそういう時は、本人も変わることを望んでいる時です。今、周りにいる人たちに目を向けてみてはどうでしょうか」


 周りにいる人たち......

 私は思わずスマホから顔を上げ周りを見渡す。


 2メートル程先に影山秋の横顔があることに気づく。


 影山はこちらには気づかず、何か凝視しているようだ。


 私も影山の視線の先に目を向けてみる、と、そこには思い出したくもない「あの目」と同じ目をしている男が青陵の女子生徒の後ろに立っていた。


 間違いなくあのウィンドブレーカーを着た男はクロだ。「あの目」が物語っている。男はすぐ前に立っている青陵の子に対して痴漢するつもりだ。そして影山は、この車両でただ一人だけ今の状況を理解しているんだ。


 私は影山に視線を移した。影山はまるで困難な数学の問題を解いている時のようなしかめっ面とも困惑顔ともとれる表情をしている。影山の頬を伝った汗が顎の先端で雫を作りかけている。



 私は影山の事を、初めて意識的に見ている。クラスで話したこともないし、声を聞いたこともない。菊地原と飯田――確か太っている方のメガネが菊地原で、小さいニキビ面の方のメガネが飯田、だったと思う――のオタク二人組と一緒にいるから、影山もそういうグループの冴えない奴、という印象しか私は抱いていなかった。しかし今の影山は青陵の子のために必死でいろいろ考えて、汗までかいて、ひとりで頑張ろうとしている。私とは大違いだ。

 ガタンゴトンと線路の継ぎ目を列車が通過するたび、私の体は僅かながら上下に振動する。


 ついに影山が動いた。ウィンドブレーカーの男と青陵の子の元へ歩みを進める影山は、難題の答えが出たのだろうか。私は無意識のうちに手は握りこぶしを作り、手の中は汗をかいていた。


 「あの……」


 声が静かな車両内に響き渡る。ついに影山は青陵の子に向けて話しかけた。

 みんながみんな、一斉に影山に注目した。


 影山じゃん、とミカとエリカが小声で囁く。二人とも影山を認識したようだ。

 影山の次の言葉を、乗客全員が待っていた。


 「あの……ぼ、僕とお、お茶でもどうですか」


 あいつ何言ってんの。

 

 それはともかく一旦置いておくことにして、いや、置いておけるほど軽いものでもないけど……あのウィンドブレーカーの男を青陵の子から離すことには成功したみたいだ。ああ、よかった。

 それと同時に、予想外の影山のセリフに私は開いた口がふさがらない。

 もっとこう、あの男を青陵の子から引き離すための上手い言い方が絶対にあったはずだ。

 なぜ影山はナンパのパターンを選んだのだ、しかも青陵の子もご丁寧に断ってるし。


 同じ列車に乗っていた人たちの何人かは、同じ作星の制服を着ているってことで私たちにも視線を向けてきた。

 ある意味人身事故みたいな車内とは裏腹に、電車は定刻どおりに新大都宮駅に到着した。


 「サイッテー」


 ミカをはじめ、エリカや他の乗客は影山の真意を理解していない。

 しかし、ミカが影山に降り際に放った言葉を訂正させることは私にはできない。一本でも切る線を間違えると爆発してしまう爆弾は、私の高校生活に常につきまとっている。


 新大都宮駅の改札を過ぎ、ミカとエリカがトイレに寄ったので、私は女子トイレの前で二人を待つことにした。すると先ほど影山に助けられ、影山にナンパをされた青陵の子が私たちが通ってきた改札から出てくるのが見えた。さらりとした黒髪が肩まで伸びており、くっきりと二重の目と少し厚みのある柔らかそうな唇が特徴的な小柄な女の子だ。


 「ねえ、ちょっと」

 私は思いがけずその子に話しかけていた。

 彼女は少し驚いていたが、私が歩み寄ると立ち止まって話を聞く体勢になった。

 「さっきの……見てたんだけど……だいじょうぶだった? 」

 私がこう聞くと、彼女は答えた。

 「すごく……怖かったです」

 彼女は続けて

 「私の右の耳元に生暖かい風が当たってるのを感じて、おそるおそる、目だけを動かしてそちら側を見たんです」

 ごくり、と彼女は生唾を飲み込んだ。私も、ごくり、とした。

 「そうしたら、私の右肩のすぐ横に男の人の顔があったんです」

 「私はもう、怖くて体が固まってしまい、逃げることも助けを呼ぶことも出来なかったんです」

 「ただ、手にしていたスマホの画面を見ながら、たすけて、たすけて、誰か気づいて、と心の中で叫んでいました」

 「その時、作星の人がやってきたんです。そして声をかけてもらって……」

 「見ててくれた人がいたんだ、と思って、安心して、涙が出てきて……」

 「でも私、すぐにでも電車を降りたいと思ってしまって」

 私は彼女の背中をさする。

 「それは仕方ないよ、怖かったもんね」

 影山の気持ち、届いてたんだ。よかったよかった。

 そう思っていたら彼女が私に質問をした。

 「作星の生徒さんですよね?私を助けてくれた人を知ってたりしますか? 」

 「うん、クラスメイト。影山って言うの」

 私は少しだけ、ほんの少しだけ誇らしさを感じた。彼女は私と影山に繋がりがあることを聞いて目を輝かせる。

 「私、その人――影山さんにまだちゃんとお礼を言っていなかったので、本当にありがとうございました、と伝えて頂けますか? 」

 ミカの発言を咎めなかった罪悪感からなのか、いや、そもそも彼女に話しかけた時点で私は罪悪感を感じていたのだろう。私は一度も話したことなんかない影山にありがとうを伝えると約束し、連絡先を交換する。


 彼女は青陵高校1年生の睦光むつみひかるという名前だった。


 お礼を言って立ち去ろうとする光を私は引き留めて、あのことを聞く。

 「ねえ、影山、ヒカルちゃんをナンパしたみたいになってるけど」

 すると光は笑顔でこう答る。

 「あんな泣きそうな顔でナンパする人なんかいませんよ。しかも、お茶でもどうですかって」

 「だよね~。今どきそんな奴いないよね~」

 私と光は笑い合って別れた。いや、でももしかしたら影山だったらありえそう、なんて考えていたらなんだか可笑しくなってきた。


 ぺりっ


 小さな小さなかさぶたが、私から剥がれる音がした。


 女子トイレの方を見ると、既に入口にミカとエリカが立っていた。まずい、と思い早足で彼女達の元へ戻った。ミカが非難がましく

 「ヒナどこ行ってたの、いなくなってんじゃん」

 と言うので私は慌てて

 「ごめん、ちょっとコンビニの方に行ってた」

 と、取り繕うのに必死になる。

 「影山みたいな奴にナンパされてんじゃないかと思った」

 とミカ。

 「それ最悪」

 エリカが合わせる。

 「てかさ、あの時ウチらの事、同じ作星だ、みたいな目で見てたやついたじゃん」

 「いたいた、マジふざけんなって感じだよね」

 「明日シュウ達に報告しとこうよ」

 「ウチらモロ被害者だもんね、ヒナもそうだよね」

 「そうだね」

 そう答えると私の胸は、ざらり、とする。粗い紙やすりで削られたように。


 そんな事を話しながら私達は「スピカシティー」に向かう。

 かさぶたが剥がれたところは、すぐに再生して、また新しいかさぶたを作っているみたいだ。


 スピカシティーに着くと、まずは喫茶店に入る。ミカとエリカが流行のタピオカドリンクを注文したので、私も「人気No.1」とポップが出ている一番スタンダードなタピオカミルクティーを注文し、テーブルにつく。


「来週班決めかー」

エリカがかったるそうに声を出す。修学旅行で沖縄に行く際のグループ決めで悩んでいるようだ。

「五人グループでしょ、だからあと二人選ばんと」

「ヒナ、どうする?共演NGとかある? 」

 私はまあ別にいいよ、とミカを見る。

 誰でもオッケーだよ、だとダメなのだ。なぜならこれからクラスの女子の品評会が始まるから。人の悪口を言おうとしている場で、誰でもオッケーなんて水を差す事を言えば、私も鈴木楓の二の舞になる。テキトーに歩いているように見せかけて、慎重に一歩一歩進む。地雷はすぐ近くに埋まっているんだ。

 私がさっき言った「まあ別にいいよ」は、「まず芋っぽかったりダサかったりする子は二人ではじいてね。その子たちを除外して考えてね。それで、除外されなかった子たちの中に、気に食わない子が何人かいるかもしれないけど、まずはエリカとミカが選んで。そこに私の気に食わない子がいたら、言うから」という意味になる。

 ミカとエリカの二人は、いつも二人組で行動している子達に焦点を当てて、厳しく選別していく。

 あの子はファッションが合わないから自由行動で行く店で揉めそうで無理、とか、あの子はマジで無理、とか、あの子単体なら別にいいけど一緒にくっついてくる子は話したことないし話したくないから無理、とか。

 結局あの子達なら何回か喋ったことあるし、私らの邪魔はしないだろう、という二人組が選ばれる運びとなる。

 ヒナもそれでいい?と聞かれたから、大丈夫だよ、と答えておいた。

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