第4話 6月3日【影山秋】

【影山秋】



 15時45分、停留所「作星高校前さくせいこうこうまえ」から路線バス「10 作星高校経由大都宮おおつのみや駅行」に乗り込み僕は駅へと向かう。

 下校時はバスの席のほとんどが作星の生徒で埋め尽くされる。作星高校は私立でマンモス校であるため、遠方から通う生徒も多い。

 授業が終わったことからの開放感であろう、バスの中はまるで何十羽という鳥が一気に鳴き始めたような騒々しさである。バスの運転手はマイクを使い、

 「他のお客様のご迷惑になりますので、大声での会話はお控えください。」

 とアナウンスするが、その声はどこか諦め気味だ。

 僕は運転手に同情する。彼は何十回と作星生にアナウンスをしてきたが、効果はないのである。2,500人が卒業したら、また2,500人が1年ごとに入学してくる「輪廻」に等しい空間で人は相変わらず同じ過ちを繰り返すのだと、彼は悟っているのかもしれない。リフレイン、ループ作品の恐怖を知っている僕が彼の立場なら発狂してしまうか、解脱のために出家するかもしれない。

 きっと清陵せいりょう学院や文新大附属ぶんしんだいふぞく高校経由のバスならば、こうはならない。作星経由のバスが騒々しい理由は生徒数の違いも大きな原因だが、あまり考えたくはないが、生徒の質の違いも原因の一つだろう。作星は、自由な校風がウリだ。生徒の自主性を重んじ、規則だの校則だのはうるさくない。僕は帰りのバスに乗るたび、自由ってこういうことじゃないだろ、とつくづく思う。


 終点、大都宮駅にバスが着き扉が開くとせきを切ったかのように鳥たちは巣立っていく。

 僕は痛み入る思いで運転手にお礼を言い、降車した。運転手は僕の挨拶に対して反応は無かったが、これは責められるものではない。


「俺、明日から作星経由の運転だよ」

 運転手のひとりが肩を落とす。

「わはは、外れクジ引いたな」

 ベテラン運転手が笑う。


 こんなやりとりがバスの運転手の間で行われていたとしても、何ら不思議じゃない。

 僕は作星高校の最寄駅である大都宮駅から三駅離れた自宅のある金井山(かねいやま)駅に向かう電車に乗った。

 大都宮駅から金井山駅までの間に雀橋すずめばし駅、新大都宮しんおおつのみや駅がある。

 車両には作星生の他に青陵や文新大附属などの高校生が多く乗り合わせていた。2メートルほど先の席にクラスメイトの夏目、そして珍しく佐伯と篠原が座っていた。

 彼女たちは3人ともスマホに熱中していた。よく見ると彼女たちだけではなく、同車両のほぼ全ての乗客がスマホ画面とにらめっこをしていることに僕は気づいた。ただし、夏目の正面に座る男子高校生の2人組だけはスマホを見ながら夏目をちらちらと盗み見ていた。

 列車が動き出し、僕は吊革に掴まりながら、スマホとにらめっこをしている乗客をぼんやりと見ていた。


 異変が起きたのは雀橋駅を過ぎてしばらくした時だった。

 雀橋駅で乗客が更に乗り込み、立ったままの乗客が増えてきた頃、相変わらず乗客とスマホのにらめっこは続いていた。

 辺りをを何気なく見ていると、ご多分に漏れず、片方の手で吊革に掴まり、もう片方の手でスマホを見ている女子高生がいたが、その背後、肩口からぬっと顔を出し、前の女子高生のスマホ画面を覗き見る男を僕の視線は捉えたのだ。


 「……というわけで、最近不審者が増えてるみたいだからね、気を付けてください。」


 杉山先生の言葉が僕の頭をよぎる。


 男は額が広く、坊主頭が伸びたような短髪と、それと同じぐらいの長さの無精ひげが顔を覆っている。

 6月だというのに、男は上着はクリーム色が色褪せた長袖を着用している。素材はナイロン製のウィンドブレーカーで、男の体が少し揺れるたび、しゃかしゃかと衣擦れが聞こえる。おまけに袖の部分は垢がつき黒ずんでいる。また、みぞおちの高さまでしか上着のチャックを閉めていなかったので、首周りのゴムが締め付けを放棄した薄い生地の肌着と、首まで生え揃った胸毛が内側から見えていた。

 下半身はカーキ色で明らかにオーバーサイズのカーゴパンツを履き、本来は白かったはずのスニーカーはちょっとやそっとでは落ちない致命的な黒い汚れを含んでいた。

 服装と顔で判断するなら、年齢はおそらく30代後半から40台前半であろう。


 女子高生の方はというと、こちらからは男が邪魔で顔は良く見えないが、制服からして作星生ではない。おそらく青陵の生徒だ。片手で吊皮を掴み、俯きながらスマホを見ている。背後の男に気づいていないのだろうか。


 そんな分析よりもまず僕は考えなければならない事がある。

 このウィンドブレーカー男は「不審者」なのだろうか。大前提として僕は高木ではない。ゆえに「疑わしきも罰する」なんて事はしない。つい昨日の夜、『十二人の怒れる男』も観たし、陪審員8番はかっこよかったじゃないか。そうだ、決定的な証拠が見つからないならば、被疑者を信じてあげる、というのが法治国家のあるべき姿だ。疑わしきは罰せず、だ。よし、僕は冷静だ。この状況は何も問題はない、いつもの日常風景だ。よく思い出してみろ、大都宮で帰宅する高校生が乗り、雀橋でまた乗客が増える、いつも通りじゃないか。トラブルなんて起きたことはない。なぜなら乗客は行儀よくスマホとにらめっこをしているから……。


 まさか……スマホに夢中で気づいていないのか、だれ一人。気が付いているのは、ただ僕一人だけなのか。


 そもそも「不審者に気を付けて」とはこの状況下でどうする事を言うのだ。どうやら僕も杉山先生の話を真面目に聞いていなかったようだ。人生経験豊富で素晴らしい杉山先生のことだからあの話の中身にはきっと具体的な事象について言及がされていたのだ、「この時間で雀橋から乗ってくる長袖ウィンドブレーカー男に気をつけろ」、と。だから15分もかけて懇々(こんこん)とご説教なさったのでしょう。

 しかし今はそんな事に後悔している場合ではない。あの男を、よく観察しなくては。


 僕は混乱の中、青陵女子のスマホを覗き見する男に焦点を合わせ、細かい挙動を観察する。

 ジトっと粘ついた目、ニヤついた半開きの口元、ひくつかせた鼻……鼻?



 吸っている。



 あの男は吸っているんだ。

 高度な技術を駆使して、バレないように吸っているんだ、きっと。


 さらりとした髪が電車の揺れに伴い柔らかにたなびくたび、人生の中でごく僅かな期間しか生成できないと言われている、木漏れ日のような煌めきをもって生まれいづる「女子高生の匂い」を。


 ウィンドブレーカー男は僕のジャッジでは完全に不審者に格上げされた。

 けれども奴は痴漢、すなわち犯罪なのか、どうなのか、スマホで検索する余裕はない。僕がもたもたしているうちに、男が彼女を触りでもしたら、元も子もないんだ。


 しかし、僕は一体どうすればいいんだ。


 仮にもし、僕があの男を捕らえて

 「今、この子の匂いを嗅いでいただろう」

 と詰め寄ったとしても男に熟練のテクニックがあるとしたら、十中八九、シラを切り通されるだろう。

 青陵女子が事態に気づいていないなら、なおさら立証が困難だ。その場合、彼女はどう思うだろうか。

 後味の悪さだけが付きまとい、もしかしたら彼女はもう電車に乗りたくないと考え、さらにはもう学校に登校したくない、と考えるかもしれない。僕のひとつの行動のせいで、不登校になる生徒が生まれてしまうのか。僕のせいで青春を謳歌できなくなってしまうのか。そういうリスクがあるから、ここは慎重にならざるを得ない。

 女性専用車両はこの時間は運行されていない。

 ……いま僕は何を考えているのか分からなくなってきた。頭が混乱している。


 そもそもなんだよ、みんなして、スマホスマホスマホスマホって。

 誰も現実に目を向けていないじゃないか。

 心ここに在らずもいいところだ。

 もしかしてアレなのか、スマホの画面を通してみんな異世界にでも旅立っているのか?


 現代人のスマホ使用における現実からの乖離について、今は腹を立てている場合ではないが、そんな事を思ってしまう程、僕の思考能力は活動限界に達している。

 しかし頭で考えている雑多な事情とは裏腹に、僕の足は確実に彼女の元へ、あゆみを進めていた。

 ただ、一つだけ、強く思う事がある。



 彼女の匂いは、お前みたいな奴が嗅いでいい匂いじゃない



 もうどうにでもなれ。でたとこ勝負だ。

 彼女の前に立った僕は、気がつくと彼女に向って話しかけていた。


 「あの……」


 何を彼女に言えばいいんだ、この状況は。

 ダメだ、続く言葉がまったく思いつかない。


 彼女は恐怖に怯えた目で僕の方を見る。

 彼女の大きな瞳は、涙を浮かべているようにも見える。


 絶望の時間は更に加速する。

 もう、どうにも止まらない。

 なにか、なにか上手く話しかけられる手は無いのか。ない。わからない。

 でもなにか、なにか話しかけなくちゃ。


 僕は、その言葉を発する前から既に後悔していた。



 「あの……ぼ、僕とお、お茶でもどうですか」



 極度の緊張のあまり、僕の声は車両内全体に響き渡ってしまった。

 ウィンドブレーカー男は予想外の出来事に恐れおののき、青陵女子との距離が開いた。というか、周りにいた乗客全員が僕と一定の距離を保とうとした。

 そう、ドン引き、というやつだ。

 車両内にいた乗客の視線が一斉に僕に集まる。


 どうだ、参ったか。


 僕の魔法は、人々を異世界から現実へ引きずり戻すことができるんだ。

 最低な魔法だろ?


 「……ごめんなさい、今日は……」


 彼女は震えた声で言う。

 僕は我を失い、目の焦点が定まらなかったので、彼女の表情は伺い知れないが、僕の行動が彼女を怖がらせてしまったのは火を見るより明らかだろう。

 結果を見れば、彼女から不審者を遠ざける事には成功した。しかしその反面、見ず知らずの男にいきなりナンパをされた事で彼女の心を傷つけてしまった。成功を補ってあまりあるほどの大失敗だ。よく医者のブラックジョークに用いられるアレだ。

「先生、妻の手術はどうだったのですか」

「はい、手術は成功しました。しかし奥さんは死にました」


 もし、彼女がウィンドブレーカー男にこのまま気が付かなければ、彼女が傷つく事はなかった。


 最低だ……最低な気分だ。


 電車は新大都宮駅に停車した。大型ショッピングモール「スピカシティー」がある駅だ。

 扉が開くと一気に客が降り出した。


 「サイッテー」


 佐伯だ。背中越しになかなか良い捨て台詞を吐いてくれるじゃないか。僕も丁度同じ事を思っていたところだ。

 おまけに名探偵の予想的中だ、やっぱり佐伯はここで降りる。夏目と篠原の3人で最低な名探偵の悪口でも言い合えば幾らか場が盛り上がるだろう。


 「私はここで降りないといけなくて……」


 ――青陵の子だ。精一杯の勇気を振り絞って気丈に振舞ってくれたのだろう。直視出来ないがきっといい子に違いない。さすが青陵の生徒だ。僕は生まれ変わったら青陵に入学しよう。


 「すみませんでした」


 蚊の鳴く声でこう答える事しか今の僕にはできなかった。

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