第3話 6月3日【影山秋】
【影山秋】
チャイムが授業の終了を告げる。今日はここまで、と杉山先生が英語の指導教科書を閉じ、生徒は礼をする。
杉山先生が教室を出て行った後、僕たち生徒は思い思いに教科書やノートを片付け、帰宅や部活の準備を始める。菊地原と飯田が僕の席に近づいてくる。
教室の後ろの方ではクラスの中で派手な女子の佐伯と篠原が、すごく派手な女子の夏目をショッピングに誘っている声が聞こえる。
「あっちーなー」
遠藤の声だ。遠藤は中根とともに机に腰掛け、制服のワイシャツのボタンを二つ外し、体の中に涼しい空気を取り入れるために、パタパタと片手で仰いでいる。僕の内臓が数ミリ、元の位置よりも上昇する。
「誰かジュースでも買って来てくんねえかなー」
教室中に届く威圧とも冗談とも取れる声は、僕達3人を捉えていた、ような気がする。
「誰 か い ね え の ?」
中根が普段より低い声を出し、さらに追い打ちをかけてくる。
僕に近づいてきた菊地原と飯田の表情が途端に曇りだす。まんだらけやラウンドワンのゲーセンに僕を誘おうと、意気揚々と漕ぎ出した彼らの視線は今、所在なさげに黒板の方に漂流している。
「ハハ、だっせー」と高木があざけり笑っているのが聞こえる。つられて遠藤と中根も同調する。
僕は、ボタンを上まで全部留めたワイシャツの背中に、汗がつうっと流れていくのを感じる。
自然に、誰にも気づかれないように、何もなかったフリをして菊地原と飯田を迎え入れようと僕が席を立ちあがった時、お役御免だったはずの杉山先生が教室に再び戻ってくる。
「言い忘れとった。一旦席着いて」
――最近不審者が増えてるみたいだから気を付けろ――
要はこの点を杉山先生は生徒に言いたいようだ。でも話が長く遅くまどろっこしい。やっと帰れると思った矢先だからなおさらだ。
この感じは、便意をこらえてやっとたどり着いたコンビニのトイレが満員だった時のような、あるいは完全犯罪を成し遂げたかに見えた犯人が殺人現場から解放されるすんでの所で名探偵に「そういえば最後に一つだけあなたに聞きたいことがあるのです。」と言われた時の感覚に似ている。前者は経験から、後者は僕の豊かな想像力からの導きだ。
そもそも杉山先生の話を真面目に聞いている生徒はどのくらいいるのだろうか。教室から早く解放されたい僕は、時間つぶしのために周りを見渡してみる。
高木や遠藤などは当然かのごとく組んだ足を先生への壁にしてスマホをいじっている。誰かとLINEでもしているのか、SNSでも覗いているのだろう。「不機嫌」という言葉がにじみ出ているような体制だが、当の本人たちは、それほど苛立ってはいないんじゃないかと僕は思う。きっと彼らにとっては、不機嫌なことが日常なのだ。
佐伯や篠原あたりの女子は小声で無駄話をしている。ふた駅先の大型ショッピングモールの「スピカシティー」で何を買うか、カフェで何を頼むか、おおよそ、そんな所だろう。
先生は所々で「おい、そこ聞いてんのか」と老眼鏡をずり上げ、睨みをきかせてくる。
飯田や菊地原は……先生の方を向いて一見話を真面目に聞いているように見えるが、これは実は黒板の方をぼんやりと眺めているだけである。
この反応は少し前に遠藤と中根が威圧の姿勢を見せた時と同じ反応だ。
つまるところ、彼らは彼らなりに存在感を消し、矛先を向けられないようにするための処世術を実践しているのだ。
夏目は……僕の席から見渡すには格好が不自然になってしまうので目視は出来ない。
その代わり、僕は夏目に対してある想像を膨らませる。
夏目ほどの美人になると男が全員不審者に見えるのではないだろうか。実際に行動に移す者がいないだけで日常的に好奇な視線に晒されているのは間違いないだろう。
教室の中で誰かが夏目のことをいやらしい目で見ていることがバレたなら、まず交際相手候補で、クラスを掌握している高木が、間違いなく動くだろう。適当な理由をつけ、実力行使、そして鉄拳制裁だ。彼なら疑わしきも罰するだろう。もし僕が何かの間違えで、そんな状況になってしまったらと、考えるだけで恐ろしい。そして佐伯、篠原あたりが大きく脚色した噂話を拡散し、僕の社会的抹殺を図るだろう。僕と喋る者は全て敵である、とヒトラーも真っ青のプロパガンダをかけるに違いない。すなわち詰み、ゲームオーバー、アウシュビッツ行きだ。もうこのクラスにはいられなくなる。
しかし、クラスという社会から外れた電車内などの時はどうだろうか。たまたま列車で隣に座ったおじさんに、ベタついた視線を送られたり、熱い鼻息をかけられたり、脂ぎった顔を近づけられたりしたことはないのだろうか。あるに決まってるじゃないか、と僕は当たり前のように考える。なぜなら夏目が「超」のつく美人だからだ。四則演算よりも簡単な数式だ。
よって夏目は、僕と同様、金井山駅からの電車通学だから、男の生まれ持った不審者性、つまり夏目に向けられた男の性的欲求を常に感じているであろう。しかしながら夏目はマスクをしたりスカートの丈を戻したりはしない。
戦っているのだ。
毎日美人でいるのも大変だなあ、なんて人ごとのように僕は思う。
そんなことを思っていると月島と目が合った。夏目のことを考えていた所だったので僕は何となくバツが悪かった。
月島は少しだけ口角を上げ、微笑んで見せた。昼休みに僕が拾った猫の栞をつまみ、ひらひらと二、三回僕に向けて振って見せた。
月島は物静かな女子である。前田かおりや鈴木楓≪すずきかえで≫と談笑する姿も見かけるが、ひとりで本を読んでいることも多い。
しかし、彼女は決して瓶底メガネ、おさげの二つ縛り、図書委員、みたいな古典的な読書女タイプじゃない。
彼女が見た目に気を使っていることを僕は知っている。ミディアムボブ。顎先から首まで伸びている毛先は内側にカールしており輪郭の形の良さを引き出している。黒髪に大きな黒縁メガネ。ポップで話しやすい印象を与える彼女は、笑顔が良く似合う。読書をしている姿は背筋がピンと張っていてさまになっていると同時に芯の強さも感じさせる。芯の強さって言っても色んな種類があるだろうけど。全体的に見ればどこか彼女には昭和のレトロな雰囲気が漂っているが、そのレトロさを自分なりに再構築させ、うまく現代に取り入れてきた、という感じだ。
「……というわけで、最近不審者が増えてるみたいだからね、気を付けてください。」
おぉ、やっと杉山先生の話が終わった。僕はクラスメイトに思いを馳せることでいくばくかの苦痛を和らげることができた。クラスメイトには少し感謝しないといけないのかもしれない。
「なあ影山、まんだらけ行かね?」と菊地原。「ラウワンだろ?」と飯田。
「猫にご飯をあげないといけないから、先帰るよ。」
と僕が断ると、菊地原が「ぷぴー、影山のけちん坊ちゃん」
と、昨日のテンションで言い放ってきた。
菊地原の最近のマイブームなのだろう。しかし多用はお勧めしないぞ、不審者を見るような目で女子達が見ている。つい15分前に先生からその話があったじゃないか。
僕は帰宅するためバス停へと向かった。
ミザルーのご飯もそうだけど、帰って『Fight the cats』の執筆に取り掛かりたい、というのが本音だ。
けれど、僕は本当にあの小説を仕上げることが出来るのだろうか。構想段階から数えても、もう半年以上あれに費やしていることになる。けれども、一向に書けないシーンがある。
初夏の日差しが、僕の額をじんわりと照らした。
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