黒い月

@kyoka_yuki

黒い月

 私は彼女を美しいと思った。別段、当時私が女に飢えていたから、とか、私に女を見る目がないから、といった理由ではない。私の中のそういったものの存在自体を否定することはできないが、彼女はそんな低次元の枠に当てはまるような人物ではない。事実として、彼女がこの学校に転校してきたその日から、男女の区別なく私を含めたクラスの誰もが彼女に目を奪われ、虜にされた。彼女の真っ黒な瞳は皆を引き込み、漆黒なる美しさを想起させ、腰まで伸びた長い髪は、艶やかに、そして洗礼された美しさを魅せた。また、左目の下にある黒子は実際の年齢よりも彼女を大人びて見せ、余計に黒色を優美に引き立てた。私ごときの人間が彼女を評価するなどというのは、おこがましいこと限りないが、あえて形容するならば――彼女は闇夜に光る世界の月のようであった。


 ここで一つ、私はある言葉を思い出した。いったい、何時何処でこの言葉を見たのか、その記憶は定かではないが、ある種鮮明に私の頭に残っていた。



――なるほど、あの娘は美しい。

――しかし、美しいと思うのはお前の目なのだよ。


              クセノフォン



 馬鹿馬鹿しい、と私は心の中でその言葉を一蹴した。彼女が美しいという事実はもはや自明であり、世界の真理であることは疑いようがない。私の目を通して見る彼女が、彼女そのものよりも美しいなどということは有り得ないのだ。故に、やはり彼女は誰よりも黒く美しく、どこまでも私には――遥か遠い月であった。

 

 自分で言うのも何ではあるが、私は当時目立つ人間ではなかった。いや、今現在に至るまでずっとそうである。私と彼女は同じクラスであったが、住んでいる世界が違ったので接点がなかった。高校三年の一学期――彼女が転校してきた時期からすでに時は流れ、冬を感じるようになっていた。生徒は皆、登下校時にブレザーの上からコートを着用し、色とりどりのマフラーで自分を表現している。私はというと、赤をベースに白のラインが入った、いわゆる目立つマフラーをしていた。私は先に述べた通り目立つ人間ではなく、また目立ちたいとも思わなかったので、地味なマフラーが良かったのだが、高校一年の冬に母親が買って来てくれたことから不満を言うことはできなかった。それに、その赤いマフラーを着用する三度目の冬となる今となっては、当初の抵抗感はほとんどなくなっていた。加えて、マフラー程度で本来目立たない人間である私が目立つわけもなく、やはり杞憂である他なかった。


 そんな冬の始まり――十一月中旬の朝に私は赤いマフラーを着用し、自転車で学校へと向かっていた。凡そ五キロ、自転車による通学には約十五分かかるその道中、冷たい風が私に吹き付けられた。学校まではほとんど直線なのでそれが追い風に変わることもなく、常に向かい風の状態で私は自転車を漕いだ。そのせいでいつもより時間がかかってしまい、登校時間ギリギリになって正門をくぐると、自転車置き場に彼女の姿があった。普段ならば彼女はもっと早い時間に登校しているはずなのだが、その日は珍しく遅刻気味であった。


 八時三十五分――朝のSHRに対する予鈴が鳴り響く中、私はそんな彼女の横を通り、決められた自分の駐輪場所に自転車をとめようとした。そこで、ふと私は違和感を感じた。いつもは黒く美しい彼女が赤く見えたのだ。振り向くと、彼女は赤いマフラーをしていた。よく見てみると赤をベースに白のラインが入っている。自分のマフラーと見比べると、まったく同じデザインをしていた。私は驚きを隠すことができず、「あ!」と、口にしてしまった。その声に彼女は私の方を振り向いた。


 目が合い、彼女は不思議そうに私を見つめる。黒く美しい彼女の瞳が、ただ一点私の瞳を見つめている。今まで彼女と話したことどころか、目すら合ったことのない私にとって、この瞬間はとても耐え難いものであった。実際にはほんの数秒のことであったのだろうが、私にとっては永遠にも感じられたその後に、私のマフラーに気付いたのか、彼女は美しい声で――こう言った。


「マフラー、同じだね」


たった一言――その言葉は私の心を奮わせた。全身の血液が全て集まったかのように顔が真っ赤に染まる。そんな状態の私に返答などできるはずもなく、「え、えっと、あの……」と、まともな会話は成立しなかった。彼女は私の上がり様に少し頬を緩めて会釈し、先に校舎へと向かってしまった。彼女の後ろ姿は、漆黒の美しい世界に鮮やかな赤色で彩られていた――此の世で最も美しい月がそこに存在した。


 それが私と彼女の最初で最後の会話であった。四ヵ月後に卒業式を迎えるまで、二度と話す機会が訪れることはなかった。しかしながら、今まで目すら合わなかった私達であったが、あの日を境に何度か目が合うようになった。今思えば、私は彼女に淡い恋心を抱いていたのであろう。恋愛経験のない私にとって、彼女の一言はそうなるのに十分であった。卒業後、私は地方の国立大学に進学し、彼女は地元の私立大学に進学した。それ以降、お互いにメールアドレスも電話番号も知らなかった私達の繋がりは途絶えた。時折私は実家に帰ると、必ず母校を訪れるようにしている。それは心のどこかでまた彼女と出会えるのではないかと、期待しているからであろう。


 私は今でも、あの赤いマフラーをした彼女の姿を鮮明に思い出すことができる。その度にあの時のような心臓の高鳴りが収まらない。黒く美しい彼女が赤いマフラーをしていた理由――それは、月は誰よりも鮮やかに、自ら輝きたかったからかも知れない。


――あれ以来、私が月を見ることはない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒い月 @kyoka_yuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ