月光

     ○


 私は文机の前に座り、小型のノートパソコンを開いている。キーを叩き、どうにかこうにか文章をひねり出す。唸る。頭を抱える。今まで書いた文章をすべて消す。またキーを叩いては消す。叩いては消す。文章を消す。警句を消す。世界を、宇宙を、すべてを消し去る。

 窓の外は灰色の雨に煙っている。庭の木々は叱られた子どものように俯いている。今頃、鳥たちは巣に引きこもっていることだろう。近所の野良猫は今、私の膝元で丸まっている。仕事をするお気持ちは、いつの間にかどこかに消え去ってしまっていた。私はため息をついてパソコンを閉じ、万年床の敷いてある方向に放り投げた。それから伸びをして、猫を撫でる。ふわふわで大変気持ちがよろしい。

 だが、あの子の髪の毛の方がもっと滑らかで、柔らかで、そして暖かかった。

 猫がニャゴロッソと鳴いた。すまない、どうか赦してれ給え。魅惑的な君の躯を弄びながらも、私の心は別の女性の輪郭を想い描いていたのだ。

 猫を膝の上に載せながら、私は頬杖をついて窓の外を見やる。ここ一週間、燈乃は姿を見せていない。公園にも来ていない。連絡先を交換していないから、連絡の取りようもない。


 ――何の音沙汰もなく、彼女は私の世界から突然消えてしまった。


 窓の外の景色を見つめる。色白の空は、相変わらず泣いていた。


     ○


燈乃の日記 四六ページ


 また、ところどころ意識が飛ぶようになった。最近ようやく良くなってきたと思ったのに、ぶり返してしまった。気がつくと夜の街を出歩いている。気がつくとあいつに組み伏せられている。気がつくと殴られている。気がつくと*されそうになっている。気がつくと夜の湖にいる――

 気がつくと、また南雲さんに会いたい自分がいる。


     ○


――Tips――


(録音データ)



「万引き未遂? いえ、私には何のことだか……」


「……そうですか。燈乃が先生に巡り会えて、本当に良かったと心から思います」


「……くふふっ、そういうことでしたか。私、貴方が誰だかやっとわかりました」


「……というと?」


「燈乃ちゃんの夢に出てくる小説家のお兄さん、でしょう? 改めて見てみたらその通りのお方なのね、くふふっ」


「……仰る通り、小説家を生業としています」


「そうでしたか。ふふ、燈乃ちゃんも案外隅に置けなかったのね……。本当に、良かった」


「え?」


「貴方が、燈乃ちゃんの夢に出てきた通りのお方で、本当に良かったと思います。貴方は燈乃ちゃんの、心の支えだったみたいですから」


「……その、私は――」


「改めて、現実でも燈乃ちゃんを支えてくださって、本当にありがとうございました」


「いえ、私はそんな……」


「……」


「……恐縮です。先生、燈乃が見ていたという悪夢について、どうか教えていただけませんか?」


「ええ。不登校になる前後から、同じような悪夢をずっと見ていたそうなんです――」


(レコーダーのスイッチが切れる音)


     ○


燈乃の日記 七ページ


 同じ夢を毎晩見るといっても、どんな目に遭うかは毎回微妙に違うみたい。でも、共通していることがいくつかある。

 いじめられて不登校になったのは現実と変わらない。家の雰囲気が今よりずっと悪くて、あるきっかけでお父さんとお母さんが日常的に言い争うようになること。小説家のお兄さんに出会って、仲良くなること。お父さんがいなくなること。この家に招かれざる客が来て、お母さんとわたしが酷い目に遭うこと。そんな生活が少しの間続いて、ある日唐突に終わること。そして。

 その後の数日間で、わたしが必ず殺されて死ぬこと。


 酷い目に遭う場面や殺される場面は、霞がかかったかのように記憶がぼやけて思い出せない。だから、正確な展開は分からないんだけど、でも、分かる。


 最後に自分が死んだということだけは、分かる。


 ――残念ながら、殺されながら起きる朝の目覚めは最悪だ。


     ○


――Tips――


(レコーダーのスイッチが入った音)


「いやはや、それにしても南雲先生にお越しいただけるなんて……。お陰様で、うちでの単行本の売り上げは月間一位を記録しておりまして、それもここ十年なかったくらいなのです。地元出身の小説家の先生ということで、私どもと致しましても応援キャンペーンを組んでいるのですが、本当に素晴らしい小説で、いや、もう本当に筆舌に尽くしがたく――」


「いえ、こちらこそ、ヨシノ書店さんにはいつもお世話になっております。過大なお褒めに預かり誠に恐縮です」


「いえいえ、とんでもございません。ええ、それでですね。恐縮ですが、後ほどぜひサイン本を作っていただければ、と……」


「わかりました。お話を拝聴しましたらすぐに取りかかりましょう。改めて、本日はお時間を賜りましてありがとうございます」


「いえいえ、ぜんぜん良いのです。さあ、何をお話致しましょう」


「数ヶ月前の、この書店で起きた万引き未遂事件についてお話をお聞かせ願いたいのです」


     ○


 空が泣き始めて数日が経った。彼女を慰める者は誰もいない。彼女が機嫌を直してくれないことには散歩にも行けないのだが、家に引きこもるとて原稿が進むわけでもない。

 最近は、悪夢を見ることもない。毎晩ぐっすり眠りこける。それはそれで喜ばしいことではある。だが。

 私は書斎の窓から雨雲に覆われた夜空を見上げる。見えるはずのない月を仰ぎ見て、思う。

 夢の中でもいい、一目でいいから燈乃に会いたかった。


     ○


燈乃の日記 四三ページ


 あの男から、この日記の存在だけはずっと隠し通してる。だけど、それもいつまでもつかな。

 おうちはもうめちゃくちゃだ。わたしの部屋も、例外ではない。


     ○


――Tips――


(録音データ)


「万引き……。ああ、数ヶ月前というと、中学生の女の子の」


「それです。どのような経緯だったのかを教えていただきたく」


「そうですねえ、いたってシンプルですよ。近所に住む中学生が、文庫を一冊やらかそうとしましてね。警察と親御さん呼んで指導、ってなわけでして」


「冤罪の可能性はなかったのでしょうか」


「は?」


     ○


燈乃の日記 二三ページ


 書店で万引きのえん罪をかけられてから二日が経った。私のトートバッグに、誰かが文庫本を滑り込ませたんだ。記憶にない。わたしは神に誓ってやってないのだ。

 そんな状況証拠だけで、みんな私が万引きしたんだって怒った。店の人も学校も警察も両親も、誰も私の無罪を信じてくれなかった。


 ……もしかして、また記憶が飛んじゃったのかな。だとしたら、わたしは


 わたしは


     ○


――Tips――


(録音データ)


「その中学生は、当時記憶障碍と診断されていたそうです。心神喪失状態だったとしてもおかしくはないと思いまして。だとしたら、冤罪というのも少し違うかもしれませんが」


「はあ、そうでしたか。しかし、何しろかばんに商品が入っていましたからなあ」


「……それはそうですね。どうも失礼致しました。ところで、彼女の親御さんはどのような方だったか覚えておいででしょうか」


「ああ、お父さんの方が来ましたがね、歳のわりにかなりの男前でびっくりしたもんですよ。ただ、随分やつれていて、目ばかりがぎょろぎょろしていましたね。必要以上にぺこぺこへりくだってきたもんですから、気持ち悪くってしょうがない。そのくせ子どもには随分キツい態度でね、逆に女の子の方が可哀相になりましたよ」


「そうでしたか……」


「いやあ、蓋を開けてみれば中身のない話で、申し訳ないことです」


「いえ、とんでもありません。収穫は十分ありました、どうもありがとうございました。それでは、サイン本はどちらで作れば――」


(レコーダーのスイッチが切れる音)


     ○


燈乃の日記 四九ページ


 あいつの支配はとどまるところを知らない。

 もう、逃げられない。


 いくつもの悪夢がたどる道筋が本当に正しいのならば。


 真実であるのならば。


 わたしは明日


 あの男を


     ○


 一週間以上も降り続いていた雨は、どうしたものか私が所用で外出している最中に降り止んだ。どうやら太陽がご機嫌取りに成功したものと見える。私はお天道様の健闘ぶりを讃えつつ、出版社を辞して帰路に就く。

 空は今や穏やかに笑っていた。あやふやな脳内の暦によると、今日は満月のはずだ。晴れて良かったと思う。月は好きだ。とにかく良い。今宵はお月見としゃれ込むことにしよう。

 一仕事終えた私は、気が抜けたように濡れたアスファルトを踏みしめて歩く。我が家の門が見えてくる。その前に座り込む白いワンピース姿が見えてくる。濡れ鼠と化した少女が見えてくる。


 燈乃が門の前に座り込んでいた。


「――燈乃!」

 思わず叫び、濡れそぼって震えている燈乃に駆け寄る。膝を抱えて丸まっていた燈乃が顔を上げ、ふにゃりと笑った。


「あ、南雲さんだぁ」


 声がかすれている。


「馬鹿、とりあえず中に入れ!」


 私は荒々しく燈乃の手を取ると、ずかずかと庭に入りがちゃがちゃと扉の鍵を回してばたばたと家に上がり込んだ。


 さしあたり優先すべき喫緊の急務として、まず大急ぎで風呂を沸かす必要がある。


     ○


燈乃の日記 三六ページ


 南雲さんは無愛想だけど、とても優しい。わたしが毎日遊びに行っても、嫌な顔をしつつも、どこか嬉しそうになさそうに出迎えてくれる。

 小説はまだ刊行されていないみたいだし、随分寂しい暮らしをしているようだ。ここは、わたしのような可憐な少女が南雲さんの灰色の日々に華を添えてあげないとね、くふふっ。

 なんてことを言ったら、部屋の隅で暫く拗ねてた。自分は引きニートやぼっちなどでは断じてないし、ちゃんと仲間も友だちもいる、だって。くすくす、かわいい。


     ○


――Tips――


(レコーダーのスイッチが入った音)


「……」


「……。あ、あの。こいつぁ、どういう――」


     ○


 大急ぎで風呂を沸かし、どこか呆けている燈乃を更衣室に押し込み、扉を閉める。思わずため息が漏れる。

 思いがけず燈乃に会えて、とても嬉しい。それは確かだった。だが、同時に漠とした不安を覚えたこともまた確かだった。

 雨に濡れて弱っていたからだろうか。それとも待ち草臥くたびれて疲れたからだろうか。

 燈乃の雰囲気が、それとわかるほどに不安定なものになっているのを感じる。

 姿を見せなかった数日間に何かあったのか。あるいは単なる勘違いか。それとも――。

 我に返る。頭を振る。悪い方に考えすぎだ。燈乃は単に疲れているだけだ。風邪を引かせないようにこちらが気をつけねば。

 そうだ。燈乃にタオルの位置を教えていなかったことを思い出した。


「云い忘れてた、燈乃――」


 云いながら扉を開ける。


 燈乃が一糸纏わぬ姿で立っていた。


 ところで、果たして時間は留まることなく流れるものなのかという疑問は常に私を捉えて止まないのであるがなぜなら僕は時が止まるということをこれまでにたびたび体感していたような気もするし過去や未来や現在は空虚で不確実で均質なものであるとは俺には到底感じられずそれはそれとして時は止まるのだ、それはまったく真理なのだ、現にこうして――。


「ああっと――」


 我に返る。とりあえず何か云おうとするが、云うまでもなく何も云えるはずもないことははっきり云って云うに俟たない。燈乃も事態が把握できないのか黙っている。いや待てよそうかわかったぞもはや言葉は少しも要らぬのかも知れぬ。おお、この美しくも恐ろしき永遠の一瞬よ、お前はなぜ私の言語運用能力をかくも易々と超えていくのか――。


「あ、あの、南雲さん」


 燈乃が口を開く。


「お、おうふっ、なんだ」


 私も応じる。


「えっと、その、えへへ。実はわたしのからだ、観賞料百万円」


「し、しょうか。支払いは分割で頼む」


 扉を閉めた。


 私は少なからず動揺していた。



 ――燈乃の華奢な躯は透き通るように白く、全身疵と痣だらけだった。


     ○


――Tips――


(録音データ)


「……」


「……あの、その、アニキのことで話っていうのは――」


「……そう、貴様の『アニキ』の話だ。望月満也みつや氏に無茶な貸し付けをしていたという、な」


     ○


「お風呂、ありがとうございました。とってもいい湯でした」


 髪を濡らした燈乃が書斎に入ってくる。私はそちらには目もくれずキーボードを叩く。


「そうか、それは良かった」


「洗濯機と乾燥機も使わせてもらってます、着替えも本当に助かります」


 着替えには私の浴衣を貸した。燈乃が着れそうなものが他になかったからだ。


「すまん、夕方には乾くだろうから、それまで辛抱してくれ」


「ううん、ぜんぜん大丈夫」


 燈乃はその場でくるりと回転してみせる。


「良かったよ。頼むから、雨の中傘を差さずに濡れるのはやめてくれ。風邪を引かれては敵わない」


「うん、ごめんなさい」


「僕はこれから原稿の直しをするからあまり構えないが、構わずゆっくりしていてくれ」


「うん、お仕事中にごめんなさい。邪魔しないね」


「邪魔なんかじゃないさ」


 私は燈乃に向き直り、俯く彼女の頭に手を載せる。燈乃はビクッと身を竦ませた。


「あっ……」


「……! すまない」


 私は手を引っ込めた。


「ううん……。あの、暫く来れなくてごめんなさい」


「いいんだ。僕はいつでもここにいるから。いつでも来たい時に来ればいい」


 燈乃は不登校真っ盛りのワケあり少女だし、そもそもうちに通うことを強いることができるはずもない。わかっていたつもりだった。

 しかし、それでも。燈乃がまた私を訪ねてきてくれたのが嬉しかった。燈乃に会えて、嬉しかった。

 燈乃はおずおずと微笑むと、書棚から本を取り出して部屋の隅に座り込んだ。それを確認して、私は再びパソコンのディスプレイに向き直る。

 原稿の直しはあっけなく終わった。燈乃が傍にいるだけで何故こうも仕事が捗るのか。今まで散々悪戦苦闘していたというのに。燈乃は一家に一台必要なのではないだろうか。そんなよしなき事を考えつつ、私は燈乃に話しかけようとした。

 燈乃は部屋の隅ですやすやと眠っていた。

 髪が濡れたままだ。風邪を引くと云ったはずだぞ。まったく、しょうがないヤツだ。私は引き出しから手拭いを出すと、燈乃の髪の水分をなるべく拭き取ってやり、そのまま頭に掛けてやる。押し入れから毛布も引っ張り出してきて、その小さな躯に掛けてやった。

 燈乃の寝顔を暫く眺める。随分ぐっすりと眠っている。それで寝顔が安らかだったら、私も幾分か安心できたと思う。だが、寝ている時でさえ、今の燈乃は心から安らげないのだ。何故だかそう感じた。


「……もさ……、……けて」


 燈乃が寝言を呟いたが、何を云っているのかは聞き取れない。私には、彼女の頬にそっと触れ、それから頭を撫でることしかできない。自分の無力さを痛感し、思わず苦笑する。


 夢の世界にいる燈乃は、今度は私の手を拒絶しなかった。


     ○


燈乃の日記 六八ページ


 ――――――――――――――――


 今回もだめだった。このわたしもだめだった。

 私は決して諦めない。

 諦めてなるものか。

 絶対に。


     ○


 ――跳ね起きた。

 それが夢だとわかるまで暫くかかった。すでに夜だった。心身ともに弛緩していた。どうも徹夜が良くなかったか。昼寝している燈乃を眺めているうちに、いつの間にか私自身もぐっすり眠りこんでしまったようだった。私は痛みに疼く頭を押さえ、燈乃が眠っている方を向き――。

 先ほどまで燈乃が眠っていた隅っこに、毛布と手拭いと浴衣がきちんと畳まれていた。眠気はいっぺんに吹き飛んだ。

 燈乃がいない。

 私は立ち上がった。燈乃がいない。どこだ。私は外出用の羽織を引ッ掴んだ。燈乃がいない。どこだ。私は階段を駆け下りた。燈乃がいない。どこだ。下駄を引っかけた。燈乃がいない。どこだ。

 もうこの家にはいない。どこかでそう直感していた。

 私は家の門をくぐると、一目散に駆け出した。


 月の光が、夜道を駆ける私を照らし出す――。


     ○


燈乃の日記 一三二ページ


 私の願いは、例えるならば恒河の底に積もる砂の中から砂金を探し出すようなもの。それは思考の上ではいくらでも実現できるかもしれないけれど、現実には実現不可能だ。


 そして、私は砂金を摑み取りたい。


     ○


 夜の公園は別世界のようだった。昼の時間の耳に心地良いざわめきも、柔らかく降り注ぐ陽の光も、爽やかな風も、夜の前にはすべて掻き消えてしまう。まるで夢の中に迷い込んでしまったように、すべてが闇に溶けていく。

 夜の空気は独特の「匂い」に満ちている。それは儚く、幻想的で美しい。そして、同時に恐怖と狂気を孕んでもいる。夜は蠱惑的こわくてきで危険だ。夜は女性に似ている。夜はすこぶる危険だ。

 曖昧な確信を抱きながら、私は湖畔に向かう。この情景を、私はどこかで見たことがある。月の光が照らし出す、あえかなる夜の邂逅かいこう


 ――果たして少女は湖を見つめ、湖畔に佇んでいた。


 少女はゆっくりと振り向くと、微笑を浮かべる。


 水のさざめき――。柔らかな夜の匂い――。遍く照らす月の――。滑らかな――。涼しげな――。透視するかのような――。宝石のような――。闇――。苦痛――。諦念――。

 絶望。

 私は頭を振り、妙な考えを振り払おうとした。口を開く。


「燈乃――」


 すると目の前の少女は、唇を歪ませて嗤った。


「くすくす、月がとても綺麗ね」


 私の躯が硬直した。口を開けたまま、化石したかのように動けなくなった。喉が強ばり、声が出なくなった。冷や汗が頬を伝い落ちるのを感じた。手足は冷え切り、脳は痺れてしまったかのようだった。

 この子は燈乃だ。確かに燈乃だ。紛れもなく燈乃だ。燈乃で間違いないのだ。

 しかし。

 目の前の少女は、燈乃ではない。確かに燈乃ではない。紛れもなく燈乃ではない。間違いなく燈乃ではないのだ。

 そう感じる自分が、確かに存在している。


「怖がっているのね」


 月光の下で、少女は可笑しそうに嗤った。ああそうとも、笑いたいのはこっちも同じだ。

 だが、どうして笑うことができるだろうか。


「君は、いったい――」


喉の奥から絞り出した声がかすれる。それを聞いた少女は、ますます可笑しそうに嗤う。


「くすくす。ええ、そうね。私は、あなたのよく知る望月燈乃という少女ではないわ」


 ふいに強い風が吹いた。少女が俯いて髪を押さえる。白いワンピースの裾が夜の息吹を孕んではためく。風は木々を揺らし、水面をさざめかせ、私の心をも掻き乱す。

 やがて少女は顔を上げる。月光に照らされたその顔には、もう微笑は浮かんでいない。穏やかな湖の水面のような、いかなる感情も宿さない静謐な表情。目だけが、まるで月のように――。


「私はすべてに満ち足りている。私は百年を生きてきた。すべては私の思うがまま」


 少女は歌うように云うと、その場でくるりと一回転した。長い髪がふわりと宙を舞う。

 少女はそのまま私に向き直り、優雅に一礼する。


「初めまして、ごきげんよう。私は、満月の魔女。以後お見知り置きを。……以後があればね、くすくすくすくす」


 その双眸は、月のように燦めいていた。


     ○


「魔女? 魔女とは、どういうことだ――?」


 私の問いに、彼女はいよいよ可笑しさを堪えきれないようだった。ひとしきり嗤うと、滲んだ涙を指で拭う。


「くすくす……。これはいったい、どういうことかしらね? くすくすくすくす」


 わからない。

 私には、何もかもがわからない。


「百年……? 君はまだ十二歳前後のはず――」


「そうね、確かに躯の年齢は十三歳だけど、私は間違いなく百年を生きた魔女なの。まあ、人間には理解できないでしょうけど」


 魔女。人間。


「哀れなものね、人間って。くすくすくすくす」


 魔女はそう云うと、さも可笑しそうに嗤った。

 魔女。目の前の少女は、本当に魔女だと云うのか。

 月の光に照らされた少女が嗤う。

 ゆっくりと、少しずつ、だが確実に、世界が狂気に満ち満ちていく。

 満月の光が煌々と水面を照らす。湖の前に佇む少女は、月光を浴びて立ち尽くす私と相対している。私を眼差す瞳は炯々と輝き、その口許には微笑すら浮かんでいる。

 微かな夜風が白いワンピースの裾を弄ぶ。艶やかな黒髪が夜の息吹になびき、月の魔力に照らされる。夜風は、しかし、小柄な少女の躯を何処かに連れ去ってしまいはしない。

 時は、そのまま止まってしまったかのようだった。時と共に、私の躯も硬直したまま動かない。

 少女は目を眇める。そうして私を見る。値踏みするかのように。心の奥底を見透かすかのように。

 あるいは、懸命に何かを伝えようとするかのように。


「南雲――」


 やがて、彼女は口を開く。


「あなたはここにいてはいけない。東京に帰れ」


     ○


 何を云われたのか理解できなかった。


「どういう、ことだ――?」


 無意識の内に聞き返す。彼女は表情を変えずに淡々と云う。


「あなたはここにいてはいけない。自分の無力さに打ちひしがれ、絶望することになるわ」


 ますますわけがわからない。


「僕が、絶望する……?」


「あなたのことは、私が一番良く知っている。あなた自身よりもね、くすくす」


 魔女が嗤う。


「わからない。君はいったい何を知っているというんだ――?」


 魔女。満月の魔女。燈乃ではない、何か。


 燈乃ではない。


 本当に?


「私はすべてを知っている」


 魔女はすべてを知っている。


 なぜ。


 どうして。


「見てきたから。ぜんぶ」


 くすくすくすくす。


 魔女は嗤う。満月の下で嗤う。金色の月。欠けたる所のない望月。その光が私を照らし、満たし、狂気へと誘おうとする。

 私は問う。


「燈乃は何処だ?」


 魔女が顔を歪め、私を睨みつけた。咎めるような口調で云う。


「期待が産むのは絶望だけ。そんな簡単なことが、どうしてあなたにはわからないの?」


「そんなことは知らん。私は、燈乃は何処にいると訊いている」


 私は食い下がる。


「そう。私を魔女と認めたのね」


「君は燈乃ではないということは理解した。燈乃を何処へやった。君が躯を乗っ取っているのか?」


 魔女は冷たく嗤う。


「本当に愚かね。躯を乗っ取るだなんて。くすくす」


「燈乃は何処だ!」


 私は声を荒げる。


「望月燈乃は、絶望の深淵に身を投げてしまった。あなたにあの子は決して救えないわ」


 くすくすくすくす。


 風が、木々が、湖が、月明かりが形作る魔女の影が、愚かな私を一斉に嘲嗤う。


     ○


「ねえ、南雲。あなたはいったい何のために小説を書いているの? 小説を書く先に、あなたはいったい何を求めているの?」


 不意に魔女が問う。


「……世界の真理を探究したい。そのために、私は小説を書いている」


 私の答えを聞くと、魔女はさも可笑しそうに嗤った。


「くすくすくすくす。世界の真理? 愚かで何も知らないあなたが? 相も変わらずの理想主義ね、くすくすくすくす」


 理想主義。あの日の会話が脳裡をぎる。


「君は、いったい――」


「くすくす。それじゃあ」


 魔女は私に悪戯っぽく微笑みかける。


「燈乃は珠? それとも瓦?」


 絶句した。


「あの時、あなたは燈乃の質問にちゃんと答えなかった。あなたなりの真摯しんしな回答ではあったのかもしれないけれど、それでも答えることから逃げたことに変わりはない」


 逃げた。あの時、私は逃げた。


「あなたは珠? それとも瓦?」


 自分が珠ではないという紛れもない現実から、逃げた。


「僕は――」


 二の句が継げなかった。


     ○


 魔女は表情を消して私を一瞥すると、湖に視線を落とす。月の光が湖面を燦めかせている。だが、湖の底は闇に閉ざされたまま、照らされることは永久にない。


「燈乃は、瓦。珠ではない。あなたがどう思っていたのかは知らないけれど。どの燈乃も、自分の置かれた状況に抗い、懸命に生きようとしていた。運命に必死で堪え忍んでいた。でも、その運命とやらは、一人の少女にはあまりに荷が重すぎた」


「燈乃――」


「あなたは、瓦。珠ではない。理想を口にしながらも、それを現実に成し遂げることなど到底及ばない。真理をこいねがいながらも、漫然と俗文を書き連ねるだけの日常に満足し、自ら進んでその桎梏しっこくに囚われている。そんなあなたに、どうして燈乃が救えると云うの?」


「違う、僕は――」


「何が違うの? この際だから云わせてもらうわ。南雲、あなたは無能よ。少女ひとり救えやしない、無力な人間」


 くすくすくすくす。げらげらげらげら。魔女が私をあらん限り嘲嗤う。


「僕は――、僕は、ただ、燈乃に寄り添ってあげたい。それだけ、たったそれだけなのに、それすらも僕には許されないというのか……?」


 魔女の表情に影が差す。


「そうね。どのあなたも、ただ燈乃に寄り添ってあげるだけ。それだけは決してやめなかった。どの燈乃にとっても、そんなあなたが心の拠り所だったようね。くすくす、無能にしては上出来ね。それだけは褒めてあげるわ。

 でもね、わからないの? 何も知らない人間が傍にいても、何の解決にもならないの。あなたは燈乃の希望だった。それも、決して叶うことのない希望。

 ねえ南雲、決して叶わない希望のことを、何と呼ぶか知ってるでしょ?」


 魔女は私から目を逸らさず云う。


「ヒトはそれを、絶望と呼ぶのよ」


     ○


 私たちの間を夜風が吹き抜ける。少女の黒髪も、白いワンピースの裾も、吹き抜ける風に任せて宙に遊ぶ。

 満月が雲間に隠れる。すべてを語り終えた少女は口を閉じる。微笑は、もう浮かんでいなかった。その顔には、ただ湖面のごとき無表情が浮かぶのみ。その眼差しは私をまっすぐに捉えて離さない。私は、なおもその場に立ち尽くす。


「でも、僕は――」


 何とか言葉を振り絞る。


「たとえどんなに無力で無能でも、それでも、燈乃の力になってあげたいんだ。ただ燈乃の傍にいたい。燈乃の笑う顔を見ていたい。笑い声を聞いていたい。そのためなら、僕は何だってしてみせる」


 少女は、憐れむように私を見る。


「知ってる」


「え――」


「すべてのあなたが、ここに至ってなおそれを口にする。そして、最後にすべてを諒解し、すべてに絶望する。もう、知ってるの」


 すべての私が、絶望する。

 絶望。


「それが、それすらも、決して叶うことのない希望だとでも云うのか――?」


 足の力が抜け、私は力なく膝を突く。

 すべての感情を表情から消し去った魔女は、跪く私を一瞥する。


「南雲、ここであなたができることは何もない。東京に帰りなさい」


 私はそれに応えない。私にできることは、何もない。

 何も。

 月は雲に霞み、朧な光を放っている。私をじっと見つめる少女の瞳も、まるで雲に霞んでいるかのようだ。


「月は雲間に隠れてしまった。もうお帰りなさい。夜はもう、あなたたち人間の時間ではなくなってしまったわ」


 魔女は微笑む。私がよく知る少女と同じ容貌で、同じ仕草で、同じ表情で、少女は微笑む。そして、云う。


「さようなら、南雲恒陽。せいぜい理想を抱いて邁進しなさい」


     ○


 私はその後、力なく立ち上がったのかもしれない。ふらつく足取りで湖を後にしたのだろう。すべての記憶が朧気だった。

 最後に、湖の方を振り返ったのだと思う。ちょうど、再び満月が雲間から覗いていた。世界が再び月光に照らされ、狂気に満たされ、幻想に包まれる。魔女は、変わらず湖畔に佇んでいる。


 月明かりの舞台の上で佇む少女は、いているように見えた。


     ○


燈乃の日記 二六九ページ


 私はこいねがう。だからあなたも望んでください。

 私は祈る。だからあなたも願ってください。


 だけど、どうか忘れないで。


 ――希望も祈願も、決して叶いはしないということを。


     ○


――Dream――


 日の差さない薄暗い書庫に、少年が座り込んでいる。凄まじい速さで一心不乱に書物をめくる少年。傍らには書棚から抜かれた書物が山と積まれ、開いたままの書物が床に散乱している。

 書庫の扉が開く。初老の男が中に入ってくる。


「探したぞ」


 少年はびくっと肩を震わせる。しかし目は上げず、書物のページを繰る手を止めない。

 男は、そんな少年のことを扉の前に立ち尽くしたままじっと見つめている。少年が読み終えるのを待っている。

 やがて少年は読み終える。書物を閉じ、男を見上げる。虚ろな目。土竜のように、暗闇に囚われた目。


「見つからないの」


 かすれた声。古いレコードのように、くすんだ声。


「ここにある本はぜんぶ読んだ。どの本にもない。答えが書いてないの。どうしてお父さんとお母さんが死ななければならなかったのか。そんな理由はなかった。真理なんて、どこにもなかったの」


 男は跪き、少年を抱きすくめる。強く、優しく。


「もう、いいんだ、恒陽つねはる


 湿った声。朝露あさつゆのように、潤んだ声。


「もう、真理を探そうとしなくてもいいんだ。確かなものは、常にお前と共にあるのだから」


 古いレコードが廻り始める。


「云ったろう? 世界は驚きに満ちている。父君も母君も、お前にそれを探求してほしいんだ。この世界に希望を見出して生きてほしいと願っているんだ」


 廻り始めたレコードが、密やかな慟哭の調べを奏で始める。


「それこそが、たったひとつの真理だよ」

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