希望

     ○


 今日も今日とて散歩に出かける。散歩は好きだ。思索を自在に散らすのと同じで、どこに歩みを進めるのかはその日の自分の足の一存で決まる。小説を書くのと同じで、何事にもとらわれないということこそが肝要なのだ。近頃、その足くんの関心はもっぱら総合公園に向いているようだが、足くんの考えていることは私にもわからないのでこれに関しては何とも言及のしようがない。

 だから、総合公園に行くといつもいる、常に湖を眺めている少女と会うことになるのも、まったく足くんの心の赴くままに歩を進めた帰結と云うことができよう。偶然的事象における必然的帰結、それこそがこの日この時この場所における少女との邂逅を決定づける因果律なのである。

 つまり、そういうことなのだ。


「あ、南雲さん。また会ったね」


 望月燈乃が振り返って微笑んだ。


「ああ、どうしてだかね」


 私は顔をしかめた。

 内心では、少なからず悪しくは思っていなかった。


     ○


燈乃の日記 二五ページ


 あの時以来、家の中の雰囲気は最悪だ。私が何かするなり、お母さんはヒステリックに泣き叫ぶ。夜遅くに酔っ払って帰ってくるお父さんは、出会い頭に暴力と暴言を浴びせかける。四六時中、家の電話が鳴り響く。誰もとらない。

 何かが決定的に狂ってしまった。


     ○


「南雲さんって小説家なんだよね。すごいなぁ」


 燈乃がさして感動した様子もなく云う。私は苦笑した。


「まだまだ駆け出しなんだけど、いちおうね」


「ふうん、高等遊民っていうのも、あながち間違いではなかったんだね」


 着ているグレーのパーカーの紐をもてあそびながら燈乃が笑う。

 私たちはいつもの湖畔にたむろしていた。湖と言っても、本当は大きな池と呼んだ方が相応しいものであるのかもしれない。だが、俗世間にいてなお、碌々と瓦に伍するを潔しとせず、あくまで己は珠であるという超然としたその佇まいは、まさしく湖と呼ぶに相応しい、そう私には思われる。

 そしてそれは、目の前の少女についても云えることなのかもしれないとも思うのである。

 そんなよしなき事を訥々とつとつと口にする。もちろん、後者に関しては強いて本人に云いはしない。

 すると燈乃はぽつりとこう呟いた。


「珠と瓦、か……」


「少々難しかったかな。玉石混淆とも云うだろう、あれと同じだよ」


 私は笑った。そして、中学生ほどのよわいの少女に使う語彙ではなかったかと独り反省する。

 燈乃も微笑んだ。そして、どこか憂いを含んだ口調で云う。


「わたしは、珠なのかな。それとも瓦?」


     ○


燈乃の日記 八ページ


 昔は、魔女になりたいなんて思っていたものだ。

 当時流行っていた魔女っ子もののアニメに影響されたのかもしれないし、もしかしたら別の漫画だったかもしれない。あるいは小説かも。もう忘れちゃった。


 どちらにせよ、幼き日のわたしの中では、設定はもう固まっていた。

 わたしは、満月の魔女。百年を生きた魔女。あのまん丸のお月様みたいに、きれいに輝いているの。

 彼女には、失敗とか苦痛とか挫折とか悲哀とかいった負の感情はない。彼女に悲劇は似合わない。彼女はすべてに満足している。すべては魔女の思うがままだから。


 ――笑えるよね。

 失敗も挫折も苦痛も悲哀もすべて知ってしまったわたしは、もはや満月の魔女ではいられなくなくなってしまった。


 そういえば、引きこもりになってから読んだ歴史の教科書に、藤原道長が詠んだというあの有名な和歌が載っていて、思わず笑ってしまったっけ。


 ――だけど、こうやって深夜に一人でりんごジュースでも飲みながら窓から欠けた月を眺めていると、ついつい思い出してしまうのだ。


 今でもまだ、わたしは満月の魔女になりたいのかもしれない。


     ○


「さてね。それは僕にはまだ判断できはしない。だが、どんな瓦も、どんな石も、その形に沿って磨けば必ず光り輝く珠になる。僕はそう信じている」


 私はそう答えた。それは、彼女を励ますだけのつもりで出た言葉ではなかった。それはむしろ、自らを奮い立たせるための言葉、芽を出すかもわからない己の才能を信じるための根拠のない言葉だったのだろう。

 けれど、その言葉は燈乃の予想外だったようだ。彼女は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにその表情は消える。いかなる感情も映さない、凪いだ湖面のような無表情。やがて、その口許が歪む。

「そうかしら?」

 少女は、わらっていた。


     ○


――Dream――


「望月燈乃は、絶望の深淵に身を投げてしまった。あなたにあの子は決して救えないわ」


 くすくすくすくす。


     ○


――Tips――


(レコーダーのスイッチが入った音)


「――よし、これでいいでしょう。ではお願いします」


「いやはや、それにしても随分久しぶりだね、元気に――」


「そういう御託は結構ですので、聞かれた質問にのみ答えてください。二年前、望月燈乃という少女が貴方の受け持つクラスにいたはずです。覚えておいでですね?」


「……ああ、いたと思う。いやすまない。いた、確かに在籍していたよ」


「彼女は、ある時から不登校になったと聞いています。原因を知っていますね?」


「……」


「質問に答えてください」


「……ああ、知っている。噂の通りだ。きっと君も聞き及んでいることだろう――」


     ○


燈乃の日記 三三ページ


 南雲さんのおうちに通うようになった。大きな古民家で、板張りの廊下はギシギシいうし、隙間風はすごいし、二階への階段は急で危ないし、庭は荒れてるんだか風情があるんだかよくわからない。まるで少し小綺麗な幽霊屋敷みたいだ(別に綺麗ではないんだけども)。

 でも、どこか懐かしいその雰囲気が、私は嫌いじゃない。

 あとは、そうだなあ。南雲さんのおうちには、とにかくたくさん本があった。書庫にしているという部屋には、それこそ溢れんばかりの本があるのだ。仕事にする以上はたくさん読むべし、なんて言っていた。その代わりにテレビも電話もないのは本当にびっくりした。聞けば新聞も取っていないんだって。本当に社会不適合者なんだなぁ。

 逆に、書斎は整然としていた。その方が原稿が捗るんだって。ほんとかなぁ。

聞けば、この大きな家でひとり暮らしみたい。

 正直、うらやましい。


     ○


南雲の手記『風船録』より


 望月燈乃という少女と会って以来、久しくあの夢を見ていない。あれだけ連日うなされていたというのに……。

 満月の夜、密やかなる湖畔、「満月の魔女」との邂逅かいこう――。

 あの魔女は、紛れもなく望月燈乃だった。しかし、彼女曰く、自分は私のよく知る望月燈乃という少女とは別人だという。確かに、夢の中の魔女の印象と、現実での彼女のそれはまるで違う。いったいどういうことなのか。

 だが、燈乃が物思いに耽っている時、ふいに雰囲気が一変するのも、これまでに私はまた確かに感じているのである。そうした際の燈乃は、まるで夢の中の――。


 ……考えれば考えるほど泥沼にはまりそうなので、思考はこれくらいに留めておくことにする。


     ○


燈乃の日記 三五ページ


 お父さんが帰ってこない。最近は外に出ないでずっと家に居座ってたのに、今日私が南雲さんのとこから帰ったら、家はもぬけの殻だった。

 お母さんはその後暫くして帰ってきた。買い物に行っていたらしい。その間に、お父さんはどこに行っちゃったんだろう。


 その日、お父さんは帰ってこなかった。


     ○


南雲の手記『風船録』より


 望月燈乃という少女と少なからぬ日数の間交流した所感は、以下の通りである。


 現実における燈乃という少女は、だいぶ人を喰ったようなところがあるものの、心の透き通った、素直でとてもいい子だと思う。不登校であるなど少々わけありなのは確かなようだが、こうした子が生きていくには、社会の方こそがあまりに歪んでいる。そうした人々を矯正して社会に適合させるのは小説家の仕事では断じてない。むしろ、そうした人々に寄り添うような姿勢をとることこそが、小説家としての唯一無二の務めであろう。

 そう考えるようになったのも、私が少しずつ、望月燈乃という少女に惹かれているからなのかもしれない。

(念のため附け加えておくが、これはあくまで天然記念物たる妙齢のいたいけな少女を守りたいという遍く人類がある意味当然に抱くはずの情念であって、思慕や懸想、或いは色情といった類のものでは断じてないのである)


     ○


燈乃の日記 一九ページ


 最近、お父さんとお母さんの仲が良くない。口喧嘩はまだいい方で、この前はお母さんがお父さんに殴られた。私は、巻き込まれないように部屋に逃げる。


     ○

――Tips――


(録音データ)


「――望月は、教師からしても成績優秀で品行方正な良い子だった。最初の頃はクラスで浮くわけでもなく、よく溶け込んでみんなと仲良くしていたように見えたよ。小学校からの一番の友だちとクラスが同じだったから、その子がいろいろと口利きしてくれたという面もあったようだ。少なくとも、最初の方はね」


「……」


「ずっと後になってコトを聞いた時、正直云って僕も驚いた。その子、望月にとっての一番の友だちが、コトの主犯格だというのだから」


     ○


燈乃の日記 一七五ページ


 教室から追い立てられ、トイレの個室に立てこもる燈乃。後から後から響き渡る下品な哄笑。醜く伸びる影法師の群れ。上履きがタイルを叩く音。個室のドアの上から放り込まれる燈乃の荷物たち。降り注ぐホースの水。ガンガン蹴られるドア。うずくまる燈乃。醜い哄笑。ガンガン。うずくまる燈乃。哄笑。ホース。醜い。水ガンガン醜い燈乃ガンガンホース燈乃水哄笑ガンガンオラ死ねガンガン水ゴミ燈乃ドア水ガンガン罵声汚物燈乃醜いうずくまる影哄笑ガンガン死ねオラタイルトイレ上履き汚物ガンガン燈乃ホース水ゴミ汚物罵声ガンガン死ね燈乃ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン************************――――――――――――――――――――――――


 くすくすくすくす。哀れね、人間。


     ○


「これって、もしかして」


 書斎の文机の上に無造作に置いてある紙束を見て、燈乃が声を上げる。


「あっ、しまっ、それはダメだ。こら、ちょっまてよ」


 某国民的アイドルを彷彿ほうふつとさせる私の制止を振り切って、燈乃は紙束を手に取る。窓枠に腰かけると、そのまま、それこそ文字を貪り食うように読み始めた。

 燈乃がそれを読んでいる間、私は所在なさげに突っ立っている他になかった。わけもなくそわそわしては、これ以上綺麗にする必要のない書斎の整理などしてみる。燈乃から紙束を取り上げることももちろんできたろうが、なぜだかそれはしたくなかった。


 自分の書いた原稿を目の前で読まれるというのは、これほど気恥ずかしく、また嬉しいものだとは思わなんだ。


     ○


燈乃の日記 三八ページ


 お父さんが帰ってこなくなってから、もう三日になるのかな。

 お母さんは心配しながらも、お父さんと顔を突き合わせなくて済んで少しほっとしてるみたい。わたしに対するとげとげしさも和らいだ。でもわたしは、何だかイヤな予感がする。

 まるで、嵐の前の静けさみたい。

 そんな淀んだ空気を少しでも振り払いたくて、わたしは今日も南雲さんに会いに行く。


     ○


「――――」


 原稿を読み終わった燈乃は、先ほどから呆けたように黙っている。黙って窓枠に腰かけたまま、視線を中空に漂わせていた。


「……あのう、燈乃? 燈乃さん? もし、もし、お嬢さん?」


 燈乃はゆっくりこちらを向いた。


「あ、南雲さんだ」


 あ、ではない。


「……原稿、どうだった」


「ああ、すごく良かったです、すごく」


 がっくりと膝をつく。


「それだけか……」


「ああ、ごめんなさい、言葉が足りなかったかな。くすくす。南雲さん、自称物書きだと思ったら、本当に才能を持っていたんだね。くすくす」


「お褒めの言葉に預かりまして恐悦至極に存じます」


 しかしこれは、素直に喜んで良いのだろうか。褒めてくれてはいるのだろうが……。


「しかし、やけに読むのが早いな。ちゃんと読んでくれたのか?」


「うふふ。読む速さには自信あるんだ。読書は好きだし」


「それなら、ちゃんとした感想を聞かせてくれないと道理に合わないぞ?」


「ええと、そう言われると、ちょっと今のはてきとうな発言だったかも……」


 考え込む燈乃。ふん、ちょろい娘だ。

 ともあれ。


 燈乃がどんな感想をくれるのか、私は純粋に楽しみだったのだ。


     ○


――Tips――


「……野郎、雲隠れしやがったか」


「あ、アニキ。きっとすぐ見つかりやすから」


「……それ相応の報いを、受けてもらわんとな。ヤツには」


「む、報いっすか! そうすね、報いを受けて当然っす!」


「ああ。何かから逃げるというのは、何かを捨てるということと同義だ。……違うか?」


     ○


――Tips――


(録音データ)


「それで、貴方は燈乃を見捨てたわけだ」


「いや、断じてそのような……。いや、その通りだな。僕は、愚かだった。仰る通り、担任でありながら見て見ぬふりを、気づかぬふりをしていたわけだ」


「そうして、彼女が不登校になるまで問題は明るみに出なかったと?」


「いや、違う。彼女が不登校になり、そうしていじめが明らかになってからも、問題そのものは明るみに出なかったんだ」


「なぜ?」


「私立校は、権威に弱いものだからね……」


「……が」


「え?」


「いえ、何でも」


「……望月だが、それで少なからず精神を病んでしまったようでね。学校に来なくなった後は、両親のすすめで心療内科に通院していたようだ。どこの病院かまではわからないのだが……」


「それはこちらで調べましょう。情報提供に感謝します」


「ああ……。しかし、今は後悔しているよ。その時点で彼女を救ってあげられれば、あのような悲惨な――」


「これで終わりです。ご協力いただきましてありがとうございます」


(レコーダーのスイッチが切れる音)


     ○


「とっても面白くて、純文学なのかエンタメなのかよくわからないのも、ちょうどいいバランスで……。素人の感想だから的外れだと思うけど」


 燈乃がはにかむ。


「構わない。聞かせてくれないか」


 私は真剣な表情で頼んだ。


「うーん、どれも高水準の佳作って感じだね。好きだよ、すごく。だけど、全体的に読んでいて感じたことがあって――」


「感じた? 何を?」


 先を促す。燈乃は言葉に迷っているようだったが、やがて適切な言葉を見つけたのか、嗤って云う。


「南雲さんってさ、けっこう理想主義だよね」


     ○


燈乃の日記 二四ページ

 家に帰るなり、お父さんに髪の毛を掴まれて壁に顔を叩きつけられた。口の中でイヤな音がした気がする。歯が折れたのかな。そのまま廊下に引き倒されて、ひたすら殴られた。平手やげんこつだけじゃなく、酷い言葉でも殴られた。人って暴言でも人を殴れるんだ、なんて、わたしはぼんやり考えていた。

 お父さんは、それこそ気が狂ってしまったみたいだった。まるでわたしのことが引き金になって、心のたがが外れてしまったかのようだった。

 わたしが原因で、いつも何かが壊れてしまう。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 母はリビングで泣いていた。


     ○


 理想主義。

 燈乃は嗤って云う。


「理想的なのはいいことだと思うけど、わたしには真実味が感じられなかったの。随分作り物めいているなって。それに、そう、盲目的に希望というものを信じているのね、南雲さんって」


「……」


 燈乃は、明確に私の作品を批判していた。

 いや、私の創作に対する姿勢そのものを非難していた。


「虚構の世界で遊びたいのなら別にいいんだけど。もし、少しでも真実を描写しようとしているのなら。ただ希望を高らかに謳うだけっていうのは、少し姿勢を改めた方がいいんじゃないかな。率直に云うと、空っぽ。読んでてぜんぜん響いてこないの」


     ○


――こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう。


   宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より


     ○


 燈乃は微笑んでいだ。だが、その目は真剣だった。

 燈乃は、真摯に私の創作姿勢を批判しているのだ。

 だから、反論のひとつもしたくなった。


「……そうか。確かにそうかもしれない。だけど、燈乃」


「何?」


「希望を語ることは、理想を掲げることは、決して無駄なことではないと思う。掲げた理想が現実を変えうることだって、それが真実となることだって、きっとあるはずだ」


「ふうん、そう。くすくす、確かにそうかもね」


 燈乃が私を嘲嗤っていることはもはや明白だった。


「それともうひとつ。真実は、たったひとつでは決してないと思うんだ」


「……どうしてそんなことが言えるの?」


 燈乃が胡乱うろんな視線を投げて寄越す。私は微笑んでこう云った。


「ちょうどこれから書く予定の作品が、それについての短篇でね。いちおう、処女短篇集の劈頭へきとうを飾ることになっているんだ」


     ○


 ――互いに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。われわれはその大部分に存在することがない。ある時間にあなたは存在し、わたしは存在しない。べつの時間ではわたしが存在し、あなたは存在しない。また、べつの時間には二人ともに存在する。


   ホルヘ・ルイス・ボルヘス『八岐の園』より


     ○


「各々の並行世界はよく似ているけれど、人々が違う行動を取ることによって起きる出来事はそれぞれ異なる。それらはよく似ていても、結局のところ違う世界だ」


「うん、よくある設定だね」


「そう。だけど、この手法が、僕が書きたいことに一番合致していると直感しているのも事実なんだ。だからこそ無理を押し通した」


 云いながら、文机から一冊の手帳を手に取る。手記を兼ねた私の構想ノートである。


「一番書きたいこと?」


 燈乃が真剣な様子で反芻する。先ほどと少し態度が変じており、もう私の創作を批判するような雰囲気は感じられない。私は内心ほっとしていた。

 読者からの批評が、それもこちらが懇意にしている特定の読者からの批評が、かくも辛いものだとは夢にも思わなんだ。


「先ほども云ったように、真実はひとつではないということ。真実がひとつであり、異なる世界がいくつも存在するのなら、果たしてその中のどの世界の真実が「真実」であり得る?」


「それは……」


 燈乃が云い淀む。


「真実がひとつだと思うのは、我々がこの世界しか知らないから。そう考えると、真実というものはとても可塑的かそてきであるように思える。少し視点を変えるだけで、かくも真実は自在に姿形を変えてしまう。そういう考え方も興味深いとは思わないか?」


「よくわからないよ……」


 さもありなん。気にせず続けることとする。


「もちろん、その世界で生きている人々にとっては、その世界の真実が「真実」だ。しかし、もし、他の世界を知覚できる人がいるとしたら、どうなるだろうか」


「……つまり、他の世界を知覚できる登場人物が出て来るということ?」


「そう。その登場人物の詳細はまだ何も決めていない。だが、その人物は各世界を知覚できるだけではない。それぞれの世界に、ある程度触れる能力を持つ」


「触れる?」


「その人物は、各世界の真実を切り貼りして、自分の世界の「真実」としてしまうことができるんだ」


     ○


――Dream――


 その部屋は暗かった。世界に溢れている光も、この部屋にだけは存在しないも同然だった。

 部屋の隅に、俯いて座っている少年がいた。黒い礼服が小さな躯に釣り合っていない。

 少年に初老の男が近づく。優しげな声で云う。


「みんな帰ったよ。長い間お疲れ様」


「おじちゃん」


 少年が顔を上げて問いかける。



「ああ」


「お父さんとお母さんは、どうして死ななきゃならなかったの」


 ――窓から西日が差し込み、式場が真っ赤に燃え上がる。


     ○


「……それって、つまり、自分の世界の真実を都合良く書き換えてしまうってこと?」


 一瞬の沈黙を挟んで、燈乃がようやく口を開いた。やはりこの子はさとい。云わんとすることが理解して貰えたようでほっとする。


「そう、その通り。もっとも、そこまで万能の能力であるはずはないから、ある程度の制限がかかるとは思うのだけど。例えば、その人物は通時的時間を遡れない」


「通時的時間?」


「我々が感じているシリアルな時間の感覚、時は流れていくものだという時間に対する普通の感覚のことだよ」


     ○


燈乃の日記 四四ページ


 夢の中では、南雲さんはわたしの状況について何も知らない。

 現実においても、わたしが不登校児であることしか知らない。

 その理由も、知らない。

 彼なら、状況を話せばわたしを助けてくれる?

 できっこない。


 どの夢でも、そのように決まっているのだから。


     ○


「こうした通時的時間がシリアルな時間の流れであるとすれば、それと対比されるのが共時的時間。ごく簡単に云うと、横の繋がり。通時的時間の観念が一般的じゃなかった昔においては、過去の出来事は「今・ここ」のものとして経験され、まったく同じように捉えられた、というのが僕の緩やかな理解だよ」


「……」


 燈乃は黙ったまま、私をじっと見つめている。理解していないのか、あるいは聞き入っているのか。心配になり、燈乃に呼びかける。


「大丈夫かい?」


「えっ? あっ、ごめんなさい、大丈夫。ちゃんと聞いてるし、何となくわかるよ」


 燈乃は我に返ったように笑った。


「そうか。やっぱり燈乃はすごいな」


「くすくす、それほどでもあるかな」


 燈乃はすっかりいつもの調子で笑う。


「それで、つまり南雲さんは共時的時間というものを、並行世界を移動する時の条件として考えているの?」


 素直に驚いた。


「……すごいね、概ねその通りだよ。並行世界は、共時的時間においてのみ、それに触れることができることにしようと考えている。幅を持たせるために一、二年を限度として、その部分の異世界の共時的時間を捉えたり、あるいは自ら介入することで繰り返し再体験したりすることができるんだ。つまり、時間をループすることで望む未来を勝ち取ることができる。だから、その人物にとって「真実」は唯一無二で不変のものではない。共時的時間にアクセスして、他の世界のあり得べき「自分」を再び体験することで、「真実」は変えられるんだ。そして、他の並行世界の「自分」という存在こそが「希望」に他ならないのさ」

     ○


――Dream――


 男は少年の前にしゃがみ込む。


「誰もがいずれは死んでしまう。それは避けられない。仕方のないことなんだ」


「それは真理なの?」

 男は驚いたように少年の目を見る。暗く虚ろな目。何も映さない、虚無。


「お父さんが云ってたの。揺るぎないものこそ真理だって。真理はその手で摑み取るものなんだって」


 男の顔が歪む。肩が震える。


「……ああ。父君の云うとおりだ」


 少年の肩に優しく両手を載せる。


「よくお聞き。世界は驚きで満ち溢れている。これから、私と二人で真理を探していこう」


     ○


「……南雲さん、すごいね」


 燈乃が静かに云った。その視線はじっと私の目に注がれている。私は目を逸らした。


「すごくないさ。ループものは手垢がついている、今さら新しいものなど書けないというのは、恥ずかしながら、僕自身まさに図星だと感じているところだ。だから、ただのループものとしては書かないつもりだよ。自分の世界から他の世界に干渉する、ということまでは決まっているんだけど、そこに新鮮さを加えることができるかどうか……。畢竟ひっきょう、僕は無能だよ。珠に非ず、結局は瓦なんだ」


「ううん、それでも南雲さんはすごいの。すごくて、優しくて……」


 そこまで云い、燈乃は頬を赤らめて押し黙る。おいおい、この流れでなぜそのような評価になる。なぜそこで言葉を切る。なぜそこで赤くなる。なぜ急に押し黙る――。

 私の頬も少しばかり熱い。


「あ、あの、燈乃――?」


「あっ、えっと、ごめんなさい、何でもないの」


 燈乃が両手をぶんぶん振った。


「そ、そうか……」


 まあ、そうだ。うん、ああ、そうだとも。どんなにませていても所詮は中学生なのだ。きっと、年上に過剰な幻想を抱いているだけなのだろう。

 しかし、そう考える自分がなぜだか無性に悲しかった。


「……くふふっ、でも、その登場人物ってすごいんだね。まるで魔女みたい――」


 燈乃が笑って云う。色白の頬がまだ仄かに赤い。


「魔女?」


 思わず訊き返す。なぜだか、その単語に引っかかるものを感じた。


「あっ、ううん、何でもないの」


 燈乃は再び両手をぶんぶん振る。覚えず私の口許が緩む。


「まったく。何でもないことが多いんだな、燈乃は」


 私は燈乃の頭に手を置いて優しく撫でる。燈乃の滑らかな黒髪は、まるで羽毛のようにふわふわしていた。柔らかくて、暖かかった。


「くすくす、ふふ、えへへ……。南雲さん、作品、期待してるね……?」


 私に髪の毛をくしゃくしゃにされながら、少女は柔らかに微笑んだ。


     ○


南雲の手記「風船録」より


 この時に至ってなお、私は気づいていなかった。自分が何も知らなかったことに。

 いや、違う。仮令たといすべてを諒解していたとして、私に何ができたろう。


 虚構の世界で思考を弄び、机上の世界で空論と戯れていただけの私に、燈乃を救うことなど叶うはずもなかったのだ。

 私は、無能だ。

 あの頃と何も変わらない。どうしようもなく、愚かで無力だ。


     ○


燈乃の日記 三九ページ


 南雲さんは、やっぱりすごい人だった。

 とてもすごい人だった。

 自分がどうすればいいのか、少し見えたかもしれない。そうすれば、わたしは、わたしは、わたしは、私は――


     ○


――Dream――


 月明かりの舞台の上で佇む少女は、泣いているように見えた。


     ○


――Tips――


(レコーダーのスイッチが入った音)


「では、お願いします」


「残念ですが、先ほども申し上げました通り、患者に関する情報は一切――」


「お願いします、先生。私は知りたいのです。燈乃が、どうして――」


「……燈乃ちゃんのことをよくご存じなんですね。貴方はいったい何者なんですか?」


「私は、燈乃の――」


     ○


燈乃の日記 四一ページ


 悪夢は、決して夢ではなかった。

 すべてが夢の通りに動いている今になってようやく実感する。


 悪夢こそ、わたしの現実だったのだ。


     ○


――うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと


   ――江戸川乱歩


     ○


――Tips――


(録音データ)


「ほんの二、三ヶ月前なんです、燈乃ちゃんがうちの診療所に連れてこられたのは。不登校になってから、幻覚や幻聴、記憶障碍しょうがい、何より悪夢の症状が現れ始めたって、ご両親が」


「なるほど……。初めて会った時の燈乃の様子はいかがでしたか?」


「ひどい人間不信に陥っていたの。精神も酷く消耗していて……。幻覚や幻聴はすぐになくなったようだけど、記憶障碍は完全には直らなくて、悪夢の方はずっと見ているようでした。あんなに可愛らしくて素直な子が、最初の方は本当に酷い様子で……。最後の方は随分元気になってくれたのだけど」


「最後、ですか」


「ある時から、ぱったりうちに来なくなってしまったの。本当に音沙汰もなくふっつりと来なくなってしまったものだから、こちらからもたびたび連絡を差し上げていたのだけれど、電話もお取りにならなくて。それで心配しているうちに、あのようなことになってしまって……」


「……ご存じなかったのですね」


「ええ。後になって事件のことを知って……」


「心中、お察し致します」


「ご丁寧に……。燈乃ちゃんとは短い付き合いだったけれど、どういうわけか私には懐いてくれて、心を開いてくれたようでした。悪夢の内容も教えてくれたし、日記も――」


「日記?」


「ええ、私がつけるよう提案したんです。辛いことだとは思いましたが、それでも彼女は楽しみを見出してがんばってくれたようで、ほぼ毎日つけていると云ってくれました。結局、見つからずじまいのようですが」


「左様でしたか……」


「あの、大丈夫ですか? お加減がよろしくないようですけど……」


「大丈夫です、お心遣いに感謝致します。ところで、数ヶ月前に近所の書店で万引き未遂事件がありましたが、それについて何かご存じですか?」


     ○


燈乃の日記 一八二ページ


 あなたは椅子を振り上げ、かつて親友だったそれを殴りつける。それは椅子を受け損なって床に転げる。無防備に転がった彼女の股間をあなたは思い切り蹴りつける。泣き喚くそれの鳩尾をあなたは幾度も踏みつけ、その肋骨を、胸を、顔面を力の限り踏み砕く。あら、せっかくの美少女が鼻血で台無しね。天狗の鼻柱が折れちゃったかしら? くすくす。

 彼女の取り巻きたちは、恐がってあなたの周りに近寄れない。もちろん、あなたに彼女たちをゆるす気は毛頭ない。でも、物事には必ず優先順位があるものね。焦ってはだめ。悪いけど、そこで少し待っていてくれるかしら? くすくす。


「殺してやる! お前だけはぜったいに殺してやるの!」


 あなたは泣き叫ぶ。泣き叫びながら、かつての親友を半殺しにしている。くすくす、本当にそれを殺す気なのね。お見それしたわ。くすくすくすくす。


――燈乃、あなたは結局その選択肢を選んだのね。私は、あなたの意思を尊重するわ。

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