御影みかげ中学校の裏手には、山がある。そこに棲んでいた〈人ならざるもの〉たちも、年々減っていった。人間を喰うために人里へ流れていく奴らも、少なくなかった。オレみてえに何となく山に留まっていた類のほうが、むしろ稀かもしれない。

 昼間に山で遊ぶガキどもも、遠目に眺める分には退屈しなかった。生きるのが楽しいって全身で表す様は、見ていて気持ちい。時代が移り変わるにつれて、着るもんや言葉遣いまで変わっていくのも面白かったし、オレも陰でガキの話し声を聴いては言い回しを覚えていった。たまに山奥までガキが迷い込むと、日が暮れねえうちに帰りな、と人型で気紛れにふもとへ送ってやったりもした。

「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ」

 馴染みの童歌わらべうたが聞こえなくなったのは、いつからだろうか。鬼ごっこで遊ぶ人間も、ほぼ滅んだのかもしれない。

 鬼はいつだって追う者だ。逃げる者を捕まえて、喰うなり眷属にするなりして生きていく。

 オレも山を離れて、喰い甲斐のある人間を見つけに行くべきなのか。

 長閑のどかに暮らしながらも地味に悩み始めた、冬のある日の夕暮れ。

 御影中の冬服を着た女子が、ふらふらと山へ入ってきた。なげえ黒髪がすだれにも似て垂れ下がって、うつむいた顔を覆い隠していた。

「こんな時間に山へ来ちゃいけねえよ、お嬢ちゃん。こええ鬼が出るんだから」

 額の一本角を妖気で隠して、人型のオレは正面から気さくに忠告した。そのほうが、ガキと接するには都合がいい。彼女からは、オレのほうがいくらか年上に見えていただろう。

 おずおずと顔を上げた相手の目には、涙が溜まっていた。

 一歩、二歩と寄ってきた彼女の指が、オレの黒い浴衣のえりにしがみついた。


「お願いします、わたしを……殺してください」


 切実で不穏な訴えが、冷えた風にまじって枯葉を揺らした。

 彼女の片手を取ったが、ちょっと力を込めれば折れちまいそうに細かった。地面に転がった枯れ枝のほうが、まだ丈夫に思えるくらいには。

 微苦笑して、オレは彼女をなだめた。

「穏やかじゃねえな。何があったんだい?」

 涙で頬に貼り付いた黒髪の一房を、指で除けようとしたが。その途端、彼女の肩がびくりと跳ねた。

「いやッ!」

 ぱしっ、とこっちの手が払いのけられて。

 その直後、彼女は我に返って涙声で謝った。

「ごめんなさい……お父さんが、言うことを聞かないと、髪を引っ張るので……痛くて、怖くて」

「そっか。そりゃ悪かった」

 代わりに小せえ両手を自分の片手でまとめてきゅっと握ってやれば、彼女は祈るように瞼を閉じた。

「家には、帰りたくないんです……」

「だから、見ず知らずの野郎の手を借りてでも死のうって?」

「お兄さんは、きっと人間じゃないんでしょ?」

 心底待ち望んでいたみてえな笑みが、彼女の顔に浮かんで。

 不覚にも、涙に濡れたその純粋な笑顔に、オレは呼吸いきをすることも忘れた。月明かりがあったら、きっとさぞかし清らかにそれを照らし出していただろう。睫に乗った雫さえも。

 ――こいつのからだも魂も旨そうだ。

 もうちょい肉付きが欲しかったが、背に腹は代えられなかった。

 ただ、この場ですぐ喰うのは惜しい気もして、オレは他愛のねえ雑談を振った。

「〈影踏み鬼〉って知ってるかい?」

「はい。昔の子どもの遊び、ですよね」

「ああ。なんで、影を踏まれた奴が〈鬼〉になるんだと思う?」

「ええと……」

 答えに詰まる彼女の足元を、下駄の踵でトンと叩いた。

 地面をまばらに彩る、夕暮れの光と影。


「影に潜んだ鬼が、そいつの魂ごと喰っちまうからさ」


 あえて意地の悪い笑みと声で、オレは事実を告げた。

 言葉と同時に、隠していた一本角を露にしても、彼女は怯えるどころか喜びと期待を表情の全面に押し出した。


「恐い鬼だっていいです。わたし、ずっと遭いたかったんです――怪異に」


 それが、彼女とのはじまりだった。


   ▲□□□


 山に隠れたところで、人間たちはどうせ彼女を捜しに来るだろう。それでも、一時いっときの安らぎになるならと、彼女はオレのそばにいることを選んだ。

 昔、飢饉で間引かれた赤ん坊や老婆の霊とか、生きてもいない主君を捜して彷徨う落武者の霊とか、山にはそういう存在ものもいるにはいる。が、きっと彼女には視えていなかっただろう。知らないほうが幸せなこともある。

 誰が造ったのかもわからないぼろい山小屋を、オレは勝手に住処すみかにしていた。

 うに使われなくなった囲炉裏を、彼女は正座して興味深そうに観察した。

「ちったぁ落ち着いたかい?」

「はい、ありがとうございます」

 灯りもない小屋の中をゆるりと見渡す彼女の声は、冬風よりもぬくかった。

「で、どんな風に死にたい?」

 彼女の隣に腰を下ろして、オレは不敵に笑んだ。

 生きたまま喰われるか、死んでから喰われるか。どの道二択だが。

「変なことを、言うかもしれませんが」

 躊躇いがちに、彼女は口を開いた。


「わたし――怪談になりたいんです」


 意外な答えと夢見がちな声音に、オレは目を瞬かせた。

「怪談っつーと、人間が語る怖え話、だよな」

「はい」

「よくわからねえが、お嬢ちゃんがそれそのものになると、いいことでもあるのかい?」

「わたしにとっては、いいことですよ。ほかの人はどうかわかりませんが」

 自嘲的に笑った彼女は、家の事情をぽつぽつと打ち明け始めた。


「お父さんとわたしは、血がつながってないんです。

 本当のお父さんとお母さんは、わたしが小さかった頃に離婚して、そのあと今のお父さんと再婚しました。

 お父さんとお母さんは一緒に洋服関係の仕事をしてて、わたしにもいろんな服を着せてくれました。

 わたしも、それがとてもうれしかったですし、学校の友達にもうらやましがられました。

 わたしが小学校五年生になった頃から、お父さんはわたしの写真を撮り始めました。休みの日には、わたしにとにかくいろんな服を着せて、いろんな姿勢をさせて、何十枚も。

 そのうちに、肌の見える部分が多い服もだんだん増えていって、お母さんはさすがに途中でお父さんを止めました。

 でも……その時から、二人は激しい喧嘩をするようになってしまったんです。

 わたしは楽しいと思ってたので、どうしてお母さんがお父さんに怒るのか、当時はよくわかりませんでした。

 ある日、お父さんのパソコンをたまたまのぞいて、気づいてしまったんです。

 わたしの写った写真が、いつの間にかインターネットで売られてたことに。

 顔は加工で隠されてましたが、どう見ても間違いなくお父さんの撮った写真でした。

 今まで家族の思い出として撮ってくれてるんだと思ってたのに」


 所々意味がわからない語句もまじっていたが、彼女が義理の父親によくないことをされたんだとは理解できた。

 膝の上で拳を握りしめながら、彼女は雨粒みてえな語調で過去を吐露した。


「それをこっそりお母さんに話すと、お母さんはお父さんを問い詰めました。どうして娘に対してこんなひどいことをするの、と。

 でも、お父さんは少しも悪いことだとは思ってないみたいでした。謝るどころか、反抗するお母さんを殴ったり蹴ったりしたんです。

 わたしは怖くて怖くて、部屋の隅でうずくまって、お父さんの機嫌が直るのを待つことしかできませんでした。お母さんを助けたかったのに。

 わたしがお父さんに従えば、お母さんはひどい目に遭わないんじゃないかとも思いました。

 だから――今日までお父さんの〈着せ替え人形〉でい続けたんです」


 色白な指が、足を覆う黒いスカートを引っ掻くように握りしめた。


「前は休みの日だけでしたが、わたしが中学二年生になると、お父さんは毎晩写真を撮るようになりました。

 夜遅くまで続いて、わたしが学校の宿題をしたい、寝たいと言っても聞いてくれませんでした。お父さんの言うことが聞けないのか、悪い子だ――なんて優しげに言うくせに、わたしの髪を思いきり引っ張るんです。

 お母さんはそんなお父さんに疲れ切って、わたしを置いて仕事も辞めて、帰って来なくなってしまいました。

 お父さんが仕事から帰るまでは、わたしはひとりで宿題をしたり夕飯を食べたりしながら、テレビを観るのが習慣になってました。怪談を特集する番組をたまたま観た時、怖いのに目が離せませんでした。百物語というものなんですが、番組に出てる人たちが、一人ずつ怪談を語っていくんです。本当はその場所にいるはずのないもの、目に見えないものがいて、に誘われて迷い込んだ人もいる……似たような話でも正解や真実なんて関係なく、憧れました。こんなひどい現実じゃない世界に行けるなんていいな、と。それからは、怪談の載った本もよく読むようになりました。

 お父さんが家のドアを開けた瞬間に、結局現実に引き戻されてしまうんですけどね。

 学校の先生や警察にも相談しようかと、何度も考えました。でも、もしまともに取り合ってもらえなくて、お父さんがもっとひどいことをするようになったらどうしようって不安で……もう限界で……!」


 人間の世の善悪なんてオレには知ったこっちゃないから、彼女に同情はしなかった。

 だが、弱々しく震え始めた手に、自分のそれを重ねて温めてやることくらいはしたかった。

 ハッと見上げてきた彼女に、オレは柔く笑んで訊いた。

「それが、お嬢ちゃん自身の怪談かい?」

「……そうですね、そう呼べるのかもしれません」

「それとは別の怪談になりてえんだろ。オレにできることはあるかい?」

 我ながら随分親切だなと内心呆れもしたが、それだけ興味をそそる何かが彼女にはあったんだろう。

 不思議そうに瞬きをして、また泣きそうだった彼女は安堵したように微笑んだ。

「わたしの通う御影中学校には、七不思議という七つの怪談があります。でも、七番目の怪談だけは誰も内容を知りません。わたしがこの世から消える時は、何者でもない存在ものになりたいなってずっと願ってるんです。あんな写真なんかでわたしが形として残ってしまうくらいなら、わたしはわたしでなくなったっていいんです」

 流れ星を探すみてえな眼差しが、オレを見つめていた。


「――わたしは、誰に語られることもない、七不思議の七番目になりたいんです」


 人間たちの記憶の中で〈永遠の謎〉であり続けたいんだと、彼女はささやかな夢を口にした。

「御影中学校には、新しい校舎と古い校舎――旧校舎があるんですが、七不思議は新校舎関係のものばっかりなんです。だから、わたしは旧校舎の怪談になれたらいいなと」

「だったら、オレがその旧校舎ってとこでお嬢ちゃんを喰えば、怪談として出来上がるのかね」

「お兄さん、お話が早くて助かります」

「ま、今から早速行ってもまだ人間が動いてる時間だろうし、夜更けがいいか」

 その時が来るまでは、暇潰しも兼ねて彼女のことが知りたくなった。

「なぁ、百物語ってのは、一人で百本語った場合はどうなるんだい?」

「さぁ……試したことがないのでわかりません。人数に関係なく、百本目の怪談を語ったあとには恐ろしいことが起こる、とも言われてますが。一本語るごとに、蝋燭の火を一つ吹き消す決まりもあります」

生憎あいにく蝋燭はねえが、お嬢ちゃんがよけりゃ、九十九本語ってみてくれよ」

「え?」

「人間の語る怪異がどんなもんか知りてえし、それに――百本目が、お嬢ちゃんがなる七不思議の七番目だったらいきだろ?」

「……お兄さん、やっぱり不思議な方ですね」

 和んだのか、くすりと笑みをこぼした彼女は、意気揚々と百物語を始めた。出会い頭のさめざめとした泣き顔が嘘みてえに。

 途中で飽きるかとも思ったが、彼女の声も語りも意外と耳に心地よくて、オレは口を挿まずに聴き入った。

 オレたち鬼を含めたあやかしは人間から恐れられるのが常だが、怪談の中でもその立場や生き様は複雑に枝分かれしているようだった。あることもないことも全部ひっくるめて語り継がれているのが、また面白かった。

 彼女が十本語るごとに一休みして雑談すると、オレに慣れてきたのか、本人は次第に敬語を使わなくなった。昔から知り合いだったみてえな雰囲気が、互いの間に流れていった。

「お兄さんが、わたしの家族だったらよかったのに」

 不意にぽつりとこぼれた彼女の無垢な願いが、宵闇に溶けた。

「オレはずっと孤独ひとりだから、家族とか友達とかいうのはサッパリわからねえが。お嬢ちゃんの飯事ままごとになら、付き合ってやってもいいぜ」

「本当?」

 暗がりの中でもぱっと華やいだ彼女の表情は、次の瞬間に強張こわばった。

 制服のポケットから響いた、虫の羽音じみた振動音で。

 小せえ手の中で、何かの道具が煌々と光っていた。

「どうかしたかい?」

「お父さんからの連絡。早く帰ってこい、って」

「なら、こっちにも来るかもな。どうする?」

 平たくて四角い道具を握りしめながら、彼女はしばらく黙って考え込んだ。

「お父さんはあの写真のこともあって、世間の目をかなり気にしてるの。学校や警察には頼らないで、一人でわたしを捜すと思う。だから――」

 夜を写し取った彼女のひとみには、決意が漲っていた。


「お兄さん。わたしの最後のお願い、聞いてくれる?」


 もちろん、と。オレは二つ返事で快諾した。

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