第91話 豚ニラ炒め(2)

 

 大門を潜ったイゴルは予定通り商業ギルドに寄って、いつも借りている倉庫に積荷を運び込んだ。

 昨夜から飲まず食わずだったので荷物の積み下ろしに力も入らず、二時間ほどかかってしまったうえ、体力的にもヘロヘロだ。

 イゴルは、商業ギルドに最も近く、マルゲリットでも最も安価で宿泊できる行商人御用達の宿屋ーー銀兎亭に到着した。最近は朝食にパンシチューという料理が出るようになって、行商人以外の者の利用が増えている。


「あ、イゴルさんいらっしゃい。昨日はいつまで経っても来ないから心配してたんですよ」


 店主のジェリー・ペインが嬉しそうに笑顔で出迎える。

 出発時にイゴルは今回の行商ルートと日程を伝えていたのである。その方が戻ったときに宿を押さえやすいからだ。


「ああ、今回もよろしく。

 実は、こっちに帰る途中で車輪が壊れてしまったんだよ。それでひとりで交換していたら門限に間に合わなくてね……昨夜は大門前で寝ることになってしまったんだ」


 イゴルは疲れた顔でジェリーに昨日の出来事を話す。

 車輪交換するためには荷車を地面から持ち上げないといけないし、交換用の車輪も相当な重さがある。その二つをひとりで


 同時にするなんて怪力という言葉だけでは片付けることはできない。


「ひ、ひとりで交換したんですか? それはすごいですねぇ……」


 ジェリーも思わず驚いて目を丸くするのだが、すぐに訝しげな表情へと変わる。

 普段からイゴルは物事を大袈裟に誇張するところがあるので、まるまる信じてしまうことができないのだ。


「ああ、壊れた車輪の下を掘るんだよ。掘り進めると車輪が浮くから、新しい車輪と交換するだけさ」

「へぇ。そんな方法があるんですね。ところで、何泊ご予定で?」

「二泊で頼む。もちろん、2食付きで」

「承知しました。こちらが部屋の鍵です」


 ジェリーはカウンターの下から木札のついた鍵を取り出してイゴルに渡す。

 鍵といっても、部屋は南京錠のような鍵がかけられているだけだ。


「ありがとう。ところで、今から食事を摂れる店はないかい?」

「ああ、それでしら東通りを進んで、居住区手前の丁字路を右に入ったところにある店がお勧めです」


 ジェリーが勧める店の場所が、リックから聞いたお店の特徴と合致することにイゴルは気づく。それが偶然にしては二人とも悩むことなく紹介してくれたところを考えると、本当にいい店なのだろうとイゴルは思った。


「ありがとう。手荷物を部屋に置いたら行ってみるよ」

「ええ、是非!」


 ジェリーが見せた笑顔を尻目に、イゴルは借りた部屋へと向かった。

 窓際には机と椅子、壁際にはたっぷりの藁を詰め込んだ大きな麻袋を敷いたベッドがでんと鎮座している。掛け布団代わりに毛布がベッドの上に被せられていて、昨日から準備をしていたことが見て取れる。


 その整えられた部屋の様子を見て、昨日のうちに到着できなかったことでジェリーたちに迷惑をかけてしまったことに気がついたのか、イゴルは何も言わず右手の指一本で頬をコリコリと掻いた。


「ぐぎゅりゅりゅりゅ……」


 腹の虫が鳴く音で我に返ると、イゴルは着替えなどが入った荷物を机の下に押し込んで部屋を出た。








 普段から商品の仕入れや卸のために職人たちの工房やウォーレス商会のような穀物商に足を運ぶことはあるが、東通りは主にマルゲリットの住民が普段遣いするエリアなので滅多に歩くことがないせいでなかなか落ち着くおとができず、キョロキョロと左右を確認するようにイゴルは東通りを歩く。

 古着屋や肉屋や薬屋などの店はまだ開く時間ではないので人通りも少なくひっそりとしているが、途中交差する路地を覗くと焼けたパンの匂いがふわりと漂ってきてイゴルの食欲をまた刺激する。


「ああ……」


 本来なら「腹が減った」と続ける声も出なくなるほどイゴルは空腹になったようで、足元までどこか覚束ないように見える。


「お、イゴルじゃないか」


 突然、イゴルの背後からどこかで聞いたような声がかかる。

 イゴルは電気が走ったようにピクリと背中を反らせると、バッと後ろを振り返った。

 そこにいたのは、赤褐色の髪を総髪にまとめた男が立っている。

 だが、空腹で思考能力が落ちたイゴルはそれが誰なのかすぐに思い出せない。目を細めて相手の顔を見つめて思い出そうとする。


「ああ、今朝の積荷確認をした門兵だよ。今から朝めしか?」


 イゴルは相手の顔を見て、疲れた頭を回転させる。

 仕事を終えて着替えを済ませたようで、先ほどとはイメージが変わっているが、先ほどイゴルの荷馬車の検品をしていた男で間違いない。


「ええ、教わったお店にお邪魔しようかと思いまして」

「なんだ、オレも今から行くところなんだ。一緒に来るか?」


 そんなリックを見てなんとも変わった男だとイゴルは思うのだが、リックの方はそんなこと関係ないと前をずんずん歩く。

 その大きな歩幅は普段から鍛えられている証拠だ。普段は荷馬車に乗って移動してばかりのイゴルは空腹も加わって後についていくのもたいへんだ。これがあとしばらく歩くものなら完全に置いていかれただろう。

 だが、幸いにもすぐに丁字路の角に到着した。


「どうした? まるで年寄りみたいだな」


 リックにそう声をかけられたイゴルはといえば、自分の身体の変調にようやく気がついたところだ。

 身体がだるくて喉が渇くし、真っすぐ歩いているつもりでも少し左右にふらついていて、身体に力が入らない。


「ええ、急に疲れがきた感じで……」


 イゴルはガラガラに乾いた声で、力なくリックに返事をする。

 既に店に到着していたリックもイゴルの様子をみて、だんだんと心配になったのか慌てて駆け寄ると肩を貸す。


「だいじょうぶか? すぐそこだから、もう少しがんばるんだ」


 門兵の言葉に対し、イゴルは力なく首肯を返す。

 たかが朝食を食べに行くだけだというのに、ここまでフラフラとするというのは何か病気ではないかとリックも疑いはじめるのだが、そんなことを言っていられない。


 暖簾がかかっているが、扉が開いたままなのがとても都合よかった。

 扉前にある階段以外にイゴルを抱えて店に入るにも苦労することがない。


「あ、リックさんいらっしゃい」

「いらっしゃいなの」


 クリスがリックに気づいて歓迎の声をあげると、シャルも嬉しそうな声でそれに続く。

 だが、いつもと様子が違うことに気がつくと、イゴルに駆け寄るとリックに尋ねる。


「これは……どうしたの?」

「ああ、悪いが急に疲れがきたらしい。少し休ませてやってくれないか?」

「ええ、それはいいけど……」


 クリスは店の奥にある四人がけのテーブル席へと案内する。カウンター席は他の客で埋まっているし、テーブル席であれば壁に背を任せて休ませることができるのだ。


 すると急に騒がしくなった店内に、厨房からシュウもやってくる。


「どうしました?」

「こいつは、行商人のイゴルって男なんだが、昨晩は門限に入れずに外で過ごしたらしい。

 朝になって、門に入るときに朝めしを食べるならここに行けと言っておいたんだが、ここに来たときにおかしくなったんだ」


 なんとかイゴルを支えて四人席に座らせたリックが今朝からの出来事を簡単に説明する。

 クリスとシャルはこの場をシュウに任せるようにカウンター席の方へと戻っていった。


「まずは、水を……」


 シュウはグラスに常温の水をいれてくると、イゴルの前に差し出す。

 それを受け取ったイゴルは、乾いた喉を癒やすようにゴクゴクと音を立ててその水を飲む。


「ありがとう。だが、わたしにもよくわからないんだ……」


 イゴルはグラスの水を飲み干すと、ふうと息を吐いて話した。


「昨日、この街に向かう途中に荷馬車の車輪が壊れてね、なんとかひとりで交換したんだよ。でも、そのせいで門限に間に合わなくて朝から倉庫に荷物を入れたんだが……そのあとは銀兎亭に入って荷物を置いて、そのままここに向かっただけだよ」


 シュウは右手の親指を立てて、そこに自分の顎を乗せて考える。

 情報が少し足りないので、思考がまとまらないのだ。


「食事はどうしてました?」

「昨日の昼から何も食べてないよ。だから、ここを楽しみにしてきたんだ」

「水はどうです?」


 シュウは続けて尋ねる。


「昨日の夜にほとんど飲みきったな。今朝からは何も口にしていないよ」

「なるほど、わかりました。ハンガーノックですかね……」


 シュウの言葉にイゴルやリックが首を傾げる。

 ハンガーノック――低血糖症である。血糖値が下がりすぎた際に起こる症状のことだ。

 症状的にはシャルがこの店にたどり着いたときも似たような症状もあるのだが、シャルの場合は脱水症状も併発していたので経口補水液を飲ませたり、粥を食べさせたりした。

 一方、イゴルの場合は水分に不自由はしていないのだが、空腹の状態で車輪の交換や荷物の積み下ろしをしたことが影響している。

 この場合はまず血糖値を上げることが大切だ。


「ちょっと待っていてください」


 シュウは襖を開けて四人がけ席の隣にある和室に入ると、銀紙で包装されたチョコレートを二粒もって帰ってきた。そして、銀紙を開くとイゴルの前に差し出す。


「噛んでしまうと効果が出るまで時間がかかるので、噛まずに舌の下に入れて溶かしてください。

 そのあと普通に食事すれば元気になると思いますよ」

「おお、よかったなイゴル……」


 イゴルは小さく頷くと、シュウから受け取ったチョコレートを口に入れ、すぐに目を丸くして見開く。

 カカオの豊潤な香りが花に抜け、初めて食べるほろ苦さと強烈な砂糖の甘さや脂肪の甘さが舌を包み込んだのだ。

 イゴルは思わず噛んでしまいそうになるが、シュウが言っていたことを思い出すと舌の上でコロコロとチョコレートを転がして恍惚とした顔をする。


「で、リックさんは何にします?」


 イゴルがチョコレートを舌の上で転がしているうちにシュウはリックに尋ねる。

 リックはイゴルが口に入れたものが何なのか、どんな味がするものなのかとても気になっていて、じっとイゴルの様子を見つめている。だが、一応シュウの声は聞こえているようで、ついいつものように答える。


「オススメで」

「じゃ、仕事上がりでお疲れでしょうし、『豚』にしましょうか。イゴルさんも同じでいいですかね?」


 シュウはリックに豚朝食を出すと伝えると、イゴルにも確認する。

 イゴルはまだチョコレートの余韻に浸っているのだが、何故かコクコクと頷いた。恐らく、これを商品として売り出せるなら間違いなく大儲けできるなどと自分で考えたこと納得していたのだろう。


「じゃ、少しお待ちください」


 シュウはそう言って、厨房へと足を向けた。








 シュウから貰ったチョコレートが口の中からなくなり、暫くするとイゴルはようやく我に返った。


「こっ、これは……」


 慌ててシュウがいた場所を見上げるのだが、そこにシュウはいない。

 目の前にはリックが座っていて、イゴルが話すのをじっと見ている。


「どんな味だったんだ?」


 とても目をキラキラとさせてイゴルの目を見つめると、リックはチョコレートの味の感想を言うように促す。

 この店では食べてこともないような料理や酒が出てくるのだ。

 シュウがイゴルに出したものにリックが興味を持つのは当然と言えるだろう。


「そうですね……少し苦味があるのですが、柔らかい甘みが舌いっぱいに……」


 イゴルは思い出した味を説明するだけで口の中に唾液が溜まってきてしまい、ゴクリとその唾液を飲み込む。


「そう……とても甘い! 甘いんだ!

 でもただ甘いんじゃなく、柔らかい甘さなんだ。

 あれをこの街や王都で売れば大儲けできる!」


 説明するうちにイゴルはだんだん興奮してくる。

 確かに商品として売れるものなら、貴族相手に大儲けできることだろう。

 だが、そんな話にクリスが割って入る。


「それは無理よ」


 最初にそのひとことを告げると、手に持った丸盆の上から熱いお茶が入った湯呑みをとってリック、イゴルの順で並べて出して話を続ける。


「あれはシュウさんの国でしか作れないのよ。ここで作れるなら先にわたしが商売をしていると思うわ」


 まだ熱いおしぼりを解いて広げ、イゴルとリックに手渡すクリス。

 イゴルは受け取ったおしぼりの使い方がわからず、イゴルを見つめるとゴシゴシと顔を拭いているところだ。自分も顔を拭こうと両手でおしぼりを持ったところで、またクリスに声をかけられる。


「最初に手を拭いてくださいね」

「あ、うん……」


 簡単に返事を済ませると、イゴルはおしぼりを使って手を拭い、顔を拭いた。


「よかったですね、ちゃんと食事をとれば良くなるみたいで――」

「ああ、ありがとう。あのままだと行き倒れてたところだったよ」


 イゴルはクリスに向けて笑顔で礼を述べる。


「おいおい、ここまで連れてきたのはオレなんだから、オレにも言うことがあるだろう?」

「ああ――えっと、リックさんでしたっけ? ありがとうございました」

「おい……まぁ、いいか」


 取って付けたようなイゴルの礼に一瞬ムッとするリックだが、ここは言いたい文句もあえて飲み込んだ。イゴルに自分の名前を教えていなかったことを思いだしたのだ。

 意識が朦朧としているように見えたが、この店に入ったときにクリスがリックと呼んだのをイゴルは覚えていたのである。そこに文句は言えない。


「ところで、リックさんとイゴルさんの関係って――ただの門兵と行商人の間柄?」

「ああ、そうだ。こいつ、夜中に大声出して門扉を叩いてさ、食べるものも水もなくて死にそうだとか大声で叫んでいたんだ。そのあとになって本当に死にそうになってるとか、笑えないけどな?」


 クリスはリックに返事をすると、昨日のできごとを引っ掛けてイゴルに皮肉を言う。

 その皮肉にイゴルは後頭部をポリポリと掻きながら言葉を返す。


「もうその話はなしにくてくださいよ。でも、あのときに覗き窓で応対したのがリックさんで?」

「そのとおりだよ。まあ、いつものことだから気にするな」


 これからはリックに頭が上がらないなと後頭部を掻き続けるイゴルだが、ここで改めてクリスをしっかりと視界に入れる。


「ところでお嬢さん、お名前は?」


 既に何度か名前を呼ばれているイゴルからすれば、自分の名前だけ知られているのは不公平な気分になる。

 それに、とても美しい女性が料理を給仕してくれるのなら名前くらいは知っておきたいものだ。

 クリスはニコリと微笑むと、自己紹介を済ませる。


「クリスです。この店の女将です。今後ともご贔屓にお願いしますね、イゴルさん」

「あまり無礼のないようにしないと首が飛ぶぞ。クリスはここの領主の娘だからな」

「ええっ?!」


 リックがクリスは普段では絶対に話すことができない相手であることを教えると、イゴルは驚いて言葉を失った。


「もう、そんな簡単に首が飛ぶとか言わないでよ……。

 ここにいるときは他の店の人と同じように接してくださいね」


 リックに余計なことを言わないように釘を刺すと、クリスはイゴルに普通に接してもらえるように言う。


「そんな……いいのですか?」

「ええ、他のお客さんにもそうしてもらってるからね」


 そこにシャルが漬物盛り合わせを持ってやってくる。


「おまたせなの。お漬物なの」


 小鉢に入った漬物をことり、ことりと音を立ててリックとイゴルの前に並べる。

 中身は白菜の浅漬、茄子の糠漬けに胡瓜の醤油漬けだ。


「おう、ありがとな。シャルもげん……元気そうでなによりだ」


 リックは「元気になってよかった」などと言おうと思ったのだが、何も知らないイゴルの前で不用意なことを言えば、シャルがなぜここにいるのかまで話さなければならなくなってしまうと思ったのだ。


「シャルは元気なの。リックさんは今日も汚いの――」

「おいおい、仕事明けだから仕方ないだろう?」


 挨拶代わりのシャルからの弄りにリックは呆れたような表情を見せる。

 ただ、その表情が心做しか少し嬉しそうに見えてくるから不思議である。








 厨房ではシュウがフライパンにごま油を敷き、刻んだニンニク、生姜を入れて火にかける。

 薄らと黄色味を帯びたごま油のナッツのような香りがニンニクの食欲を唆る香りに塗り替えられると、シュウは一口大に切った豚バラ肉、五センチ程度に切りそろえたニラを投入して炒める。

 油を吸ったニラの葉がしなりと柔らかくなると、ニラのもつ食欲をそそる香りが加わり厨房にふわりと広がってくる。

 シュウは、フライパンの中に手羽先をつかってとった鶏がらスープと醤油、日本酒を入れて味付けをする。

 シュウは菜箸で少量を左手に取ると口に運んで味見をして皿に装う。

 皿の上からは美味しい香りをたっぷり含んだ真っ白な湯気が上がる。


 シュウは続けてさっと洗ったフライパンを再度火にかけると、油を馴染ませて溶き卵を流し入れる。

 右手の菜箸を前後に動かしながら、フライパンをぐるぐると水平に円を描くように手早く動かすと、ふわりとしたオムレツのような卵焼きができあがる。

 それを皿の上に装ったニラと豚肉の上に乗せてできあがりだ。


「あがったよ」

「はーい」


 シュウがカウンターとの間にある台に二つの丸盆を置くと、四人席の方からクリスが戻ってきた。

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