第90話 豚ニラ炒め(1)
透き通った青空に真っ白い綿雲がぷかりぷかりと浮かび、からりと乾いた風が吹く。
目の前に広がる草原がまるでザザザーッと音を立てて揺れると、その様はまるで海辺に打ち寄せる波のように見える。
ガタゴトと音を立てて草原の中の道を二頭立ての荷馬車が走る。
その荷馬車の馭者台で馬を操る男――イゴル・ペイエスも草の擦れ合う乾いた音を聞いてつい独りごちる。
「もう秋だなぁ……」
ゴトゴトと揺れる荷馬車はそんなに速度は出ていない。しかし、街道から繋がる農村への細い道は石が敷き詰められていない裸地だ。大きな石が埋もれているところもあれば、土の質によっては年中泥濘んでいるところもある。
「――バキバキッ!」
荷馬車は緩やかな坂道を登っていたのだが、大きな石の上に乗り上げると嫌な音を立て、ガタンと車体が右に傾いた。
何事かとイゴルが慌てて手綱を引くと、荷馬車はガコンガコンと上下に揺れながらゆっくりと右に傾いて停止する。
荷車が大きな石に乗り上げて降りたとき、右の後輪が破損したのだ。
イゴルは慌てて御者台から飛び降りて荷車の様子を確認すると、右手で目を覆って軽く嘆息した。
「こりゃ、どうしたもんかな……」
十年近く使ってきた荷車なので、そろそろ寿命かとイゴルも考えていたところだ。
幸いにもイゴルは予備の車輪は積み込んでいたのだが、荷車は空でも一トンを超える重さがある。とてもイゴルが単独で荷車を持ち上げて作業をするなどできない。
イゴルは頭を抱えて考えた。
村から出て三時間以上は進んでいるし、荷物を置いたまま村に戻るわけにはいかない。マルゲリットの街まではこの荷馬車でも二時間、徒歩なら四時間はかかるだろう。
「誰かが通るのを待つしか無いか……」
イゴルは壊れた車輪の前に座り込むと、ここ数日の間で訪れた農村で聞いた話を思い出す。
農民たちの悩みや不満という情報収集は大切で、商品でそれを解決できるのであればそのまま商売につながっていくからだ。
当然、農民たちの悩みや不満は多岐にわたるのだが、その内容は妻との夜のことや、農地を継げない三男や四男、娘たちの将来のこと、他の村の特産品や農閑期に向けた準備のことなどが多い。
ただ、今回は獣害が増えているという話が特に多く、中でも猪に畑を荒らされたという話ものが多かった。
何かそれを防ぐ手段があればいい商売になるだろうと被害にあった畑を見せてもらったが、人間の膝丈程度に作られた柵なら乗り越えられてしまい、高い柵を作れば下に穴を掘って入ってくるそうで、農民が嘆いていた。
「うーん……」
そもそも猪は鼻を器用に使って穴を掘る生き物だ。柵の下を掘るのは得意なのである。
なかなか良いアイデアが出てこないので気分を変えようと、イゴルは視線をエステラに向けた。
車輪が壊れてから人が通るのを待っていたせいでエステラもかなり傾いている。二時間近く経過しているだろう。
そして、視線を目の前にある壊れた車輪に向けてイゴルは気が付いた。
壊れた車輪を交換するために荷車を持ち上げることばかり考えてきたが、要は地面から浮いた状態にできればいいのである。
イゴルは荷車から鍬を取り出すと、猪のように車輪下の地面を掘りはじめた。
壊れた車輪を交換する作業は、穴を掘り始めてから二時間ほどかけて終了した。
穴掘りは商品として積み込んでいた鍬を使って作業をしたのでそんなにたいへんではなかったのだが、壊れた車輪側に積んでいた荷物のせいで荷車が傾いてしまったことや、とても重い車輪の交換作業に手間を取ったのが原因だ。
交換作業を終えて休む間もなく荷馬車は走り出す。
丘をいくつも乗り越えると、茜色に染まった西の空と、切り絵のように真っ黒に染まった石造りの城壁や旧王城の堂々たる姿が丘の上に見えてくる。
だが、その美しい景色を目にしても、イゴルは無言のまま荷馬車を走らせる。
直前に滞在していた場所がマルゲリットに最も近い農村であったため、余分な食料などを持ち合わせていないのだ。
街道からマルゲリットの大門へ至る道は街道並に整地されているとはいえ、結構な上り坂になっていて、ここまで走り続けてきた馬にはとても厳しい。明らかに平地を走るよりは遅く、全身から汗を吹き出して荷車を引いている。
イゴルにとって馬は大切な商売道具だ。潰してしまうわけにもいかず、ここで鞭打ってまで急がせるわけにはいかない。
西へ目を向ければ、薄らとエステラが沈んだ余韻が地平線を朱く染めており、夜の
時間的にはエステラが沈んでから一〇分も過ぎていないが、ようやくイゴルはマルゲリットの大門前に到着した。
「そ、そんな……」
イゴルは愕然とした表情で声を漏らした。
門扉は固く閉じられていて、そこに人の気配がなかったのだ。
入門待ちをしている人々が入門を終えるまで大門は閉じられることが無いとイゴルは思っていたのだが、閉門までに入門手続きが間に合わなかった者が少なく、門の中で審査を受けていたのである。
イゴルは閉じられた門扉を両腕でガンガンと叩き、門兵を呼び出そうとする。
「おーい、誰かいないか? 開けてくれ! 中に入れてくれ!」
すぐに小さな覗き窓が開いて中から門兵がギロリとイゴルを睨みつける。
「誰だ? 所属と名前、用件を言え」
「行商人のイゴル・ペイエスでございます。こちらに向かう途中、車輪が壊れてしまい修理に手間取って……」
門兵はイゴルの話が途中にも関わらず、遮るようにピシャリと言って返す。
「駄目だ、門限は門限。入れるわけにはいかん」
「そ、そんなぁ……せめて話だけでも!」
「日没と共に門扉は閉じる……これは規則だ。王都や貴族からの危急の用件でもない限り開くことはない。諦めるんだな」
縋るような声でイゴルは門兵に頼み込もうとするのだが、門兵は当然といわんばかりに覗き窓を閉じてしまう。
パタリと音を立てて閉じた覗き窓に向かってイゴルは悪態をつく。
「この坂道を上がってくるところも見ていたんでしょう? 少しくらい待ってくれてもいいじゃないですかっ!」
しかし、扉の向こうから反応する声も、人の気配もない。
しばらくイゴルは大門の前で大声を出して喚き散らしたが、扉の向こう側には人の気配がない。門兵は既に中に入っていた者たちの身元確認や荷物の確認などを終えており、これから夜勤兵との引き継ぎが行われるのだ。
イゴルは肩を落として溜息を吐くと、馬を荷車から外し、大門前で一晩を過ごす者が勝手に用意した馬留代わりの杭に手綱を括り付けた。
そして、月明かりを頼りに運河にある船着き場に降りて、そこにあった二つの木桶に水を汲むと、馬のいるところまで運び、馬水槽に流しいれる。
さっきまで大量の汗をかいて坂道をひいていたのだから、馬はかなり喉が渇いていたようで、急いで水を飲む。
「今日はこんなところで寝ることになって悪かったな……」
馬がすごい勢いで馬水槽の水を飲むのを見て、イゴルはそっと首筋を撫でると、追加の水を汲みに行った。
船着き場と馬水槽までの間を数回往復すると、馬も満足したのか水を飲まなくなった。
それを確認したイゴルは月灯りを頼りに荷車の中を整理し、一夜を過ごすための寝床を作る。
ようやく大人の男がひとり寝転ぶことができる程度のスペースだ。当然、床は木の板のままで硬く冷たい。
そして目を瞑ると、コオロギやスズムシのような昆虫が鳴く音、馬が草を食む音が聞こえてくる。
すると突然、イゴルの腹の虫が大きな鳴き声をあげる。
「ぐるっ……ぐりゅりゅぅ……」
ひとりで車輪を交換するという重労働したのだから、イゴルの空腹と疲労感は限界に達していたのだ。
日が暮れると食事を済ませて眠るのがこの世界の一般的な生活スタイルだ。普段であればいつも食事を楽しむことができるというのに、今日のイゴルには食べるものさえ残っていない。
そして、人は空腹になると不機嫌になるものだ。
更に月明かりに浮かぶ城壁の中では宿屋や居酒屋のような飲食店があることを思い出すと、イゴルにふつふつと怒りがこみあげてくる。
「ああっ! くそっ……」
日が暮れてから少しずつ気温が下がっていく。
イゴルは野営用の毛布を使って自分の身体を巻き上げて、そこに寝転んだ。
しかし、空腹時というのはなかなか寝付けるものではない。
「ぐぅぐぎゅるるるぅ……」
胃袋が縮む音が再び荷車の中に響くと、イゴルは毛布からごそごそと這い出し、堀の下にある船着き場へ降りて行った。
そして、イゴルは目を凝らして水面を見つめるのだが、真っ黒な水面に月明かりキラキラと光るばかりで、水面の中はまったく見えない。魚がいるようなら釣り糸でも垂らし、焼いて食おうと思ったのだが、なかなか思うようにはいかないものだ。
イゴルは足下に落ちていた小石を拾って堀に投げ込むと、肩を落として堀の横にある坂道を上がって、また門扉の前へやってきた。
「誰かいませんかね? 行商人のイゴル・ペイエスです。食べるものがなくて飢えて死にしそうなんですよ……」
扉をどんどんと叩き、声を張り上げると覗き窓が開いた。
厚みのある扉の向こうは真っ暗で何も見えないが、そこに人がいるというだけでイゴルはうれしくなってしまう。
「おおっ!」
つい、喜びの声を上げたイゴルに対し、覗き窓からは冷めたく機械的な声が聞こえてくる。
「誰だ?! 所属と名前、用件を言え」
厚い扉と城壁に阻まれイゴルの声は届かなかったようだ。
扉の向こうにいる門兵らしき男からは、そこに誰がいるのか訝しむような声が聞こえた。
覗き窓のせいで反響し、少しくぐもったような声だ。
「行商人のイゴル・ペイエスという者です。車輪が壊れてしまい、慌てて交換してきたのですが門限が過ぎていたようで中に入れなかったのです。なんとか……」
「だめだ、門限はこのマルゲリットの街を守るための重要な決まり事だ。おまえひとりのためにその決まりを破ることはできない」
門兵からはテンプレートともいえる、決まり文句が返ってくる。
イゴルもそれが当然であることはわかっているのだが、空腹が理性を抑え込むことができない。
「そこをなんとかできませんか? こっちは食べるものも、水さえもない状況で……」
「飢えて水もない人間がそんな大声で話せるわけがないだろう?
諦めるんだな」
扉の向こうにいた門兵はそう告げると、ぱたりと覗き窓を閉じた。
それと同時に大門前は静寂を取り戻す。
「融通の利かないやつらだ……」
ぽつりとつぶやくと、イゴルは肩を落として荷馬車を留めた場所へ戻っていった。
深まる秋とともに冷え込みが厳しくなってきているが、まだ虫たちは元気だ。
草むらからリーンリーンと鳴く音、コロコロと鳴く音……他にもいろんな音が聞こえてくる。ただ、他に一切音を出すものがなければ、少しずつ気になって眠れなくなる。
荷車の中に作った寝床に横たわったイゴルは、床の硬さと冷たさ、耳障りな虫の鳴き声に悩まされてなかなか眠れない。
うとうとと眠りに落ちても、寝返りを打つだけで横の荷物に肩をぶつけ、脛を打ち付ければ目が覚める。また、気温が下がりはじめると、肌をさすような冷たい空気に起こされた。
目覚めたのは何度目だろう……。
「寒いな……」
また寒さに目を覚ましたイゴルはのそりと起き上がり、荷車の幌の中から東の空を見上げる。
マルゲリットの東側はいくつもの丘が連なっていて、山のように凸凹とした稜線を境に薄らと明るくなり始めている。あと十分もすればエステラが顔を出すことが見てとれる。
「もう朝か……」
少し寝ぼけて気味に目を擦りながら、イゴルは呟いた。
全然眠った気にならないが、ようやく城門を潜ることができると思うと安心したのだろう。また盛大にイゴルの腹の虫が鳴き声を上げる。
「ぐりゅりゅりゅりゅう……」
その音の大きさに目を瞠り、イゴルは自分の腹を見つめる。
考えてみると、昨日の昼に農村を出る直前に食事をしてから何も食べていないのだから仕方がない。
「さて、どうしたものか……」
イゴルはまた小さく呟く。
とりあえず腹の中に水でも流し込みたいところだが、水筒の水も残っておらず、それさえも叶わない。
それに、例え大門が開いて街の中に入ることができたとしても、すぐに食事にはありつけない。商品を積んだままの荷馬車を放置して食事などしようものなら、荷物がなくなっていても不思議ではない。だから、最初にすべきなのは、商業ギルドの貸倉庫に荷物を預けることだ。
そしてようやく宿屋を確保することになる。
だが、宿屋は宿泊者向けの朝食は出しているが、朝の食事処として営業していないのだ。
イゴルはそのことを考えると、眉を八の字にして大きく溜息をついた。
「開門!」
エステラが東の空に顔を出すと、大門隣の塔から声があがる。
ギシギシと木製の軸が擦れる音が聞こえると、少し遅れて大門が開く。
イゴルは塔からあがった声を聞いて、慌てて馬をひいて荷馬車に繋ぎ、誰か競う相手がいるわけでもないのに急いで馭者台に飛び乗る。
軽く手綱を握ると、馬を動かして向きを変え、ゆっくりと大門へと向かう。
大門からは開門前から待ち構えていた農民や猟師などがゾロゾロと出てくる。また、荷物の出門チェックを済ませた荷馬車が乗ってすれ違う。
行商人の世界は狭いので、すれ違う荷馬車の主は知り合いだ。
間違いなく「イゴルは昨日、門限に間に合わなかったんだな」と思われていることだろう。
そう考えると少し恥ずかしくなるが、誰もが一度は経験することだから気にしても仕方がない。
ゆるゆると坂道を登って大門前に馬車を止めると、赤褐色の髪を後ろにまとめた門兵――リックがやってくる。
「おはようさん。入門者の申告と積荷一覧を出してくれ」
リックはとても友好的な口調で話しかけ、手を差し出した。
その手に変な意味は含まれていない。手続き上、必要な書類はわかっているで事前に用意している商人が多いので、リックはすぐに出てくると思っていたのである。
「ああ、入門するのはわたしだけだ。積荷一覧はこちらに……」
イゴルが返事をすると共に、ゴソゴソと積荷一覧を書いた木の板を取り出す。
売れ残った農具や農村で買い付けた穀物などがほとんどだ。
リックはさっと積荷一覧に目を通しながら、イゴルに話しかける。
「一人なら入門税は一〇〇ルダールだ。積荷に税が必要なものはないようだが……確認させてもらうよ」
「ええ、どうぞ」
イゴルが返事するまでもなく、リックは荷馬車の後部に回り込むと、荷台に乗り込んだ。
ガサゴソと荷物を確認する音がするのだが、いつもよりも時間がかかっているようにイゴルは感じた。そうなると自分が疑われているような気になって不安になってくるものだ。
「え、えらく念入りですね。なにかあったんで?」
「んあ? 特にないぞ」
イゴルに尋ねられたのが不思議だったのか、リックが驚いたような声をあげ、すぐにイゴルの質問に返答した。
リックからすれば、入門する人間が他にいないのでゆっくり時間をかけるだけのことである。
「あ、そうですね。門前で待っていたのはわたしだけでした……」
「そうだな、イゴルだっけか?」
ゴソゴソと荷物を検分しながらリックは尋ねる。
「ええ、イゴル・ペイエスと申します」
イゴルは謙った言葉遣いで自己紹介をする。
門兵とはいえ、相手はこの街の警備を担う兵隊である。人頭税の対象にならない代わりに住民とは認められない行商人という立場では、下手に出ておくのが正しい付き合い方だ。
「まぁ、なんだ……。
オレたちも仕事で街の警備をしている以上、どうにもならんこともある。気を悪くしないでくれよ」
リックは昨晩、イゴルが門扉を叩いて騒いだことがわかっているのだ。
イゴルも他に誰もいない中で騒いでしまえば、翌朝になって騒いだ張本人は自分ですと言っているようなものであることに気がついた。
急に羞恥がイゴルを襲うと、頬や耳を赤く染めていく。
ただ、リックは騒いだこと自体は気にしておらず、逆に寒い夜を荷車で過ごさせたことに負い目を感じているようだ。
「ああ、気になさらないでください」
「まぁ、大袈裟に言いたかったのはわかるが、嘘はいけない。あんた、商人なんだから信用第一だろ?」
リックは荷物の元に戻しながら言った。
ついつい大袈裟に物事を脚色したりするのはイゴルの悪い癖である。それをリックに諫められた形だ。
イゴルはリックの言う通りだと思った。ほんの冗談のつもりで大袈裟に言ってしまった結果、これまでにも勘違いや行き違いを何度も引き起こしているのだ。
「そうですね。気をつけます」
「ああ、それがいい……。それで、腹空かせてるんだろう?」
ひととおり荷物の確認が終わったのか、リックは荷馬車の幌の隙間から馭者台へと顔を出して尋ねてきた。
イゴルは素直に答えることにする。
「ええ、今もまた腹の虫が鳴きそうですよ。でも、まずは荷物を預けて宿を確保してから食べられる店を探すことになりますが……」
「へぇ、それじゃ交流街の東通りの端の方にある店に行くといい。朝二つの鐘から三つの鐘が鳴るまで開いてるし、五十ルダールで腹いっぱい食えるぜ。
おっと、荷物は問題なしだ。入門税はどうする?」
イゴルは巾着袋の中に手を突っ込むと入門札を一枚取り出し、リックに手渡した。
「これで……」
「おう。入っていいぞ」
リックはイゴルから入門札を受け取ると御者台の横から荷馬車を降り、入門許可を伝える。
積荷一覧は詰所にいる他の門兵が書き写して記録として残すので返却されない。
「ありがとうございます」
イゴルは丁寧に礼を述べると手綱を引いて大門を潜っていった。
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