第86話 カキフライ(3)

 既にグラスの中が空になっているのは、ファビオだけではない。エドガルドも同じようにジャーマンポテトを口に頬張り、それを流し込むようにビールを楽しんでいたので既に空になっている。


「おかわり、いれてくるわ」


 クリスはそう告げて立ち上がり、左手にファビオ、右手にエドガルドのグラスを持って厨房側にあるビアサーバーへと向かって歩いていく。

 そこにタイミングよくシュウがタブレット端末を持って戻ってきた。


「地球には顕微鏡というのがあります。とても微細なものを目で見るための道具なんですが、それを使った写真がこれですね」


 シュウが見せたタブレットには、黒い背景に灰色の丸い粒がいくつか映っている。

 既に、写真そのものについては先日神戸に行ったときにスマホに内蔵されているカメラで撮影したものを見て知っていたファビオだが、ビール酵母の白黒写真を見てそれが生物であることなど想像ができない。


「こ、これは生き物なのかい?」

「写真ですから動かないですしね……動画もありますよ」


 シュウは自分でもこれは確かにわかりにくいと思っていたので、画面をタップして検索結果に戻ると動画の検索結果を表示させ、その中でもわかりやすそうなものを選ぶ。

 少し時間がかかって動画サイトから動画が配信されると、文字で酵母の説明が表示されたのでそれを読み上げる。


「これは干した『葡萄』を使ってつくる『パン』用の酵母ですね。細かいけど動いているでしょう?」

「ええ、とても細かく震えるように動いています。あっ、でも素早く動いたりしているのもありますね。『パン』用の酵母とはどういうことです?」


 ファビオは自身で調理することがないので、パンの作り方を知らない。もちろん、パンを作っている職人たちも酵母という微小生物が存在することは知らず、単に干しぶどうを水に漬けて泡立つほど酵母が繁殖したものをパン生地に入れている。これは単に作り方を教わり、ただそれに倣って同じことを繰り返しているだけのことだ。


「えっと、『小麦粉』と塩、水を加えたところにこの汁を入れて練るんです。すると、この酵母が『小麦粉』に含まれるでんぷんを分解して、酒精と二酸化炭素を作るんです。

 練った生地は中に二酸化炭素を溜め込んでしまうので膨らんでいきます。それを焼くと、酒精は飛んでしまい、中に溜まった二酸化炭素の部分が空洞になって焼き上がるのですが……」

「二酸化炭素というのは?」


 研究職にあるファビオの好奇心にまた訴えかける言葉がでてきた。

 とはいえ、説明はそんなに難しいものではない。

 丁度その二酸化炭素が泡になっているものを持って、クリスが戻ってくる。


「はい、お父さまとファビオお兄さまの分ね」

「お、ありがとう」

「どういたしまして」


 ファビオが簡単に礼を言うと、クリスは席に戻る。

 そのビールが入ったグラスを指して、シュウはまた続きを説明する。


「この泡がその二酸化炭素ですね。水に溶けていたけど、刺激を与えたり温度が上がるとこうなります。あと、すべての動物は息を吸うと酸素というものを取り込んで二酸化炭素を吐きますし、木や炭なんかが燃える時にも二酸化炭素ができるんですが……」

「ちょ、ちょっとまってくれ。そんなに二酸化炭素とやらが出るものばかりなら、コア異世界や地球も二酸化炭素だらけになるのではないか?」


 心配そうな顔をしてエドガルドが尋ねるのだが、植物のことなら任せておけとプテレアが返事をする。


「心配せずともよいのじゃ。草木がエステラ異世界の太陽の光を受けて、水と二酸化炭素から酸素や栄養を作り出すのじゃ。ただ、森は大切にしなければ二酸化炭素だらけになってしまうのじゃ」

「そういうことです。そして、ビール酵母は芽がでた『大麦』と水から二酸化炭素とビールを作るんです」


 プテレアの説明であれば、草木が行っている光合成の内容も信憑性があるのか、ファビオとエドガルドもなんとか納得したようだ。

 だが、シュウはついでにと他の微生物についても説明を始める。


「あと、キノコも実は菌類といって微小な生物ですし、カビも一種の微小な生物です。酵母ほどの小ささではないけど、目に見えない生物は身の回りにたくさんいますよ」


 シュウはそこまで説明すると、自分のジャーマンポテトを頬り、もぐもぐと口を動かして残ったビールを飲み干した。


「そろそろ次の料理にかかりますね」


 シュウは年齢的には年下であるものの、クリスの兄を相手にしているのでエドガルドに対するときと同様、少し丁寧な言葉を使っている。


「本当に目に見えない生き物がいるんだな」

「そうよ。人間の身体にいい菌もあれば、お腹を壊したり、熱を出させたりする悪い菌もいるわ。

 怪我をして化膿するのは、そういう菌が傷口から入ろうとするからなの。身体が反応して、その菌との戦場の残骸が膿ってことね」


 調理に戻ったシュウの代わりにクリスが説明するのだが、数ヶ月とはいえ日本で暮らしているのだから、必要な知識を身につけていかないとクリスも生活していくことができなくなるので知っているのは当然ともいえる。

 そのあまりに判りやすい説明に、ファビオはクリスがたったの数ヶ月で様々なことを学んできていて、自分自身よりも進んだ知識を得ていることに気づく。


「すごく詳しいじゃないか。僅か数ヶ月でそこまでの知識を得られるものなのか?」

「日本では国民全員が教育を受ける権利があって、六歳から一五歳までの子どもは学校に行かなければいけないの。その学校を出ている子どもたちなら、このくらいは常識なんだもの。わたしも必死になるわよ」


 クリスが自嘲するような笑みをこぼしながら話すと、急にその表情は真剣なものに変わる。


「それにね、食べ物を扱う店をするんだから、人体に影響があるような悪い菌は殺さないといけないんだもの。知ってないといけない知識でしょ?」

「ああ、そういうことか……確かに客が腹を下したりするようでは店の信用に関わるよな」


 ファビオは神戸の街で入った店やトイレは確かに清潔であったし、街に出てもゴミなどが殆ど落ちていない清潔な環境であったことを思い出す。衛生面に配慮していない店は営業ができないという考えが行き届いているのだ考えればクリスの話の意味がよく理解できた。






 ファビオへの説明をクリスに任せる形になったシュウは、冷蔵庫から牡蠣が入った袋を取り出すと中の水をシンクに捨て、調理台の上にあるボウルに移した。

 急にファビオが参加することになったので、当初予定していた分では足りなくなったからだ。


 追加の牡蠣に片栗粉を少しはたいて、汚れを拭き取ると別のボウルに残っていた塩水に入れて再度汚れを洗い流す。

 これだけでてろんとしていた牡蠣の身が少し引き締まってプリッと変わる。


 そして、事前に準備していたキッチンペーパーの上に牡蠣に並べて挟み、丁寧に水気を取ったら小麦粉、溶き卵、パン粉の順に衣を付ける。


「シャーッ……シャーッ……シャーッ……」


 ギュッと握って形を整えた牡蠣の身が次々と油の海に飛び込んでいく。







 シュウが牡蠣を鍋に投入したときに出る乾いた音に反応したのはエドガルドだ。


「お、今日も揚げ物なのか?」

「ええ、そうよ。牡蠣という貝でわたしも初めて食べるものなんだけど……生の見た目は気持ち悪いから、揚げてあるほうが嬉しいわ」

「生で食べることはできんのか?」


 エドガルドはこの店の特徴として海の幸を生で出すことがあるのを知っているので、つい欲張って尋ねてしまう。

 だが、生食できる牡蠣をシュウは仕入れておらず、クリスもそれを知っている。


「生で食べるなら、生食用を買わないといけないってシュウさんが言ってたから、たぶん無理よ。さっき言ったようにお腹を下したり、嘔吐するような毒を持っていることがあるらしくて、加熱するのが一番安心なの。

 生で食べるには悪い菌や成分が少ない海で育て、それを滅菌した水槽で飼ってから出荷されるんだって」

「それは手間がかかってるね。その分高くなるんじゃないのかい?」


 生食用の牡蠣について、クリスが説明する。

 生食用の牡蠣は各自治体の保健所が定める海域で育てられる。山や森で養分をたっぷり吸い込んだ川の水が流れ込む河口付近では生活排水や工場排水等も混ざり、波で雑菌や汚れが溜まりやすい。そのため、どうしても水が澄んだ沖合が指定海域になるのだが、河口付近と比べて養分が薄くなる。そして、更にその指定海域で育てた牡蠣を二日間、滅菌した海水で飼育してから出荷する。

 そういう期間と海水の汲み上げ、滅菌洗浄などのコストを考慮すると高くなるのはファビオにも理解できた。


「そうね。少し高くなるわね。それに、滅菌洗浄の期間は餌がないので味も薄くなるという話も聞いたわ」

「出荷される前に断食させるということなのだな? それは痩せてしまうだろうな」


 そもそも沿岸養殖と比べ、養分の少ない沖合で養殖しているのだから味が薄い。それをプランクトンを含めて滅菌してしまった清浄な海水の中で二日間飼育するのだから、痩せてしまうのは仕方がない。


「ええ、そうなの。だから今日は生では食べられないけれど、大粒のものをフライにしてくれるそうよ。とても栄養豊富なんだって」

「それは楽しみだな」


 エドガルドがにやりと口角を上げて、笑みを見せるとクリスは


「あ、プテレアもおかわり?」

「おお、頼むのじゃ」


 プテレアは空になった薄玻璃のグラスをクリスに突き出す。

 それを受け取ったクリスは、自分のグラスを持って厨房へと入った。







 その頃、厨房ではシュウは調理台に六枚の皿を並べ、千切りにしてあったキャベツとくし切りのトマト、仕込んでおいたポテトサラダを盛り付けていた。


「あ、クリス。悪いけど、味噌汁とごはんを装ってくれないか?」

「いいわ。でもすこし待ってね」


 クリスはビールを二杯入れると、カウンターの方に行って戻っていく。


 そうこうしているうちに、フライ鍋の中はきつね色に揚がった牡蠣が浮き上がって来ていた。

 シュウは揚げ物掬いを手に、浮いたカキフライを掬い上げて油を切ると、天ぷらバットの上にゴロゴロと落とし、更に油を落とす。


「お味噌汁とごはんよね」

「うん、頼む」


 クリスが厨房に戻ってきて、味噌汁、ごはんを装って丸盆に並べていく。

 シュウは全ての牡蠣が天ぷらバットの上に並ぶと、皿に六個ずつ並べてタルタルソースとくし切りのレモンを添えて丸盆に載せていく。


「全員、箸は使えるようになっているから、箸だけでいいわよね?」

「そうだな。よし、運ぶぞ」


 シュウとクリスは共に両手に丸盆を持って、カウンター席で待つエドガルドやファビオの元に運んでいく。


「お待たせしました、カキフライです」


 ことりと小さな音を立ててエドガルドの前に丸盆が置かれ、続いてファビオの前にそっと差し出される。クリスはシャルとプテレアの分を運んでいる。

 丸盆の左手前に飯茶碗があって、そこには炊きたてで白く艶々と輝くごはんが湯気を立てている。そして右手前には木を削った味噌汁椀があり、茶褐色の海に黒紫色の皮がてらてら艶めく揚げ茄子と刻んだ九条葱が浮かんでいる。

 そして丸盆の奥には、白い皿の上に乗った刻んだキャベツを枕に、きつね色に揚がった俵のようなカキフライが綺麗に並び、まだ衣からジジジと音を立てている。


「これがカキフライか」


 エドガルドの声が聞こえる。

 ファビオも同じことを心の中でつぶやいていたが、既に心はカキフライへと向かっている。


 ――確か、この味噌汁から口を付けるのだったか。


 ファビオは右手に箸を取ると味噌汁椀に左手を伸ばし、箸先でくるりと中身を混ぜて口縁に唇を当てて啜る。


「ズズッ……」


 空気とともに吸い込んだ味噌汁は様々な香りが混ざっている。

 いりこ出汁に、玉締め法で絞ったナッツのような香りのごま油、九条ネギの食欲を唆る香り、発酵した味噌の香り。

 これらの香りが一体となって口から鼻に抜けていく。

 ごま油で揚げた茄子は身が一部剥がれて口の中に流れ込んでくると、とろりと舌の上で蕩けて消える。

 その儚げな風味や食感にうっとりと目を細めると、ファビオは小さくつぶやく。


「ああ、うまい……」

「そうだな、油が加わって濃厚になっているのだが、塩味や出汁は角が取れて全体に優しい味になっているな」

「ええ、とても相性がいい具なんでしょうね」


 同じように味噌汁を啜っていたエドガルドが追いかけるように感想を述べると、ファビオは具と味噌汁の相性を褒め称える。

 揚げ茄子の味噌汁は油で炒めたり揚げたりした具を使う味噌汁の中では定番の品だ。実際にフリーズドライタイプの味噌汁にもなっている。ただ、やはりシュウのように手作りの方が茄子の食感に差が出てくる。


「日本の『茄子』は皮が薄いでしょ?」

「まだ皮のところは食べてないけど、確かに美味しいよ」


 ファビオはクリスの問いにそう答えると、左手の味噌汁椀を飯茶碗に変えて、少量のごはんを摘んで口に入れる。

 炊きたてで艶のあるごはんはふっくらと柔らかいのだが、前回よりも粘りも増えてもちもちとした食感と甘みが強い。


 ファビオが顔を揚げるとカウンターの向こう側に独りシュウが座って食事を始めていたので、声をかけた。


「シュウさん、この『白いごはん』は先日と違う『米』なのかい? 食感も甘みも違う気がするんだけど……」

「ああ、よく判りましたね。今日は店で出してるものとは違う品種の『米』を使ってるんです。それに、これは今年収穫したばかりの『米』ですね」

「それはまたどうして?」


 ファビオも今年収穫したばかりと前置きされれば、それが新米であることは理解できる。小麦や大麦にも品種というものがあるのも理解している。ただ、わざわざいつも店で扱ってる米と違う品種を使っているのかが判らない。


「めし屋というのは、主食の『白いごはん』が美味しくないと愛想を尽かされます。

 日本では品種改良が進んでいるので、いろいろ試食してより美味しい『米』を探しているだけですよ」

「そうなのか。それで、今日の『米』はどうなんだ?」


 品種改良と言う言葉に反応したのか、エドガルドが会話に割り込んでくる。

 領主とはいえ、そこまで品種分類などができていないため、小麦は小麦としか認識していない。なお、マルゲリット周辺ではパンに向いたパン小麦が主流である。


「そうですね、粘りとツヤがあってとてもいい『米』だと思います。炊きあがりの香りもいいです。ただ、少し単価が高いのが悩ましいところですね」


 シュウはそう話しながらレモンを取ると、皮を下にしてカキフライにその絞り汁を振りかける。それを見ていたエドガルドが不思議そうに見つめる。


「どうして皮を下にして絞るんだ?」

「レモンの香りを飛ばすためですね。皮にレモン油があって、それを漏らさないように掛けてるんです。実を下にしてしまうと、手に匂いがつくだけですからね」


 ファビオはシュウを真似をして皮を下にしてレモンを絞ってみる。

 レモンの皮からピッピッと油が飛んで、レモンのいい香りが皿の上に広がる。


「本当だ……香りが全然違う」


 ファビオが驚きの声をあげる。


「香りを出したい時は、皮を下に。そうじゃないときは、実を下にして使うといいわ」

「そうなのか、ううむ……」


 クリスが使い分けを説明すると、既に身を下にしてカキフライに絞りかけた後のエドガルドは絞りカスを手に寂しそうな顔をしている。恐らく、絞った右手の中はとてもいい香りがするだろう。


 ファビオはそんなエドガルドのことは眼中になく、既にカキフライにタルタルソースをこんもりと載せて箸で摘んだ。

 からりと揚がったパン粉の衣がサクリと軽い音を立て、ポロポロと少し崩れながらファビオの口の高さまで持ち上げられ、カキフライから油とレモンの香りがふわりと立ち上る。きつね色に揚がった牡蠣の身は絶妙に火が通っていて、衣の向こうでプリプリと震えている姿が想像できる。


 カキフライの上に載ったタルタルソースを落とさないようにそっと口に運ぶと、ファビオはその身に前歯を立てた。


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 先行していた「なろう版」に追いつきましたので、ここからは週一回の投稿となります。毎週日曜日AM8時投稿予定です。

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