第87話 カキフライ(4)
カキフライの上に載ったタルタルソースを落とさないようにそっと口に運ぶと、ファビオはその身に前歯を立てた。
「サクッ」
とても軽い音と共に、ファビオの口の中に牡蠣の旨味が詰まった熱い汁が溢れ出して一気に口の中に流れ込んでくる。
すると、レモンの香りと揚げたパン粉の少し焦げたような香りに、牡蠣の身が持つ海の香りがパッと口の中に広がり、ぷるりと柔らかい身の中から出るミルキーな旨味に内臓の仄かな苦味、レモンやタルタルソースの酸味、卵のコクなどが一つにまとまって舌を包み込む。
それを噛み続けると、サクサクと軽い食感の衣とシャリシャリとしたピクルスの食感が柔らかくムニュリとした牡蠣の身の食感にアクセントを与え、ほんの数秒ほど噛んでるうちにするすると喉の奥に消えていく。
「口に溢れ出すようなこの汁が最高だ」
ファビオはそう言葉を漏らすと、箸に摘んでいる残りの身を口に入れ、追いかけるようにごはんを掬って口に入れた。
ほとんど無味無臭のごはんが、そのカキフライから出るスープを吸ってその味を口いっぱいに広げると、少しずつ甘みに変わり始める。
「ズズッ」
そこに揚げ茄子の味噌汁を啜り込むと、口の中で香りと味が塗り替えられていく。
ごはんの隙間に染み込んだ味噌汁は、口いっぱいにその出汁と油の味を広げ、鼻腔には複雑に入り混じった香りを届けて消え去っていく。
それをゴクリと音を立てて飲み込むと、ファビオはしみじみと食べた後の気持ちを声に漏らす。
「美味いなぁ……」
「ああ、海の香りと濃厚な『牛乳』のようなとろりとした舌触りがなんとも言えん」
ファビオと同じように一つ目のカキフライを飲み込んだエドガルドも、近い感想を漏らす。
「ありがとうございます。『牡蠣』は海の『牛乳』といわれるくらい栄養がありますから、是非楽しんで下さい」
エドガルドの感想を聞いて、シュウが補足説明をする。
本来なら牡蠣にはビタミンB12やタウリンが含まれているし、グリコーゲンなども豊富に含まれているので、スタミナが付くと言われているがそこまで詳しく説明はしない。特に肝臓の再生を促すタウリンは熱で壊れてしまうので、詳しく説明すると「生で食べたい」という話になりかねないからである。
エドガルドとファビオはシュウの話を聞きながら、二つ目のカキフライを口に入れると白いごはんを頬張ってその味を楽しんでいるようだ。
「ムニュッとしてるの……」
「そうね、たっぷりタルタルソースを付けて食べるといいわ」
一方、シャルは初めて食べる牡蠣の食感が頼りないところが少しお気に召さないようだ。
すかさず、クリスは食感を変える食べ方を教え、次のひと口を試すように促す。
初めての食感に不快感を持ってそれを引きずる人も多いが、すぐに違う食感が楽しめるような工夫をすれば、その食材を嫌いになりにくい。
シャルは言われたとおりにタルタルソースをたっぷりとのせて、カキフライを口に運ぶ。
しばらくサクサクという衣を噛む音、シャクシャクというピクルスを噛む音が聞こえると、こくりと飲み込む音が聞こえてくる。
「タルタル付けると大丈夫なのっ」
「でしょ?」
食感が変わったことで食べやすくなったのか、シャルは笑顔でクリスに報告する。
たっぷりのタルタルソースが内臓の苦味も抑えてくれるので、シャルに悪い印象を与えずに済んだようだ。
それに安堵したのか、クリスもふわりと柔らかい笑顔を作って返していた。
男性陣は食べるのが早い。
特にエドガルドとファビオが旧王城内で食事をするときはゆったりと時間をかけて食事をするのだが、シュウの店ではマナーが異なるのも理由の一つかも知れない。二人はガツガツと食べてすぐに平らげてしまっていた。
もちろん、シュウも職業柄短時間で食事を済ませる癖がついているので、エドガルドとファビオよりも早いくらいの速度で食事を済ませていた。
「ところで、婿殿」
「はい、どうしました?」
エドガルドがシュウに話しかける。
「下水処理場のことなんだが、その仕組みというものをファビオに教えてやってはくれないか?
どうにも、わたしは説明が下手でな……」
実は会議の席でも説明ができていないし、ファビオに対しても説明しようとさえしていないのだが、理解ができていないのではなく説明ができないのだと言っている。
ファビオも父親の顔を立てるためか、そこには突っ込まない。
「ああ、わかりました。そんなに難しくないことなんですが……」
シュウは先ほど使っていたタブレット端末を取り出して検索を始める。
一応、エドガルドも話を聞く姿勢をとって、理解しようとしている雰囲気を醸し出す。
「川の上流と中流、下流の違いは判りますか?」
「ん? そう言われても意識したことがないな……違いか……」
ファビオは腕を組んで川の上流と中流、下流をイメージしてみる。仕事柄、各地に出向いて採集などをしているので、領地と王都との往復しか移動がないエドガルドとは違って海に近いところまでは行ったこともある。
「そうだな、まずは川の幅が違う。海に流れ込む河口付近はとても川幅が広くなっているし、枝分かれしているという記憶がありますね。上流は川幅が狭く、中流あたりでいくつもまとまって水量が増えていくというイメージでしょうか」
残念ながらファビオの回答は、不十分のようだ。
「他に違いはありませんか?」
「うーん……
上流は谷や湖などから流れ出す場所が多くて、滝がある。あと、岩がゴツゴツとしていた気がする」
ファビオは記憶を辿るように言葉を並べていく。
大陸なので、海岸線が断崖になっている場合は直接海に落ちる滝もあるのだが、ファビオはそこまでは知らないようだ。
「そうですね。上流は大きな岩や石が多い。中流は小石が多くて、下流は砂のように小さな粒が多くなります。
これは川幅が狭いところにたくさんの水が流れるので、その水の勢いで岩が崩れたりするからです。だから、上流は押し流されないような大きくて重い岩が残ります。
中流になると、川幅が少し広くなって水の勢いが落ちてきます。すると、上流から流された石が互いに当たって削れ、角が丸い小石になって中流に残ります。削れた欠片はまだ川の流れに乗って下流に流れていきます。
下流になると、川幅はかなり広くなり水はゆっくりと流れるようになり、流されてきた欠片は砂粒となって川底に溜まっていきます」
シュウは川の上流、中流、下流を撮影した写真を検索し、順に見せて説明する。
そこには上流の巨大な岩がゴロゴロと転がっている場所を流れる川、小石が敷き詰められた川原、砂でできた中洲のある下流地域の写真などが表示されていた。
「なるほど、そう言われるとそうなのかも知れません。いや、そうなのでしょうね」
「うむ、婿殿の言うとおりだ」
ファビオは目から鱗が落ちたとばかりに、シュウの説明に理解を示す。
一方、何度か説明をされているので解っているはずのエドガルドは、それらしい言葉で相槌を入れた。
「大まかには下水処理施設も同じで、最初は狭く深く、だんだん広く浅くなる流れができるようにします。すると、重いものは下水処理施設の入り口に貯まり、流れた先には小さく軽いものが貯まるようになります。最後に上澄みだけが流れ込むところをつくり、川に流す感じです」
「なるほど、大きさの違うものを少しずつ沈め、最後に上澄みの綺麗な水をつくるということですね?」
ファビオは結論を出そうと確認するが、それではエドガルドが言っていた微小な生物が必要になるという話と噛み合わない。シュウが「大まかに」と最初に前置きしているので、どこかでその微小な生物が登場するのだろうとファビオは予想する。
「あくまでも大まかに――です。川で言えば下流部分の手前で小さな生物――微生物を入れ、酸素を送り込むよう撹拌することで浄化します。撹拌は人力ではたいへんなので、川の水で水車を回せばいいでしょう」
日本の下水処理設備の仕組みを解説するサイトをタブレットで開いた状態でシュウが説明する。
ファビオは大まかな流れと、必要な設備についてそのタブレットで開かれたサイトで理解する。
その頃、シャルが食事を終え、白目を剥いて舟を漕ぎだしていた。
日本の時間帯では朝の三時ころから動き出し、五時にマルゲリットの店を開いて七時に店を閉める。この夕食会は日本時間では一五時から始まっているのだから、既に十二時間以上が経過していて、まだ十歳のシャルが眠くなるのは仕方がない。
「シャルちゃん。奥の部屋で寝ようか」
「……」
クリスが声を掛けるも、シャルはもう夢の中である。
「あ、オレが連れて行くよ」
カウンターから出てきたシュウが慌ててシャルを抱えて奥の和室へ連れて行くと、そこには既にクリスが座布団を用意して待っていた。
「そっとね、そっと」
「ああ、大丈夫だ」
起こさないようにそっとシュウがシャルを座布団の上に寝かせ、クリスが毛布を被せる。
そして、シャルの寝息を確認したら、二人はカウンターへと戻ってきた。
「シャルは奥の部屋で寝ているのか」
「ええ、そうよ。収穫祭の間は日本での営業も手伝ってもらっていたから、疲れているんだと思う」
エドガルドが尋ねると、クリスがそれに応える。
その収穫祭の主役、プテレアは居心地が悪いのか、身を屈めるようにして出された日本酒を舐めるように味わっている。
プテレアに手伝ってもらう以上、収穫祭と春の祭になれば人手が足りなくなるのはシュウやクリスも承知していたことなので誰もプテレアを責めることはない。寧ろ、責められるならまだ幼いシャルにマルゲリットと裏なんばの両方で働かせてしまったシュウとクリスだろう。
逆に、収穫祭の初日に日本で神戸に遊びに行くという先払いの報酬がシャルに与えられたのだから、シャルも誰かを責めるつもりはない。
「そうか。で、どうする?」
「父上、ここまで話を聞いたのですからあと一つだけ――微小な生物をどこで捕まえればいいんでしょう?」
ファビオは植物等の採集をし、研究する職に就いている。職業柄、下水処理場に必要な微生物の収集方法が知りたくてたまらないのだ。それを聞くまでは帰る気もないといった雰囲気さえ感じられる。
「池や沼などの底に溜まった土を何度か洗って濾していけば茶色くなってきます。それを使うといいのですが、下水処理場となると大量に必要になるので大変ですね……」
「普段は水の中の土に住んでいるということかい?」
「まあ、そんな感じです」
本当は砂利や砂などの不要なものは取り除かなければ撹拌しづらくなる等の問題があるので注意事項としては説明すべきなのだが、今は下水処理場の構造というレベルの話なのでシュウも細かくは説明しない。
「また日本に来れるなら、実際に現地で見学すればいいですよ。予約すれば見せてもらえるようになっていますから」
「なんと! だがオレは明日から軍の仕事でプラドに行かねばならないんだ。この仕事が終わってからでもいいだろうか?」
ファビオはシュウからの提案に小躍りでも始めるかと思わせるほど嬉しそうに反応するのだが、すぐに明日からの仕事を思い出したようだ。少し残念そうに尋ねる。
しかし、それを聞いたエドガルドはファビオの言葉の意図を測りかねていた。
「ファビオ、それは軍職を辞してこの事業に取り組んでくれるということか?」
「父上、現地を見学してから返答させてください。今、この場で返事できることではありませんから」
エドガルドにすればファビオが引き受けてくれれば、この下水事業の計画が前に進むものだと考えている。
実際にファビオが日本で現物を見てくれば、ファビオであれば
一方、ファビオはというと下水処理施設よりも微生物の方に興味を惹かれていた。結果的にその微生物を活かす設備が下水処理施設というだけで、それを作ることができるかどうかよりも、
だが、いずれにしても現地見学をしてから判断するというのは悪くない選択肢だ。
「うむ……」
エドガルドもファビオ本人や連邦王国軍の都合を無視するわけにもいかず、この場では決められないと言われてしまえば強く要請するのも難しい。
「マルゲリットの場合だと下水処理場を作るのに適した場所というのは限られているので、既にクリスとシュウで考えてくれている。あとは具体的な設計と工事の陣頭指揮さえ取れればいいので、プラドから帰ってきてから返事をくれれば良い。一ヶ月もすれば戻るのであろう?」
「ええ、父上。では、約一月後に見学に向かい、返事させていただきます」
下水処理場は北から西を通って流れるサン・リブレムに接する必要があり、マルゲリットの街から下水道が繋がる必要がある。北側は取水口になるので下水処理場は西側に作ることになっている。あとは、水車で反応池の撹拌ができるような立地が前提なので、自ずと場所は限られていた。
「ところで婿殿。わたしも下水処理場の見学に――」
「お父さま?」
「お義父さん?」
エドガルドの抵抗虚しく、シュウとクリスの二人から制止の声が掛かる。
本音ではエドガルドも下水処理場の見学に参加するべきなのであろうが、エドガルドの場合は日本の最新技術を見るとそれをそのまま再現したくなることだろう。
だが、マルゲリットの技術でつくり、維持管理することができなければ意味がない。
ファビオはシュウに連れられて神戸に行き、その技術力の差を充分に理解しているし、ファビオ自身が技術者であることが大きい。
「う、わかった。わかったから……シャルの身元についての話にしよう」
エドガルドも諦めてもう一つの話題に話が変わった。
「――というわけさ。二人はどう思う?」
旧王城内のエドガルドの執務室で話した内容と同じことをファビオがシュウ、クリスに向かって説明した。
そう、シャルの父親が隣国であるフムランド王国の第三王子であるというものだ。
「どうと言われても……ねぇ?」
クリスはシュウを見上げると、困ったように眉を八の字にして声を漏らす。
質問の意図がいま一つ、シュウとクリスに伝わっていないようだ。
「シャルの実の父親がそのアンリ王子だと思ったかどうかという質問ですか?」
「それもある。それに、もしそうだった場合どうするかということ。シャルの身柄をフムランド王国側から求められればどう返事をするか。身柄を渡すのであれば、今から貴族としての教育を受けさせるかどうかというのもある」
シュウの質問に対し、エドガルドが答えた。
場合によっては国と国との間での話になることも考えられるので、ここはエドガルドが答えるのが正しいであろう。ファビオは連邦王国軍としての立場になるが、専門外の対応になっていまう。
「そうですね、条件を考えると可能性は高い気がしますね」
シュウは両腕を組んで少し考えてから答えた。
だが、クリスはまだ納得できていないようである。猪口に注がれた日本酒をくいと飲み干して自分の意見を述べる。
「フムランド王国だと名前はある程度決まったものの中から選ぶって聞いたことがあるわ。だから駆け落ちした第三王子の幼名がロイクであったとしても、シャルのお父さまとは限らないわよね?
それこそ、男性の五〇人に一人がロイクってこともありえるわけでしょう?」
「確かにそのとおりだが、シャルは火の魔法が使え、文字の読み書きと四則演算までできる。こんな教育まで施せる庶民はフムランドにはおらんだろう」
クリスの反論に、エドガルドが他の条件も絡めて可能性を示唆する。
「庶民は難しくても、貴族や大商人であればどうかしら?
それに、どうするかなんてシャルが決めることでしょう? もう一〇歳なんだし……」
「それでも、我らが導かねばならぬこともあろう。例え結婚までの短い間でも父親と暮らせるようになるには、貴族としての振る舞いも覚えねばならぬではないか」
一〇歳となれば、アプレゴ連邦王国、フムランド王国共に「小さな大人」として扱われ、自分で判断することが求められる年齢である。だが、シャル自身が選ぶにしても備えはしておく方がいい。
「お義父さんの言うとおりですね。でも、この件は密偵からの報告を待ってからでも遅くないでしょう。
ここで預かっていることは秘匿されていますし、身も安全ですから」
「まぁ、婿殿の言うとおりかも知れん。密偵からの報告はあと一〇日ほどすれば届くであろうしな。ただ、考えねばならぬこともあるということは忘れないでくれ」
エドガルドも気ばかり焦っている自分自身に気がついたのか、シュウの案に乗ることにした。
「ええ、わかりました」
シュウは返事はしたものの、平凡な料理人である自分がシャルの人生に関わる決断を任されたことに強いストレスを感じた。
「こりゃ、酒でも飲まなきゃやってられませんね……」
こっそりと日本酒の瓶を隠し持っていたプテレアの脳天にチョップを加え、その瓶を取り返すと自分のグラスに注ぎ。またくいと飲み干した。
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