第80話 トビウオのお刺身(2)

 順に並べられた丸盆には規則正しく料理が盛り付けられている。

 左手前には飯茶碗に盛り付けられた炊き立てで艶々の白いごはん。右手前の味噌汁椀には里芋と豚肉を具にした味噌汁が入っていて、九条ネギが散らされている。

 そして、奥には火襷模様が入った四角い平皿に鮮やかな赤の血合いに白い身、銀色に輝く皮をキラキラと輝かせたトビウオの刺身が大葉の葉と大根のケンを枕に横たわっている。


「おおっ!」


 クネールはつい声を上げた。

 とても地味な色合いの皿の上に、生き生きとした生の魚の身がとても映えていた。また、銀色の皮と赤い血合い、白い大根の色彩のバランスも良かったのだろう。


「まるで今まで生きていたかのような新鮮さだ。して、これはどのようにして食べれば?」


 注文したのはいいが、食べ方がわかっていないのでクネールはクリスに尋ねた。

 それに応じるようにカウンターの中心に戻ったクリスは、説明を始める。


「木匙を使うか、フォークを使うかは自由です。また、お手元には箸というものをお配りしています」


 クリスは手元に置いてある箸を取り出すと、右手の人差し指、中指、親指で一本を摘む。


「こうしてペンを持つように一本を持って――」


 そして、もう一本を親指の付け根と薬指で挟むように固定する。


「残りの一本をこのように固定します。そして最初の一本の方を動かして使います。練習が必要かも知れませんが、慣れると便利ですからぜひ覚えてみてください。

 あと、食べる順番ですが最初に右手前にある『味噌汁』をひとくち、その後に左手前にある『白いごはん』を食べるのがマナーなのですが、その先はご自由に食べていただいて問題ありません」


 クネールの商団員たちは右手に持った箸を動かす練習をしながら、真剣な眼差しでクリスの話を聞いている。

 クリスの説明がわかりやすかったようで、みんな正しく持つことができているようだ。


「『お刺身』は、小皿にこの『醤油』という調味料を入れ、そこに『お刺身』をつけて、添えられている摩り下ろした『生姜』と一緒にお食べください。

 以上ですが、何かありますか?」


 クネールやギレルモ、ニコラたち商団メンバーはすぐに質問すべきことが思い浮かばないようだ。まだ手もつけていないのだから仕方がない。


「あと、『白いごはん』のおかわりは自由です。では、ごゆっくりどうぞ」


 クリスは小さく頭を下げると、厨房の中へと下がっていった。







 クネールはまだ慣れないながらも、最初は箸を持って左手で味噌汁椀を取った。

 味噌汁椀の中は味噌が分離していたので、右手の箸を持ってくるりと混ぜると、そのまま口縁を唇にあてて中身を啜った。


「ズズッ……」


 周りに遠慮したのか、できるだけ音を立てずに啜ったのだが、それでも小さな音は出てしまう。

 一瞬、隣の男の方に目を向けるが、特に気にはならないようで、本人もいまは左手で味噌汁椀を持って口元へ運ぶところであった。


 そんなことを気にしてはいたものの、クネールの口の中を通り抜けた味噌汁の香りはふわりと鼻腔へと抜けていく。

 最初にいりこ出汁の香りがやってきて、そのあと舌の上に昆布といりこ出汁の旨味と共に、豚肉の脂の味と赤味噌の塩味と渋み、白味噌の甘味と味噌本来の旨味が舌を包み込む。味蕾の一つひとつが刺激され、一瞬痺れにも似たような快感が舌を襲う。


「ほぅ……」


 初めて入った店で最初に口にする料理としてふわりと湯気が立つほどの暖かさを持つ味噌汁がなぜか心を和ませ、クネールは口からは小さなため息のような音を漏らし、その余韻に浸った。

 そして我に返ると丸盆の上にある白いごはんに目を向ける。


 炊きたてで艶々と輝く一粒ひと粒の米は最適な水分量で炊き上げられていて、ふっくらと柔らかそうに見えつつも、潰れることなくふわりと装われている。

 そこにクネールは慣れない箸を開き、掬い上げるようにその隙間に乗せて持ち上げた。

 すると、思ったよりも白いご飯には粘りがあり、ちょうどよい分量だけが箸に乗って持ち上がる。だが、味噌汁よりも白い湯気は強く、まだ熱そうだ。


「ふぅふぅ……」


 息を吹きかけて冷ますと、クネールは白いごはんを口に入れた。

 ほとんど無味無臭の米粒を噛み始めると、少しずつ唾液に混ざり甘味が出る。そして少しずつであるが、喉の奥へと落ちて消えていく。


「ふむ……」

「どうなさったんで?」


 隣に座る男がクネールに尋ねる。それは、男にとって話をするためのいとぐちに過ぎないのだが、クネールはまだ頭の中で整理できていない。


「ああ、なんでもない。この『白いごはん』というのは、『パン』のように何か味をつけて食べるものではないのだなと思ったんだが……」

「ああ、なるほど……言われてみれば無味無臭でさぁ」


 男はクネールと同じように感じていたのだろう。

 一般的な日本の米は、それ以外の国で主流になっている長粒種の米とは違って香りが少ないので、なんとなく物足りないのだろう。


 クネールはクリスに言われたとおり、味噌汁と白いごはんをひと口ずつ食べたので、とうとうトビウオの刺し身に手を伸ばすことにし、丸盆の中心に置かれている小皿にカウンターにある醤油差しから醤油を入れる。すると、醤油独特のカラメルとフルーツの混ざったような香りがふわりと漂ってきた。

 クネールはその醤油を入れた皿に小指をちょんと浸けて舐めてみる。


 皿に注いだときよりもカラメル感の強い香りが口から鼻に抜けると、舌の上にしっかりとした塩味と旨みが広がる。

 魚臭さを感じさせないので、パブロス王国で使われるガルムとも違うのだが、どこか似ているとクネールは感じた。

 そして、ついにクネールは箸でトビウオの身を摘むと、醤油が入った皿に少し浸し、生姜を使わずに口の中に入れた。


 トビウオはダツ目トビウオ科の魚のこと。

 生体は背中が青い身をしているのだが、プランクトンを餌にし、海面上を飛ぶためか筋肉質で脂が少ない。つまり淡白な味をしている。


 最初、クネールが口の中に入れたトビウオの身は香りも少なく、殆ど味を感じることがなかった。ちょんと着けた醤油の香りが鼻に抜けると、そこから加わる塩気が舌に広がる。ただ、しっかりとした弾力とねっとりとした食感があり、じっくりと噛んでみるとじわりじわりと身の旨みが滲み出してくる。


「あまり味がしない気がしまさぁ。クネールさんの方はどうで?」


 どうもクネールの隣に座っている男は早食い性質のようで、ぱくぱくと口に放り込んではすぐに飲み込んでしまう。だから、この淡白な魚の味を楽しめていない。


「ゆっくりと噛んでみろ。よく噛んでいると味がじわりと出てくるぞ」

「へぇ、やってみまさぁ」


 男は最初に生姜を箸で摘み、それを刺し身に乗せてから醤油に浸けて口へ運んだ。

 生姜の根の匂いがトビウオの刺し身の僅かな臭みをとり除き、噛み続けているうちに辛味の中へ身の旨みが広がってくる。


「へぇ、これは驚いた。旨いです。旨いですよコレは。『生姜』というのがまたひりり辛くて、この魚の甘さみたいなものも感じやさぁ」


 クネールは先ほど、生姜を使わずに食べたのでそこまで感じることはなかったのだが、この男は甘さを感じるという。そこで、クネールは自分も生姜をつけて食べてみることにした。


 まず刺し身の上に生姜を乗せ、小皿の醤油に浸すと口に入れてじっくりと味わうように噛む。

 生姜の香りは根の匂いではあるが、たっぷりと水分を含んでいて、辛味と共に爽やかさを感じさせる。そして、そのひりりとした辛さの中にトビウオの身の甘さと旨みがじわりと浮き上がってくる。


「へぇ、驚いた。メルチョルの言うとおりだ……これは『生姜』と『醤油』がこの『トビウオの刺し身』の味を際立たせてるようだね」


 クネールの隣に座る男の名前はメルチョルというらしい。

 そこにクリスとシャルがおかわり用のお櫃を持ってやってくる。


「お刺身のお味はどうです?」


 クリスはとても淡白なトビウオの刺し身では味が判ってもらえるかどうか不安であった。

 味わうように食べなければトビウオの良さはわかりにくいし、ごはんに合わせて食べるのは難しいとも感じていたからだ。


「淡白だけど、よく噛んでいれば『トビウオ』の味というのがよくわかる。この『生姜』と食べるとまた味が際立って美味しく感じるよ」

「ありがとうございます。『白いごはん』は温かいのでお刺身と一緒に食べるとまた味が変わりますよ。試してみてくださいね」


 そう言うと、クリスはクネールと隣の男の間にお櫃を一つ置いた。


「これ、中はおかわり用の『白いごはん』です。お好きなだけ食べてくださいね」

「おお、ありがとう」

「これは嬉しいね」


 メルチョルとクネールはクリスに礼を言うと、早速とばかりに新しい食べ方に挑戦する。

 左手に飯茶碗を持ったまま箸で生姜を摘み、お刺身に載せるとそれを小皿の醤油に浸けて口に入れると、ひと口、ふた口と噛んですぐに白いごはんを頬張る。


 醤油と生姜の風味が口の中に広がると、そこに頬張った温かいごはんが加わる。すると、先に口の中に入れていたトビウオの刺身が温められて旨味を活性化させる。ただ、刺し身だけで食べたときよりも味そのものが濃くなったように感じると共に、白いごはんの間に入り込んで口の中全体にその味が広がっていく。

 白いごはんと食べると、料理の味をそのままに量が増えたように感じるのだ。


 クネールは口全体に広がったトビウオの刺し身の味を目を細めて楽しみ、メルチョルは遠くを見つめてただ噛み締めていた。ギレルモまでに並ぶ男たちも、初めて食べる生のトビウオの味を覚えるためか、真剣な顔で食べる者、眉間に皺を寄せる者など様々である。

 ギレルモはクネールに対してクリスが説明していたことを聞き取れなかったニコラに説明していた。ニコラはクリスが見えるところではただ見惚れるばかりで、他の人の話など聞いてもいなかったのだ。


 そこでクネールは違う食べ方を試すことにする。

 彼は左手で飯茶碗を持つと白いごはんを口に頬張り、すぐに味噌汁椀と持ち替えて味噌汁をズズッと音を立てて啜った。

 ほんの少しだけ残った糠の匂いと穀物を焦がしたような香りがした白いごはんの隙間に昆布といりこ出汁でできた味噌汁が流れ込む。里芋の表面が溶けて少しとろみがついた味噌汁には崩れた豚肉や豚の脂が浮かんでいて、青ネギがシャクシャクと音を立てると鮮烈な香りを口の中に広げて全体の味を引き締めてくれる。これはトビウオの刺し身とは違い、濃厚な味との組み合わせである。


「美味い……この『味噌汁』と『白いごはん』の組み合わせでもとても美味しい……」

「え? そうなんで?」


 隣のメルチョルがクネールの話を聞いて真似をする間、クネール本人は漬物でも同じことを試しだす。

 その結果は、漬物にも同じ効果があるということ。そして、味噌汁などの味の濃いものを食べたあとに漬物を食べると、次に淡白なトビウオのお刺身を食べるときに、味噌汁の残り香や風味が消えて邪魔をしないということだ。


「これは『白いごはん』を中心に主菜や汁物、漬物を味わう料理なんだな――ということならば……」


 クネールはまるでギアをシフトアップしたかのように料理に向かい合う。

 白いごはんを頬張り味噌汁を飲み込むと、トビウオの刺し身にしょうがを乗せて醤油をつけ、飯茶碗の上にある白いごはんにバウンドさせて口の中に入れる。そして、追いかけるように醤油がついた白いごはんを口に入れる。次に胡瓜の漬物を口に入れてポリポリと良い音を立てるとまた白いごはんを頬張り、味噌汁を啜る。そしてまた味噌汁の中に沈む里芋に箸を刺して口に運ぶと数回噛んでまた白いごはんを頬張り、味噌汁を啜る。白いごはんが無くなれば、自らお櫃の蓋を開いて茶碗に装い、また食事を続ける……。


 無言で勢いよく食べていくクネールの姿に隣のメルチョルは唖然としていて、熱いお茶を持って歩くシャルもぽかんと口をあけてただただ見つめている。

 席が離れたニコラたちは見えてもいないが、明らかに食べるペースが違う。


 そのとき、店の入口から声がかかる。


「クリスお姉ちゃん、来たよ!」

「あ、レヒーナちゃんの声なの。いらっしゃいなのっ!」


 シャルは熱いお茶が入った急須を持ったままの姿勢だったので走り出すこともできず、レヒーナのいる場所に行くことができず残念そうに項垂れている。

 するとクリスが厨房から出てきて応対する。


「レヒーナちゃん、エヴァンさんいらっしゃいませ。奥の四人席にどうぞ」


 クリスは昨日のうちに銀兎亭に向かい、レヒーナに新しいレシピを紹介できるかも知れないから営業時間中にエヴァンと共に来てほしいと伝えていたのだ。

 すると、引き戸を潜って入ってきた他の客を見ようとカウンターに並んだ男たちがそちらを見る。


「あっ!」

「ああっ!」


 エヴァンとニコラが目を合わせて声を出す。

 エヴァンが見つけた干しキノコの商人はニコラだったのだ。


「昨日の商人さんじゃないですか。もうキノコは売れてしまったのですか?」


 エヴァンが焦ったようにニコラに尋ねる。昨日は全然売れていなかった干しキノコだが、売り切れてしまったのでもう店を畳んだのかと心配になったのだ。

 一方、尋ねられたニコラは少し困ったような顔をするが、正直に答える。


「いや、まだ残ってまさぁ。ここで食事を済ませたら昼までお客さんをお待ちして、ダメなら次の街で売るつもりだったんで……」

「そうなんですね、安心しました。今から昨日のキノコを試すところなんですよ。この店の主人はいろんなキノコも知っているので……そして、この娘の親が営む宿で出してもらおうと思ってね」


 その話を聞いて驚いたような顔をしたニコラはレヒーナを見てその宿の名が銀兎亭であるということに気づく。

 クネールたちが使っている宿ではない。ただ、この街に来たときに空きがなくて諦めた宿である。


「そうなんですね……わかりやした。この後、屋台でお待ちしてまさぁ」

「ああ、よろしくね。どちらにしても屋台には行くから」


 エヴァンがそう話すと、ニコラも軽く会釈をして食事に戻る。

 ニコラに干しキノコの販売を任せたのはクネールである。新しい弟子に売りやすい商品を任せるのではなく、難しい商品を扱わせているのは嫌がらせではない。商品の事をよく知り、それをどう扱えばいいかを教えて売れるようになる。だが、商品のことをよく知るにも、客と話をすることがとても大切だ。

 クネールも春から夏の間に収穫される干したモリーユがどのような料理になるのかとても興味を持ったのだが、残念ながらもうお腹がいっぱいだ。


「わたしは食べ終えたからな。先に人数分の代金を払っておくので、食べ終わったら順番に出てきなさい。外には他の客が並んで待っているようだ」


 そう言うと、クネールは銅貨四枚をクリスに渡すと店を出る。

 もし、この店の店主が不良在庫とも言える干しキノコを上手く料理することができたのなら、今夜か明日にでも銀兎亭で食べてみればいいと割り切ったのだ。

 残されたメルチェルやギレルモ、ニコラを含む七人はクネールの言葉を聞いて返事をする。


「「「へえ」」」

「「わかりやした」」

「承知しやした」


 それぞれ違う返事になっているが、クネールはそれを気にすることもせず店の外で待っているようだ。

 ただ、残された七人はそれどころではない。この商団で一番偉いクネールが店の外で待っているのだ。自然と食事のペースが上がる。


 店の正面にある建物の壁に背中を預けると、クネールが小さな声で呟いた。


「人の縁ってのは面白いもんだ……」


 収穫祭の期間でいつもより人が増えているにも関わらず、屋台に買い物に来た客と街の小さな料理屋で出会うのだから、まさにそのとおりである。






 その頃、店内では奥の四人席にエヴァンとレヒーナが向かい合って座っていた。

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