第78話 ニギスの一夜干し(2)

 ことりと小さな音をたて、エヴァンの前に丸盆が丁寧に置かれる。

 エヴァンはこれまでに二度、この店を訪れている。その時と同じ配置で料理が並んでいる。


 一汁一菜。


 主食の白いごはんとは別に一つの汁物、一つの主菜という構成だ。

 丸盆の上での並び方は、正面に底辺を下にした三角形があると仮定すると、その上の頂点に主菜、左の頂点に白いごはん、右の頂点に「汁物」が置かれる。


 いつものように炊きたての白いごはんは、真っ白に輝き、艶々としていて白い湯気をその表面からゆらゆらと立ち上らせている。右隣にある汁物は前回来たときよりも木椀が大きめで、たっぷりの具材が味噌汁の上に小さな島を作っている。その島の頂上には卵黄が乗っているが、表面は白く固まっているが、黄身そのものは固まる寸前といったギリギリの火加減で仕上げられている。


「ゴクリ……」


 エヴァンはその卵黄を見ただけでも口の中にヨダレが溜まってくる。

 養鶏技術がそこまで進んでいないコア異世界では、都市部では鶏卵が結構なごちそうなのだ。その中でもわざわざ卵黄だけを固まる寸前まで温めた料理など滅多に食べられるものではない。

 なお、卵を混ぜて、炒めた玉ねぎとじゃがいもと共に焼き上げるトルティージャなどは街よりも養鶏をしている村などの食べ物である。


 そしてエヴァンは飯茶碗と味噌汁椀の向こうに見える主菜――ニギスを見る。


「あっ……」


 思わず小さく声を出してしまったエヴァンは慌てて自分の口を塞ぐ。

 あまりに久しぶりに目にしたものだからつい声が出てしまい、色んな角度からその姿を確認してしまう。

 真上から覗き込むようにして見てみたり、左隣の客の迷惑を顧みずに乗り出して魚の正面から覗き込んだりと忙しい。

 焼き上がってから時間が経っていないせいか、腹の周りから出る脂がジュウジュウと音を立てている。


「ああ、『ニギス』だ……」


 自分で注文しておきながら、本当に目の前にニギスが出てきたことに驚きつつ、十年ぶりくらいのご対面に胸を熱くし、エヴァンはまた声に出す。


 つい、エヴァンはマナーなど忘れた――実は教わっていないのだが――右手にフォークを持ってニギスに突き刺し、頭からかぶりつく。


「バリバリッ」


 先ずは頭の骨を噛み砕く音がすると、焦げた皮や骨の香りが鼻に抜けていく。

 続けて腹の辺りまでバクリと口に入れて噛む。


 そんなには固くない背骨や腹骨は音を立てることはない。口の中にはニギス特有の仄かな土臭さのようなものを感じるのだが、そんなものは薄らと焼け焦げた皮や鰭の香ばしさにかき消される。そして舌には上品な白身の旨味に、じゅわりと脂が広がり、遅れて内臓のほろ苦さがやってくる。

 ニギスの身は一夜干しにされて水分が抜けたところを炙られていて、本来ならば柔らかい身もポロリホロリと解れる程度に固くなっている。


 エヴァンはもぐもぐとニギスを頬張り咀嚼するが、なにか物足りない。


 何が物足りないのか不思議に思いながら、首を少し傾げるとそれを見たクリスが話しかけてくる。


「少し物足りないなら、ここにある『醤油』を少し垂らすといいですよ」


 その細くて白い指の先が示す白い陶器製の容器には小豆色をした液体が入っていて、小さな穴を指で押さえると倒した容器の大きな口からお手塩皿にチョボチョボと垂れてくる。


「ここの小孔を指で蓋するようにするのがコツなんです。

 この一夜干し、少し塩分を控えるように作られているのでそのまま食べても少し物足りない方もいると思いました」


 クリスはカウンターに醤油差しを戻すと、話を続ける。


「特に肉体労働されている方にはもう少し塩分が効いたものの方がいいんじゃないかとも思います。でも、今は収穫祭の期間中ですからね……お酒を飲む機会が増えると塩分の濃い食べ物がほしいと思う方も多いので、みなさんが塩分を取りすぎないようにと思ってそのままにしているんですよ」

「塩分って摂りすぎるといけないのかい?」


 栄養学というのが発展していない世界なので、干物を扱う店の店主といえど、その辺の知識は低いらしい。


「心臓が血液を体中に送る力――血圧が高くなりやすいんですよ。血圧が上がりすぎると脆い血管があればそこが破れてしまうことがあるんです。それが頭の中なら……」


 クリスは俯いてしまう。信じてもらえるかどうかはわからないが、知っておいてもらっても悪くない知識である。

 それは、自国、自領の民に対するクリスとしての想いも含まれている。


「あ……」


 エヴァンもそれに気がついて、小さく声を上げた。

 クリスもそれ以上を話そうとはしない。ただ、突然倒れて亡くなる人たちがいる。その中の何人かはそれが原因だということを暗に伝えるためだ。


「別に干物が悪いわけじゃないの。腸詰めも、塩漬けも……わたしたちの周りには塩を使うものがいっぱいだからね、でも……知っていれば控えればいいだけのこと。水戻しを念入りにするとかね?」

「な、なるほどな……少し戻し時間を長めに取るように説明することにするよ」


 そう話したエヴァンは醤油差しの小孔を押さえ、ニギスに醤油を垂らすと口に入れる。


 先ほどよりは少し冷えているが、醤油の香りと旨味、塩気が加わって最初の一口よりも美味しく感じる。

 直接的に舌に醤油が触れる分、少量でも塩気は充分に感じるようだ。

 また、醤油の持つ旨味がニギスの身の旨味に相乗効果を与えるようで、更に美味しく感じてくる。


「エヴァンさん、『味噌汁』や『白いごはん』も食べてくださいね。『味噌汁』には塩分もあるけど、塩分を排出する効果もありますからね」


 軽くエヴァンの肩を叩くと、クリスは厨房へと戻っていく。

 シュウの手が空いた時間になったので、キノコの相談でもするのだろう。


 エヴァンは言われたとおり、味噌汁にも手をつける。

 キャベツやジャガイモ、ニンジン、タマネギといったたっぷりの野菜に豚肉と白身だけ固まった鶏卵が載っている。

 エヴァンは卵黄の表面を木匙で破ると、どろりとした黄身と野菜や肉を掬って口に運ぶ。

 豚肉の脂と身の旨味が鰹出汁に溶け出し、野菜の甘味が全体を優しくまとめている。そこに、熱が適度に通った卵黄が加わり、美味しさの底上げをしている。


「美味い……」


 ポトフにも似た材料ではあるが、味噌と鰹出汁のせいで完全に味噌汁に仕立て上げられた野菜は、少しずつ出汁と味噌を吸って柔らかく、濃厚になっていた。


 そこでエヴァンは白いごはんを掬い、口に入れる。

 具沢山味噌汁の味が白いご飯に染み込んでいき、口の中全体が味噌汁の旨味に染まると、徐々にごはんの甘さを残して消えていく。

 次に、また醤油差しから少し醤油を垂らし、二ギスにかじりつくと、白いご飯を頬張る。


 口の中の中のニギスが鰭や皮の焦げた香りを広げ、身の旨みと脂の味がじわりと出てくるタイミングに白いごはんが混ざり、その隙間に入って口の中を埋め尽くす。こうなると、エヴァンの口の中はニギスの身と醤油の旨味、内臓の苦味と脂の旨さでいっぱいになる。

 そして噛み進めると、少しずつ白いご飯の甘さが口の中に広がり、スルスルと喉の奥に落ちていく。


「ああ、美味い……」


 先ほどの味噌汁よりも、更に強い声でエヴァンは呻いた。


 ニギスはこの時期に最も脂が乗る魚であり、獲れたてに塩を振って焼いても美味い。だが、それはタリーファでもなかなかできることではない。でもそれに近い旨さをこの一夜干しは持っていた。


 エヴァンは夢中になった。

 味噌汁を啜り、ご飯を食べてニギスを齧り、また白いご飯を頬張ると、漬物を齧ってまたご飯を頬張る。飯茶碗のご飯がなくなれば自らお櫃から装い、味噌汁を啜ってはまたニギスを齧る。

 特に決まった順番はないが、ごはんを主に味噌汁と主菜のニギスを楽しんだ。


 気がつけばごはんを三杯食べて、ようやく主菜の二ギスがなくなった。


「ふぅ……」


 そうしてエヴァンが一息ついたときのことだった。


「ただいまなのじゃ」


 厨房の奥にまで聞こえるような声を出したので振り返ったエヴァンは右後ろを見た。

 そこに立っていたのはプテレアである。


「おかえりなのっ!」


 シャルが嬉しそうに駆け寄ると、プテレアに抱きつく。

 あまり身長差がないが、痩せ気味のシャルが抱きついてもプテレアは微動だにしない。これは、今はマルゲリット異世界に扉が繋がっているからというのもあるだろう。


「お祭りは明日までなのに、プチレアは帰ってききてもいいの?」

「こらっ! 妾の名前はプテレアじゃ。プチレア……なんじゃそのちょっと珍しい感のある名前は!」


 プテレアはプンスカと怒りだす。


「それは普段は日本でしか働いていないから珍しいかも知れん。収穫祭が始まるとなかなか抜け出すのも難しい……訳ではないのじゃが、それでも滅多に出てこないからと珍しそうな名前に勝手に変えるでない!」


 シャルは舌を出して謝るそぶりも見せない。わざと間違い、プテレアが突っ込むところを楽しんでいるのだから仕方がない。


 プテレアはマルゲリットの街の守り神である神木であり、とても力の強い妖精である。分体も複数作ることができるのだが、収穫祭の間は人目もあるので店に顔を出すのは避けることになっていたのである。

 そんなプテレアが現れたのだから、シュウとクリスも当然驚いた。


「急にどうしたのよ?」

「なんかあったのか?」


 クリスとシュウが心配そうに尋ねると、プテレアは少し俯いて恥ずかしそうに呟く。


「そろそろシュウの作る料理が食べたいのじゃ……」

「そうか、じゃぁ奥の四人席で待っててくれ」


 そう言われて悪い気がしないシュウが千歳以上年上のプテレアを撫でると、なぜかプテレアも嬉しそうに笑顔になって店の奥に走っていった。


 エヴァンがそのやりとりを見て不思議そうな顔をしていると、シュウと目が合う。

 シュウは今のタイミングなら時間が取れるようで、エヴァンの前に立つと、クリスから聞いた話を確認する。


「エヴァンさん、きのこの扱いを考えてるんですって?」

「ああ、そうなんだよ。マルゲリットの人たちは選び方にこだわるけど、食べ方も知らない。食べ方を知らなきゃ、採る気にもならないし、売れないんだ。だから、先ずはわたしが食べ方を知ろうと思うんだが……シュウさんならわかると思って来たんだよ」


 エヴァンはキャベツやじゃがいも、にんじん、蒲鉾、豚肉などの具がたくさん入った味噌汁を木匙で掬い、口に運ぶ。もちろん、トロトロの黄身を少し掬っていて、とても美味しそうだ。


「どんなきのこです?」

「ああ、これとこれ、あとこれの三種類なんだが……」


 シュウは見せられたキノコを見て、ふむふむと頷くと指してきのこの種類を言っていく。


「最初のキノコは『ポルチーニ』、二番目は『モリーユ』、最後は『ジロール』ですね。

 どれも『生クリーム』と相性がいいキノコですが、『モリーユ』は乾燥させて戻してからじゃないと毒がありますし、『ジロール』も食べすぎると中毒になりますね……適量なら大丈夫ですけど……」


 そこまで話すと、シュウは少し残念そうに眉尻を下げる。


「この三種類だと、オレが専門とする調理法には合わないんですよねぇ……」


 クリーム煮で出すとなると、確かに和食を中心とするシュウの店では白いごはんや他の主菜とあまり相性が良くなさそうだ。

 そこでシュウはクリーム煮を出す店のことを思い出す。


「でもまぁ、銀兎亭が出しているパンシチューの具にするのもいいですから、まとめて仕入れておいてもいいかもしれません。特にこの『モリーユ』と『鶏肉』を煮たシチューとか最高です」

「え? ちょっと待ってよ。じゃぁ、わたしのパンの朝食に付けて出せばいいんじゃない?」


 思わぬ提案がクリスから飛び出してくる。

 今のところ、販売開始から一度も出たことがないクリスのパン朝食につけると言うのである。確かに悪いアイデアではないが、ここの客は残念ながら海の魚を使った魚朝食が目当てなのだ。パン朝食に加えたところで原価が上がる一方である。


「うーん、この三種類のキノコなら使い方さえ浸透すれば需要はあるかい? うちの店で使い方を広めていきたいんだ」


 シュウがクリスを宥めようとした時、エヴァンが情熱のこもった力のある声で話しだす。


「最初にこの街にきた頃は、鱈の干物の料理を実演販売してきたんだ。その頃のように、自分たちでまた秋の恵みであるキノコの干物を売るのも楽しそうだと思うんだが、どうだろう?」


 エヴァンのやる気が伝わってくる。

 シュウとしても専門外の料理なら調理法を教えるくらいならば何も問題はない。


「そうですね、使い方は簡単なので問題ないですよ」


 シュウが気安く返事をする。

 ポルチーニはリゾット、モリーユは鶏肉とクリーム煮にでもすればいい。戻してさえおけばどちらもそんなに時間がかかる料理ではない。


 そこでエヴァンも大事なことを思い出す。


「あ、これは収穫祭の間にだけ来ている商人から買ったんだ。明日で収穫祭は終わってしまうし、明日でも構わないかい?」


 実際に料理を食べてみて、それで行けそうなら交渉する。

 エヴァンはそのつもりのようだ。

 シュウもその気持ちがわからないでもない。


 シュウはカゴを持ってくると、エヴァンの前に差し出す。


「ひと掴みずつ置いてください。水戻しが必要なんで仕込みの際にやっておきます。明日の営業時間中にいらしていただければ、調理して出せるようにしておきますよ」

「おお、ありがとう」


 エヴァンは笑顔で三種類のキノコの干物をカゴの上に並べていく。

 サービスのつもりなのか、結構な量だ。


「それと、銀兎亭の人にも試してもらいましょう。『モリーユ』や『ポルチーニ』はパンシチューの具にもなるし、『ジロール』は『トルティーヤスペイン風オムレツ』の具にもなる。安定した卸先があると便利でしょう?」


 商品を「卸す」という手段を提示して、シュウは安定した販売先を確保できるように話を進める。


「じゃぁ、銀兎亭にはわたしから話を通しておくけど、『モリーユ』はうちのパン朝食でも試したいから、多めにもらうことってできる?」


 そして、クリスはパン朝食の道を諦めてはいない。

 実は先日のホットドッグが好評だったので、収穫祭が終わってからは売れると思い込んでいる。

 そしてこの言葉が意味することは、シュウだけが知っているのだ。つまり、「今日の賄いはこれで決定」ということである。


 しかし、この「クリスのお願い」というのは貴族からの命令みたいなもの。エヴァンも断るわけにいかない。


 元々、両手にいっぱい程度しか買っていなかったモリーユは全て笊の上に載ってしまう。

 まぁ、エヴァンも調理法を知らない以上は残っていても仕方がない。


「ありがとう、この分のお題は明日でいいかしら?」


 他の客もいる中で仕入れ値の値段は避けなければならない。


 商売をする上では当たり前のことだが、クリスはそれを卒なくこなす。


 それを見ているシュウは、クリスをとても頼もしく思うのだが、たぶん自分が発した言葉


 ーーこの『モリーユ』と『鶏肉』を煮たシチューとか最高ですーー


 が招いた事態に軽い目眩を覚え、少しずつ入れ替わり始めた客のためにニギスを焼き始めるべく厨房へと戻った。






 エヴァンは魚朝食を食べ終えると、西通りの路地にあるキノコの干物を扱っていた店に戻る。

 店は他のの商品の売れ行きはまずまずなのだが、干しキノコががほとんど売れておらず、店主も少し渋い顔をしていたのだが、唯一干しキノコを買ってくれた客、エヴァンが戻ってくると難しそうな顔を綻ばせ、軽く微笑んで応対する。


「さっきはありがとう。でも、やっぱり売れ行きはサッパリだ……」


 店主はとても力なくエヴァンに話しかける。売れ残りのきのこを抱えて、困り果てているといった感じだ。


「ああ、それでね……ある店の主人に相談してみたんだよ。それで、特にこの『モリーユ』を使った料理にすごく興味があるんだ。もちろん残りの二つもなんだけどさ、まさかもう店じまいして次の街に行こうとか思ってないよね?」


 店主は俯き気味だった顔を上げる。

 店主としてはマルゲリットの街に入って露店を開くのも一苦労であった。その苦労を考えると、早めに店を閉めて次の街に入るのも悪くないと考え始めた時期であった。


「いや、まぁ……これだけ売れなきゃ、それも考えまさぁ……」

「やっぱりそうかい。じゃあ、せめて明日の昼まで待ってくれないか?」


 店主は不思議そうに首を傾げる。


「値段交渉させてもらうが、全部買い取るかも知れないからね」

「ああ、もちろんだ」


 エヴァンの言葉に日焼けした店主は白い歯を見せ、微笑んだ。


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★ お知らせ ★

2020年3月1日より、シュウとクリスの出会いのエピソードを綴った「朝めし屋-二人の出会いの物語-」を投稿しています。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054894435274


お時間ございましたら読んでいただけますと幸いです。

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