第76話 秋刀魚のなめろうと骨煎餅(2)

 味噌汁椀と違い、キノコ汁は丼物でも入れるのではないかと勘違いしそうなほどに大きな器である。それが丸盆の中で存在を主張しているせいか、地味な色合いの「秋刀魚のなめろう」が小さく見えてしまう。

 だが、一人につき一匹以上の身を使ったなめろうは、なかなかのボリュームだ。


「そういえば、まだ言ってなかったな――最初に汁物、次に『ごはん』に手をつけるのがマナーらしい」


 オセフがイサークに基本的なマナーを説明すると、見本を見せるように大きな汁物椀を左手にとって、湯気が出るほど熱いせいか、最初にひゅうひゅうと吸い込む音がしたあと、口縁に口をつけてズズッと汁を啜る。

 啜った勢いで口に流れ込んだキノコの傘を、シャクシャクと奥歯で噛む音を立てながら、オセフはちらりとイサークを見る。

 オセフの「どうだわかったか?」と話しかけるような目に、イサークは何も言わず、ただ頷いて左手で大きな汁物椀を取る。

 見ただけで複数のキノコが入っていることが解る。ぶなしめじ、えのきだけ、しいたけ、まいたけ、なめこ……そこに、焼き豆腐と摩り下ろされた長芋が掛かっている。醤油仕立ての汁物なので、汁そのものは濃い茶色をしているのだが、そこから香る匂いはカツオ出汁の香り。ふうわりと広がるその香りは、店の中に入ったときから感じていたとても「旨そうな」匂いだ。

 ただ、イサークは山育ちの人間である。キノコの恐ろしさも知っているので、オセフをはじめ他の客が口をつけている以上は安全であることは理解しているものの、木匙を持って入っているキノコの種類を見極めていた。


「ん? なんですぐに食べないんだ?」


 オセフはイサークの行動を見て、不思議そうに尋ねる。

 海辺育ちでキノコに縁がなかったオセフにとっては、店として出している以上は安全なものであるという安心感がある。海で捕れる魚にもフグを代表とする毒を持った生き物がいて、それを店で出すなど考えられないからだ。

 だが、イサークは山育ちで考え方も違う。


「いや、大丈夫なんだろうとは思うんだが……山育ちの人間はついキノコを食べるときは慎重になるものなんだよ。傘の裏の色が違うとか、軸の色が違うだとか、斑点の色が違うだけで毒キノコになることもあるんだ。だから、そう簡単に口に入れられる習慣はついてないんだ」

「なるほどねぇ……」


 イサークの言い分を聞いて、オセフも納得したように頷く。ただ、毒が入っている可能性があるというのなら先に知らせてほしいものだ。


「で、毒がありそうなキノコは入ってたのか?」


 オセフの言葉を聞いて、イサークはひと通り汁物椀の中を見る。


「見たことがないキノコも多いからわからないが、お前が生きているから多分大丈夫だろ?」


 実際に不思議そうに汁の中に沈むキノコを木匙で掬い、イサークはオセフの顔を見て言う。


「おいおい、オレは毒味役じゃねぇんだぞ?」


 これにはさすがのオセフも苦笑いしつつも、眉を顰める。

 こうしてオセフとのやり取りを終えたイサークは、ようやく汁物椀のキノコ汁に口をつける。


 口縁に口を付ける前から吸い込まれる湯気には、豊かな鰹出汁の香りとキノコの香り、醤油の香りが一体となって鼻腔を擽り、通り抜けていく。ズズッと音を立てて吸い込んだ汁は、なめこと長芋の成分でとろみを帯びていて、ゆるりと口の中に入ってくる。

 舌先に触れたキノコ汁は、砂糖と醤油、酒などで味付けられていて、バランスのとれた甘味と塩味、出汁の旨味などが一体となって舌を包み込む。

 口に入ってきたなめこはぬるりとした変わった食感だが、噛めばしっかりとキノコらしい繊維質が感じられる。


「いろんな味がスープに染み出しているし、楽しいスープだな」

「ああ……」


 イサークがぼそりと感想を述べると、長年連れ添った仲間のようにオセフが相槌を打つ。

 もともと、二人はそんなに言葉を交わす方ではなく、仕事の内容で互いを評価してきた仲である。仕事をするなら、次もイサークと組みたいとオセフは思っているし、イサークも同じようにオセフと組んだ仕事がしたいと思っている。

 そんな二人には、時には言葉などなくても考えていることが通じることもあるのだろう。


 そして、イサークは白いごはんに木匙を差し込み、口の中に放り込む。

 普段食べている硬いパンとは違い、柔らかい米粒には殆ど匂いがない。ただ、噛んでいればじわりじわりと甘味を感じ、するすると喉の奥に消えていく。

 この街のパンは硬く、しっかりと噛むには唾液が相当吸い取られるのだが、ふっくらと柔らかく炊き上げられた白いごはんは適度に湿り気があって食べやすい……などと考えながら、イサークはついに、「秋刀魚のなめろう」に手をつけることにする。


 木匙で突いてみると、表面はねっとりとしているが、包丁で叩かれているので硬さはない。

 次に、一口サイズに木匙で掬ってみると、ほろりと解れ、木匙の壺部分にころりと入った。

 イサークは中身を落とすことが無いよう、そっと目の前にまで木匙を持ち上げる。


 緑のハーブらしい葉が刻んで入っていて、そこから爽やかな香りがふわりと漂ってくる。また、青ネギが同じように刻まれ、茶色い味噌、魚の赤い血合い部分と皮を剥いた銀色の腹の身、青い背の身が丁寧に叩かれて混ぜ合わされている。


「これは……生の魚じゃないか?」


 イサークは目を丸くしてオセフを見る、

 オセフは平然と……いや、既に「秋刀魚のなめろう」と白いごはんとの相性に気がつき、かなりの速度で食べ始めていた。


「んぁ? そうだな……でも、美味いからいいだろう」

「いや、ここまで馬車で十日もかかる場所から運んできた魚だろう? 腹壊さねぇか?」


 慌ててイサークがオセフに確認するが、オセフは全然同様する素振りもない。


「少なくとも、ここ数ヶ月の間に魚を食って腹を壊して死んだってヤツの話は聞いたことがないが、ずっとこの店は海の魚を生でも出してるらしい。つまり、なにか特別な方法があるってことだろう?」


 オセフが言った言葉に、周囲の男たちも頷く。


「ああ、クリスの知り合いに空間魔法とかいうのを使える人がいるらしいんだ。一度行ったことがある場所なら、あっという間に移動することができるそうだよ」


 仕方がないと言わんばかりに、イサークの右隣に座った巨漢男が少年のような声で説明した。

 そこにシュウがお櫃を持ってカウンター前に現れる。丁度、イサークたちが話をしていたことを聞いていたようで、お代わり用のお櫃を配りながら続きを説明する。


「すみません、特殊な魔法で使える人も希少だそうで……この『秋刀魚』は昨日の朝に捕れたものを生きたまま氷漬けにして運んできたものですから新鮮です。安心して食べていただけると思いますよ」


 通常は輸送に十日はかかるマルゲリットの街に、新鮮な魚が届いているというのはとても信じがたいものである。

 ただ、魔法でここまで持ってきたと言われれば、イサークにも言い返す言葉がない。


「なぁ、オレ達の仕事も信用商売ってところがあるだろう?」

「ああ、そうだな……」


 突然のオセフからの問いに、イサークは些か狼狽え気味に返事をする。


「この店も一ヶ月近く信用されるだけの商売をしているんだ。お前ももう少し信用してみたらどうだ?」


 オセフの言うことももっともだ。この店は信用出来るだけの実績を十分に積み重ねている。ただ、山育ちの男が海の魚を生で口にすると言うのは本当に勇気が求められることなのだというのをオセフが知らなかっただけだ。


「そ、そうだな……そうするか……」


 イサークは右手に持った木匙のなめろうを口に入れる。


 最初に感じるのはやはり大葉の香りだ。バジルに似た爽やかな香りがフワッと口の中に広がり、噛み締めるとネギの香りと秋刀魚の脂が持つ特有の香りが広がってくる。

 叩いて潰された身はねっとりとしているが、練りこまれた味噌と醤油、酒などの調味料が舌に溶け出すと、秋刀魚の脂と身の旨味とともに舌を包み込む。


「美味いが、少し塩辛いな……」


 塩を含む味噌や醤油で味をつけているのだから仕方がない。だが、そこでイサークは先ほどシュウが言った言葉を思い出す。


 ――お酒にも、白いごはんにも合う料理――


 つまり、まるでスライスした焼き立てのパンにチーズやハムなどを乗せて食べるように、白いごはんとともに食べるものだとイサークは理解した。

 実際に、ガツガツと夢中で秋刀魚のなめろうと白いごはん、キノコ汁を楽しんでいるオセフや隣の大きな男を見ても間違いない。


 イサークは、秋刀魚のなめろうを木匙で掬って口に運んで数回噛むと、直ぐに木匙で白いごはんを掬って口に放り込む。

 最初は大葉の香りが口に広がるのは変わりはないが、白いごはんを口に入れたことで、味噌や醤油の塩辛さが柔らかくなるとともに、温められたサンマの脂が優しく口の中に広がる。ピリリと生姜の辛味も効いてくるが、噛むほどに白いごはんの優しい甘さがそれを和らげる。


「美味いっ! 美味いなっ!」


 イサークは、キノコ汁を啜るオセフの背中を叩き、結構な大声でこの味との出会いに対する喜びを表した。

 ちょうど飲み込んだところだったので口の中のものを吹き出すような惨事を起こさなかったが、オセフはあまりに突然のことで目を丸くして驚いている。


「ありがとうなの! お代わり用の『ごはん』を持ってきたの」


 突然、目の前で男性が背中を叩かれるところを見て驚いたシャルも、最初は動けなくなってしまったのだが、その言葉が褒め言葉であることに気づき冷静に対応した。


「いっぱい食べてなのっ」


 二人組で入ってきたオセフとイサークの間に大きめのお櫃を置くと、シャルはお辞儀をしてから隣の客――ウォーレスの分のお櫃を取りに厨房に入る。


「あのなぁ……食ってる時に背中を叩いたりするんじゃねぇよ――」


 オセフが呆れたようにイサークに文句を言うと、イサークも「すまんすまん」と後頭部に手をやって謝罪する。


「このキノコ汁も、『白いごはん』によく合うぞ。もちろんそこにある『漬け物』も美味い」

「そ、そうなのか?」


 オセフがキノコ汁や漬け物とごはんとの相性を教えると、イサークは飯茶碗に大盛りのごはんを装う。


「この店は、『ごはん』を美味しく食べさせる店なのだな……」


 イサークはそう呟くと、キノコ汁を啜り、続けて白いごはんを頬張る。

 それを見ていたオセフは、イサークの言うとおりかもしれないと独り納得して食事に集中した。






 オセフやイサークが二杯目も食べ終える頃になると、シュウがカウンター内に現れ、カウンター席の全員に聞こえるようは声で話す。


「あと、魚を捌くとどうしても中骨がでるので……これを皆さんにお配りします」


 左手の銀色に輝くステンレス製のバットから、菜箸で取り出したのはサンマの骨煎餅だ。


「中骨に残った身肉に『片栗粉』を振って油で揚げ、塩で味付けしてありますから、そのままでどうぞ」


 オセフから順になめろうが乗った皿の端に置いていく。イサークはその隣だからすぐに皿の上に骨煎餅が置かれた。


 からりと揚った表面からは油の匂いがふわりと立ち昇り、四角くてとても微細な塩の粒が表面でキラキラと光る。揚げたての衣はまだジジジと音を立て、湯気とともに熱さを伝えてくる。


 イサークはまだ熱そうに湯気を立てる骨煎餅を右手で摘む。


「あつつっ!」


 すぐに火傷するほどではないが、口元にまで持ってくるには遠かったのだ。

 それを見たオセフが手元にある四つ爪のフォークを持って、骨煎餅に突き刺す。


「パリパリッ」


 とても小気味よく、乾いた音とともにフォークが刺さる。

 オセフはイサークに見えるよう、骨煎餅を口に入れて齧る。


「パリリッ……サクッシャクッ……」


 フォークを刺した時と同様に、乾いた音を立てて骨煎餅がオセフの口の中に消えていく。

 イサークも負けじとフォークを持ち、骨煎餅に刺してガブリと齧り付いた。


「バリッパリッ……サクッサクッ……」


 軽快で小気味良い音を立てて口の中に骨煎餅が砕け、香ばしい香りと秋刀魚の身の風味が口の中に広がる。本来捨ててしまう中骨は、絶妙な塩加減で残った身の旨さと骨の香ばしさが引き立てられていた。

 特に喉に刺さるような違和感もなく、骨煎餅を飲み込んだイサークは今度は自分の膝を叩いて旨さを表現する。


「これは酒を飲みたくなるな!」

「ああ、そのとおりだ!」


 イサークとオセフは同じ気持ちだったようで、つい軽く盛り上がる。

 たまたま居合わせた他の客も同様に首を縦に振っているが、祭りだと言うのに振舞われる雰囲気さえもない。


「酒……飲みたいなぁ……」


 ボソリと呟くイサークに、誰も返事はしない。

 外で席が空くのを待っている人たちがいるのだ。イサークを除く他の客はそのことに気付いていて、同じように我慢しているのだ。


 少し虚しい気分になりながら、イサークは汁物碗を左手に持って、キノコ汁をずるりと啜り、また白いごはんを頬張った。







 イサークとオセフが食事を終える頃になって、テーブル席に捕まっていたクリスが戻ってきた。

 オセフにとっては、クリスとイサークを会わせるのが本来の目的であるし、クリスにとっても石工師であるイサークから話を聞きたくて仕方がなかったのである。

 それが開店前に突然のマルティ伯爵の訪問である。平民のシャルやシュウに応対を任せるわけにいかず、かと言って先日のようにラウラだけをケアすればいいと言う状況でもないのでほとんどカウンター席に顔を出すことができなかったのだ。


「いかがでした?」


 まずはオセフに感想を尋ねる。


「生の『秋刀魚』はダズールでも食べられないもの……堪能しましたよ。それに、キノコ汁というのも『白いごはん』によくあって美味しかったです」

「まぁ、ありがとうございます!」


 クリスは両手を合わせ左足一本で立つようにして嬉しそうなポーズをとる。


「それで、イサークさんはどうでした?」


 イサークは少し困ったように眉尻を下げた。

 いや、料理は気に入ったし、実に美味しかったのである。ただ、先にオセフに言いたかったことを言われてしまったのだ。

 でも、すぐに表情を緩めてできるだけ丁寧に返事をする。


「オセフの言うとおりですね。それに、骨煎餅が気に入った。あれで酒を飲んでみたいものです……」


 当たり障りのない返事に、骨煎餅のことも加えてなかなかの返事ができたとイサークは思った。


「まぁ、骨煎餅は『日本酒』があいますよ。機会があればお出ししたいんだけど……うちは朝食だけですからね……ごめんなさいね」


 クリスは本当に申し訳なさそうにイサークの感想の言葉に応えると、続けて本来の目的について相談を始めら。


「ところで、この街の下水工事を始める話は知ってるかしら?」

「ええ、話は聞きました」

「俺たち大工には直接関係しないように思ってるんだが……」


 イサークとオセフで受け取り方に違いがある。


「うーん、下水工事の前に町をある程度拡張しないといけないの。ほら、工事をする人たちも他の街から来るし、宿屋や集合型の住宅を増やしたいの。そうねぇ、三十室ある宿屋を一軒、五階建ての集合住宅を一棟建てるのに必要な材料と職人の数、費用が知りたいのよ」

「そりゃまたなんで? 役人の仕事でしょう?」


 イサークが不思議そうに尋ねる。オセフも同じ意見のようで、うんうんと頷いている。


「大きなお金が動く時は汚職も増えるし、街に人が集まれば商人も増える。流通量も増えて、様々なものに需要が増えると物価も上がる……そんなことも含めて長期にお金を工面しないといけないから、現場の声を参考にしたいの」


 イサークとオセフは両腕を組んで考え始める。

 クリスの話は正しい。数年間かかる街の拡張に人が集まれば、必ず物価が上がる。すると、職人の工賃も上がるのだから、誠実な仕事をしない役人に任せるより、クリスに情報提供する方が安心というものだ。


「わかった。見積もりをしてみよう。で、その見返りは?」

「そうね……このお店での夕食会に招待するわ。お酒も出るわよ?」


 二人には言わないが、エドガルドも同席するアレである。


 だが二人は目を輝かせて、頷く。


「その話、乗った!」

「オレもだ!」


 オセフとイサークは即答する。

 ただ、石工師と大工だけでは家は建たない。


「あと、内装工事をする左官屋とかにも声をかけてもらえるかしら?」

「おう、問題なしだ。で、いつまでに?」


 クリスは顎に人差し指を当てて宙に視線を泳がせる。

 直近であれば、祭りの最終日であるがその翌週でも問題はないと判断する。


「この店の次の休みの日が四日後なんだけど、その次の休み――十一日後でいいかしら? 時間は夕一つの鐘から二時間ね」

「わかった」

「うん、では左官工や瓦職人などはオレから声をかけておくよ」


 こうして、オセフとイサークはクリスのプロジェクトに参加させられることが決定したのだった。


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