第75話 秋刀魚のなめろうと骨煎餅(1)

 翌朝、予定通りにオセフがイサークを迎えに来ると、また中庭でイサークを呼び出す。


「大工のオセフだ、イサークはいるか?」


 普段なら中庭の壁に反響して本人が思ったよりも大きな声になるのだが、オセフもまだ起きて時間が経っていないせいか、声が少し枯れている。ただ、それでも充分に各戸には声が届いたのか、あちらこちらの窓や扉からこちらを伺う視線が感じられる。

 すると、正面の住居の扉が開き、巨体がその前に姿を現す。


「おう、おはようさん」


 寝起きからあまり時間が経っていなかったのか、イサークはボサボサの髪にとりあえずいつもの仕事着を着て出てきたという雰囲気でのそりと顔を出す。昨日も酒盛りをしたのか、吐く息が酒臭い。

 その息を嗅がされてオセフは顔を顰めるのだが、収穫祭の期間であることを考えると酒臭いのはどうしようもない。また、着ている服も洗ったばかりの仕事着のようなので問題はない……のだが、寝癖でボサボサの髪でこれから領主の娘に会わせるわけにもいかない。


 オセフは両腕の拳を自分の脇腹にあてて、イサークを見つめると言った。


「酒臭いのも、仕事着で会うのもいいんだが、髪は少し手入れしてきてくれないか?」

「んぁ? どうしてだ?」


 そもそも今日の面会相手を説明していなかったことがいけなかったとオセフは頭を抱える。

 イサークの仕事内容からすると普段は役人を通して仕事を命じられるのが基本なのだから、そこまで気合を入れて準備をしていないというのもオセフには理解ができる。自分も普段ならそのような接し方をしているのだから、間違いない。

 ただ、上客であることは昨日のうちに伝えてあるのだから、収穫祭の時期でこのマルゲリットの街にやってきている貴族連中クラスが相手になるであろうことくらいはイサークも想像し、身なりくらいは気をつけるだろうとオセフは思っていた。


「今日の面会相手は、上客だと話さなかったか?」

「ああ、そんなことも言ってたっけか?」


 オセフの言葉に、イサークは悪びれる様子もなく返事をした。

 ただ、寝癖というのは簡単に取れるものでもない。現代日本のように寝癖直しスプレーやヘアドライヤーがあるわけではなく、すぐどうにかなるものでもない。


「まぁ、その髪なら帽子でも被ってきたらどうだ? 店に着くまでに落ち着くだろう……」

「ああ……」


 アルコールが残ってぼんやりとしているのか、いまひとつはっきりとしない返事をしながらイサークは家の中にもどると、キャスケット帽を被って戻ってきた。

 これなら寝癖を直せる程度には髪を押さえつけられるだろう。


「ところで、これからどこに行くんだ?」


 すこしは覚醒してきたのか、イサークがオセフに尋ねる。

 元々、今から向かう朝めし屋のことはろくに話をしていなかったので、オセフは道すがら朝めし屋のことを知っている範囲で話し始める。


「ああ、今から向かうのは朝めしを出す店なんだ。でもただの店じゃない……生の海の魚を扱う店なんだよ」

「へぇ、そりゃ珍しいな。海までは『馬車』で十日はかかるってのに、どうやって運んでんだ?」

「そこはオレも知らんなぁ……」


 オセフも昨日初めて入った店である。

 客の数も多かったし、逆に質問攻めにあっていたせいもあって肝心なことなのだが尋ね損ねていたことの一つである。


「まぁ、オレもそこは興味があるところで、今日は訊いてみようと思っているんだがな?」


 オセフは、途中で意図的にイサークが口にすることになる料理の話に向ける。


「昨日は、『秋刀魚の炊き込みご飯』という料理に、『しじみ』という貝が入った味噌汁というスープが付いていたんだが、まずこの『しじみ』のスープが美味い。オレも一昨日はかなり酒を飲んだんだが、このスープを飲んだら残っていた疲れが取れたようでなぁ」

「ほお、貝のスープなんてものはオレもみたことがねぇな……そんなに効くもんか?」


 イサークは少し訝しげな目でオセフを見る。

 イサークは石工師である。海辺にも石が取れるところがあるが、実際には採石場は山になっていて、石工師も山育ちが多い。もちろん、イサークも内陸の山育ちで、海の貝や魚などは口にしたこともない。


「食べてすぐ実感するものじゃないんだ。じわじわと効いてくる感じだな。二日酔いの日はいつもなら昼2つの鐘くらいまで酒が残って怠いだろう?


 オセフはわざと表情を怠そうにし、二日酔いのときの顔を真似ようとする。

 そして、その顔をイサークが見たことを確認すると話を続けた。


「それが、昼一つの鐘の時間には抜けてるような感じだな。それに、独特の味があって、舌から染み込んでくるような感覚がするんだ……なんかこう……」


 オセフは両手を顔の前で開いた状態で何かを表現しようとしているのだが、言葉がでてこない。その両手は小刻みに震えるばかりで、特に何かの形を示そうとしているようにも見える。


「なんか……どうした?」

「すまない、オレの頭にある言葉では表現できそうにない……」


 オセフはがっくりと肩を落とす。

 恐らく、しじみの旨味のせいで舌がキュッとなる感覚のことを伝えようとしているのだろうが、言葉にならない以上、イサークに伝わることがない。


「海辺育ちのオセフが言葉にできないってんなら、山育ちのオレにはもっと難しそうな味ってことだな?」


 イサークはニヤリと歯を見せ、少し皮肉を込めたような笑みを見せる。

 こうして店に向かっている以上、「上客」というのはどんな相手なのか知りたいのだ。特に心の準備として……。

 だから、話が途切れたこのタイミングで、イサークはオセフに尋ねる。


「ところで、上客って誰なんだ? この収穫祭でここに来ている貴族の誰かなのか?」

「いや、それならその貴族の屋敷に呼ばれるだろう?」

「それもそうか……」


 オセフの返事に、イサークはなるほどと納得しつつ、視線を宙に向けて彷徨わせる。

 この街に住む上客となる人物で、朝食を専門に出す店で平民たちと一緒に食事をするような気さくな人……となると誰も思い浮かばない。


 イサークが唸りながら相手を予想しつつ歩いていると、東通りに到着した。

 東通りは収穫祭の時期とは言え、西通りや中央通りよりは人通りも少なく、歩きやすい。


「ようやく東通りに着いたな。目当ての店はその先なんだが……」


 オセフが四つ辻の方を指しているが、そこには貴族が乗る馬車が留まっている。

 車両部分にはマルティ伯爵家の家紋が描かれており、明らかに伯爵本人か、その家族が来ていることを示している。


「すまない、お貴族様も利用する店のようだ……」


 申し訳無さそうに、オセフが呟いた。







 店先に到着すると、護衛の傭兵らしき男ふたりと、馬車が移動を始める。

 店が小さく、狭い上に貸し切ることができないため、実際に食事をする貴族の人たちだけが残ったということだとイサークは理解する。

 ただ、他の客はまだ入ることができないようで、閉じた店の扉には「準備中」の札が掛かっていた。


「たぶん、俺たちのような平民が気を使わなくて済むように、気を遣っているんだろうな。それで、俺たち平民はここから並ぶのが決まりごとになっているみたいだ」


 オセフは店の入口に続く階段の横に立ってイサークに後ろに立つよう促すのだが、イサークの方は不思議そうな顔をして周囲を見回す。


「なぁ、この店の周りだけ異常に綺麗じゃないか?」


 イサークの声にオセフは改めて周囲を見る。

 中央通りや西通りであれば散乱している汚物が一切無く、心做しかこの辺りは匂いが無いように感じる。この収穫祭の期間であれば吐瀉物なども路上に散乱していることもよくあることなのだが、それさえも見当たらない。


「あ、ああ……本当に綺麗だな……」


 ようやく後ろに並んだイサークの方を向いてオセフは呟く。

 他の客もそろそろ集まり始め、二人目、三人目がイサークの後ろに並ぶ。


「クォーンカーン……クォーンカーン……」


 朝二つの鐘が鳴ると、「ガガラッ」という音とともに引き戸が開き、月白色の髪をした瑠璃色の瞳をした少女――クリスが現れると、二枚の布を通した竹の棒を店先に掛ける。


「おはようございます。

 あら、今日はオセフさんが一番乗りですね……後ろの方は昨日お願いした?」


 暖簾を掛けて店に並ぶ人の方に向かって挨拶するため、クリスが向きを変え、ふわりと髪を靡かせると、バラのような香りがパッと広がる。


「おはようございます。そのとおりです、彼が石工師のイサークです」

「クリスです、よろしくお願いしますね」


 オセフの紹介を聞いて、クリスが右手を胸に当てて腰を少し落として挨拶をする。

 だがイサークは口をぱくぱくと動かすばかりで、声が出てこない。


「イサーク、どうした?」

「いや、オセ……オセフ、こっ、こちらの方はクリスティーヌ様では?」


 クリスを指してイサークは尋ねる。


「いや、指すのは失礼だろ……」


 イサークの手を払うと、オセフはクリスに向かって精一杯の作り笑顔を見せる。

 この相手がクリス以外の貴族であったなら、不敬罪で即時首を跳ねられていても不思議ではない。

 だが、クリスは何でもないことのようにイサークに向かって屈託のない笑顔を見せる。


「んー、ここではただの女将なんです。だから、クリスと呼んでください」

「と言ってもなぁ……」


 といえども、相手はこの街の領主の娘である。イサークもすぐには馴染めないなさそうだと、困った顔をした。


「まぁ、少しずつ慣れていってください。じゃ、お店の中にどうぞ」


 クリスの言葉に従い、オセフとイサークは店内に入っていく。

 オセフは昨日入っているので決まり事は理解していた。


「横並びに椅子が並んでるから、奥から順に座るんだ。イサークはオレの右隣に座るんだぞ」

「ああ、わかった……」


 今ひとつ勝手が解らないまま、イサークも店内に入っていくのだが、オセフが初めて店に入ったときのようにあれこれと目に入るものが気になって仕方がない。

 まず最初は店の入口にあった石が目に留まる。ちょろちょろと竹の筒から水が流れて溜まっているが、その石の表面は凸凹としているものの、水が溜まっている部分についてはとても滑らかに削られていて、石工師の腕を垣間見ることができる。ただ、外側については幾分雑だ。

 元は餅をつくために使われていた石臼なので、実用性を重視したものだ。

 だが、イサークにとってはそんなことは関係がない。なぜ外側は雑なのに、内側だけが丁寧に削られているのかが不思議で仕方がない。

 これは何故なのかというのを尋ねたくて仕方がないのだが、前をいくオセフに腕を引かれては仕方がない。ずるずると引きずられるように奥に進んだ。

 そして今度は石を使った床が気になってしまう。

 イサークは足元を見ながら前に進むのだが、ほぼ完璧に同じ大きさに切り出された石がぎっしりと敷き詰められている。目を凝らすとその石が最も硬い花崗岩であることや、表面に凹凸が無いように丁寧に磨き上げられていることに気づく。


「むむむっ……」


 自分の腕であってもできないレベルの床材に思わず唸り声を上げながら、ぐいぐいとオセフに腕を引かれ、イサークはカウンター席に腰を下ろした。とはいえ、気持ちはまだ床の石に向かっているので、椅子を引いた状態で座って、股間を覗くような姿勢で床石の表面を眺めている。


「何か落としたの?」


 金灰色の髪をした少女――シャルがイサークに声をかける。

 その純粋さを現すように透き通ったピンクの瞳には、あくまでも単純にイサークを心配する気持ちだけが浮かんでいた。


「い、いや……なんでもない。なんでもないんだ……」


 イサークは慌ててシャルに返事をするが、シャルは不思議そうに首を傾げると、イサークの前にお茶を置き、広げたおしぼりを手渡す。


「これは、おしぼりなの。手を拭いて、顔を拭いたりするといいの」


 イサークは受け取ったおしぼりを片手に、オセフを見る。

 ちょうど両手を拭き終えたところで、ゴシゴシと顔を拭き始めたのを見て、見様見真似で手を拭くと、まだ熱いおしぼりで顔を拭く。


「あぁーっ……ふぅ……」


 思わずその気持ち良さに声が出る。

 だが、他の客は声を出すこともなく拭いているのをみて恥ずかしくなり、おしぼりを丁寧に畳んで丸めるとテーブルの上に置いた。


 すると、カウンター内にクリスが入ってくる。

 カウンターの向こう側、中心あたりに移動すると、まずは頭を下げてから話し始めた。


「収穫祭の中、みなさまにはお越しいただきありがとうございます。この収穫祭の間のメニューは『魚朝食』だけになっていますが、どうしても違うものがいいというお客さまはいらっしゃいますか?」


 そもそも、朝一番から並んで食べにくる客は今までの営業経験からすると、農場を経営するヤコブや、いまではほぼシャルの顔を見にきているリックなどを除けばほぼ全員が魚朝食目当てなのだ。それに、クリスが店の方針として言っているのだから、断る声をあげる者もいない。


「今日の『魚朝食』は何なんだい?」

「今日は『秋刀魚のなめろう』と『きのこ汁』ね。いつも『味噌』というもので味付けした汁物を出しているけど、今日は『秋刀魚のなめろう』に『味噌』を使っているから、『きのこ汁』は『醤油』というもので味付けしているの。あとは、『白いごはん』が出るわ」


 イサークの二つ隣に座っている男が尋ねると、クリスが答える。

 男は納得したようで、ただ頷いている。


「他に質問とかないなら、皆さん『魚朝食』といいことでいいかしら?」


 クリスが最終確認のためにカウンター席の客に問いかける。


「ああ、いいぞ」

「寧ろ『魚朝食』がいいんだ」

「それで頼む」


 などと声を出す男もいれば、イサークのようにただ頷くだけの者もいる。

 一応は、全員の了承が取れたと確認し、クリスは厨房に向かって叫ぶ。


「カウンター席、全員魚朝食ね!」

「あいよっ」


 厨房からシュウの声がすると同時に、カウンター内と厨房の間の台に四つの丸盆に乗った料理が並ぶ。


「テーブル席、魚朝食四人前ね」

「はーい」


 相変わらずシュウとクリスの息はぴったりで、クリスはすぐにテーブル席に配膳に向かう。

 急にマルティ伯爵家から当主のオラシオと娘のラウラが来店したので、そちらをクリスが主に担当するのだ。

 もちろん、まだ十歳で少し頼りないシャルのフォローはしっかりとしている。


「ところで、シャルちゃん……なめろうってどんな料理なんだい?」


 突然、カウンター席の逆の端から声がした。そこには、最後のおしぼりを渡したばかりのシャルの姿が見える。


「えっと……『秋刀魚』の身から皮を剥がして、調味料とか薬味と一緒に、二本の包丁でグッチャグチャになるまで叩いて混ぜた料理なの」


 酷い説明だが、シャルの話を聞いて客席の男たちは思い思いの仕草で料理の姿を想像する。

 ある者はテーブルに両肘をついて目を瞑り、ある者は宙を見上げて目を閉じる。

 イサークはシャルの説明に、出てくる食べ物の想像をするが、そもそも秋刀魚という魚のことを知らないので諦めた。また、オセフも昨日の料理に乗っていた秋刀魚はすでに炊き込んだ後に解された料理だったので想像することができないようだ。


「あー少し補足しますと、『秋刀魚』は殺人魚とも呼ばれる『ダツ』という魚の仲間で、秋になると美味しく成長するこれくらいの魚です」


 シュウは両手を使って、約三十センチ程度の大きさであることを教える。


「この『秋刀魚』と違って、『ダツ』はこれくらい。夜中に松明などで明かりをつけて漁をしていると海から飛び出して漁師の身体に突き刺さるそうで、それで殺人魚と呼ばれます。怖いですね……」


 またダツの大きさが判るように両手を一メートルほどの幅に広げて、サイズの違いを教える。


「そして、『なめろう』は『大葉』というハーブや、『ネギ』、『生姜』といった薬味と『醤油』や『味噌』などの調味料を加えて刻み、形を整えた調理法です。と言っても、マルゲリットには似たような食べ物はないと思うので、想像しづらいと思いますが……。以前、一度だけ『鯵』という魚で出したこともあるんですけどね……」


 ちょうど厨房から顔を出したシュウが説明すると、カウンターに並ぶ客の顔をざっと見回す。


「その時にいらしていたお客様は今日はいらっしゃらないようですね……。

 当店では特別な場合を除きお酒は出していないのですが、お酒にも、『白いごはん』にもよく合う料理なんですよ」


 そこまで話すとシュウは厨房に入り、丸盆に乗った料理をカウンターと厨房を隔てる台の上に次々と置き、カウンター内に戻ってオセフから順に配膳して行く。


 丸盆の上には左手前に白いごはんを装った飯茶碗が置かれている。

 また、右手前にはその数倍はある木の汁物碗にたっぷりのキノコと焼き豆腐などが入っていて、擦り下ろした長芋がとろりと掛けられている。

 そして、中央には沢庵と野沢菜、白菜の浅漬けが小鉢に盛って置かれており、その奥には俎板皿まないたざらの上に魚の身を荒く叩いて大葉やネギなどと混ぜ合わせ、木葉型に整型された「秋刀魚のなめろう」が横たわっていた。


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