第71話 太刀魚の塩焼き(5)

 むちっとした米粒が噛み締められるたび、染み込んだ出汁と醤油や具材の旨みが口の中に広がる。じゃくじゃくとぶなしめじが繊維を潰されると、じわりと旨味が絞り出される。油揚げからは染み込んだ醤油や出汁の旨みがじゅじゅじゅっと溢れ出す。

 そして噛むほどに口の中に米の優しい甘みが広がり、するすると喉の奥へと消えていった。


「こちらも美味しいわ。優しくて、いろんな味が混ざり合っていて、最後はほんのり甘くて……」


 ラウラはじっくりと咀嚼し、嚥下を終えてから感想を述べた。

 すると、それを見て安心したのか、ベラが茶碗の炊き込みごはんに箸をつける。

 これではどちらが侍女なのかわからないが、少なくとも屋敷で毒見役としては務まっていないだろう。


「もう……あなたは本当に臆病ですわね……」


 小さな口でもぐもぐと食べているベラを見つめ、ラウラは溜息を吐いた。

 その言葉に恐縮したのか、ベラは両肩を竦めて俯くと、静かに口の中のものを飲み込む。


「申し訳ございません……」

「仕方ないわ、そうなるというのも理解できないことじゃないもの……」


 ベラはなんとか謝罪の言葉を口にしたが、ラウラが珍しく容認するような言葉を返した。


 常にラウラに付き添い、身の回りの世話をするだけでなく外出時には毒見役として命を張るのがベラの仕事。幸いにもラウラには毒を盛られるようなことはなかったのだが、毒見役が毒見で亡くなったなどという話は嫌でも耳にする。次は自分の番かと思うと、特に食べ慣れていないものなどは警戒心を抱いてしまうのは無理もないと考えれば、ラウラもベラの気持ちがよく解る。

 だが実際のところ、ベラの場合は育った環境の影響が大きい。マルティン伯爵家で雇われていた両親は朝から晩まで働き詰めで、住み込みの子どもたちは一箇所に集められ、数種類のバリエーションしかない料理を交互に食べて育った。そんな中で育ったせいか、ベラは料理に興味を持てない大人になっていた。だから新たな料理との出会いに期待することがなく、普段から食べているものだけに安堵するしてしまう。


「次は、この『太刀魚』という魚ね……」


 ラウラは改めて丸盆の上、角皿に盛られた魚の切り身を見つめる。

 マルゲリットやプラドの街でも川魚の料理は提供される。海の魚であっても食べ方は同じ。側線に沿って切れ目を入れて身を食べ、中骨を取って裏側の身を食べるだけだ。

 ただ、ラウラはフォークとナイフで食べることに慣れていて、箸で食べるのは初めてだ。


「カンデ、あなた意外に器用ですわね」


 箸の先を使って器用に太刀魚の側線から身を解すカンデを見てラウラが呟いた。

 カンデはちらりと目線を上げてラウラを見ると、不思議そうに首を傾げる。


「わたしは木工品を扱う商人ですからね。この箸という道具の使い方をいろいろと考えていたのですよ。それを試してみているところなのです」


 箸先を開き、太刀魚の身に箸を入れてカンデは話す。

 皮が非常に薄いせいか焦げ目がついているものの、音をたてずに皮が割け、身はホロリと骨から剥がれる。とても身離れがいい。配膳されて数分しか経っていないせいか、身が剥がれた部分からはまだ湯気が上がる。

 その様子を見ていたラウラも自分の皿に目を向けた。

 焦げ茶色に焼けた皮とは香ばしい香りを立てているが、焦げていない部分は白銀色をしていて、鱗は見当たらない。


「とてもキレイな白銀色――真珠のようとクリスティーヌ様がおっしゃってらしたけど、本当ね」


 カンデの箸使いを真似るようにラウラも箸を使って太刀魚の身を解すと、そのまま口に運ぶ。


 皮の焦げた芳ばしい香りに、太刀魚の身から出る青魚のような香りが混ざり、鼻腔に抜けていく。

 ほろほろと解れた白い身を噛むと肉汁がじゅわりと溢れ出し、皮目の脂や塩と混ざりながら舌の上にひろがる。


「おいしい……」


 ラウラは小さな声で呟くと、ひとり微笑む。

 太刀魚は水気が多くとても淡白な味の魚。熱を通すことで味が活性化し、皮目の脂や身の水分が肉汁となって噛んだときに溢れ出る。とても淡白なのでバターなどの油脂との相性がいいが、塩は旨みや身の甘みを引き出してくれる。

 難点は小骨が多いところだ。フォークとナイフであればその小骨を取るのも難しいが、箸であればとても摘みやすい。


「お味はどうかしら?」


 突然、声をかけられてラウラは身体をピクリと動かして驚く。

 配膳される直前はクリスに話しかけたくて仕方がないという様子だったのだが、知らぬ間に目の前の料理にかなり集中していた。


 ラウラが慌てて視線を上げると、クリスが大きめの急須を持って立っていた。


「どれも素晴らしいと思いますわ――」


 貴族の娘らしい作り笑顔でラウラが返すと、クリスも貴族モードで笑顔を作る。

 だが、ラウラはクリスに尋ねたいことがたくさん残っている。


「この汁物の具になっている貝は何という貝ですの?」

「それは『しじみ』という貝よ。昨日から始まった収穫祭で皆さんお酒を飲んでいたし、あなたもかなり男どもに飲まされていたでしょう?」


 ラウラが気になっていたことのひとつ……味噌汁の具になっている貝のことを尋ねると、クリスは嬉しそうな素の笑顔になって説明を始めた。


「――この『しじみ』という貝は二日酔いに効くらしいの。あと、炊き込みご飯のぶなしめじにも同じ成分がたっぷり入っているわ」

「まあ!」


 クリスは今日の料理の組み合わせを考えた真意を伝えるいい機会だと鼻息を荒げる。


「――そういえば、今朝は少し頭痛がしていたのですけれど、もう平気ですわ!」


 確かにラウラは起きたときに頭痛を覚えていたが、いまは気にならない。

 かといって、数分前に飲んだしじみの味噌汁とぶなしめじの炊き込みご飯が効果を見せるとは思えない。どちらかというと、寝起きに数杯も飲んだ湯冷ましの水が効き目を表しているのだろう。

 このラウラの勢いに少し圧されたクリスだが、まだ言っておきたいことがある。


「それに、この『太刀魚』にも同じように二日酔いに効く成分が入っているの」

「まあ! では残さずにいただかなければなりませんわ」


 少し大げさに反応するラウラである。

 貴族の上下関係で言えばクリスは自分よりも上……というより、この旧ナルラ王国の王女なのだから当然であるが、機嫌をとるようにクリスを持ち上げようとする。


「その味噌汁を飲んだときにすごく美味しく感じたのなら、今日のお酒は避けたほうがいいかもしれないわね。ではごゆっくり」


 話をしながら全員に熱いお茶を淹れ終えると、クリスはカウンターの方に戻ろうとする。

 クリスが背を向けたと同時に、ラウラはまたクリスに声をかけた。


「あ、お待ちになって!」

「はい、どうなさいました?」


 クリスは一般の客と同じようにラウラに接する。

 それができるのはクリスの立場が上にあるからだが、クリスとしては客は平等に扱いたいと考えていた。


「クリスティーヌ様にはいくつかお尋ねしたいことがあるのです。まず第一にその髪の香りなのですけれど……」

「ごめんなさい、他のお客様にもお茶を淹れないといけないので、雑談なら食事が終わってからにしてくださると助かります。折角の料理も冷めてしまいますしね……」


 貴族らしい笑顔ではなく、自然な笑顔でラウラの質問を遮るとクリスは軽く頭を下げ、カウンター席の方に向かっていった。


「ぐぬぅ……」


 その背中を見たラウラは呻き声にも似た呟きを残すと、頬を膨らませて拗ねたような表情を見せる。先ほどから何度も会話の機会を躱されているのだから仕方がない。

 ただ、カンデやベラにすればクリスの言い分も一理あるし、基本的に自分の都合で動こうとするラウラの方が分が悪いと思うのだが、こうも自分の思う通りにいかないとストレスが溜まるのも理解できる。


「まぁ、世の中は自分の思うようにいかないものです。意思がある相手を自分が自由に操作できるなら、わたしはもっと成功していますよ」


 カンデは呆れたような顔でラウラを見つめて話すと、ぱくりと炊き込みご飯を口に入れる。

 口の中に広がる旨みと優しい甘みに頬が緩めば、口も軽くなる。


「それよりも、クリスティーヌ様のおっしゃるとおり温かいうちに食べてしまいましょう」

「ええ、食べてしまえばクリスティーヌ様も話してくださるっておっしゃっていましたし……」


 カンデは口に含んだ炊き込みご飯をごくんと飲み込むとラウラに視線を向けてそう話し、ベラもそれに同意した。

 専属侍女である以上、ベラはこのあとに予定されている面談のことも気になる。食事をはやく済ませ、予定通りの時間にマルゲリット別邸に戻りたい。予定しているのはエステバン商会の職人たちによる採寸であるが、外出着のままで面談するわけにもいかない。


「そっ、そうね……」


 少し苛立った姿を見せてしまったことを恥じるように、ラウラは俯く。

 普段は優雅で落ち着いた、いわば貴族然とした態度でカンデに接してきたことを思い出すと、感情を爆発させてしまっていたことに気がついた。貴族の子女としては、はしたない行為である。

 それ以前のタイミングでそれを晒していたことには気がついていないままラウラは丸盆の上にある食事に集中した。







 カンデは別として、貴族の子女とその侍女ともなれば食べ過ぎるなんてことはない。


 普通は……


 胸元ではなく、お腹のボタンをはち切れそうにさせたラウラが背もたれに身体を預けつつ、声を漏らす。


「ふぅ……少し食べすぎましたわ」


 ごはんはお代わり自由な朝めし屋であるが、しじみの味噌汁を二杯も飲み、炊き込みご飯は三杯も食べたのである。主菜である太刀魚は限りがあるので注文したときの一切れだけで我慢をしていたが、漬物があれば味噌汁と炊き込みご飯で十分楽しめた。


 そこに、熱いお茶が入った急須を持ってクリスがやってきた。


「ねっ? いろんなおかずなんて必要なかったでしょう?」


 こぽぽと音を立てながらラウラ、ベラ、カンデの順にお茶を淹れながら話す。

 最初にラウラから言われた品数の少なさに対する不満に対し、クリスが言った通りになったことを丸盆の上の食器が証明していた。


「そっ、そうですわね……」


 直前まで食後の満足感と満腹感を感じてほんわかとした気分になって完全に油断した姿勢をとっていたラウラは、何もなかったかのように取り繕いながらもクリスの言葉に返すと、続けて感想を伝える。


「とても美味しくいただきましたわ。『しじみ』の味噌汁は身体が喜ぶのを感じましたし、『炊き込みごはん』は優しくてほんのりと甘く、そこに『太刀魚』の淡白だけど塩の効いたお味がとてもよく調和して……」


 今食べ終えたばかりのラウラはなんとか簡潔にまとめようとしているが、時間があればいくらでも語れそうな勢いだ。

 そんなラウラの様子を見て、クリスは目を細めて微笑む。


「味付けが『味噌汁』と『炊き込みごはん』、『太刀魚』の三つで分かれているし、食感もそれぞれが違うものばかりなので、交互に食べていれば飽きることがなかかったのかしら?」


 ラウラは感想を交えつつ、クリスに尋ねるように話を締め括ると、クリスを上目遣いに見上げる。

 まだカウンターの方に行ってしまうのではないかと少し心配しているのだ。


「調味料は『味噌汁』は『味噌』、『炊き込みごはん』は『醤油』、『太刀魚』は塩だもの。それに、味噌汁は『しじみ』の『出汁』、『炊き込みごはん』は『昆布』と『鰹節』から引いた『出汁』だから、重なる味付けが無かったというのは大きいのかもしれないわね」


 そんなラウラの心配を他所にクリスは天井でも見つめるように視線を宙に上げ、思い出すように説明した。食感についてはラウラのいう通りだと思ったのか、特には触れていない。


「ところで、クリスティーヌ様。わたくし、少しお尋ねしたいことがございますの」

「どうかしたの?」


 料理の感想も褒める形で終えたところだ。話題を変えるにはいいタイミングである。

 それを見逃すラウラではない。

 また、クリスとしては食べ終えてからならと返事をしている以上、相手をする覚悟はできていた。


「その髪なのだけど、春よりも艶が出てきているようですし、とてもいい香りがしますわ。何かなさっていらっしゃるのかしら?」


 ラウラはようやく本題に入れたと内心では軽く燥ぎながら一つ目の質問をクリスに投げかけた。

 この質問にはクリスも答えに悩むところだ。日本のことを説明する気はまったく無いし、日本の日用品をマルゲリットの街であっても販売するつもりはない。だが、質問への返答を誤魔化し続けるのも難しい。


「これはねぇ……」


 クリスはラウラとベラを交互に見ると、テーブルに急須を置いた。

 やはり逃げられる状況では無い。


「髪専用の石鹸水を使ってるといえばいいかしら。でも、下水の設備がない場所では使えないわよ?」


 今は下水処理をできる設備がある都市はコア異世界中を探してもあるはずもないし、下水処理をせずに川に排出するだけでは下流地域に影響がないとは言い切れない。ラウラが地球のシャンプーやリンスを使って川に流したところで一人分の汚水などすぐに薄まり、人体に影響することもないだろうが、下流に住む街の住民はその水を使って生活するすることになるだろう。何か問題があったときの原因がシャンプーとリンスだったとしたら、クリスにとっても寝覚めが悪い話だ。

 だが、ラウラも昨日の収穫祭初日の行事で行われたエドガルドの話を知っている。このマルゲリットの街にも下水は未だ整備されておらず、これから計画するところだ。


「あら、この街も下水はこれから整備なさるのでは?」


 クリスの話の矛盾を突いた質問をラウラが投げかける。

 ただ、クリスもラウラに問い返されるであろうことへの返答は用意していた。

 クリスは両拳を腰に当てると、眉を八の字にしてやれやれと話す。


「ここの『トイレ』には魔道具があるといったでしょう? 水で流すと、その水を浄化してくれるのだけど、それを浴場にも設置しているの」


 下水道が完備されていない地域では簡易浄化槽を設置していたりするが、クリスはそれをイメージし、ラウラにもわかるように説明した。実際には微生物の力を借りて処理したりするのだが、目に見えない微生物の説明までする気はない。


「そういえば、そうでしたわね……」


 ラウラとしてはまだ納得できない。魔道具がどのようなものか目にしていないし、その魔道具がどのような働きをするのかもわからない。


「下水が完成すれば使えるようになるわよ。ただ、この街だけだけどね」


 十年をかけて街に下水を整備する計画なのだから、ラウラにとっては遠い先の話である。異世界コアであっても女子の美容への情熱は凄まじいものだが、プラドの街にも下水は整備されていない以上はどうにもならない。

 ラウラはがっくりと肩を落とすと、溜息を吐いて別の質問を投げかける。


「その髪専用の石鹸水のことについては横に置いておいて、プテレア様のためにわたくしにできることはありませんか?」


 真剣な表情に、強い意志の籠もった視線でラウラはクリスを見つめる。

 その程度の視線に気圧されるわけではないが、クリスは自分のスタンスを明確にするための言葉を選ぶ。


「そういえば、プテレアが言ってたものね……でも、わたしにはわからないかな。本人に聞けばいいわよ」

「それが……プテレア様に尋ねたところ、クリスティーヌ様に訊けと……」


 完全に丸投げされたことを自覚したクリスは言葉を失い、白目を剥いて宙を仰ぐ。

 戻ってきたらどうなるか覚悟しておけと心の隅に油性の太字ペンでメモをして、クリスは視線をラウラに戻す。


「仕方ないわね……でも、いまできることは少ないの。わたしたちの時間はまだ二十年以上残っていて、計画立ててその時間を効率的に使わないといけないの……」


 ラウラの目は変わらず真摯で、その碧い瞳には何かをしてあげたいという強い意志が籠もっている。

 目を合わせるとクリスはその視線に負けぬよう、言葉を続ける。


「いまはその計画を立てる段階だからね、それが出来上がればお願いするわ」

「ほんとうですの?」


 プテレアを崇拝するラウラにすれば、今すぐにでもできる何かを探したいところだが、そのプテレアが詳しくはクリスに訊けと言ったのである。そのクリスの言うことに間違いはないだろう。ただ、そのままクリスの言葉を信じて良いのかどうかまだ心配なのである。

 だが、クリスとしても他にラウラに頼めることはない。


「ええ、いま計画ができるのを待ってもらうしか他にないわ」


 ラウラの視線に負けないくらいほどの真剣な眼差しでクリスが話す。

 その視線には嘘は含まれていないと感じたのか、ラウラはだまって頷いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る