第70話 太刀魚の塩焼き(4)
開店直後の忙しい時間帯なので、クリスとしては後にしたい。とにかく、注文をひととおり受けて、客を一回転させれば余裕もできる。
「さっき説明したとおり、うちの店では主菜と汁物、『ごはん』の三つを出す一汁一菜が基本よ。いつもは『白いごはん』を出しているんだけど、今日は『ぶなしめじの炊き込みごはん』にしているの」
クリスはラウラやベラ、カンデを順に見回しながら説明する。
ラウラはまだ話を聞きたそうにしているが、連邦侯爵家の娘が相手では強くでることはできず、我慢しているようだ。
「主菜は日替わりになっていて、今日の料理は――」
クリスはこの日の料理を説明した。
牛朝食は牛スジと蒟蒻の煮込み、豚朝食は青梗菜と豚バラ肉の炒めもの、鶏朝食は鶏挽き肉と里芋の和え物、野菜朝食は巾着納豆、卵料理は九条ネギ入りのだし巻きだ。
「して、今日の『魚朝食』は何でしょう?」
「今日は『太刀魚』の塩焼きよ。表面は『真珠』のような白銀色で、細長い海の魚よ」
カンデが尋ねると、クリスが今日の魚朝食を説明する。
太刀魚と言えば、十月末頃までが旬の魚である。新鮮であれば刺身にしてもいいが、塩焼きや煮付けでも美味しく食べられる。炊き込みご飯は出汁と醤油で味をつけるので、味付けが重ならないよう、塩焼きにしているのだ。
「話には聞いていたけれど、本当に海の魚を食べられるのね」
今まで、クリスの髪のことばかり考えていたラウラもこの説明には強い興味を示した。
マルティ伯爵家が治める領地はマルゲリットと同じ内陸にあり、森林資源と農耕、畜産が中心。海までの距離も似たようなものだ。街に海産物が流通することは殆どない。
「そうです。ここに来て海の魚を味わわないなんて考えられません」
カンデはそれをよく知り、前回はここで「戻り鰹」を食べているのである。その味を知ってしまった以上、違う魚も美味いに違いないと思ってしまう。
「では、わたくしは魚をいただきたいと思います」
「もちろん、わたしも『魚朝食』でお願いする」
ラウラとカンデは悩むこともなく魚朝食を選んだのだが、ベラは明らかに眉を寄せて困ったという表情を見せる。
こと食べ物について、人には色々なタイプがいる。薬味を嫌う人、特定の食感――ねっとりだとか、むにゅっとしているとか――を嫌う人などがそうだが、特に初めて目にするものに手をつけられない人も多い。ベラはそのタイプの人間のようで、見たこともない海の魚というものを食べると聞いただけで、思考が停止している。
「ベラはどうするのかしら?」
「……」
ラウラが尋ねるが、ベラはテーブルの上のお茶に浮かぶ小さな枝を見つめたままだ。
ベラは、ラウラが食事をする際は侍女として側にいるものの、一緒に食事をすることはなかった。必ず、身の回りの世話が終わってから交代で食事をしてきたし、それは外食に同行した場合でも同じであった。
つまり、「生まれて初めてラウラと食事を共にする」という状況と、自分も「初めて見る海の魚の料理を食べなければならないかも知れない」という状況にあることで、パニック寸前である。
「大丈夫ですか? 気分でも悪い?」
「いっ、いえ……だいじょうぶです」
心配したクリスが声を掛けるが、ベラは平静を装って返事をした。
だが、実際は他の料理も見たことも食べたこともないようなものばかりで、どうにも選ぶことができない。日本の料理など、マルゲリットやプラドの街で出てくるはずもないのだから当然だ。
「あと、わたしが真心を込めて焼いたふわふわで柔らかい『パン』の朝食も用意してるわ。『目玉焼き』と腸詰めを焼いたものがついているの」
ずっと売れていないパンのセットを紹介するのを忘れるクリスではない。
そのパンのセットであれば、ベラも食べ慣れたものである。今まで緊張していたその表情に、わずかだが安堵の色が現れると、口を開く。
「あの……」
だが、無情にもそこにラウラの声がかかる。
「だったら、ベラも同じものにしなさい」
「はっ、はい……」
とにかくクリスにいろいろと尋ねたいラウラにしてみれば、戸惑っているベラの注文を待つわけにもいかない。都合よく毒見役代わりにもなると、ベラにも同じものを食べさせることにした。
「あっ、え……『魚朝食』を三つですね。ありがとうございます」
クリスはベラの反応を見た瞬間に初のパン朝食注文達成を確信したのだが、ラウラにリセットされてしまったので一瞬肩を落とした。
そのままの姿勢で注文を確認すると、踵を返してカウンターに向かう。
「あの、クリスティーヌ様……」
「あとでね」
とにかくラウラたちの注文を通さないことには、カウンターに並ぶ客の注文を受けられないので、クリスはラウラの期先を制し、厨房側に向かった。
「もう、いつになったら訊き出せるのよっ」
厨房へ向かうクリスの背中を見ながら、ラウラは苛立ちを隠すことない声で不満を零す。
普段の貴族然とした態度とかけ離れたラウラをカンデは目を丸くして見つめていた。
魚朝食には数量的な制限があるので、常連客は開店前から並んで魚朝食を食べに来る。だから、すぐに売り切れてしまう。
ただ、調理する側の立場としては楽だ。開店前から先に魚をまとめて焼き始めることもできる。
シュウは焼き魚であれば焼きたての熱いうちに提供したいと思っているので、せいぜい焼き始めても開店五分前といったところだが、すべての客の注文をとり終えるときには丁度焼きあがっていた。
「テーブル席三名様、『魚朝食』いただきました」
「あいよっ」
いつものようにシュウが返事をすると、クリスは厨房に入る。
カウンター席は既にシャルが注文を受け終わっているが、やはり全員が魚朝食だった。
厨房中央にある調理台にはずらりと丸盆が並び、その上の角皿には既に焼き上がったばかりの太刀魚が載っている。
シュウは角皿に大根おろしとレモンを手際よく盛り付けていた。
「あら、早いじゃない」
「最初に入る注文はいつも魚ばかりなんだから、オレも少しは学習するさ……」
既に準備の半分くらいは終わっているのを見たクリスがシュウに声をかけると、シュウは何やら残念そうな口調で返事した。魚朝食が人気である原因は理解しているものの、今日の牛スジと蒟蒻の煮込みは自信作なのだ。
クリスは急いで味噌汁を装い、角皿への薬味の盛り付けが終わったシュウは炊き込みごはんを装っていく。
丸盆の上に、味噌汁とごはん、主菜の太刀魚が並び、最後にシュウが味噌汁に刻んだ九条ネギを散らしてできあがりだ。
「おまたせしました、『魚朝食』です」
クリスが両手に丸盆を持ってテーブル席にやってくると、ラウラの前へ静かに丸盆を置く。すぐにベラにもう一つの丸盆を差し出すと、すぐにカンデの分を取りに戻った。
さすがのラウラもカンデの分が未だ来ていないことには気づいていて、クリスに話しかけようとはしない。目の前に並ぶ料理をじいと見ている。
丸盆の上には、左側にぶなしめじの炊き込みご飯が盛られた茶碗があり、右側には味噌汁が湯気を立てている。そして、奥には焼締めの四角い皿にばらんが敷かれ、その上に白銀色の魚の切り身が湯気を立てている。その皮はしっかりと焼けていて、表面には真っ白な塩に、薄らと焦げた焼き色がついている。
手元に用意されているのは、木匙と珍しい四つ爪のフォーク、二本の木の棒が並んでいるだけだ。
「カンデさん、おまたせしました」
クリスがカンデの丸盆を持ってくると、静かにテーブルの上に置いた。
この間に丸盆の上を観察していたラウラは、さっきまで質問しようとしていた髪や服装のことなど忘れてしまったようだ。
「これはどうやって食べればいいのかしら?」
ラウラがクリスを見上げて尋ねた。
どの道具をつかって食べればよいのかということや、食べる順番なども含め問いかけるような尋ね方だ。
他の客の応対も必要なので急いで厨房側に戻りたい気持ちを抑え、クリスは説明を始める。
「料理は最初に汁物、つぎに『ごはん』、あとは自由に食べていただいて構いません。使う道具も終始木匙を使うもよし、その二本の木の棒――『箸』を使っていただいても、必要に応じてフォークを使っていただいてもいいですよ」
説明が始まると、ラウラは箸を手に取り、不思議そうに見つめている。
「箸の使い方は先日カンデさんにお教えしたので、カンデさんにおまかせしていいかしら?」
「もちろんでございます」
カンデに箸のレクチャーをお願いしたクリスは、他の客に応対すべく踵を返すと、カウンター席の方に向かって消える。
「これが食べるときに使う道具なのね。木匙が別にあるということは、こちらの汁物を掬うのは木匙に持ち替えるということなのかしら?」
ラウラは箸を右手に持つ。二本をぎゅっと握りしめた「握り箸」という持ち方だ。
先日の来店時に使い方を教わり、今もクリスからレクチャーを依頼されたカンデが慌てて説明を始める。
「ラウラ様、一本をペンを持つようにし、もう一本を薬指と親指の付け根で抑え込むようにして持ってください。ペンを持つ側の指を動かして摘んだり、挟んだり、突き刺して使うそうです」
突き刺して使うのは「刺し箸」と呼ばれ、箸の使い方としては褒められたことではないのだが、クリスはそこまでは説明していないのだから仕方がない。
「こうかしら?」
カンデの持ち方を見て、ラウラがそれを模倣する。
少し、箸先の動きがぎこちなく、箸先の位置にズレが生じているが概ね問題はない。
「そうですね……あとは慣れでしょう。汁物は木匙で掬って飲むのも良いのですが、常連客は汁椀を持って直接啜るように飲んでいましたね……」
「湯気の出るような汁物の器を持つなんて熱くないの?」
カンデが汁物の説明をすると、ラウラは疑問を口に出しながら汁物椀を観察し始める。その汁物椀は木目と木地の色をそのまま楽しむことができ、素朴な印象を受ける。持っているだけで木の温かみを感じるような器だ。
「木でできておりますので、そんなには熱くならないようですね。実はわたしもうちの商品に箸とこの汁物椀を加えようかと思っているんですよ。直接口につけても熱くないですし、陶器よりは手間がかかりません。問題は、この表面に塗られた薬です。蜜蝋を塗るなら変色するものなのですが、どうやって変色させずに水を弾くような加工をしているのか、皆目検討もつかないのです……」
日本の汁物椀といえば、漆器である。欧米では漆器はジャパンと呼ばれるほどで、日本を代表する工芸品といえるのだが、最近はプラスチック製の「見た目」だけのものが多く出回っている。一方、木製であってもウレタン塗装で木目と木地の風合いを生かした商品が多く出回っているのだが、この器もそのうちのひとつである。本漆よりは安くできるところも魅力的だ。
「ともあれ、冷める前にいただきましょうか」
カンデが早く食べるように促すと、ラウラが両手を胸の前で組み、俯くようにして祈りを捧げる。
「大地の神と精霊に感謝し、この糧を賜らん」
精霊好きのラウラらしい祈りの言葉である。それに倣ってベラも祈りを捧げると、なぜかラウラと共にカンデをじいと見つめる。
「早く食べなさい。今日のあなたは毒見役なのだから」
悪戯っぽい笑顔を見せながらラウラは言った。
半分冗談のように胡麻化してはいるものの、実は本気である。自宅のダイニングでさえ侍女に毒味をさせるのは当然になっている家なので、外出先での食事に誰かが毒味をしないということは許されない。
もし、この日にカンデが店に来なかったらベラがその役割を担うことになっていたはずだ。しかし、この店を紹介した人物が同席しているのであれば、その人物に毒味を任せるのが筋というものだ。
カンデもその言葉の意味を理解しているのか、遠慮なく口をつける。
「ズズッ……」
汁物椀を直接口につけて啜るようにカンデが味噌汁を飲む。
見たこともない味噌汁というものを飲んだ感想を聞いてみたいラウラと、その味よりも口にしても問題がないかを知りたいベラの視線がカンデの口に集中する。
「うまい……だが、なんだこの美味さは……」
カンデは信じられないものを口にしたように目を丸くし、左手に持った汁物椀を見つめる。先日この店に来たときとは全く異なる具が入っているのは判るのだが、明らかに今回の味噌汁のほうが美味いと感じた。
「なになに? どんな味なの?」
自分が貴族であることを忘れたかのように慌ててラウラはその感想の具体的な説明をカンデに求めた。「うまい」では、どう美味しいのかがわからないのである。甘いのか、塩辛いのか、酸っぱいのか……五味五感をうまく組み合わせて説明してもらえないと理解できない。
一方、ベラは具合が悪くならないかと味噌汁を飲み込んだカンデの様子をじいと見ている。
「ひとくち飲んでみればわかりますよ」
カンデはそう答えると、左手の汁物椀を置いて、炊き込みご飯が盛られた茶碗を取る。
炊き込みご飯に手をつけようとするカンデを横目に、ラウラは恐る恐る汁物椀に手を伸ばした。
汁物椀は仄かに温かいのだが、そこに満たされている味噌汁からは湯気が上がる。木でできた食器の良さは、必要以上に熱くならないところにある。陶磁器などでは器に熱が移ってしまい、逆に料理が冷めやすくなるものだが、木製食器にはそれがあまりない。
しかたがないと口に出しそうな顔をして、ラウラは味噌汁を啜る。
「ズルッ……」
温かい味噌汁とともに湯気が口の中に流れ込んでくる。
その湯気は味噌と出汁の香りを含み口腔から鼻腔に抜けていく。味噌汁は舌の先から奥を包み込むと、味噌の持つ塩気と旨み、出汁の旨みがじゅわっと染み込んでくる。その味が電撃のように神経を駆け抜けて脳に刺激を与えると、ラウラはその味に自らの心が喜びに満たされていくことを感じた。
「まっ、これはまるで……まるでわたくしの身体が知らずに求めていたものを与えられたような……」
どのように言葉にまとめれば言いたいことが伝わるのかは判らない。五味五感では表現できない何かがそこにある。とにかく、身体と心が選んだ言葉がラウラの口から溢れる。
「本当においしいわ……具は何なのかしら?」
ラウラが初めて使う箸を持って、汁物椀を浚う。
最初は握り箸であったが、途中でカンデの説明を思い出したようで正しい箸の持ち方になると「つまむ」という作業ができるようになり、なんとか味噌汁の中から身のついた小さな二枚貝を持ち上げ、じいとその貝を見る。
ベラはようやく覚悟を決めたようで、味噌汁を啜っている。
「これは、貝ね……なんという貝なのかしら?」
ラウラがカンデに問うのだが、カンデも初めて見る貝である。
「さて、存じ上げません。何なのでしょうね……」
カンデもラウラが摘んでいる貝を見て首を傾げると、視線をラウラの前に置かれた茶碗に移して右手の箸でその茶碗に盛られたごはんを指す。
実は行儀が悪いことなのだが、細かな箸の禁忌事項を教わっていないので、カンデは「指差し箸」を知らない。
「こちらの炊き込みご飯というのも美味しいですよ。『キノコ』が入っているようですが食べられる種類のようです……多少は驚きましたがね」
「まあ!」
これはマルゲリットやプラドだけでなく、
慣れた人間が少ない街の中でキノコ料理が出てくるのだから、心配になるのも不思議ではない。
「どんなお味ですの?」
「そうですね……いろいろな具材から出る味が一体となっているといえばいいでしょうか……」
カンデも言葉にするのに悩むのだが、先程と同じように食べてもらえばわかることだ。
「ま、たべれば判ることですわ。毒は無いようですしね」
ラウラはカンデに向かってニヤリと笑い、ごはんが入った茶碗に手を伸ばす。
磁器でできた雪のように白い茶碗には、ふっくらと炊きあがった米が薄らと茶色に染まっていて、表面はつやつやと光っている。そこには小房に分けられたぶなしめじと、小さく刻まれたニンジン、油揚げが入っている。茶碗からふんわりと漂うのは醤油とカツオと昆布の出汁、それに仄かな砕いた穀物のような香り。
顔を左右に動かして両方の鼻の穴から香りを嗅ぐと、ラウラは目を閉じてうっとりとした表情をつくる。
「いい香りね」
それを見つめていたベラも慌てて茶碗を持って香りを嗅ぐ。
米の匂い、出汁の匂い、醤油や素材の匂いが混ざった香りにベラも心做しかうっとりとした表情を見せる。
右手に持つ箸先を広げ、摘むように炊き込みご飯に箸を入れる。
もち米を入れて炊いたごはんはむちりとして粘りがあり、箸を入れても解れることもなくラウラの形のいい唇のもとへ運ばれた。
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