第54話 ハンバーグと目玉焼き(1)
いつものように裏なんばでの営業を終え、暖簾を下げるためにクリスとプテレアが店の前に立つと、スマホやデジカメで写真を撮る人たちに囲まれる。
慣れた感じでクリスはポーズをとって写真に撮られているが、プテレアはまだ慣れないのか、気恥しそうに客の要望に応えていた。
シャルロットが日本でしっかりと羽を伸ばして遊べるようにと、シュウが定休日を日曜日に変更することにした。
今日は日本の暦では火曜日で、本来ならば明日は休日だったはずの日だ。
「なーんか、だいじなことを忘れてる気がするんだよねぇ……」
奥の座敷部屋で座布団の上に座り、テーブルに肘をついてクリスが呟く。
まだ簡易の和服に慣れていないプテレアは、格闘するかのように業務用の簡易和服の紐を解き、下着だけの姿になろうとしていた。
銀兎亭も祭りが近いので忙しくなり、シャルは店の手伝いもないので日本のアニメを見て過ごしていたらしく、液晶テレビにはエンディングの音楽とタイトルロールが流れている。
「どうしたのじゃ?」
忙しい日本での営業を終えたばかりでも、とても元気なプテレアはクリスに相手にしてもらおうと思っているのか、声をかける。その目にはシュウと話す時のような好奇心のようなものは見当たらない。
「ん? 今日は火曜日だから……あっ!」
両肘をついた姿勢から手のひらを天板の上に打ち付けるようにしながらクリスは膝立ちになると、声をあげる。だが、そこから動こうとしない。
一方、急に立ち上がろうとするクリスを見て、プテレアとシャルも驚いた眼をむける。
「だから、どうしたのじゃ?」
「う……脚が痺れて……」
その言葉を聞いて、プテレアはにやりと悪い笑顔を浮かべる。
近くに転がっていた孫の手を持つと、クリスに近づいていく。
「こっちの脚かえ?」
クリスの背後に回り込むと、右足へ孫の手の先をつんつんと押し当てる。
「ぎゃあぁ、やめてぇ!」
クリスは慌てて右足を庇うように前に伸ばすと、そのままお尻を落として座布団の上に座る。
「こっちはだいじょうぶかえ?」
プテレアは、次はクリスの左足を孫の手でつんつんと押して楽しむ。
「あああああっ!」
クリスは左足を前方に投げ出して、プテレアから遠ざける。
プテレアは四つん這いになってクリスの前方にまた回り込むが、クリスは両手を畳に突いて座布団ごと方向転換することで回避する。
「なんじゃ、つまらんのじゃ……」
クリスの反応は素早く、これ以上同じことを繰り返しても脚の痺れはすぐ治まってしまう。
先日、黒門市場近くにあるシュウの自宅で、プテレアもクリスから痺れた足を突かれるという地獄をみたところなので、仕返しを企んだのだがこれで失敗に終わったようだ。
プテレアは諦めたように溜息を吐くと、クリスに尋ねる。
「どうしたのじゃ? 何か思い出したようなのじゃ」
プテレアから仕返しされると思っていなかったのか、クリスは恨めしそうにプテレアを睨みあげると、すぐに両手で
「明日、休みじゃなくなったのをお父さまに伝えるのを忘れてたのよ。どうしよう?」
プテレアの着替え待ちで厨房に残っているシュウにも聞こえるようにしたのか、ただ焦っていたのかはわからないが、クリスは大きな声で焦っている理由を話す。
「ほう、エドガルドが来るというのじゃな? 何をしにくるのじゃ?」
右手の人差し指と親指を伸ばし、その間に顎をのせるとプテレアはとても興味深そうな目つきでクリスを見る。
「別に? 一週間に一回、夕飯をここで一緒に食べるだけよ?」
「領主さまは、ごはんを食べに来るの。酔っぱらって帰るの」
クリスの説明ではそんなに焦るような話に聞こえない。更に、シャルも非常にシンプル且つ的確な答えを口にする。
「別に明日が休みじゃないなら、お酒を控えるだけでいいだろう。どちらにしても晩めしは食べるんだから、今日来てもらえばいいじゃないか」
和室の前までやってきたのか、シュウの声が襖の向こうから聞こえてくる。
クリスは痺れも治まったのか、立ち上がるとプテレアの着替えが終わっているのをちらりと見て、襖を開く。
「お、おう……着替え終わったんだな」
「うん。一応、お父さまのところに行ってくるわ」
襖を背に立っていたシュウが驚いた顔をしているが、クリスは慌てて行先を告げてると店の入り口に向かい、引き戸の鍵を開ける。そのまま、ごにょごにょとつぶやくと、床下に向かって吸い込まれるように姿を消した。
「オレは着替えてもいいのかな?」
クリスが消えた場所をぼんやりと見つめながら、シュウはぼそりと呟いた。
プテレアとシャルに和室から出てもらい、シュウが手早く着替えを済ませた。
すぐにプテレアとシャルは和室に戻ってテレビに向かうのだが、昼の時間帯は関東の番組ばかりで楽しくないのか、すぐにリンゴのマークがついたタブレットで配信されているアニメに替わる。
一方、今週から水曜日が営業日になるので、シュウはこのあと生鮮食品の仕入れに出かける予定にしているのだが、クリスが旧王城に向かってからなかなか戻ってこない。三十分は経っている。
店の中ならクリスは転移してくることができるのだが、
すると、店の引き戸近くの空気がゆらゆらと揺れて穴が開き、クリスが店の中に入ってくる。
「ただいまぁ」
「おかえりなさいなの」
「おかえりなのじゃ」
クリスが戻ったことと伝える声に、それぞれが声を掛ける。
「おかえり。お義父さんはどうするって?」
シュウも声をかけると、早速エドガルドの予定を確認する。
「使用人に火曜日の夜は食事が要らないと伝えているので、今夜は来るそうよ。曜日の変更についてはわたしから使用人たちに伝えておいたからだいじょうぶ」
クリスは悪戯っぽい笑顔を見せると、プテレアやシャルの声が襖の向こうから聞こえてきたことや、店の中で見当たらないことを確認し、シュウの胸元に飛び込んで強く抱き着く。
「おっ……おい」
シュウは突然抱き着かれて目を大きく見開き、焦ったような声を出す。だが、クリスの気持ちを理解したのか、何も言わずにそのままクリスの背中に手をまわすと、優しく抱き寄せた。
「シュウの変な声が聞こえたと思ったら、何をしておるのじゃ?」
音もなく襖を開いたプテレアの声が店内に響く。
「シュウさんはわたしのシュウさんだから、いいんだもん。ねっ?」
久々のハグに邪魔が入ったもの、クリスは嬉しそうにプテレアに言い返すと、シュウを見上げて飛び切りの笑顔を見せる。
「妾も混ぜるのじゃ!」
「シャルもっ!」
シュウはどしんどしんと後ろに衝撃を受ける。
シュウに後ろから抱き着いたプテレアの更に上に、シャルが飛びつくと脚をプテレアに絡めて全体重をかける。
「ぐぇぇ」
シャルの体重を支えることになったプテレアもさすがに衝撃がきついのか、口から変な音を出して崩れる。
シャルのダイブを受けたシュウも、肉付きがよくなってきたシャルの衝撃で背中にダメージを受けている。前のクリスが支えになっていなければ転んでいたかも知れないほどの強さであった。
「おいおい、手加減してくれよ……だいじょうぶか?」
「ん? だいじょうぶじゃ」
シュウは慌ててプテレアの無事を確認するが、プテレアはシャルが重いだけでダメージは受けていないようで、シャルの脚を解くと、改めて横からしがみついてくる。
「いったい何の遊びなんだよ……」
身動きが取れなくなったシュウは、小さく言葉を溢すが、何かを諦めたように肩を軽く落とし、三人の少女の頭を撫でた。
時計の針が十五時を指すと、ぴぴぴと音が鳴る。
ガララッ
小さな戸車の音を立てて、クリスが引き戸を開く。
夜一つの鐘は既に撞き鳴らされいて、余韻だけが閉じた城壁の中で木霊している。
「キャッ」
クリスが小さく悲鳴をあげる。
扉の前にはちょうどクリスの目線の高さに合わせて腰を屈めたエドガルドが立っていた。
「実の父親に対して悲鳴を上げるとはなんて失礼な……」
口元を釣り上げ、ニヤリとした笑顔でクリスを見ると、エドガルドが揶揄うように話しはじめる。
だが、不意打ちを食らうことになったクリスはエドガルドが話し終わる前に言葉を返す。
「驚かない方がおかしいですっ!」
ぷうと頬を膨らませると、クリスはエドガルドを店内に招き入れ、鍵をかける。
「いらっしゃい、お義父さん」
「いらっしゃいなの」
厨房から店内に出てシュウが挨拶をすると、それに倣うようにシャルも挨拶をする。
「よく来たのじゃ」
「おや? どうしてプテレアさまがいるんだ?」
プテレアが明らかに自分の店や住処に招いたかのような挨拶をすると、エドガルドが不思議そうに尋ねる。
エドガルドがプテレアを見る目つきは明らかに不審者を見るような雰囲気がある。それは、祭りの時などに姿を見せるプテレアの服装とは違うということに理由がある。
「あ、話してなかったっけ?」
クリスが右手を頭に置き、右目を閉じて少し恥ずかしそうな表情をする。
「先日、偶然にもプテレアと会う機会があったんですよ」
「そうそう、
そのクリスの表情を横目に、シュウがエドガルドに説明しようとするのだが、そのままクリスが続けて説明をはじめる。
「そうじゃ、このままじゃと妾はあと数年で枯れはじめ、朽ちていくじゃろうな……」
プテレアが少し寂し気な表情をつくると、ぼそりと呟く。
「そこで、わたしたちが集まって、下水事業をするときに肥料や堆肥を撒けないかって話をしているのよ」
クリスはプテレアの肩に手を置いて、エドガルドに向かって説明を終える。
細かなことを話すときりがなく、この場での説明としては充分な内容だといえると判断したのか、シュウは厨房に入って食事の準備をはじめる。
エドガルドは何も言わずにクリスの説明を聞いていたが、終了すると一気に不機嫌な顔になり、頬を膨らませるというよりも、眉間に皴を寄せ、苛々とした様子で右手の指先でカウンターをコツコツと叩く。そして、じろりとプテレアを見ると、確認するように尋ねる。
「で、プテレアさまは日本に行ったのですね?」
「うむ。いまはクリスやムギャグフゴッ……」
プテレアが日本で寝起きしていることまで話しそうになると、慌ててクリスがプテレアの口を両手で塞ぎ、明らかに焦りをたっぷりと湛えた引き攣った笑顔を見せる。
「ええ、プテレアは長生きしているし、わたしたちよりも知識も豊富だから、いろいろと教えてもらっているんです」
「ほう……それでそのような服装をしているのですね」
クリスの言っていることは嘘ではないのだが、プテレアが何かを言おうとした時点で口を塞いでいるので明らかに怪しまれる。
ただ、エドガルドが一番興味を持っていることはクリスが心配していることとは違う。
「わたしは日本に連れて行ってもらえないというのに、どうして最近知り合ったプテレアさまが先に……」
エドガルドは先ほどのイラついた表情から悲壮な雰囲気を持った表情に変わり、両手で顔を塞ぐと空を仰ぐように上を向いて固まってしまった。
ただ、クリスはこれを好機と言わんばかりに、プテレアをそのまま厨房内に連れ込み、小声で話す。
「先に言ってなくてごめんなさい、プテレアが一緒に寝泊まりしていることは内緒にして欲しいの。かなり都合の悪いことになる気がするから……」
クリスは眉を八の字に寄せて、縋るようにプテレアの両肩を持つと、小声で話す。
その様子と話の内容から何を想像したのかはわからないが、プテレアは左の口角をくいと上げ、両目を半眼に閉じてにやりとした笑みを見せる。
「ひとつ貸しじゃ」
「う……」
その明らかに何かを企んでいるという表情にクリスはまた焦りを見せて、小さく呻くような音を漏らす。明らかに貸しを作りたくない相手に作ってしまったという気持ちが顔と声に出ている。
「お、いいタイミングで二人とも入ってきたよな。持って行ってくれるかい?」
クリスとプテレアが見上げると、シュウが丸盆を二つ持って立っている。
「ええ、もちろんよ」
「わかったのじゃ」
丸盆を渡されると、クリスの顔に花が咲いたような笑顔が戻る。この料理を初めて見るプテレアも、そこから漂う炒めたタマネギや肉が焦げた甘い匂いに、うっとりとした表情をする。
今日の夕飯はいつも客に出している料理よりも少し重く、落とさないようにそろりそろりと二人は歩く。その後ろに、丸盆二つを持ったシュウが続いて、カウンター席に戻る。
ことり
顔を両手で覆って宙を仰いだまま固まっているエドガルドの前にも丸盆が差し出される。
すると、エドガルドの両手の隙間から出ている鼻がひくひくと動き、今まで閉じられていた両手の覆いが取り除かれる。
エドガルドの前には、いつものように白くつやつやと輝くごはんが入った茶碗と味噌汁が入った汁物椀が並んでいる。味噌汁にはニラともやし、薄切りの豚バラ肉が入っていて、仄かにニンニクの香りが漂ってくる。その向こうには大き目の丸皿に長径が十五センチほどの丸みのある焼いた肉の塊のようなものと、明らかに白身は固まっているが黄身は半熟に焼き上げられた目玉焼きが並んでいる。もちろん、たっぷりのキャベツの千切りや千切ったレタス、トマト等の生野菜とポテトサラダが添えられている。
「わあっ! 今夜はハンバーグなのっ!」
エドガルドの次に丸盆が置かれたシャルは、目をキラキラと輝かせ、その喜びに思わず大きな声をあげてしまう。
「こっ……これは、ハンバーグというものなのか?」
エドガルドは初めて見るハンバーグステーキを目の前にして、思わずシュウに尋ねる。
「ええ、元々はドイツという国のハンブルグ地方に、食材を刻んで混ぜて食べる生肉料理があったのですが、ドイツからアメリカという国に移民した人たちがそれに似た材料で作ったパテを焼いて食べるようになり、ハンバーグと呼ばれて広まったようです」
そう説明すると、シュウはうすはりのグラスに注いだ琥珀色のビールをエドガルドに差し出す。
故意に底に傷をつけたグラスにすることで、常に小さな泡が底から立ち上がり、少しずつ消えていく上部の泡を補充している。上部の泡は最高級の石鹸でもここまでの木目細やかな泡は出ないことを一目で理解できるほどに美しく、ふうわりとしている。
そのビールは次々とグラスに注がれ、クリスとプテレア、シュウの前に置かれる。シャルの前にはコーラがグラスに注がれ、しゅわしゅわと泡をはじく音を立てている。
「では、今日もお疲れさまでした。乾杯!」
シュウが声をあげると、他の三人も口々に「乾杯」といってグラスを合わせる。
ごくりごくりと喉を鳴らし、グラスを置いたのはエドガルドだ。既に半分は飲んでしまっている。
「プァーッ! うまい!」
「プァアア……うまいのじゃ」
似たようなペースでビールを飲んだプテレアもグラスを置く。
シャルはちびりとコーラを飲んで、既にハンバーグへ箸を伸ばしている。
その様子を見て、エドガルドも木匙を持ってハンバーグを観察する。表面がしっかりと焼き上げられたハンバーグは丸くぱんぱんに膨らんでいて、中央部分が少し割れている。そこから肉汁らしきものがちょろちょろと溢れ出し、表面を流れて落ちている。
木匙をぐいとハンバーグの端に当てて切断しようとすると、軽く抵抗するようにハンバーグの表面が
湯気には肉の香りとタマネギの香り、ナツメグの香りが混ざっていて、とても食欲を
「旨そうだ……」
エドガルドはぼつりと呟き、木匙で崩したハンバーグを掬うと口の中に放り込んだ。
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