第53話 イワシの梅煮(2)

 イワシの頭と内臓はきれいに取り去られていて、その断面には明らかに背骨と腹骨が見える。

 鱗はすべて処理されていて、銀色に輝く腹と、深い海のように青く黒い背中の間には七つの黒い斑点が残っている。その皮にウーゴの木匙が接触すると、空洞になった腹骨の内側がぐにゃりと形を変え、ウーゴの力に負けるように身が崩れて木匙のツボの中にころりと入る。


 ウーゴはまじまじと木匙のツボにのったイワシの身を見る。背骨もしっかり切断されていて、木匙で簡単に切れるほど柔らかく煮えている。

 ふうわりと醤油や日本酒の香り、砂糖の甘い香りが木匙を取り囲んでいて、その香りの中心にはイワシ特有の脂の匂いと、身の香りがどしりと腰を据えていることを感じる。


「ああっ……懐かしい香りだ……」


 魚の種類として「スズキモク」に属するアジやサバとは違い、「ニシン目」に属するイワシは香りが強い。

 ウーゴは、梅干しによってその香りが抑えられていたものの、海辺の街で味わったイワシの香りを思い出し、木匙を口の中に入れてイワシを味わう。


 口の中では、煮汁との浸透圧により硬くなった身がしっかりとその存在感を主張する。だが、ウーゴの顎の力で簡単にほろりと崩れ、その身の風味を発散する。背骨もほんの少しの抵抗を歯に伝えるとほろりと噛み砕かれてしまう。

 崩れた身と骨を受け止める舌にはその崩れた身の味に加え、加えられた砂糖に醤油、酒や味醂の風味がじわりと広がる。無意識のうちに舌は皮や、そこについた脂を捕らえると、唾液ですべてを混ぜ合わせる。

 口に入れた瞬間から広がるイワシの風味は、木匙にのせているときよりも濃いが、そこに生臭さは残っていない。イワシの良い香りだけが鼻の奥へ抜けていく。


「うまい……」


 ウーゴは小声で呟くと、追いかけるように白いごはんを木匙で掬い、口に放り込む。

 白いごはんは、まだ残っているイワシの身や煮汁の濃い味を吸い込むと、僅かに甘みを残して喉の奥に消えていく。皿の上にある「イワシの梅煮」には、腹骨もしっかり残っているが、その食感は口の中に残っていない。


「どうですか?」


 カウンターの前には、キラキラと澄んだ青い目を光らせたクリスがいる。その両手には、直径二十センチ程度の木のお櫃を持っていて、中には茶碗二杯分ほどのごはんが入っている。


「本当に骨まで柔らかいのですね。煮て作る料理のようですが、骨まで柔らかく煮るには時間がかかるはずなのに、全然身の方が崩れていません。どうやったらこんな煮方ができるのですか?」


 ウーゴはイワシの梅煮を食べながら感じていたことをクリスにぶつけるように尋ねる。

 肉を柔らかく煮るには、長時間鍋の中で煮ることになる。すると、イワシの皮のような柔らかい部分はすぐに破れてしまう。骨まで柔らかく、皮の部分を煮崩さないという方法がウーゴにはどうしても思いつかない。


「この『梅煮』というのは、さっきもお話ししたように『梅干し』がもつ『梅酢』のちからで骨まで柔らかく煮えるんだそうです」


 クリスが梅酢を説明すると、後ろからその肩を叩くように軽く手を乗せ、シュウが話しはじめる。


「あとは、食材の上に小さい蓋をのせる『落し蓋』をしています。蓋をせずに煮ると水分が蒸発してくだけですが、普通に蓋をするとぐらぐらと煮えてしまって食材がこすれ、『イワシ』の皮が破けてしまいます。でも『落し蓋』なら蓋の重さでイワシを動かないように抑えられますし、煮汁が落し蓋の下で滞留して全体に染み込んでいくので、過剰な水分の蒸発を防ぎながら効率的に煮上げることができるんですよ」


 ウーゴは皿の上に残っているイワシの梅煮をじいと見つめると、顔を上げてシュウを見上げ、尋ねる。


「それで、このイワシならどれくらいの時間、煮込むんだ?」

「この大きさだと七から八ミルトくらいですね。それ以上煮込むと、身の味がなくなってしまいますから」


 ウーゴは驚愕の表情を見せると、右手を顎にあてて考えるような姿勢をとる。


「せっかくの料理が冷めますから、また後で質問してくださいね」

「あ、はい……そっ……そうですね……」


 クリスは周囲に気遣うように話を終わらせると、シュウと共に厨房に戻っていった。

 ウーゴはその意を酌み、木匙を汁物椀に入れて具と共に味噌汁を口に運ぶ。

 しゃくしゃくと軽快なマコモダケの食感と共に、ぐにゅりと柔らかいが汁をたっぷりと吸いこんだ油揚げが、味噌汁を舌の上に広げていく。生姜の風味があるとはいえ、砂糖をしっかり使ったイワシの梅煮ばかり食べていれば舌も重くなるのだが、そこに味噌汁やお漬物があることで気分を変えて味わうことができる。


 ウーゴは木匙でイワシの梅煮を取ると、口に運んだ。


 今度は木匙のツボにイワシの身と、薄く切った生姜が入っていて、少しぴりりとした爽やかな辛みが舌を刺激し、イワシの身にないしゃくしゃくという繊維質な歯触りを楽しむことができる。また、生姜の風味がイワシの生臭さを抑え込んでいて、梅酢と共にイワシの美味さだけを引き出してくれる。




 ウーゴは一口食べると「うーむ」と声を出すかのように難しい表情になり、何かを確かめるように、また一口食べる。

 その次はごはんを口に入れて味噌汁を飲み、漬物を食べると、またごはんを口に入れる。



 ウーゴは小道具こそ使わないが、独り百面相という感じで今日の魚朝食を食べているが、総じて難しい顔をしていることが多い。

 そんなウーゴを見ていると、クリスもさすがに言葉を掛けてしまう。


「ウーゴさん、そんな難しい顔して食べるものじゃないでしょう?」


 ウーゴは残り少しとなったイワシの梅煮を口に含み、むしゃむしゃと咀嚼しながらカウンター席からクリスを見上げる。その眉間には深々と皴ができてしまっていて、天馬亭の亭主とは思えないほど接客向けの顔になっていない。だが、相手がこの街の領主の娘であることを思い出したのか、すぐにその皴を取り去り、柔和な表情を作ろうとする。

 そのクリスの影に隠れるようにウーゴを見ていたシャルも、ピンクの大きな瞳を少し潤ませて話しかける。


「おじさんは怒っているみたいなの」


 恐る恐る言葉を絞り出したシャルの顔も、先ほどまで眉間に皴を寄せていたウーゴのせいか、とても引き攣って見える。


「そうね、そんな難しい顔をしていたら、店の人間としてはいろいろと心配になるじゃない。シャルも怖がってるし……」


 ウーゴは口に入れていたイワシの身をごくりと飲み込むと、シャルの方に視線を向けた。

 シャルは、明らかに怯えたような目をしていて、クリスの腰にしがみつき、とても不安げにウーゴを見つめている。

 ウーゴは慌てて眉尻を下げ、ばつが悪そうに弱った表情を取り繕う。


「シャルちゃん、ごめんね。おじさんはどうしたらこんなに美味しい料理を作れるのか、がんばって考えていたんだ。すると自分でも気づかないうちに怖い顔になっていてね……本当にごめんね」


 その言葉を聞いたシャルは、パッと花が開いたように屈託のない笑顔に変わる。ウーゴが怒り出すんじゃないかと心配していたのが杞憂に終わり、声にも明るさが戻る。


「美味しいものは、美味しい顔して食べるの」


 シャルはクリスの影から両手のこぶしを握ってウーゴに話す。

 ウーゴはシャルの細い腕を見て、ピンクの瞳に視線を合わせる。先ほど作った表情は既に取り払われて、自分の娘に向けるような柔らかな目元をした笑顔になっていた。


「そうだな、シャルちゃんのいうとおりだ。おじさんも料理人だから、難しい顔をして食べている人を見ると不安になる……これからは気をつけるから、許してくれるかい?」

「うん、わかったの」


 シャルは笑顔で答えると、クリスを見上げる。

 クリスがシャルの視線に応え安心したように笑顔になると、まるで一枚の絵画のような美しい光景がそこに出来上がるのだが、すぐにその構図は崩れてしまう。

 シャルがクリスの影から出てウーゴの隣の席の食器を片付け始めると、クリスは食事を終えて一息ついている客に新しい熱めのお茶を淹れて出している。

 ウーゴは、自分が難しい顔をして食べている間に他の客は食べ終え、精算まで済ませていたことに目を丸くすると、慌てて自分の食事に目を向ける。


 その後はウーゴも考えながら食べることを止め、イワシの梅煮を味わい、楽しみながら食べていった。






 ことりと音をたてて新しい湯呑みに入ったお茶がでる。

 目の前にある湯呑みは先ほどまで飲んでいた湯呑みと同じ柄のものだが、「みこみ」を満たしている液体は透明な茶色で、とても香ばしいかおりが立ち上ってくる。


「今度は『ほうじ茶』を淹れてみました。とてもリラックスできますよ」


 クリスがこれまでとは違うお茶を出したことを説明すると、ウーゴはその湯呑みから漂う香りを胸の奥まで吸い込む。前屈みになって座った姿勢が肺いっぱいに息を吸うことで少し持ち上がると、息を吐きだすことで元に戻っていく。


「とてもいい香りですね。これも同じ『チャノキ』の葉で?」

「そうです。香りが飛んだ煎茶を先ほど焙煎して淹れたお茶です」


 クリスがウーゴの質問に答える。


 ウーゴは口縁を親指と人差し指、高台を小指と薬指で支えて茶を啜る。

 他の客に聞こえないよう、ずずと小さな音をたてると、吸い込まれた茶の香りが口から鼻腔に広がる。少し高めの温度で淹れられているが渋みはほとんどなく、香りが強く湯に溶け出していて、食後の満たされた心が更に落ち着いてくる。


「そういえば、生のイワシは食べられないのですか?」


 ウーゴが難しい顔をして食べていたときに考えていたことを尋ねる。調理法だけを考えていたわけではないようだ。


「たぶん、だいじょうぶなんだけど……シュウさんに聞いてみますね」


 クリスは厨房にいるシュウの下に走ると、何やら話をしている。

 しばらくすると、竹で編まれた笊を持ったクリスが戻ってきた。


「お待たせしました。生で食べることもできるみたいですよ」


 クリスは笊の中に入ったイワシを見せる。

 最初に聞いたとおり、大きさは十五センチ程度で側面には七つの黒い斑点がくっきりと見える。腹はぱんと膨れていてしっかりと餌を食べていることが見てわかる。まだ生きているかのように澄んだ目と、鮮やかな赤に染まったえら、しっかりと締まった肛門を見れば鮮度の良さはすぐにわかる。全体に丸みがある魚体、厚みのある腹を見るとしっかりと脂ものっている。


「ああ、釣ったばかりのような新鮮さだ」


 ウーゴはすぐに港で釣って遊んだ時のイワシの姿を思い出して鮮度を確認する。

 クリスはウーゴに見せた笊をカウンターの内側にある台にのせると、ウーゴに話しかける。


「ただ、生で食べれるようにするには小さくて手間がかかりすぎるので、アジのように生で出せないみたいです」

「なるほど……」


 十人の客にイワシを五匹ずつ出すにしても、五十匹の鱗を取り、内臓を捨てて皮を剥き、食べられる形に整えるという作業を考えると、頭と内臓、鱗をとって八分間煮るという料理と比べればとても手間がかかることがわかる。


「それに、骨ごと食べられるというのは、人が骨を作るのにも大切らしくて……」


 クリスがちらりとシャルに目を向ける。

 シャルは空いたカウンター席の部分を塗れた布巾で拭き取り、次に待っていた客を招き入れている。


「身長だけじゃなくて骨を丈夫にしてくれるし、頭もよくなるらしいの」


 ウーゴの表情が少し驚きの色を示すが、すぐに信じられないといった顔に変わると、そのまま肩を竦めて話す。


「食べた骨が、自分の骨になるという話はとても納得できますが。頭は……」


 確かに背の青い魚には記憶力の向上や、血圧降下、血中脂質低下などの効能がある栄養素が含まれているが、マルゲリットに限らず、コア異世界のどこにもそのような知識はない。


「でも、骨が丈夫になるというのは納得できるでしょう?」

「ええ、わたしは一度も骨折などしたことがありませんからね。すごく納得できます」


 ウーゴは力強く頷く。

 ウーゴにも子どもはいる。当然、その子たちのことを考える。


「骨が丈夫になるというなら、うちのガキ共にも食わせてやりたいが……ここじゃ海の魚も手に入らないからなあ」


 ウーゴはとても残念そうにぼそりと呟くと、諦めたように天を仰ぐ。

 一番近い海辺の町からは馬車で十日はかかる。海の生魚を手に入れるのは至難のことであるし、川魚は泥臭く捕る者がいない。例え捕れてもその泥臭さを取り去る方法をウーゴは知らない。

 背を壁に預け、クリスはウーゴを見つめていた。

 この街にも海の近くから移ってきた人が多く住んでいる。そんな人にもっと海の魚を提供できればいいと思う気持ちはクリスにもあるのだが、この店の魚は日本で捕れたものだ。この店で出す程度ならまだしも、大量に買い付けて持ってくることはできない。そして、空間魔法で海辺の街から運ぶこともできない。クリスはコア異世界の海を見たことがない。そんな思いがクリスの無力感を募らせる。

 ウーゴをじいと見つめるクリスの瞳には力がなく、その心が揺れていることを表すようにゆらゆらと揺れ始める。クリスの瞼がその瞳の半分を覆うと、視線は少し前でぼんやりと何かを見つめるように停止した。


「どうしたんだい?」


 厨房からシュウが出てくると、悩んでいるときの表情をしたクリスに声をかける。

 クリスは半眼に閉じていた瞳をすうと開くと、シュウを見上げた。


「ううん、なんでもない……」


 それが「また後で」という意味であることをシュウは理解していて、この後の賄いの時間にでも話を聞くことにする。

 カウンター席の一番奥には天馬亭の亭主……ウーゴが座っていて、テーブルに両肘をついて頭を抱えている。


「どうかしましたか?」


 シュウはカウンターの奥まで進むと、ウーゴに話しかける。シュウの目の前には、きれいに食べ尽くされた魚朝食の皿が丸盆の上に並んでいる。

 少しぼんやりした表情でウーゴがその頭を上げる。


「なんでもない……」

「そうですか……今日の魚朝食、『イワシの梅煮』はいかがでしたか?」


 シュウはウーゴも何か悩みのようなものを抱えていることを感じ取ると、話題を変えることにした。

 カウンターの内側にある台に両手をついて、ウーゴを覗き込むように姿勢を落とす。

 ウーゴは少し思い出すように宙を見るように視線を上げ、右手で顎を摘まむ。


「ああ、『梅酢』というものが骨を柔らかくしていたな。しかも、まったく煮崩れしていない。身には『イワシ』の風味がしっかり残り、『梅酢』と薬味の『生姜』が生臭さだけを消し去っていて、『イワシ』の美味しさが本当に際立った料理だったよ。美味かった」


 ウーゴの説明した内容は、料理人として堅固な舌を持つことを示している。

 シュウはウーゴの流れるような話し方に、目を大きくして驚くと、その動揺を隠すようにごほんと咳ばらいする。


「ありがとうございます。ウーゴさんも料理人なんですね?」

「そういえば、マルコさんが行く、ダズールの街の出身らしいわよ。ねぇ、どんな場所なの?」


 シュウがウーゴに話すのを遮るように、クリスがウーゴに尋ねる。

 ウーゴはクリスに少し躊躇うような目を向けると、話しはじめる。


「ダズールの街は、海辺の大きな港を中心に栄えた町でね。どのくらいの大きさかというと、新たな航路を探す船が四十隻並んで停泊するくらいの大きさだ。国の海兵を養成するところでもあるから、国中の新兵も集められてやってくる」


 ウーゴはこくりとほうじ茶を飲み、話を続ける。


「船を修理する場所もあれば、船を建造する場所も併設されているから、船大工たちも多く住んでいるんだ。もちろん、漁船だけが出入りする港も用意されているんだ。ただな、街の外から見る景色が素晴らしいんだ」


 ウーゴは瞼を閉じる。その瞼の裏には少しずつ住んでいた頃の記憶が蘇る。


「街を出て街道を一番高いところまで登って振り返ると、目の前には青く広大な海と空が広がるのです。いま登ってきた街道の先には帆柱が海から生えているように沢山立っていて、その船体を街道から隠すように『オレンジ』の屋根と白壁の建物が無数に並んでいるのです。その景色は、青と白、『オレンジ』の三色しか存在しない世界でとても美しい……」


 ウーゴの話に力が入ると、クリスやシャルも瞼を閉じてイメージしようとする。


「もちろん、海から見える街の景色も素晴らしいですよ。それと、とにかく魚が美味いのです」


 急にウーゴの話の方向が変わり、シャルはびくりと肩を動かすと何度も瞬きをしている。


「魚が美味しいというのは魅力的ですね。それに、景色も素晴らしいならそういうところでのんびりと余生を過ごせればいいのにと思いますよ」

「ああ、そのとおりだ……」


 シュウの言葉にウーゴは力なく応えると、深いため息を吐いて立ち上がる。


「馳走になった。また魚を食べにくるよ」


 会計の大賤貨を一枚置くと、ウーゴは少し肩を落として店を出ていく。


「ええ、是非ご家族で食べにいらしてくださいね」


 ウーゴは右手を肩の高さまであげると、ひらひらと手を動かしながら去っていった。


「ふるさとかぁ……」


 天馬亭に向かって歩くウーゴの後姿を見送りながら、クリスはぼそりと呟いた。






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