第52話 イワシの梅煮(1)

 地平線がゆるゆると明るくなると、それまでは深い青色をしていた西の空も明るさを取り戻していく。朝早くから宿を出て行く客は、遠くの街へ向かう商人や旅人たちが多い。朝早くから城壁の外に広がる畑へ向かう農民たちと先を争うように城門へと向かって行く。

 そんな宿泊客の背中に向かってウーゴは右手を胸に当て、ほんの少し頭を下げて礼を言う。


「ご利用ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


 城門に向かう宿泊客の荷馬車を見送りながら、朝の景色に溶け込んでいく人々の姿を感慨深げに眺める。







 ウーゴはダズールという街で生まれ育った。マルゲリットから北西の方向に進んだところにあり、街の人口は一万を超える港町だ。

 港には大洋に出て行くような船がズラリと並ぶ。中には新航路を発見するための軍船も含まれていて、いくつかの輝かしい実績を上げてきた船に乗っていたことを自慢する者たちも多い。

 ウーゴが十歳のとき、父親が東の海に航路を探しに出る船に乗り、帰らぬ人になった。稼ぎ頭を失った家族を食べさせるため、ウーゴはダズールの街でも一番と言われる宿屋、跳ねる銀鯱亭の料理人見習いとして働き始めた。

 船の乗組員は海から離れた町の出身者も多く、訓練生の頃は物珍しい魚介類を使った食べ物に人気があるが、海から戻ると肉料理に人気が集中した。幼い頃から魚しか食べることがなかったウーゴにとって、肉料理はご馳走ということもあり、肉の扱いや調理方法等を貪欲に学び、身につけていった。

 二十歳で同じ跳ねる跳ねる銀鯱亭で働いていた部屋係の娘と結婚したウーゴは、跳ねる銀鯱亭の亭主にマルゲリットにある「天翔ける白馬亭」を紹介され、料理長として招かれた。その後、後継ぎがいなかった先代の亭主夫妻に養子に入り、宿を託された。

 宿を継いだ直後は苦労したが、部屋数や奉公人たちも増えて、厨房も任せられるくらいに成長した。跳鯱亭時代に学んだ、魚や肉を炭で焼く方法は、表面を香ばしく焼き上げ、中までじっくりと火を入れられるので、ジューシィでおいしく焼けるのだ。また、煮込みは、牛のスネ肉を焼いてから野菜と共に煮込むもので、肉がホロホロと崩れ、柔らかい。

 ウーゴは毎日のように厨房に立って料理をしているのだが、三十歳を越えると味覚も変わってくる。最近、ウーゴは肉よりも魚を食べたくなることが増えてきたのだ。

 しかし、海辺から馬車で十日はかかる内陸の街で海の魚を食べるというのはとても難しい。ウーゴは、海の魚を恋しく思うとは考えてもいなかったので、マルゲリットの街に移り住んだことを少し後悔するようになっていた。

 そんなある日、このマルゲリットで海の魚を出す店があると宿泊客の商団幹部から聞いた。

 干物ではなく、生の状態から調理するという話を聞くと、腹を壊しそうだと思っていたのだが、実際に腹を壊した者はいないらしい。新鮮な魚を使っているという証拠だ。

 ウーゴは、その話を聞いてから数日は眠れない日が続いた。






 ウーゴが意を決して噂の店「朝めし屋」に向かうと、朝二つの鐘が鳴っても店が開く様子がない。

 近くを歩いていた男に尋ねると、七日に一日だけ休業日というものを設けているらしい。

 仕方がないので、次の日は開店直前に店に着くように出掛けた。

 そして、実際にその店では、生の真アジの身を叩き、味噌という調味料に青ネギや生姜、大葉を混ぜた「なめろう」という料理が出てきた。青ネギや生姜、大葉の香りが真アジ特有の香りのよいところだけを引き立て、味噌の塩気と旨みが更に真アジの味を引き立てていた。味噌は穀物に塩を入れて発酵させたもののようで、「なめろう」になったところで、その塩味はとても強く感じられたのだが、一緒に食べたごはんという短い米を炊いたものと食べると、塩梅もちょうどよくなり、非常に美味しく食べられた。


 独り反芻するかのように味を思い出しながら、顎を動かしていると、朝めし屋に繋がる通りの角に着いていた。今日も一番乗りだ。


「オレはどれだけ気に入ってるんだ」


 ウーゴは独りごちる。


 そのお気に入りの店の前は今日も金灰色の髪をした少女が店の前を清掃していて、普段は汚物が撒き散らかされた街並みばかり見ているウーゴにとっては、違う街に訪ねてきたかのような気分になる。ウーゴの宿では窓から汚物を捨てるようなことはないが、居住区に近く、大きな通りに面していると馬車の往来も激しいため、屋根から落ちる汚物も多いので諦めている。



「クォーンカーン……クォーンカーン……」



 朝二つの鐘がなると、店の中からはクリスがこの国では見かけることもない衣装を着てゆっくりと店から出てくる。その手には二枚の布が刺さった竹の棒を握っていて、店の入り口にぶら下がっている鉄の棒に掛ける。


「おはようございます。開店しますね」


 ウーゴが見渡すと、自分の後ろには数人の男たちが既に並んでおり、ウーゴが店に入るのを待っていた。並んでいる男たちは早く入れと目で訴え、アゴで指図する。ウーゴは男たちが発する威圧感のようなものに押され、店の中に入る。

 先頭にいたウーゴは、クリスにカウンター席の一番奥に案内されると、すぐ隣には後ろで並んでいた男が座る。次々と男たちがやってきて、カウンターに座っていく。


「ウーゴさん、おはようございます。ご注文はどうしますか?」


 右隣の男との間から手を伸ばし、ことりとお茶を置いたクリスが尋ねる。

 そのまま、おしぼりという熱々の布を広げ、少し冷まして渡してくれる。


「ありがとうございます。『魚朝食』でお願いします」

「もうっ……仕事をしづらくなるので、そんなに気を使わないでくださいよ……。今日は『イワシの梅煮』ですけど、いいですか?」


 ウーゴは梅煮というものはわからないが、イワシならよくわかる。

 港の中でも簡単に獲れる魚で、身体の側面にいくつかの黒い斑点がついているのもいるし、うるうると潤んだような目をしたもの、口が頭の下についているものなど、いろんな種類がある。

 目の潤んだイワシはこの街でも干物になって売られていることがあるが、ニンニクや唐辛子、ハーブを入れたオリーブオイルで煮たものをペーストにする。パンにディップして食べると内臓の苦みが特徴的で美味いのだが、イワシの干物がタラと比べると高いので天馬亭で提供するにも高いツマミにしかならない。


「どんな『イワシ』なんだい?」

「身体の側面に七つの黒い斑点がついている魚で、シュウさんは中羽とか言ってたかな……」


 クリスは仕込みの前に見ていたイワシの身を思い出して説明する。中羽の意味はよくわかっていないので、少し自信がなく語気に力がない。


「中羽っていうのは、これくらいの大きさということですよ。使っているのは『マイワシ』です」


 隣の客の注文をとっていたシュウが、親指と人差し指を開いて大きさを説明する。だいたい、十五センチくらいである。


「ありがとう、じゃあ『魚朝食』でお願いするよ」

「はーい、『魚朝食』を一人前いただきましたー」

「あいよっ」


 ウーゴはカウンターに両肘をついて顎をのせると、跳ねる銀鯱亭で修行していたときのことを思い出す。

 海の街でも肉料理が出ることが多い宿屋だが、イワシ料理も人気があった。

 特に、フライパンで焼いた二十センチくらいのマイワシをマッシュポテトの上に乗せ、焦げたバターをそのまま上から回しかけた料理に人気があったし、ニンニクと唐辛子を入れたオリーブオイルで焼いたマイワシも人気が高かった。


「じゅるっ」


 気が付くと口から涎が溢れ出していて、ウーゴは慌ててそれを啜る。

 誰かに気づかれていないかとウーゴは隣やその向こうに座っている男をちらりと見ると、隣の男は瞑目しているだけで身動き一つしないが、その向こうの男は涎が顎を伝っている最中だ。

 実はこの二人も魚定食を食べにきていて、ウーゴと同じように海の生魚を使った料理を楽しみに来ている。


「お待たせしましたっ!無料のお漬物です」


 ことりと音をたて、ウーゴの正面に変わった器が置かれた。

 その器は、土を焼いただけで作られたもののようで、三つに割れた木の実のような形をしている。

 少し赤い茶色をした器には白と緑、赤色の野菜が適度な量で盛り付けられているのだが、器の色がこの野菜の色を引き立てている。


「今日の『お漬物』は『赤かぶ』と『大根』、『水菜』の三種類です。『大根』は『柚子』で風味をつけてあります」


 クリスはカウンターに並んで座っている客の分をまとめて出し、丁寧に漬物の説明をする。

 男たちは平らな四枝のフォークを持つと、思い思いに漬物に手を伸ばしていく。


 ウーゴもフォークを右手に取ると、柚子大根の漬物にその爪を立てる。そして、さきほど思い出した跳ねる銀鯱亭の料理のせいか、すこしぼんやりした表情のまま、漬物を口に運ぶ。

 口の中に柚子の鮮烈で爽やかな香りがパッと広がると、ウーゴは現実は引き戻される。

 歯を立てた大根はぱりぽりと心地よい音をたてながら、その中に溜め込んだ旨味をじゅわりと舌の上に広げ、喉の奥に消えていく。


「ほう、美味いな」


 ウーゴの口から思わず声がでるが、本人は気にしていないようで、そのままお茶に手を伸ばす。

 紺地に白い水玉模様の湯呑に見えるのだが、白い水玉部分は指が引っかかる程度の窪みが作られていて、とても持ちやすい。熱いお茶を飲むにはハンドルがついている方がいいのだが、この店のお茶はそこまで熱い温度で淹れられていない。

 とても白くきれいな「みこみ」には少し濁った薄黄色の液体が入っていて、表面には細かい産毛のようなものが浮いている。

 それを見て、ウーゴは少し眉を顰めると、恐る恐るクリスに尋ねる。


「クリスティーヌ様、この『お茶』に埃がたくさん浮かんでいるように見せるのですが……」


 クリスは「ああ」と小さな声を出すと、カウンターに入ってウーゴの前にやってくる。


「うちで出している『お茶』は煎茶という種類の『緑茶』なんです。『紅茶』と同じ『チャノキ』の新芽を摘んで作るんだけど、その新芽には毛茸もうじという産毛のようなものが生えていて、それが湯に流れ出すと埃みたいに浮かぶんです」


 ウーゴは納得したようで、口縁を唇にあててお茶を流し込む。

 新芽を摘んで作ると聞いたからか、若葉のような清涼な香りが鼻に抜け、舌の上に茶葉から滲み出した旨味がじわりと染み込んでくる。


「どうです?」


 口にお茶を含んだウーゴに期待を込めた瞳でクリスが尋ねる。


「爽やかな香りがしますね。渋みもなく、甘いくらいで、砂糖や『牛乳』も必要なく美味しく飲めます」

「でしょうぉ?」


 にんまりとした笑顔を見せると、クリスは機嫌よくお茶を注ぎ足す。

 するとウーゴの目をじいと見つめ、話しかける。


「ウーゴさんって、もしかすると海辺の生まれですか?」


 ウーゴは話しかけられる機会などあるはずがない人から直接質問されると、慌ててフォークを落としそうになる。ちょうど赤かぶの漬物を口に運ぼうとしているところだったので、落ちていくフォークを左右の手でお手玉のように宙に浮かべ、両手で挟んで確保する。

 その姿を見てクリスは右手で蟀谷を掴むようにして、俯く。


「はい、ダズールという街で生まれて育ちました」

「あ、ダズールってマルコさんが行くところじゃない。どんな街なの?」


 クリスはその青く美しい瞳を更にキラキラと輝かせ、いかにも興味津々という視線で、前のめり気味の姿勢で尋ねてくる。


「あがったよ」


 シュウの声にクリスは眉を上げて目を大きく開くと、後ろに目を向ける。

 カウンター奥の厨房では、シュウが両手に丸盆を持って次々と魚朝食を並べていた。辺りは煮魚特有の甘みのある香りが漂う。


「はーい」


 クリスは今そこでお茶でも淹れていたかのような顔をつくると、厨房に料理を取りに行く。

 そうして戻ってきたクリスが持っている丸盆は、切って削っただけの無垢にみえるような色をしている。


「おまたせしました。今日の魚朝食です」


 またことりと音をたて、ウーゴの前に丸盆が置かれる。

 白いごはんが入った茶碗に、木を削って作った汁物椀が手前に並び、その奥には青白い生地に模様が絵描かれた皿に五匹のイワシが並んでいて、赤黒い煮汁がたっぷりと絡められている。イワシの上には細く切られた生姜が小さな山のように盛り上げられていて、横には赤くて皴のある果実のようなものが共に添えられている。

 その果実は明らかに煮汁を吸って変色しているのだが、ウーゴは見たことがない。


「この果実は……」


 ウーゴが上目遣いでクリスに尋ねる。

 その瞳が伝える感情には明らかに畏れが含まれていて、クリスは眉尻を下げ、少し呆れたように両手を肩まであげるとウーゴに向かって説明する。


「この果実は『梅干し』という、シュウさんの国の食材です。『梅』の実を一度干してから、『赤紫蘇』と一緒に塩漬けしたものです。塩漬けすることで『梅酢』ができて、その酸味で『イワシ』が骨まで柔らかくなるんですよ」


「ごくり」


 クリスの説明を聞いて、ウーゴの喉が鳴る。

 いや、カウンターに並んで座っている他の客も同じように喉を鳴らし、既に味噌汁に手を伸ばしている者までいる。

 目の前にあるイワシの大きさなら、食べるうえでどうしても背骨が邪魔になるのは間違いない。だが、この料理は骨まで食べることができるというのだから、心配なく齧り付いてやるとばかりに食いついていく。


「今日のお味噌汁は油揚げと『マコモダケ』、『ワカメ』です。あとは『青ネギ』ですね」


 ウーゴはイワシの梅煮に手をつけたいのだが、他の客も最初に木椀の中の味噌汁から手をつけているので、それを真似るように右手に木匙を持って汁を掬う。

 ウーゴが眼前にまで木匙を持ちあげると、小さなイワシを炒ったいりこの力強い香りが汁椀の中から立ち上げる。次に鼻を近づけてくんくんと嗅いでみると、その奥には味噌の少し甘い麹の香りや、ワカメの海草らしい潮臭さが僅かに含まれている。


 木匙を入れてみると、木匙のツボから背にかけてワカメがべったりと張り付いていて、ぽたぽたと汁が零れ落ちる。ツボの上には薄く切られたマコモダケがのっていて、更にその上には油揚げが嫋やかに横たわっている。

 ウーゴは慌てて木匙の中身を掬い直し、マコモダケ以外の具を汁椀に残すと、口に運ぶ。

 繊維質でしゃくしゃくと非常に心地よい食感を楽しむと、鼻腔には「いりこ」の香りと味噌の発酵臭、ワカメの海草の匂いが一気に広がる。「いりこ」の出汁は味噌の風味に負けていないが、しっかりと甘さを含んだ味噌の風味に合わさり、その二つの「旨い風味」が食欲を刺激してくる。


「ああ、滲み込んでくる……」


 カウンターに座った客がそれぞれに食事を楽しんでいて、いろいろな音が出ているせいか、小声で呟いたウーゴの言葉には誰も気が付かない。ただ、ウーゴは自分の思ったことを口にだすことで、それを確信へ変えると、味噌汁で湿った木匙で茶碗の中のごはんに対峙する。

 前回、この店に来た時も同じだが、白い米が艶々と輝き、穀物が焦げたような甘い匂いがぷわんと漂ってくる。茶碗という器に盛られた白いごはんは、ウーゴが梅干しのことをクリスに質問したり、マコモダケの入った味噌汁を味わっている間に少し冷めたようで、ゆらゆらと湯気が立ち上っているが、その量はかなり少なくなっていた。

 ウーゴが木匙に掬った白いごはんの量は少ないものの、何の躊躇いもなくウーゴの口の中へと運ばれていく。なめろうと食べた時とは違い、味噌汁とごはんだけという組み合わせなのだが、いりこと昆布に加えてワカメから出る出汁と、少し甘い麹の風味がする味噌とごはんがよく合う。


 何かに納得したようにひとつ頷くと、ウーゴは漸くイワシの梅煮に木匙を向ける。

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