第51話 おにぎり弁当
夕方から降り出した雨は、先日のように土砂降りになることはないが、ぽつぽつと降り続けることで
この雨を降らせる雲のせいで
マルコはむくりと起き上がると、眠い目を擦りながらベッド下に押し込んだブーツを取り出す。
いつもと同じように左足から順に履いて、紐を縛り上げてぎゅうと結ぶ。
窓を開けてみると、心なしか東の空は明るくなってきている。
マルコは歯木を咥えると、何かを考えて始めたようで、同じ歯ばかりごしごしと磨いている。
しばらくして思い出したように他の歯も磨きはじめると、部屋にある盥の水を口に含み、濯いで汚物入れの中に吐き捨てる。
最後に盥の水で顔を洗うと、ナイフを取り出して伸びた髭をじょりじょりと剃って整える。
「おはよう」
マルコは宿の一階にあるカウンターで、宿主のジェリーに声をかける。
「おはようございます。今日ご出立でしたね……朝食になさいますか?」
マルコは少し悩むような表情をするのだが、今日は「朝めし屋」に行く時間がない。食べるなら今しかなく、宿の食事を摂ることにする。
一階にある食堂には、今日から王都まで一緒に行動する行商人仲間が数人座っていて、既に食事を始めていた。だが、マルコはいつも食事を一緒にしてこなかったので声を掛けて同席するのも少し気恥しく、キッチンに向かうカウンターの席を選んで座る。
「マルコさん、おはようございます。『ポトフ』と『トマト』のスープ、どちらにしますか?」
レヒーナが声をかけてくる。
以前はパンと少量の野菜、ベーコンを焼いただけの朝食しかなかったのだが、今は煮込みがメインに変わっている。これも「朝めし屋」効果なのだろう。
「そうだな……『ポトフ』でお願いするよ」
「はーい」
普段、宿で食事を摂らないマルコが来たことが嬉しいのか、マルコに新しいメニューを提供できるのが嬉しいのかはわからないが、レヒーナが少し嬉しそうにみえる。
こうしてみると、マルコの商売には繋がることがなかったとは言え、店の雰囲気も大きく変えることができたのなら、ニルダとレヒーナを「朝めし屋」に連れて行ったのは悪いことではなかったのだろう。こんなことを繰り返していれば、いつかは何かの形で自分に返ってくるものなのである。
「おまたせしましたっ」
レヒーナの元気な声と共に、料理が運ばれてくる。
四角いトレイには中央に丸いパンが置かれていて。くり抜かれた部分にはキャベツや馬鈴薯、ニンジン、タマネギと豚の腸詰が入った煮込み料理が入っていた。
横には木匙が置かれていて、先日食べたパンシチューのように、蓋になる部分もしっかりと用意されている。
「まずはできるところから始めようってことになって、昨日から試行錯誤しているんです」
「ってことは、これはレヒーナがつくったのかい?」
「はいっ!」
とても嬉しそうにレヒーナが返事をし、はやく食べてみてくださいと熱い視線でマルコを見つめる。
「じゃぁ、じっくりと味合わないとね」
マルコは最初に蓋の部分になっているパンを千切り、ポトフの中に浸す。
千切ったパンもまだ焼きたてのようで少し柔らかいが、ポトフのスープを吸い込むと、更に柔らかくなって崩れそうになる。
マルコは慌てて迎えるようにポトフのスープを吸ったパンを口の中に入れる。
燻製にされた腸詰の香りやキャベツ、ニンジン、タマネギの味がスープに溶けだしている。そのスープをよりおいしくさせているのが塩で、ちょうどよい塩梅に仕上げられている。とてもシンプルだが、土の滋味を感じるやさしいスープだ。
「ああ、おいしい……こういうのを母の味って言うんだろうな。レヒーナはいいお母さんになりそうだな」
「もうっ、まだ早いですよ! もっとこの食堂を繁盛させるんだもん」
「そうか、まだ十歳だったな……でも、間違いなくもてると思うよ?」
マルコは精いっぱい褒めているつもりだろうが、少しレヒーナの表情が曇る。
「んー……クリスさまや、シャルちゃんがいるもの……」
「ああ、あの二人ね……」
クリスはこの街の領主の娘で、最近はますます艶が出て月白色に輝く髪をした瑠璃のような瞳をした美少女であるし、シャルも毛先に行くほど淡いピンク色に変わる金灰色をしたピンクスピネルのような瞳をした美少女だ。その二人があの「朝めし屋」にいるだけでも奇跡に近い。
「あの二人は特別だ。それに、いいお嫁さんになるかどうかなら、わたしはレヒーナの方があの二人よりは上だと思うぞ。料理ができて、掃除、洗濯もできる。わたしならレヒーナをお嫁さんにするよ」
ポトフ入りのパンシチューを食べながらマルコが呟くと、レヒーナは顔を真っ赤に染める。
だが、その呟きを聞いていたのはレヒーナだけではない。
「マルコさんにゃ、うちの娘はやれないね!」
振り返ると、仁王立ちという言葉ではその恐ろしさを表現しきれない形相でニルダが立っていた。
「昨日、その腸詰を買いに出かけたとき、ウォーレスに聞いたよ。あんた、クリスお嬢様をかなり困らせたようだね……そんな人に娘はやれないよ!」
「あ、いやそれは……本当に心から反省しているよ……」
ニルダはマルコの隣にドカッと腰かけると、ゆっくりと話しかける。
「マルコさんが骨を折ってくれたおかげで、うちに名物メニューができる。本当に感謝してるよ」
ニルダが覗き込むように、マルコの顔を見上げて話す。
「ただ、なんとか金儲けにしようとヤコブやウォーレスだけじゃなく、クリスお嬢様まで迷惑を掛けちゃいけない。人に授けた恩は必ず何かの形で帰ってくるものだよ。だから、恩はいっぱい授けてくればいいじゃないか」
「ああ、そうだな……」
「わたしたちもこの恩は忘れないし、絶対に返すから無事帰って来てくれよ」
男の声に反応してマルコが見上げると、そこにはレヒーナと、レヒーナの頭を優しく撫でているジェリーが立っている。
「でも、マルコにゃレヒーナはやらない!」
ジェリーも同じように、マルコにレヒーナを嫁に出す気がないと大声で宣言し、その場は笑いに包まれた。
がたごとと音をたて、二頭立ての荷馬車に乗ったマルコは大門へ向かう。
王都を経由して、いくつもの宿場町やその先にある村々を回りながら商売をし、移動する。それがマルコの仕事である。ただ、今日から向かう王都への道中には、三つの宿場町と七つの村があるが、途中での商売はしない。今回はマルゲリットと王都で買い付けを行い、その先のダズールという港街や、これから探そうとしているヤーホンとかいう名前の街で売り歩くためだ。もちろん、その両方の街で買ったものは、マルゲリットと王都に戻って売り捌く。
銀兎亭は大門に近い宿屋なので、マルコは出発してすぐに大門に到着するのだが、開門時間には少し早かった。マルコと一緒に王都に向かう旅団のメンバーが門の近くに集まっていて、マルコもその集団に合流した。
「王都へ向かう旅団に参加する商人は集まってくれ」
マルコは自分も含まれるのだろうと、その呼び声に応じてリーダーらしき人物のところに急ぐ。
どこで宿泊し、どこの村や小さな町に誰が商品を売りに行くのかを先に決めておかなければ、集団行動はできない。基本は三つの宿場町を使うことが前提になっているが、宿屋が満室であった場合は野営も必要になる。街道を走るときはそうでもないが、宿場町から村や小さな町に向かう者は隊列を組んで進むようにと指示を受ける。
それらの最終打合せが終わり、マルコが荷馬車に戻ると、そこには「朝めし屋」のシュウとクリスが待っていた。
「マルコさん、いよいよですね」
「気をつけて行ってらしてくださいね」
クリスが差し出した手には、茶色い木の皮のようなもので包まれたものがある。
「これ、今日の昼にでも食べてください」
「あと、これを……お湯を沸かせるなら、中にお湯を入れて溶いて召し上がってください」
シュウが渡したのは、同じ木の皮のようなもので包まれていて中身は見えない。ごつごつとしているので、器が入っているのだろう。
「いいのかい?」
「ええ、少し古くなっているものですから、使い終わったら捨ててもいいですよ」
マルコはシュウとクリスが渡した木の皮に包まれたものを受け取ると、礼を言う。
「ありがとう。必ず帰ってくるよ」
「絶対ですよ?」
「美味しい朝食を作って待ってますよ」
クォーンカーン……
「昨日は済まなかった……」
マルコが俯いて漏らした言葉は、朝一つの鐘のせいでクリスとシュウには届かなかった。
でも、クリスやシュウは昨日のことなど気にしておらず、ただ別れを惜しむような顔を見せている。
「出発するぞー」
商隊のリーダーらしき人物の声が響き、ぞろぞろと荷馬車が動き出す。
隊列としては比較的前の方に組み込まれたマルコはすぐにでも出口に向かわなければならない。
マルコは御者台に乗ると、馬の幉を持って最後の声をかける。
「それじゃ、行ってくるよ」
「お気を付けて」
「お元気で」
マルコが馬を走らせると、大門を出ていく。
街道までは下り坂になったこの道は、馬車、荷馬車が出ていくのは早い。あっという間に、マルコの荷馬車は見えなくなっていった。
街道に出て、左回りにマルゲリットの街を周回するようなかたちで、北東の街道に進んでいく。
既にマルゲリットを出て一時間は経っているが、前も荷馬車、後ろも荷馬車だ。左右は雑木林で、その中に整備された街道が伸びているのだから、景色は変わらない。
ただ、この雑木林もきれいに整備されていて、地面が見えるほど清掃されている。高価で取引されるトリュフやモリーユなどのキノコを採るためだ。
そこから二時間ほど走ったところで、開けた場所にでる。街道から少し離れたところに石を積み上げた壁がずらりとつながっていて、その奥にも石を積み上げた壁が続いている。ウサギやイノシシなどの獣による被害から畑を守るために長い年月をかけて作られた景色だ。この景色も単調だが、途中には馬車が野営や休憩できるほどのスペースが用意されていて、今からマルゲリットに向かって出発しようとしている荷馬車が止まっているのが見えた。
「もう三時間は進んでいるから、そろそろ休憩かな」
ガタゴトと音をたてて揺れる馭者台の上で、マルコは独りごちる。
何度も通ったことがある街道なので、この先に清水が湧き出る小川があるのを知っている。小川の近くには農村もあって、その小川で洗濯や水浴びなどをするので汚れている可能性もある。だから、多くの商人たちは汚れていない水を得るため、その先にある源泉にまで足を延ばす。
水飲み場になっている小川の源泉の周辺には、王都方面からマルゲリットへと向かう荷馬車が数台止まっている。
マルコ達の旅団も、到着した順に荷馬車を並べ、休憩に入る。
マルゲリットの街を出るときに昇り始めた
マルコは馬を地面に打ち込まれた木杭に繋いで休ませると、両手を空に向けて突き上げ、軽く伸びをする。
「ふう……」
軽く漏れたその声は、少し緊張していたマルコの心を解したようで、ぽつぽつと降る雨が気にならない程度にリラックスできているようだ。すると、マルコの胃袋も空腹感を訴え始める。
「ぐぎゅるぅうぅううう」
マルコは右手で胃袋のあたりを軽く擦ると、シュウとクリスから弁当を受け取っていたのを思い出す。最初にシュウから受け取った荷物を解くと、そこには思ったとおり、少し古くなって漆が剥げた木の汁椀があり、その中には茶色い団子が入っていた。
「なんだこれは……」
不思議なものを見るようにマルコはその団子をいろんな角度から確認する。緑のものや、薄い茶色のもの、乾燥させた海老などが入っているが、すぐにマルコには理解ができない。次に木椀に鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。
「味噌汁の匂いがする」
シュウはマルコに中身を説明していないが、これは味噌玉という携帯用の味噌汁の素である。
マルコは、これを受け取るときにシュウからお湯で溶かすように言われていたのを思い出し、慌てて石を集めた竈をつくると、荷馬車から薪と枯草を取り出して火をつける。そして御者台の水筒から鍋に水を入れて火にかけると、水筒に水を汲みに源泉へと走る。
源泉から戻ってくると、タイミングよく鍋の水が沸騰するところだ。
マルコは沸騰するのをまって、汁椀の中の味噌玉にお湯をかける。
じわじわと味噌玉が溶け、干し海老やワカメなどからゆるりゆるりと出汁が染み出していく。
マルコは次にクリスが渡してくれた包みを開く。
竹の皮を干して作られた包みが仄かに香りを漂わせると、その中に閉じ込められていた食べ物が目の前に現れる。
白いご飯を三角に握ったおにぎりが三つ入っていて、隙間には「朝めし屋」でよく見かけるだし巻きがてろんと横たわっている。また、端には胡瓜の古漬けと沢庵が添えられている。
「おお、これはすごい……」
竹皮の包みには、「朝めし屋」の食事に添えられていた箸が入っていて、その紙袋には「使い方がわからないなら、よく手を洗って手で食べてください」とクリスの文字が躍っている。マルコは箸を取り出すと、汁椀の中をぐるぐると混ぜて味噌玉を溶かす。
「ズズズッ……」
木匙がないので啜るように味噌汁を吸うと、空気と共に味噌汁の風味が鼻の奥に流れ込む。
味噌の香り、干し海老の香りだけでなく、粉状に砕いた鰹節の香りが鼻腔を擽る。また、口の中では乾燥ワカメや鰹節、干し海老の旨味が広がり、むくむくと汁を吸って膨らんだ天かすの食感が舌を楽しませる。
「ああ、うまいなあ……」
ぽたりと雫が落ちて、マルコの膝にシミをつくる。
マルコは近くにあった平らな石の上に汁椀を置くと、クリスから受け取った包みにあるおにぎりに手を伸ばす。
がぶりと齧り付くと、白いごはんの中から紅鮭が顔をだす。皮目はごはんの水蒸気のせいか柔らかくなっているが、身の部分はしっかりと塩気が効いてうま味も濃縮されている。また、その塩気が冷えたごはんを甘く感じさせる。
マルコはだし巻きをつまみ、齧りつく。仄かに酒の匂いがするが、ぷるんと柔らかく焼き上げられた食感が心地よい。また、鶏卵の風味がふうわりと口の中に広がると、出汁の風味があとから追いかけてくる。
「なんて優しい味なんだ……」
ぽたりぽたりと雫が落ちて、太腿のあたりにまたシミをつくる。
マルコはがつがつと紅鮭が入ったおにぎりを食べ終えると、味噌汁を啜り、次のおにぎりに手をかける。
またがぶりと齧りつくと、中にはとても小さく透明な粒が大量に入っていた。ほんのりと薄い桃色の粒は魚の卵のようで、そこに唐辛子を砕いた粉が少し混ざっている。
これは明太子のおにぎりだ。
色合いは素晴らしい。魚卵は少し生臭いのだが、舌にピリリとくる辛さと、昆布の旨味が舌に伝わる。不思議なことに、ごはんと一緒に咀嚼をすればその生臭さは消えていき、また次のひと口を食べたくなる。
ぱりぽりと胡瓜の古漬けを齧り、また明太子のおにぎりを齧る。味噌汁を啜り、沢庵を齧ると、明太子のおにぎりを頬張って味噌汁を啜る。次はだし巻きを齧り、明太子のおにぎりを齧って味噌汁を啜る……ということをしていると、すぐに明太子のおにぎりも胃袋に消えてなくなった。
おにぎりは一つ残っている。
最初は紅鮭のおにぎり、次は明太子のおにぎりと続き、マルコの中で次のおにぎりへの期待が高まる。
「最後は何だろう……」
三つ目のおにぎりを手に取ると、左手で持った汁椀の味噌汁を啜りこむ。
マルコは期待を込めて、最後のおにぎりに齧り付く。
「へっ?」
具は入っていない。だが、絶妙な塩加減と、絶妙な力加減で握られたおにぎりは、口の中でぱっと解け、米の甘みを口の中いっぱいに広げる。
追いかけるように飲む味噌汁も、齧りつくだし巻きや沢庵の味も、すべて具のないおにぎりが受け止める。
食べる順番が違えば伝わらなかったかも知れないが、シュウとクリスの思いが込もったおにぎりだ。
紅鮭から始まったマルコとの出会いへの感謝と、明太子は客が増えたという感謝の気持ち、そして最後の具なしおにぎりはシュウとクリスの寂しさを示し、具を見つけて帰ってこいという意味にも受け取れる。また、二つの具のように優しく包み込むように迎えるので元気に帰ってこいという意味もあるかも知れない。
マルコがおにぎりの具の意味を考えると、涙と雨でズボンにはぽたりぽたりとシミができ、そのシミはどんどん広がっていった。
「あと
旅団のリーダーらしき人物が声を上げる。
マルコは、箸袋を丁寧に畳んで首から出した巾着袋に入れ、小川で洗った汁椀は私物袋の中に丁寧に詰め込んだ。
空模様は相変わらずで、ぽつりぽつりと雨が降っていた。
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