第47話 鶏モモのスパイス焼
朝二つの鐘が鳴る三十分前になると、クリスが店の引き戸を開き、ワンピース姿になったシャルが店の外に飛び出していく。
クリスがその後姿を見つめていると、シャルは掃除用具を取って清掃を始めた。
「そういえば、今日も「銀の角兎亭」に行くの?」
マルゲリットの街では「銀の角兎亭」のような名をつけた宿や飲食店が多く、人々は三文字に略して呼ぶことが多い。「銀の角兎亭」であれば銀兎亭となるし、「天翔る白馬亭」なら天馬亭と呼ばれる。
銀兎亭はマルコが連れてきたニルダの夫が亭主を務める商業ギルド近くの宿屋であり、昨日、シャルはそこの娘であるレヒーナと友だちになった。
「うん、今日も約束しているの!」
「じゃ、シュウさんに話しておくね」
簡単に今日の予定を確認すると、クリスは店の引き戸を閉じて、店内へと戻った。
朝二つの鐘が鳴る少しくらい前から、男たちがぞろぞろと店の前に集まってくる。服装は商人のような者もいれば、役人のような服装をした者もいて、これからの朝食後に仕事を始める人たちであることを感じさせる。
その中には何度か見かけたような顔の者もいるが、少し不安そうな顔をした者や、期待感を込めた瞳で開店を待つ男もいた。
「クォーンカーン……クォーンカーン……」
朝二つの鐘が鳴ると、店の引き戸を開き、クリスが暖簾をかけて声をかける。
「おはようございます。開店しますね」
その声に釣られるように男たちが店の中へと入っていくのだが、客はおひとり様ばかりなのか、順にカウンター席に座っていく。
クリスが順にお茶とおしぼりを出して、注文を確認していると、赤褐色の髪を後ろに束ねた男が入ってきた。
「リックさんいらっしゃい」
「いらっしゃいなの」
名前を呼ばれたせいか、少し恥ずかしそうに頭を掻くと、リックはカウンターの一番手前に座る。
「もう、そこは指定席ですね」
クリスの言葉には何かを諦めるような空気感が籠る。
「ん? いけなかったか?」
先に入った客は奥から順に座っているので、リックの隣には二人分の空席がある。
リックは自分の周囲を見回すが、クリスの気持ちは伝わらないようだ。
「いえ、いいんですよ。リックさんはシャルとも話があるだろうし、話しやすい場所がいいでしょう?」
「ああ、そうだな」
「一昨日も会ったの」
この水曜日に、マルゲリットの堀の水を上水として使用できるのかを確認するため、シュウとクリス、シャルの三人は城門を出ている。そのときに、リックは門兵として働いていたのをシャルは覚えていたのだ。
「そうね、なんか……真面目に働いている姿があまりにも意外で驚いたわ」
「おいおい、オレはいつだって真面目に仕事をしてるんだぞ」
クリスの
「シャルちゃんは、オレがちゃんと仕事してると思ってくれてるよな?」
「もっ……ももっ……もちろんなのっ……」
少しずつ日本のテレビ番組の影響を受けているのか、シャルもリックの視線をごまかすような話し方で返事をすると、周囲にも笑いが広がる。
リックは存外な扱いをされていることにまた眉を顰めるのだが、周囲には和やかな雰囲気が漂っていることに気が付き、ふっと力を抜いたように顔を綻ばせる。
「さて、ご注文はどうなさいますか?」
「うーん、そうだな……」
シャルから受け取ったおしぼりで顔を拭っていたリックは、一瞬考えているような声を出す。
その姿を見て、クリスはリックは毎回「オススメ」を食べていることを思い出す。
「いつものように、オススメにしますか?」
「ああ、オススメは何だい?」
「そうですねぇ……」
クリスは顎に手をあて、視線を宙に彷徨わせるようにして考える。
リックは門兵で、こうして店に来るときは夜勤明けか、その翌日の休日が多い。体力仕事であるし、三日前まで降っていた雨のせいで街道補修にも出ていたことが考えられる。
「今日は『鶏朝食』はどうですか? 『鶏モモ肉』に数種類の香辛料を掛けて焼いたものなんだけど、疲れが取れて元気が出る感じがしますよ。頑張って働いているリックさんにピッタリです」
「お、真面目に働いているって認めてくれるんだな?」
「真面目かどうかは別でしょう?」
クリスは少し睨みあげるような視線で圧をかけるリックに対し、視線を逸らしながら答えをはぐらかす。
ただ、この間にも他の客が入ってきたので、これ以上漫才を続けるわけにもいかない。
「じゃ、『鶏朝食』でいいよね?」
「ああ、任せるよ」
リックは少し逡巡するような目の動きをするのだが、考えるのも疲れるといった表情になると、クリスに返事をした。
「鶏朝食、一人前お願いしまーす」
「あいよっ」
最初に運ばれた料理は、一番奥に座る男の前にことりと音をたてて差し出される。
その後、着席順に料理が運ばれてくると、リックはカウンターについていた両肘を下ろし、姿勢を正して待つ。
「順番が前後してごめんなさい。こちら、『魚朝食』です」
奥から五番目の席の男に先に料理が運ばれてくると、かくりとリックは肩を落とす。
「ごめんなさいなの。『鶏朝食』は少し時間がかかるの」
申し訳なさそうに眉を下げてシャルが頭を少し下げると、リックは手を伸ばしてシャルの頭を撫でる。
「頑張ってるな。元気そうで本当に安心したよ」
「ありがとうなの」
シャルにとって、この街に来て最初に会った人間はリックであり、倒れ込むところを支えて助けてくれた人だ。
心配されていることを知って、にこりと笑顔を見せる。
そこに、クリスがリックの鶏朝食を運んでくる。
「お待たせしました、『鶏朝食』です」
ことりと置かれた丸盆には、いつものように白いごはんが盛られた陶器の器があるのだが、その右側にはいつもの木を削って作った汁椀ではなく、スープ皿が置かれている。その皿のスープにはひらひらとした紙のように薄い卵がたくさん泳いでいて、白い湯気をゆらゆらと立ち上らせている。また、少量の青ネギが刻んで散らされていて、とても彩りが美しい。
丸盆の奥にはレタスやスライスされたタマネギ、キュウリなどが敷かれたところに、きつね色に焼きあがった鶏のモモ肉が一口大に切って置かれている。その皮の部分はパリパリに焼き上げられていることが一目でわかり、見るからに食欲をそそる。
また、先ほどからクミンやシナモン、コリアンダー、カルダモンなどを絶妙に配合したスパイスの香りが鶏肉からふうわりと広がっていて、嗅覚を擽り、更に食欲をそそってくる。
「これはっ……」
その先は、既に視覚と嗅覚を刺激され、口の中に溜まった涎のせいで言葉にならない。
ごくりとその唾液を嚥下すると、リックはまず木匙を手に取り、スープ皿に木匙を入れる。スープにはとろみが付けられていて、どろりと木匙が沈んでいくと、つぼの部分にスープが溜まる。ひらひらした紙切れのようなものが木匙から垂れ下がるので、掬いなおす。
口元に持ってきた木匙の上では、白い湯気がもわもわと立ち上っていて、そのスープがとても熱いことを伝えてくる。
リックはふうふうと息を吹きかけ、木匙を下唇に押し当てるのだが、木匙ではその熱さが伝わらない。スープを流し込んではじめて、その強烈な熱さが最も敏感な舌先に伝わる。
「ぐわっちっ!!」
木匙が触れたときの安心感でまともに流し込んでしまったスープを口の中で冷ますこともできず、出されているお茶も熱い。
リックは独り悶絶した。
「だいじょうぶ?」
「やけどしたの?」
クリスが慌ててグラスに入った氷水を持ってくると、リックは奪うようにその水を口に含み、ごくりと飲み込む。
リックは恐ろしく熱い液体を吐き出すこともできずに飲み込んだことで、胃袋まで流れていく経路全体を焼き尽くすような感覚を覚えていたが、その氷水により漸く解放される。
「ごめんなさいね、とろみがあるからすごく熱いってことを言ってなかったわ」
「ごめんなさいなの」
とても申し訳なさそうに項垂れるクリスとシャルに対し、リックは何でもないと右手で制すると、メインの料理に目を向ける。
これまでのように、箸の使い方がわからないとクリスにせがむこともなく、木匙から箸に持ち替えると、鶏モモ肉を摘まみ上げる。
表面はしっかりと焼き上げられていて、きつね色に仕上げられているのだが、断面は生成色に変わっている。その肉の断面には肉汁がじゅわりと浮かんでいて、箸先に力を入れると水を吸った海綿のように肉汁が溢れてくる。
「美味そうだ……」
リックは小さく呟くと、我慢できないと言わんばかりに箸先に摘まんだ肉を前歯で齧り取る。
周囲にいた客も、最初はリックの前に運ばれてきた料理から漂う香りに心を惹かれていたようにちらりちらりと丸盆の上を見ていたのだが、今はリックの箸先に注目している。
皮の部分がぱりぱりと音をたて、前歯が噛み潰した断面からは肉汁が
肉を咀嚼していると少しずつではあるが、唐辛子による辛さがじわじわと肉汁に広がってきて、ぴりりとした刺激が舌先に伝わってくる。じりじりと伝わってくる唐辛子の刺激は痛覚に訴えるもので、先ほどの火傷のダメージに重なり、じんじんとした痛みに変わる。
リックはその痛みに耐えながら、飯茶碗に盛られたごはんを箸でとると、口の中に入れる。
鶏肉の臭みはスパイスの香りで抑え込まれ、唐辛子や胡椒と少し強めの塩加減、肉汁の旨味が白いごはんを包み込み、ごはんの美味さが何倍にもふくらんでいく。
「うまいっ!」
リックは思わず大きな声をあげ、ガツガツと鶏モモ肉と白いごはんを食べ始めると、最初は気が付かなかった漬物皿を見つけ箸を伸ばす。
そこには、半透明になったスライスされたタマネギのピクルスがこんもりと盛り上げられていて、箸先で簡単に摘まみ上げられる。
少し香りに飽きてきたところで、ピクルスを口に入れるとその甘酸っぱさがとても心地よく、辛さと鶏肉の脂でだるくなった舌をリセットし、またスパイス焼きを食べたいと思わせてくれる。
スープは熱かったので最後まで残していたが、飲みやすい温度に冷めた頃になって口に含むと、鶏ガラでとったスープにふうわりとした溶き卵が柔らかく、舌に優しい味に変わっていた。
その食べっぷりを見て、少し心配そうにしていたクリスとシャルも安心したのか、他の客への対応へ戻っていった。
「なあ、この肉は本当に『鶏』なのか?」
リックはガツガツと鶏朝食を食べている間に座った新しい客の料理を運んできたクリスに、訝し気な表情をして尋ねる。この街で手に入る鶏肉は親鳥のそれで、煮込むと美味い出汁がとれるが、肉そのものは硬い。リックは鶏朝食に出された肉の柔らかさが理解できないのだ。
「それに、最初は香辛料で焼いたものと聞いて、どうせハーブか何かを使った香草焼きのようなものだろうと思っていたが、これは今までに嗅いだことがない、本物の香辛料のような匂いがする」
「ええ、そうね……この街では珍しいものだと思うわ」
空間魔法を使える知人がいることになっているクリスには特に怖いものはない。その知人が用意してくれたスパイスだと答えるつもりだ。
「この香りが香辛料のものだって言うのなら、相当高いものなんじゃないか?」
リックはじろりと睨みあげるようにクリスを見つめる。
「そうですね、でもシュウさんの母国ではそんなに高いものではないんですよ」
クリスは食事を食べ終えたリックにお茶を差し出す。
この街では見かけることがない、透明な淡黄に染まった液体は、ハーブティなどが主流となっているこの街では非常に珍しい飲み物だ。
「このお茶もそう。シュウさんの母国の味なんですよ」
「そうなのか……」
シュウはこの街ではあまり見かけることがない顔立ちをしていた。
身長も街の男たちの中では平均的な身長よりも少し低いくらいであるし、髪色も珍しい黒髪であり、短く切りそろえた髪型も珍しい。
「シュウさんは異国の人なんだな?」
「ええ、そうよ」
リックは門兵である自分が、この街に連れてこられた異国の男がいれば知らないはずはないと考えていた。
もちろん、今日のように休みの日はあるし、夜勤明けで昼間は家で寝ている日もあるのだが、それでも交代の時に異国の男の話は引継ぎとして伝えられる。
しかし、その考えを遮るようにクリスが話す。
「わたしが王都から連れてきたの」
驚いたような顔をするが、すぐにクリスが領主の娘であることを思い出したのか、リックは腕を組み、ううむと何かを考えるような姿勢をとる。
「ところで、シャルのことで新しい情報はない?」
「ああ、情報というのか……少し謎めいた話なんだが、ここでは難しいな」
リックは少し眉を寄せて困ったような表情をすると、辺りを見回す。
時間帯的にまだ商人やその見習いたちが多く座っていて、村のことは話しにくいということだろう。
「じゃあ、奥の四人席に座って待っててくれる?」
「ああ、わかった」
クリスはすぐにリックの言いたいことを理解し、カウンターの上を片付ける。
それを見てリックは立ち上がると、奥にあるテーブル席に向かって歩いていく。
しゅわしゅわと音をたてる透明なジョッキグラスの中に、琥珀色の液体が入っている。
そのジョッキグラスはリックの目の前にどんと置かれ、その傍には鮮やかな緑色をした豆の房のようなものが十鞘ていど入った小鉢がひとつ、空の小鉢がひとつ置かれていた。
ごくりと喉を鳴らし、リックはそのジョッキグラスの中身を見つめる。
「の……飲んでいいのか?」
待ち焦がれていた飲み物が出てきたのか、両手の指をわきわきと動かしながら今にもジョッキグラスを掴んでしまいそうな仕草を見せる。
「ええ、教えてくれるのならいいわよ」
「じゃ、まずは喉が渇いたからひとくち……」
リックは待ってましたとジョッキグラスを手に取ると、口につける。
ごくりごくりとビールを喉に流し込むと、口を大きく開く。
「ぱぁーっ! うまい!」
その飲みっぷりに、自分も飲みたくなってしまうのか、クリスはぐっと力を込めてリックに向かう。
「それでどうだったの?」
ビールの余韻に浸るかの表情をしていたリックだが、クリスの一言で、話すことがあったのを思い出す。
「村の襲撃は夜陰に紛れて行われたが、その後の足取りの目撃者がどこにもいないんだ。十五歳以下の少女と十歳以下の少年といっても、十人以上いた村だというのに、それだけの子どもたちを連れて歩けば目立つだろう?」
リックは枝豆を一つとり、房を齧って中身の豆を口の中にするりと入れて噛み始める。
最初に少し青臭い匂いがするが、甘くやわらかい黒大豆の枝豆は濃厚で、一瞬の青臭さはすぐに姿を消してしまう。
「それでも目撃者がいない……そもそも、村を全滅させる盗賊は珍しいんだ」
「え? そうなんですか?」
クリスが少し興味をもったようで、少し前のめりになるようにリックの顔を覗き込む。
そんなクリスを横目に、リックは二房目の枝豆を口に運ぶ。
「大きな街は、俺のような門兵がいて出入を管理している。この街もそうだ。
だが、村は出入が自由だ。盗賊は農耕はしていないので、パンや野菜などを村で買う。
自分たちにとって大事な取引先である村を襲うということに利点がないだろう?」
行儀の悪いことだが、リックはくちゃくちゃと枝豆を噛みながら話し、ビールを流し込む。
「確かにそうですね……」
クリスも思案顔になり、村が襲われた理由を考えはじめる。
「それに他に村が襲われたという話も出てこない。アプリーラ村だけを狙う理由があったってことだな」
「他の村には被害がないとなると、そうなのかも知れませんね……」
リックは枝豆を口に運ぶ回数が増えてきた。ビールと枝豆の量のバランスをとっているのだろう。意外に几帳面なところがある。
時間にして一分というところだろうか、リックは漸く枝豆から手を離す。
「何かを目的としたどこかの国の工作部隊……じゃないかと衛兵では噂になっている」
真剣な目で見上げるリックの視線はクリスの瞳に固定されていて、話の内容を正しく伝えようという気持ちが込められている。
「何かって……何なんでしょう?」
リックはジョッキグラスを持つと、残ったビールをごくりごくりと飲み干す。
「それを調べるのは門兵には無理だ……」
リックはテーブルに大賤貨を一枚置くと立ち上がり、出口に向かって歩き出した。
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