第48話 すき焼き(1)

 日差しが差し込むと、窓の木枠にある隙間から強い光が差し込んでくる。

 そんなに儲かっていないというわけでもないだろうが、なぜか銀兎亭は窓にガラスを入れない。秋が近づくと猛烈な風雨に晒されるもあるが、この宿屋はグランパラガスの庇護下にあり、その風雨への心配はないのだ。ガラスを入れる分のお金を宿泊費に還元して、安くしているというのもあるのだろう。


 隙間から差し込んだ光が目元を照らし、その眩しさにマルコは目を覚ます。

 マルコはくありと欠伸をし、両手を突き上げるように伸びをする。寝起きで低く下がった血圧も上がり、ようやく動く気分になってくる。そのまま、ベッドの下に隠していた足首まである編み上げの靴を引き摺り出す。そして、左足から順に履いて紐を結びあげると、立ち上がって木の窓を開く。

 東の空は朝焼けに染まり、美しい紅色の稜線から西に向かって深く濃い夜の青色へグラデーションを描いていた。


「また雨か……」


 前回、宿場町に買い出しにでたときも、雨を気にしながらの帰り道になった。その前は大雨で大きく旅程が狂ったことを思い出す。ただ、明日から向かう王都への街道は他の街につながる道と比べると格段に整備されている。何かあれば領主が駆け付けることができる必要がある幹線道路なので、石畳で整備されているところが多いのだ。従って、余程の大雨でない限り、雨上がりの泥濘で荷馬車が動けなくなることもなく、安全に向かうことができる。

 少し憂鬱そうな表情をしたままマルコは宿のフロントに向かい、宿主の妻であるニルダに声をかける。


「おはよう」

「おはようございます。今日はお早いんですね」


 マルコが外出する時間はいつも遅い。商人たちが店を開く時間帯は朝三つの鐘が鳴ってからなので、商品を卸すような仕事が多いマルゲリットでは、朝二つの鐘が鳴る頃でじゅうぶんなのだ。ただ、今日はこの店の新メニューになる食材の取り扱いについて生産者側との調整をすることになっている。もちろん、場所は「朝めし屋」である。ただ、明日から王都に向かうということが決まっていると、しばらく「朝めし屋」で食事がとれなくなるので、なぜかよく眠れなかったというのが正直なところである。


「いや、なんか眠れなくてね……」

「そういえば、お嬢様が特別料理を用意するっておっしゃってましたよね。たのしみですね」


 少し丸い顔をくしゃりと崩してニルダが笑顔を見せる。その瞳の奥には自分も食べてみたいと強く念じているようで、マルコは少し気圧けおされそうになる。


「ああ、でもメインはパンシチューのための材料集めだよ。明日から王都に向かうからね……それまでに話だけでも通しておくよ」

「あら、ありがとうございます」


 そこまで話すと、マルコは手をひらひらとさせながら、まるで散歩にでるかのようにマルゲリットの街に消えていった。





 マルゲリットの交流街の朝は非常に静かで、たまに行列を見つけるとまずパン屋である。大きな石窯を備えた家というのは非常に少なく、多くの家庭では朝からパンを買い込んでくる。朝食はその焼きたてでまだ柔らかいパンを食べるのだが、昼食や夕食になる頃には冷めて硬くなってしまう。

 そこで、夜は野菜と肉を煮たポトフや、それにトマトが入ったシチューに硬くなったパンを入れて食べることが多い。だが、「朝めし屋」で出てきたシチューは牛乳とバターがふんだんに使われていて、この街で食べられているシチューとは別物だ。


 そんなことを考えながら歩いていると、店の前に大きな身体をした男が立っているのが見えた。

 穀物商を営むウォーレス・ホプキンスである。


「おはようございます」

「おはよう」


 マルコが少し離れた位置から声をかけると、ウォーレスもその体格から想像しづらい少年のような声をあげて返事をし、マルコに並んで歩きはじめる。

 穀物商となると、小麦やライ麦、大麦などの食材の他、とうもろこしや大豆、豌豆えんどうなどの豆類を扱うことになる。基本的な調達はホプキンス商会でも行っているが、街道の宿場町で手に入るような珍しい食材はマルコが見つけて仕入れてくる。また、マルコはホプキンス商会の穀物を狩猟民や川の宿場町のような農業が盛んではない場所に運び、売りさばいている。共存共栄の関係である。


「明日から王都に行くんだって?」


 身長が高く、横幅も大きなウォーレスの隣にマルコがいると親子のような体格差を感じるが、小さなマルコの方が年上である。ただ、ウォーレスはマルコに兄弟のように接するのが好きで、つい言葉が乱れた感じになってしまう。


「ああ、そうなんだよ。潮流の関係で十二月の最初にならないと商船が帰ってこないからね。その時期に合わせてマルゲリットや王都で穀物、酒を集めたら北西の海辺の街へ向かう予定なんだ」

「現地で穀物や酒類を売りさばくってわけだね。それで、海辺の街から交易品や海産物の干物なんかを集めてくるのかい?」


 マルコは両肩を竦める。

 ウォーレスの尋ねた内容がそのまま正解なのだ。


「そのとおりだよ」

「他に目的はないのかい?」


 マルコは自分の蟀谷こめかみに人差し指をあてて考える。いくつか頼まれていたことを思い出し、ぽつりぽつりと声にだしていく。


「よい干物……『ホタテ』の干し貝柱が欲しいとシュウさんに頼まれていたな……もちろん、クォーレル商店にもよい干物が欲しいといわれていた……」

「何かに書いてないのかい?」


 訝し気な表情をしてマルコを見下ろしながら、ウォーレスが続ける。


「いざ忘れてましたってことになると信用問題になることもあるし、メモだけでもとるようにしたらどうなんだい?」

「雨に降られることもあるし、メモが正しいと誰も証明してくれないからね。大事なことは契約書にするし……」


 マルコはそう話すと、まだ思い出すようにぽつりぽつりと顧客との口約束を思い出して口に出す。


「そうして聞いていると、確かに調べてくる感じの話が多いのかな?」

「そうなんだよ。見つけたら買ってきてくれって感覚でお願いされているものばかりだな。相手も、見つかったら幸運、無ければ無いで仕方がないと割り切れるものばかりだろう」


 ウォーレスはマルコがお土産を買ってきてもらう程度の感覚でお願いされているということに気が付くのだが、見つければお金になるものばかりなのだから、マルコが機嫌よく出発できるのならこれ以上は何も言うまいと口を噤んだ。





 銀兎亭は商業ギルドの近くにあり、比較的大門に近い場所にある。

 そこから中央の大通りに戻って王城に向かうと、居住区近くにある天馬亭の前に着く。十分ほどの距離にある建物は銀兎亭と比べるととても大きく、とても豪華な外装をしている。

 窓にはすべて表面がうねうねとしたガラス板が嵌め込まれていて、エステラ異世界の太陽から注ぐ光を彼方此方あちこちに反射している。

 大きな宿の裏手には厩が用意されているようで、馬車で到着する他領の貴族や大商人たちが宿泊できるよう、馬車置き場も用意されている。

 宿屋の入り口には朝から数名のベルボーイが待ち構えているのだが、その中に刺繍が入ったコートとベストを着こんだ男性の姿が見える。


「おはようございます、グーリンスさん」

「おはようございます」


 天馬亭の扉から出てきたのは茶色の髪を総髪にまとめた、焦げ茶色の瞳を持つ男である。

 とても筋肉質ではあるが、それを感じさせないのはじゅうぶんな身長があるからであろう。牧場では作業服で過ごすと聞くが、マルゲリットの街にくる際はしっかりと身だしなみを整えてくるところは、流石はナルラ領で一番の牧場主といったところだ。


「ああ、おはよう」


 その返事にあわせるようにすいとマルコは前に出る、


「本日は、遠いところをご足労いただき、ありがとうございます」


 マルコが堅苦しく礼を伝えると、本日の会合の場所を伝える。


「難しいお話になることも予想されますので、「朝めし屋」で食事でもしながらご相談させていただこうと思いますが、よろしいですか?」

「ああ、望むところだ。ここから歩いても然程かからない場所なので、このまま向ってもいいかね?」

「はい、もちろんです」


 こうしてマルコ、ヤコブ、ウォーレスの三名は開店前の「朝めし屋」に向かい、歩き始めた。

 最も背が低いマルコは、ヤコブ、ウォーレスの二人に挟まれて少し歩きにくそうにしていたのだが、「朝めし屋」の話が始まると、ヤコブは興味深そうな表情になる。


「ところで、今までで一番美味いと思った朝食は何かね?」


 最も「朝めし屋」に通う者としての意見に興味があるようで、ヤコブがマルコに尋ねる。

 ヤコブとしては生の鶏卵が食べられるということに強い興味を惹かれている。具体的にどうすれば衛生管理ができるか等、ヒントが欲しいところなのであろう。


「うーん、そうですね……」


 マルコは話をしながら思い出そうと眉間を人差し指でこつこつと刺激しながら考える。

 ただ、マルコは「朝めし屋」では魚朝食を選択することが多く、じゅうぶんな返事は期待できない。


「何故か魚料理ばかり注文していることもあって、肉料理はほとんど食べたことがないのです……」

「なにっ? あそこは魚料理をだしているのか?」


 ヤコブはウォーレスに連れられて「朝めし屋」に入っているが、その一回だけの訪店である。

 エドガルドが話した「肉豆腐」の肉が柔らかくて美味いことと、生の鶏卵を溶いてつけて食べるという食べ方を話に聞いて、とても気になっていた。

 そこに、ウォーレスが連れて行ってくれるということになり、訪店したのだが、その日の牛肉料理はゴボウを加えた炊き込みご飯になってしまった。もちろん、とても美味であったのだが、まだ肉豆腐を食べることはできていない。


「ええ、海の魚を干物や生から調理して出しています。どれも美味しかったのですが……やはり一番最初に食べた『紅鮭』が素晴らしいと思いました。あれなら毎日でも食べられます」

「毎日食べたら飽きるじゃないか」


 マルコが毎日食べられそうだといえば、ウォーレスが意見を述べる。

 ヤコブは何か楽しそうにその会話を眺めているが、マルコはウォーレスの意見は受け入れず、紅鮭を選ぶ理由を説明する。


「『紅鮭』の身はしっかりと角が立った切り身なんだが、塩漬けにされることで水分を失っていて、とても濃密な味が楽しめましたし、皮がパリッと焼けて少し焦げたような香りと脂がじゅわりと広がる美味さは忘れられません……」

「それはボクもまだ食べてないなぁ……マルコずるいよ」


 ずるいと言われてもと、マルコも困った顔をする。

 実際のところ、自ら毎日食べに行けばいつかは食べられる料理なので、ウォーレスも気にしてはいないが、実際に食べに行くとなると店の準備なども重なる時間帯なのが厳しいところであった。


「開店当日だけ出された料理だから、食べた人は少ないと思うよ」


 などと話している間に三人は「朝めし屋」の前に着く。


 店は既に営業をはじめていて、中からクリスやシャルの声が聞こえる。






「ガララッ」



 店の引き戸をマルコが開くと、店内から三つの声が聞こえてくる。


「いらっしゃいませ」

「いらっしゃいなの」

「らっしゃい」



 手に持った丸盆をカウンター内の台に置くと、手を拭きながらクリスが入り口にやってくる。


「あ、マルコさんお待ちしてましたよ。ウォーレスさん、ヤコブさんもご一緒でよろしいですか?」

「ああ、今日はこの三人で来たんだ」

「じゃぁ、奥の四人席にどうぞ」


 三人の職業を見て、何を話しに来たのかを察したクリスは、すぐにテーブル席に案内する。


 テーブルには「予約席」と書かれた木の板が置かれているが、もちろん日本語なのでマルゲリット異世界の人たちには読むことができない。また、他に固形燃料が入った五徳が置かれている。

 この店の客は独りで来る者が多く、そのようなものが置かれたテーブル席に座ろうとする者はいない。

 何故か知らない間に、カウンター席の奥に詰めて座るようになっている。


「クリスティーヌお嬢さま、お元気ですか?」

「ええ、元気よ。でも、マルコさんと一緒に来るのがヤコブさんだなんて思っても見なかったわ」


 クリスはとても不思議そうにヤコブとマルコを見つめる。

 四人掛けの奥にヤコブ、その隣がマルコという座り方で、残りの二席にはウォーレスが座っている。大きすぎて、隣に座れるとしたらマルコくらいだろう。

 ウォーレスも恐縮して小さくなろうとしているようだが、全然小さくならない。


「マルコさんがしばらく旅にでるということですので、今日は特別料理をご用意しましたよ」


 すると、すぐにも厨房から甘い香りが漂ってくる。

 シュウはテーブル席の五徳にのせる一人鍋を三つコンロに掛けていて、そこに牛脂を入れると、薄切りになった牛肉を焼き始める。肉を二枚、三枚と広げるとすぐに砂糖、醤油、日本酒を回しかける。


 じゅわぁっという肉が焼ける音

 醤油をかける音

 日本酒をかけた音。


 似た音がするが、その音が増えるたびにメイラード反応が起こり、店内には甘い香りが強くなっていく。


「このあと、『お鍋』を上に置くので、それまでにこちらの吞水とんすいにこの『鶏卵』を割って、溶いておいてくださいね」


 三人は驚いた顔になり、クリスの方を見るのだが、クリスは既に料理を運ぶために厨房へ戻っている。

 そもそも生の鶏卵を自分で割って皿に入れるということを三人共やったことがないので、どうすればいいかわからない。


「やり方わからないなら、お手伝いするのっ」


 シャルがテーブル席にやってくると、ヤコブ、マルコ、ウォーレスの順に卵を割って、吞水の中に落としていく。

 十歳の少女が何も躊躇うことなく次々と生の鶏卵を割って皿に入れていく姿を見て、またヤコブとマルコ、ウォーレスは目を丸くして驚く。


「これを箸かフォークで切るように溶くの。こんな感じなの」


 ウォーレスの吞水とフォークを持ってシャルが実演する。

 空気を入れないように、吞水の中で左右に振るだけで、白身部分が黄身の中に溶けるように消えていく。


 見よう見まねで、マルコとヤコブが吞水の卵を溶き始めると、その表情がとてもニヤニヤとしたものに変わっていく。

 初めてこの店に来た時に食べられなかった生の鶏卵を、漸く食べることができるのだ。

 つい顔が綻びるのも無理はない。


「お待たせしました。『牛』すき焼きです」


 ごとりと五徳の上に置かれた鉄鍋には、ぐらぐらと音をたてて煮えている白菜と白ネギ、焼き豆腐、タマネギなどの野菜があるが、その奥には焼けた薄切りの牛肉がどっさりと盛り上げられている。

 その牛肉や煮汁からは、調理行程で発生したメイラード反応による香りがたっぷりと含まれていて、砂糖だけではない甘い匂いがテーブルの周囲を埋め尽くす。


 クリスが持ってきたマルコのすき焼きに続き、シュウがウォーレスとヤコブのすき焼きを持ってくる。


「シャルちゃん、火つけてもらっていい?」

「ライターつかうの?」


 コア異世界人が並ぶ中、店の中で火をつけるのに、ライターなどを使うわけにはいかない。

 魔道具だとごまかすことはできるが、そんな便利なものであれば高く売れると思い、盗みに入られないでもない。


「ううん、シャルの力でできるでしょう?」

「うん」


 クリスはここでシャルが本当に魔法を使えるかどうかを確認しようとしていた。

 シャルも母親には止められていたものの、目の前で他の魔法を使うクリスを見て、使ってもいいものだと判断する。


「じゃあ……」


 シャルは右手の人差し指を立て、少し集中するように目を瞑ると、すぐに目を開いて固形燃料に向けて順に指差す。


「ぽんっぽんっぽんっなのっ」


 その声と仕草で、三つの固形燃料にぽっと火が付く。


 客で来たマルコ、ヤコブ、ウォーレスの三人はあんぐりと口を開き、シャルの形のいい指先を見つめていた。

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