第36話 グランパラガス(1)

 引き戸を開くと、ざあざあと振り続ける雨音が上空から聞こえてくる。

 街全体に掛けられた魔法の大傘グランパラガスは、前回の大雨でもその堅牢さを見せつけてくれたのだが、今回の雨は猛烈な風を伴い襲いかかり、雷までも打ち付けてくる。だが、大傘は受け流すように空気の流れをつくってその強風を打ち消すと、水の枝葉は打ち付ける雨粒を取込んで街を守るように成長する。そして、雷撃は傘の表面を流れ、街の中には一切の被害をもたらすことがない。

 

 クリスに手を引かれて引き戸から出たシュウは、ぐるり辺りを見回すと、顎をあげてくんくんと匂いを嗅いでみせる。

 

「ぜんぜん臭くないぞ?」

 

 マルゲリットの街に扉がつながったあと、シュウは何度かこの街足を踏み出したことがあるのだが、そのときの印象はやはり「臭い」だったので、このような感想になったのだろう。

 シュウはひととおり匂いを嗅ぎ、困ったような顔をして感想を述べると、グランパラガス偉大なる傘を見上げ、ほうと驚嘆の混じった息をつく。

 そのシュウを見たクリスは、何やら残念そうに眉尻や口角が下がるほど力の抜けた表情をし、両手を腰にあてて、返事をする。

 

「うん、さっき魔法をかけておいたからね」

 

 料理人という職業を考えるとシュウにこの街の臭いに慣れてもらうという馬鹿げた発想はクリスにはなく、このマルゲリットの街に出る前にシュウの周辺をカプセルで保護するよう、魔法で包んでいる。それはまあるいカプセルのようなものなのだが、中身はただの空気なので、そのカプセルの境界線が他の誰かに見えることはない。

 そして、クリスが手招きすると、店内からはシャルが飛び出してきて、はじけるような笑顔で店の前をぐるぐる走り出す。

 

「ほんとなの!匂いがしないの!」

 

 シュウと同じように魔法のカプセルに包まれたシャルも嬉しそうに声をあげる。

 その様子を見ているクリスにも同じ魔法はかけられているのだが、昨夜はエドガルドと夕食を共にしたこともあって、予定通りの二日酔いだ。

 

「ごめん、大きな声はださないで……あたまが……」

 

 十七歳にして日本酒を嗜むということを覚えるのは難しいようで、このマルゲリットの街で一般的な赤葡萄酒と比べると遥かに甘く飲みやすい日本酒はつい飲みすぎてしまう。また、最初に出てきたステーキこそ赤葡萄酒を合わせるべきだったが、その後の漬物の盛り合わせにはやはり日本酒が進んでしまう。

 ただ、二週連続で二日酔いになるほど飲むというのはいただけない。

 

「ごめんなさいなの……」

 

 クリスの前に屈み、そのピンクスピネルのような美しい瞳をぱちりと開いたシャルは、頭を抱えて屈みこんだクリスを心配そうに見上げる。その瞳にはくっきりとクリスの白い顔、瑠璃色の瞳が映りこんでいて、うるうると涙を湛えている。

 根本的に自分自身が節制せずに日本酒を飲んだことが原因であり、そこでシャルにあたるのは間違いであることにクリスは気づくと、素直に謝る。

 

「ううん、悪いのは二日酔いになるくらいまで飲んだわたしだから。

 ごめんね、シャルちゃん」


 クリスはぎゅうとシャルを抱き締めると、シャルのその軽い身体をひょいと持ち上げて立ち上がり、やさしくシャルを地面におろす。だか、その肩越しに見えるシュウはなぜか落ち着きが無く、少しおどおどしている。


 日本は隣国に海を介して接し、鎖国していた所為もあって、独自の文化を築いてきた国である。アラサーと呼ばれる年齢になるまでそこで生きてきたシュウにとって、初めての異国がこの異世界コアにあるマルゲリットの街だ。その文明レベルは大きく異なり、自動車や列車などはもちろん、自転車さえもなく、目の前をかっぽかっぽと馬が走り、曳かれた荷台はがらがらと音をたてて走っていく。

 日本の都市部と比べて数百年は昔の雰囲気を持つ街並みと、人々が帽子を被り、外套を羽織って歩いている姿はまるで映画のワンシーンのようで、とても美しい。

 だが、シュウにとっては本来あるべき裏なんばの路地ではない場所に出るというのは違和感が強すぎたようで、踏み出したマルゲリットの街と、裏なんばの路地との差に少しずつ狼狽え、混乱した。

 今でこそ、マルゲリットの街でも朝めし屋を開店して、お客さんを見送る程度に外に出ることができるまでにシュウも慣れてきているのだが、実際は目を閉じて頭を下げているだけであるし、話をしても目線はお客さんを見ているだけなのだから、まだまだこの街に慣れていないのだ。



「だいじょうぶ?」


 クリスがシャルの手を取ってシュウのもとへやってきて優しく声をかけると、シュウはクリスをじっと見つめ、黙っている。

 クリスは他の誰にされても気にはならないが、シュウにじぃと見つめられると頬は赤らみ、照れなのか、恥ずかしいのかわからないが、つい目を伏せてしまう。

 すると、シュウの目はふと力が抜けるように細くなり、表情は和やかな笑顔になる。


「ああ、大丈夫だ」

「そう?」


 まだ少し心配そうな顔をするクリスだが、シュウは先ほどとは違ってしっかりとした面持ちと足取りで歩きはじめると、立ち止まってクリスにたずねる。


「それで、どこに行くんだっけか?」

「下水を流す水源をどうするか、調査するんでしょう?」


 昨夜、エドガルドと夕食を共にした際に話をしたのは、シャルの父親探しのことと、下水事業のことだった。シャルの父親のことはエドガルドが軍に相談してくれることになったのだが、下水事業となると非常に大掛かりな話になる。

 元々、街の汚物は定められた場所に廃棄すれば堆肥を作ることを生業にした者たちが定期的に回収してくれるのだが、マルゲリットは人口が約二万人ほどに増えており、それらの業者だけでは処理しきれないほどの量になっていた。

 だが、下水のことはシュウも素人である。日本の下水についてはリンゴのロゴがついたタブレットを使って調べて答えられたのだが、実際に下水をつくるとなっても、この街に日本から人を連れてくるわけにいかない。そこで、日本から持ち込んだものを使ってできる方法を考えることになった。

 マルゲリットの街では、飲用水は井戸水を沸騰させて冷ましたものを使用しており、川の水を使うことはない。近くに流れるサン・リベルムの水が飲用にできるのであれば、上水道を作ることもできるうえ、そのまま流せば下水として活用できる。そこで、川の水が飲用水として利用できるかどうかということを確認するのが優先事項となった。

 日本ではネットで購入した水質検査キットである程度の検査ができるうえ、指定会社に送付すればそこから水道法に対応した検査をしてくれるサービスもある。それを前提に今日は堀の水を採取する予定にしていた。

 しかし、昨日からの雨は降り続けていて、今もグランパラガスを強く打ち続けている。


「でも雨だぞ? 水も濁っているだろうし、雨で薄まってるかもしれないぞ?」

「そうね……でも、あちらには晴れ間も見えてきたし、もうだいじょうぶじゃない?」


 基本的にはネガティブ思考なシュウが後ろ向きなことを言い出すのだが、クリスは気にすることなく先に話を進めようとポジティブな方向へと話を向ける。


「雨が止むまでは街の散歩でもしましょうよ」

「シャルは街を散歩したことがないの! お散歩したいの!」


 言われてみると、シュウもこの街を散歩したことがない。

 さっきまで少しおどおどとしていたことを忘れたかのようにシュウは気を落ち着ける。


「じゃあ、雨が止むまでは少し散歩するか」


 そう言うと、シュウはシャルの右手を自分の左手にとって、歩きはじめた。







 三人は手をつなぎ、ぶらぶらと街を歩く。

 日本の裏なんばの街に出て買い物に出るのとは違い、服装もこの世界に合わせたもので、街に溶け込むことができるよう、クリスとシャルは典型的な街娘の恰好をしている。

 シュウは刺繍の入ったベストにコートを着て、襟元にはスカーフを巻いた貴族のような服装だ。エドガルドのおさがりなのだから仕方がないが、ある程度簡素にしているものの、日本人のシュウには少し似合わない。

 グランパラガスは昨日から降り続ける雨で枝葉を大きく育てており、既に地表にまで雨滴は落ちてこない。だから、少々高い服を着ていても問題はないのだが、貴族の服装をした男が街娘の衣装を着た二人を連れているのは何か違和感があり、道行く人たちもじろじろとシュウを見る。

 普段、裏なんばあたりを歩く時は自分ではなくクリスに視線が集まるのだが、今日は立場が逆転していて、好奇の視線というのはこんなにも居心地が悪いものかとシュウは思った。


「あ、雨がやんだの」


 シャルの声を聞いて視線を上げると、グランパラガスの表面は静けさを取り戻していて、空の雲と青空をその向こうに見ることができる。


「ああ、そうだね」


 シュウがにこりとシャルに笑顔を見せるのだが、その表情は硬い。

 それを見て軽く苦笑したクリスは、既に間もなく大門というところまで来ていることに気がつく。


「もうすぐ大門だし、ちょうどいいわね」

「大門から堀に下りて水をとってくればいいかな?」

「そうよね。ちょっと話してくるね」


 そういうと、クリスはシュウとシャルを残して大門前の衛兵詰所に入っていった。






「おまたせっ! 許可をもらってきたわよ」


 クリスは笑顔で戻ってくると、シュウの右手をとって大門へとシュウとシャルを引っ張る。

 この街で最も偉い領主の娘が頼むのだから何でも許可されるだろうと思ったのか、ぐいぐいと手を引かれることに仕方がないと思ったのかはわからないが、シュウは苦笑を浮かべて歩き出す。


 シュウとクリス、シャルの三人は手をつないで門兵の詰所に向かうと、そこにはリックがいた。


「おや、朝めし屋の三人じゃないか。珍しく街の外にでるのかい?

 街道はまた泥濘だらけになっているだろうから、気を付けるんだぞ」

「こんにちわ。いつもありがとうございます」


 いつになくリック相手に丁寧に応じるクリスだが、恐らく彼の周囲にいる他の門兵の手前、砕けた応対は避けた方がいいと判断したのだろう。

 その意外な返事にリックは少し驚いたような表情を見せるのだが、シャルを見つけるとすぐに表情も和らいだ。


「ああ、シャルちゃんも一緒なんだな。

 気をつけるんだよ」

「うん、気をつけるの。ありがとなの」


 シャルもリックのことはしっかりと覚えていて、リックの優しい口調に対し、そのピンクスピネルのような瞳で見つめ、笑顔で返事をする。


 堀にかかる橋を越えると、そこはもうグランパラガスの庇護の外になるのだが、堀を通行する小舟がつくのはその橋の横にある階段の下だ。

 といっても、折からの雨で増水した堀に、船着場は沈んでしまっている。

 シュウはひとり階段を下りると、ガラス製の分厚いコップのような容器に水を入れ、半透明の蓋をつける。

 そのコップを見ていたクリスは、その正体に気がついたようだ。


「あら、安い清酒のコップも使い道があるものね」

「独り身の男の家なんて、結構このコップだけってヤツもいるんだよ。大きさもちょうどいいんだ」


 捨てずにとっておくというのは幼い頃から親戚に世話になって育ってきたシュウの習慣なのだろうが、普段は極薄のグラスなどを使って酒や麦茶などを飲んでいる。

 なんかあったときのために……という、いつになることかわからないことのために自宅のキッチンを占有するものがようやく一つ減ったことに、少し安堵するクリスであった。

 そんなクリスを横目に、シュウはシャルに向かって話しかける。


「今日の第一のミッションクリアだ!」


 シャルにハイタッチを求めるような格好をするが、シャルの反応がなく、軽く落ち込んだような表情をすると、シュウはまたふたりの手をとって歩き出した。


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