第35話 牛モモ肉のステーキ
ほんの軽食程度で作ったつもりのタラのコロッケも、揚げてしまうとその数は20個を超えていた。
何が怖いといって、揚げたてならではの美味さが手を休ませてくれず、気が付けば3個しか残っていないことだろう。
GI値が高いジャガイモを使った料理だけあって、血糖値も上がっているのか、満腹というにはまだ足りない量なのだが、アルコールが少量入るだけで、とろとろと睡魔がやってくる。
クリスもうつうつと目を閉じるのを我慢するが、やがて眠りに落ちていて、シャルはそれより前にくうくうと寝息をたてている。シュウはスマホのアラームをセットするまでは眠るわけにもいかず、なんとかセットすると、並んでうとうと眠りに入る。
「ピピピッ ピピピッ ピピピッ……」
ぼんやりと目を開き、近くに置いたスマホの画面に手を伸ばして停止のボタンを探すのだが、細くて白い指が伸びてきてぱしりと手を叩き、画面に触れてようやく音が鳴り止む。
くあっと大口開けて欠伸をすると、目の前には雪のように白い髪と透き通るような白い肌をした少女がううむとまだ寝たそうに寝転んでいて、その手はスマホがあった場所へと伸びたまま力尽きている。そのままじぃと見つめていると、少女はその視線を感じたのか、ゆっくりと瞼を開く。中途半端に眠った目は少し充血しているのだが、中央には磨き上げた瑠璃のように青く輝く瞳が現れる。
少女は耳を澄ませ、もうひとりの少女から聞こえるくうくうという寝息を確認すると、そのぷっくりとした柔らかそうな唇から、囁くように声をだす。
「おはよう」
手で口元を塞ぎ、あふっと欠伸をするその姿はとても可愛らしいのだが、その可愛らしさを構成するすべてのパーツが美しく、絵画でも表わすことはできないだろうと思わせる。
「そんな時間でもないけど……おはよう……」
シュウが笑顔で返すと、そっとクリスは唇をあわせて離れ、頬を紅く染めると人さし指を唇の前で立ててシャルを見る。
シュウはそれを声にだすなというサインであると理解すると、クリスの頭を優しく撫でてそっと立ち上がり、厨房に戻る。
調理台の上には、閉店後に買ってきた牛の塊肉が常温に戻すために置かれていて、シュウは手際よく全体に塩コショウを振ると、フライパンに牛脂を入れて熱し始める。
とろとろと牛脂が溶け始めると、油は粘度を下げてフライパンにの表面をとろりと流れるようになり、その油が馴染んできたことを教えてくれる。
「ジャーッ」
シュウは肉塊をフライパンに入れると先ず表面を焼き固めるのだが、牛脂と肉が焼けることでメイラード反応が起こる甘い匂いが漂い、その匂いに反応してクリスがやってくる。
「何をつくるの?」
「ローストビーフのような、牛肉のタタキのような……」
この店をシュウが借りる前は、和食の店だったという。
ほとんど居抜きで借りているので、オーブンが無い。そこで、フライパンで表面を焼いてから弱火で全体に火を通す方法を選んだのだが、この方法では野菜と共に焼いてグレービーソースを作るのは難しく、ローストビーフであるとは言い切れない。
かといって、魚のような焼霜をするのとはまた違うので、タタキとも言い難い。
「まあ、レアステーキ……かな?」
ようやく表面全体を焼き終えると、シュウは小鍋に京都で買った梅干しをひとつ、日本酒を1合入れて火にかけて、焦げないように火にかけ、煮詰めはじめる。
「ふぅん」
クリスは退屈そうにシュウの調理を見つめているのだが、お酒の匂いがぷわんと広がると、くんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「今度は何をしているの?」
シュウは煮詰め終わった鍋の火を消すと、クリスの方に向き直る。
「これは
シュウは弱火にかけている肉の塊を裏返すと、また続きを話す。
「このステーキにはこのまま冷まして使うんだ」
「そうなんだ」
久々のふたりきりの時間を楽しみたいクリスが少し焦れたような顔をすると、ぽつりつぶやく。
「ちぇっ……」
残念ながら蛇口をひねり、じゃーと野菜を洗いはじめたシュウには聞こえていなかったようで、その手を休めることもなく仕事をしている。その後姿を見てふと力が抜けたクリスは、料理をしている間に何かを期待する方が間違っていたと気づき、溜息を吐く。
気持ちを切り替えたクリスは、まだエドガルドが来るまでの時間は充分にあるのだし、シャルもぐっすりと眠っているのだから、料理が終わるまでのあいだに自分ができることを探す。お茶を淹れる練習をするのもいいし、カウンター下にある冷蔵庫の中にある漬物の確認をするのもいいかと立ち上がると、ふと今日の朝焼けが非常に美しかったことを思い出す。
クリスも朝焼けの日は雨が降ることを教わっていて、マルコ達が帰るときには既に降り始めていたことを思い出す。
すでに日本の普段着に着替えているクリスは、そっと店の引き戸のカギを開けて外の様子をみると、マルコやエヴァン、パメラを見送ったときよりも雨が強くなっており、路面はぐっしょりと濡れている。
「きゃっ」
その声は雷鳴と比べるととても小さなものだが、慌ててシュウが飛び出してくる。
「どうした? だいじょうぶかい?」
シュウが後ろからそっと支えるようにクリスの肩を抱くと、そのままクリスは後ろを向いてシュウにしがみ付くように抱き着いて甘える。
「だいじょうぶ。もう少しこのまま……」
マルゲリットは日本時間とは三時間の時差がある。今は日本時間で十五時なので、マルゲリットは十八時。夜一つの鐘の時間だ。
先週とは違い、エドガルドが来るのを迎えるのではなく、今回はクリスが空間魔法で自宅に迎えに行くことになっている。
理由は、侯爵であるエドガルドが徒歩で交流街にある「朝めし屋」までくることが認められないからだ。勝手に出歩くことで、役人に叱られたらしい。
「それじゃ、いってくるね」
クリスはマルゲリットにつながった引き戸を開いた状態で、店の中で魔法を使うと、まあるい穴がクリスの前に広がる。
そこにクリスが身を投じると、ふいと消えていなくなる。
それを呆然とした感じで見ていたシャルは、はじめて見るクリスの本気の魔法に興奮して声をあげる。
「クリスお姉ちゃんすごいの! お母さんよりもすごいのっ!」
シャルには空間魔法のことは話してあるが、実際に目の前でみるのははじめてだったので、シュウは改めてシャルに釘をさす。
「クリスが瞬間移動できることはナイショだぞ。
みんなに知られるとたいへんなことになるからな」
シャルは細い腕を薄い胸の前で組み、う-んと少し考えると、シュウに向かって尋ねる。
「どうたいへんになるの?」
シュウはシャルの前に屈むと、目線を合わせて話す。
「クリスの魔法は離れたところと一瞬でつながる魔法なんだよ。
だから、戦争相手の国にあっという間に兵隊を送り込むことができる。
でも、その魔法を使えるのはクリスだけなんだ。
そのことを誰も知らなければいいけれど、悪い王様に知られると、クリスが戦争に連れていかれてしまうだろう?」
「それは絶対ダメなの! クリスお姉ちゃんは一緒じゃないとだめなの!」
シュウは涙目になって訴えるシャルの目を見つめる。
「だからナイショだぞ」
「うん、ナイショにするの!」
シャルに説明を終える頃、ゆらゆらと店内の空気が揺れると、人が通れるほどの穴が開き、その向こうからクリスとエドガルドがぬっと現れる。
「ただいま」
「おかえり! お義父さんいらっしゃい」
「おかえりなさいなの!」
クリスが帰ってくると、シャルは心配になっていたのか、慌てて駆け寄りクリスに抱きつく。
「やあ、シャルちゃんこんばんわ」
エドガルドはあまりシュウにいい印象を持っていないのか、少し不愛想なのだが、シャルには愛想よく接する。領主としてはシャルは領民で、シュウは領民ではないというのもあるが、完全にシュウとクリスの関係を認めているわけではないからだろう。
だが、エドガルドも完全に胃袋は掴まれているので、ここに来るのを楽しみにしていた。更には「人の話を聞く」という課題をクリアしなければ、日本へ連れて行ってもらえない。
「では、食事にしましょうか」
そういうと、シュウは厨房に入って極薄のグラスに琥珀色の生ビールを手際よく注ぎ、シャルにはオレンジジュースを淹れたグラスを差し出す。
テーブル席にはエドガルドとシャルが座り、そこにクリスとシュウが料理を運んでくる。
「今日は『牛モモ肉のステーキ』をメインに、『サラダ』と『白いごはん』、『味噌汁』にしました。
手元においた『醤油皿』のタレをつけて食べてください」
エドガルドも今回は珍しくシュウの話を最後まで聞いておとなしくしている。
「チンッ」
クリスとシュウがグラスを合わせると、シャルも手を伸ばしてグラスを合わせる。
「りょーしゅさまも!」
「あっ……ああ……」
エドガルドもシャルに言われてグラスを合わせる。
「なんだかわからないけど、かんぱーい」
「ぱーいなのっ!」
「かんぱいっ!」
「うむ」
四人はそれぞれの掛け声でもう一度グラスを合わせて、こくこくとそれぞれのグラスの中身を減らしていく。
最も早いのはエドガルドだ。
「プハァ! 相変わらずこのビールという酒はうまい」
「こっちのお酒を覚えると、マルゲリットのお酒は飲めないわ……」
「ああ、まったくだ」
そこまで話すと、エドガルドは牛モモ肉のステーキに手にした四つ爪のフォークを伸ばす。
口元までその肉を持ってくると、表面が栗皮色にカリッと焼けた肉からはメイラード反応による甘い匂いがぷわんと漂ってくる。カットされたその身の断面は数ミリ程度がその表面から
舌にその肉の中心が触れるようにフォークを口の中に運ぶと、その肉はほんのりと暖かく、焼ける手前のギリギリの温度でじっくりと火をとおした肉であることを教えてくれる。またその表面には複雑に入り組んだ網目のように脂身が模様をつくりあげているのだが、その脂は溶けて半透明になり肉の表面を覆っていて、脂身の甘さが舌の上に広がるのを手伝っている。
咀嚼をはじめると、焼けた肉の表面に振られた自然塩の味が肉汁の甘さを引き立てているのだが、その脂の力は凄まじく、肉の旨味と脂の甘みが口いっぱいに広がり、舌を通じて脳に信号を送る。
「うまいっ! なんて旨い肉なんだ!」
口の中に入れたまま話すエドガルドの口の中で、ガリッと噛んだ黒コショウからぴりりと辛みと強い香りが広がる。
「こっ……これは、『胡椒』の味だな。肉の臭みも消えて、実に旨い」
ひとくち目はタレをつけずに食べたエドガルドだが、クリスはすでにタレをつけて食べ始めている。
「このお肉やばいわ。タレをつけると止まらなくなるっ!」
「すっごくおいしいのっ!」
シャルは、タレをつけた肉をごはんに乗せ、箸を使って巻くようにすると、ひとくちでそれを頬張る。
肉の旨味と醤油の旨味成分が相乗効果を生んで更に美味しくさせているうえに、梅の香りと酸味が加わると、日本酒が胡椒と一緒に肉の臭みを取り去っている。噛んであふれた肉汁がごはんに染み込み、ごはんの味まで高めてくれる。
「煎り酒の酸味と、醤油の組み合わせが旨味を倍増させて、何倍も美味しくしてくれるだろう?」
クリスはこくこくと頷き、シャルは無言でごはんを巻いて食べ続けている。
エドガルドは無我夢中といった感じで、シャルとおなじようにご飯を巻いて頬張っている。
決してガツガツといった雰囲気ではないが、交わす言葉が少なくなるほど4人は静かに肉を食い、ごはんを頬張るというルーティンを繰り返した。
お腹が膨れると、シャルは眠くなって寝てしまった。
普段ならもうお風呂に入って寝ている時間なので、無理もない。
シュウは和室にシャルを寝かせると、テーブル席に座るエドガルドとクリスの会話に加わる。
「それで、うちの常連さんになっている行商人の方から、シャルの両親の名前がわかったのよ。
父親はロイク、母親はアルレットっていう名前らしいの。
軍に徴用されていたって聞いているし、お父さまの方で調べられないかしら?」
「ああ、問題ない。
だが、それだけの情報ではものたりん。他に有用な情報はないのか?」
両親の名前がわかっただけでも大進展すると思ったのだが、全体で数万といる王国の兵から探すのだから、エドガルドはもう少し情報を得たい。
「そうね……母親のアルレットから文字と算術は学んだみたいよ」
「農村の女が文字と算術ができたというのか?」
そこにシュウが付け加える。
「さっき、クリスの魔法を見て、お母さんよりすごいって言っていたぞ。
もしかすると、アルレットは魔法を使える人だったのかも知れないな」
「ほう。なるほどな……旅をしてアプリーラ村に流れついたということも加味すると、ふむ……面白いことになるかもしれん」
エドガルドは切り揃えられた顎鬚を触りながら黙考する。
いつの間にかテーブルには漬物が数種と日本酒が置いてあり、エドガルドとクリスの前になみなみと注がれている。
「いま聞いた話をもとに、軍に確認させよう。
それはそうと、下水整備の問題だが、具体的な方法を教えてくれんか?」
エドガルドは和室の方に一度目をやり、次の話題へと話を変えた。
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