第31話 干し貝柱のごはん(2)
軽く握った指が青白磁色の袖からするりと抜け出し、細くて白い指が花びらのようにひらいていく。その細い指は襟口を摘まむと、襟の形を整え、しゅるしゅると前紐を結んで上着を留める。その白い指はお揃いのスカートをひらりと拾い上げると、しゅるりと腰に巻き付け、位置を整える。
簡易の帯をくるりと巻けば、スカート部分の継ぎ目も隠れて消える。最後に蝶結びの部品を紐でとめると、しゅるりと背中にまわし、姿見で確認する。
こうして簡易和装に着替えたクリスは、手首に通したヘアゴムで雪のように白い髪を後ろにまとめ、部屋から出ると、草履を履いてしずしず歩きだす。
「カチャッ」
少女が引き戸の鍵をあけると、この店の引き戸は
「ガラララッ」
日本にいる間、少女はマルゲリットとは隔離された場所にいることになる。
もし、マルゲリットで巨大地震や隣国との急な開戦があっても、それを知ることができない。だからクリスは、街の無事を確認せずにいられない。
「相変わらず臭い街ね」
クリスが思わず漏らした言葉は、血の匂いや、騒然とした街の雰囲気がなく、日常的な汚物のシャワーによる異臭だけが漂う状況が、この街に異常が無いことを示し、逆にクリスが安心したことを意味している。
だが、瑠璃色の瞳には赤く染まった空と街並みが映りこんでいて、眼前に広がる尋常ではない美しい光景は、次の言葉をしばらく失うほどにクリスの心を奪う。
「きれい……」
東の空は赤く染まり、白い巻雲がしゅるしゅると無数に伸びている。
少し先にある城壁が逆光で黒く染まり、世界が赤と黒、白の三色ですべて構成されているかのよう思わせる。
そして引き戸を開けて立つ少女の肌も、日差しによって赤く染まり、景色の一部となっている。
「クリスお姉ちゃん、どうしたの?」
引き戸を開いたまま動かなくなったクリスを心配したのか、少しピンクがかった金灰色の髪の少女が駆け寄り、クリスに声をかける。
「朝焼けがとってもきれいだなって思ってたのよ」
「うん、きれいなの……」
ゆるゆると
「おはよう」
声のする方へとクリスが目を向けると、そこには行商人のマルコが立っていた。
少し眠そうで疲れた顔をしているが、宿場町に向かってからというもの、クリスも会うことがなく少し寂しいと感じていた。
「マルコさん!おはようございます!
無事に帰ってこられたんですね!」
クリスは五日ぶりのマルコに対して、嬉しそうな声をあげて挨拶を返す。
その声にマルコも少し嬉しそうに表情を緩め、ニコリと笑顔を見せる。
「そこにいる女の子が、引き取った娘さんかい?」
マルコはピンクスピネルのような色の瞳をもつ少女を見て、クリスにたずねる。
「ええ、そうなんですよ。シャルロットちゃんです」
「シャルなのっ!よろしくなのっ!」
朝焼けで少しテンションが上がっているのか、シャルは同年代の友だちに接するかのような話し方をしてしまうが、誰も気にかけていない。
そんなシャルに、クリスはマルコを紹介する。
「こちらはマルコ・キャンベルさん。とってもいい人なんだよ」
「マルコって呼んでくれていいからね、シャルちゃん」
「大事なお客さんなの。マルコさんって呼ぶの」
十歳の少女が大真面目に答えるので思わずマルコも吹き出しそうになるが、なんとか我慢する。
そのようすを見て、シャルはピンクスピネルのような瞳を向けてにかりと笑顔を見せると、引き戸の場所から足を踏み出す。
「お掃除するの!」
そう言うと、シャルは隣の建物との間にある掃除用具入れの場所に向かって駆け出し、箒を持って辺りを清めはじめる。
その姿をみて、マルコはポロリと漏らす。
「あの子は確か……乳の癌になった女の娘かな?
半月前に、アプリーラ村に行った時はもう全身が癌になっていて、とても見ていられないくらい辛そうにしていたよ」
クリスは思わぬ人からシャルの情報を聞いて、どくんと心臓が強く脈打つことに気がつき、息をのむ。
これまでリックや巡回部隊からの情報を集めても、シャルの両親については謎のままだった。わかっていたのは、母親が最近亡くなったこと。父親は五年前に兵役に出たまま戻っていないということだ。だが、クリスはあまりにも急なことで、動転して何を聞けばいいのやら、言葉も何もでてこない。
「ところでクリスさん、先日の約束の『ごはん』は用意できるのかな?」
クリスが何から尋ねたものかと考えを巡らせはじめたころ、マルコは突然話題を変えて話しかけてくる。マルコは、五日前に約束した特別なごはんを楽しみにしていて、昨夜はほとんど眠ることができなかった。それが疲れた顔をしていた理由である。
「ああっ! あれですね! 確認してきますねっ!」
クリスは慌てて店の中に戻る。
いりこの出汁をひく香りがふうわりと漂う店内では、流れるような所作で料理の仕込みをしている作務衣姿の男がいる。
「シュウさん! マルコさんが帰ってきていて、約束の料理はできるかって聞いてるよ?」
クリスはシュウの背中に向けて声をかける。
シュウはその手を止めず、後ろを振り返るとにこり笑顔でこたえる。
「もちろんだ。おかずの方もほら、このとおり」
シュウはボウルの中身をくるりと手に取り、中身を見せる。
緑や黒い野菜、赤いにんじんが入ったピンク色の物体は、どのような料理になるのかわからないが、シュウの料理であれば間違いなく美味しいものだとクリスは感じる。
「それとね、マルコさんはアプリーラ村のことよく知ってるみたいなのよ!」
「おおっ! じゃ、あとでいろいろ聞かせてもらおうじゃないか」
うんうんと言葉に出さず、ただ頷くクリスは、外に待たせたマルコに確認したことを伝えるべく、
店の外では、マルコが店の周囲を清掃するシャルをじぃと見つめているのだが、その表情はとても柔らかい。
マルコは十年前に行商人になった頃のことを思い出す。
初めて入ったアプリーラ村には流れ着いて住み着いた一組の夫婦がいた。とてもいい家で育ったと見える夫は剣技に長けていて、村の人たちに武術を教え、代わりに農業を教えてもらっていた。妻はその身に子を宿していて、それから数か月後には珠のようにかわいい女の子を産んだのだった。
「あの子があのときの……」
マルコはポロリつぶやくと、そこにクリスがやってくる。
「マルコさん、ご用意しているそうですよ」
マルコに特別料理の準備をしていることを伝えると、続けてクリスは聞きたかったことをたずねる。
「あと、もしシャルの両親のことを知っているなら、教えていただけませんか?」
クリスはその瑠璃色の瞳に希望の光を乗せて、きらり輝かせると、マルコの商人らしいギラギラと輝く瞳をみつめる。
「ああ、ありがとう。
だが、そろそろクォーレル商会にエヴァンとパメラを迎えに行かないといけないんだ。
朝食をいただいたあとでいいかい?」
「もちろんですよ! 誰も知らなくて困っていたので、よろしくお願いしますね」
クリスは思わずマルコの右手をぎゅうと握り、ぶんぶんと振りまわす。
マルコは少し面をくらったようにきょとんとするが、すぐににこり笑って、うんうんと頷く。
「では、またのちほど!」
「はいっ!」
先ほどまで疲れた顔をしていたマルコは、後ほど食べられるという特別料理に思いを馳せて、喜色を浮かべると手を振って暫しの別れを告げる。
クリスも手を振り、いままでずっと心に
シャルはまだ店の外を掃除しているが、クリスはもうマルコにたずねることで頭がいっぱいだ。
「まずはご両親のお名前でしょぉ?
つぎは、シャルがお父さん似なのか、お母さん似なのか……よね?」
がたんごとんとカウンターの上にある椅子を下ろすと、その座面と背もたれをきゅっきゅと拭う。
ひとつ終われば、次の椅子を下ろして、またきゅっきゅと拭う。
「お父さんが消息を絶った経緯とかもわかるといいわね」
店の中で声を出しているのは自分だけなのだが、そのことには気づかないようすでクリスはひとりごちる。
やがて、カウンターの椅子をすべて下ろすと、次はテーブル席だ。
四人掛けのテーブル席の椅子も、ひとつずつ下ろしてきゅっきゅと拭いあげていくと、次の作業にとりかかる。
薬味入れにしている蓋つぼに入った調味料の補充作業だ。
「名前だけじゃなくて、容姿や歳なんかもわかるといいわね……」
「ああ、そうだな。名前と容姿や年齢がわかれば探しやすくなるだろうな」
ようやくという感じでシュウがクリスの独り言に返事をする。
「コポッ……コポポポッ……」
「カタコトコトコト……」
土鍋の中身が沸騰すると、中蓋が蒸気の力で音を立てて震えはじめる。
コポコポと沸騰する音と共に噴き出す蒸気からは、干した貝柱の戻し汁が温められてだす潮の香りが混ざっていて、ふんわりと店内に漂ってくる。少し加えられた日本酒の匂いが海産物の干物特有な匂いを抑え、香りだけを抽出しているように感じさせる。
「あれ? もう炊きはじめちゃったの?」
クリスがまだ早いのではないかと心配してたずねるのだが、調味料の補充作業を終えたと同時に朝二つの鐘が聞こえてくる。
「クォーンカーン……クォーンカーン……」
その音を聞いて、クリスは慌てて戸口に向かい、日本語で「めし」と書いた暖簾を取って外にでる。
「ガララッ」
引き戸を開くと、そこには既にマルコとエヴァン、パメラが並んで待っている。
「おはようございます!」
丁寧に頭を下げると、クリスは店の入り口に暖簾を掛けると、三人の客を招き入れる。
「いらっしゃい」
厨房からシュウの挨拶も聞こえてくる。
マルコたちが店の入り口を潜ると、そこにあった小さなカウンターが取り払われ、小石が敷き詰められている。また、丸くくりぬかれた石の中には驚くほど透明な水がたっぷりと湛えられていて、とてもきれいな花が三つ浮かんでいる。
いつのまにこのような演出を用意したのかと、マルコは不思議そうにその花を眺めるのだが、鼻に届くのはいりこを煮出してとっただしの香りだ。そこに、少し潮のような香りが混ざっていて、頼んでいた料理が用意されていることを確認する。
「あ、パメラさん。帰郷する話はどうなりました?」
マルコと共に入ってきたパメラにクリスがたずねると、パメラはニッコリと笑顔になって答える。
「もちろん、帰郷することに決まったわ。来月ならタリーファの街も収穫祭があるから、その時期に帰りたいと思ってるの」
「あの『おにぎり』というのを食べると、わたしも帰りたくなってしまったのだよ」
パメラの嬉しそうな返事に追いかけるよう、エヴァンも話しかけてくる。
ここ数日の間、マルゲリットの街から離れていたマルコはなんのことかわからず、クリスとパメラ、エヴァンの間で繰り広げられる言葉のキャッチボールを見て、目で追いかける。
「あの『おにぎり』なら、きっとそうなると思っていましたよ」
「あら、そこまで計算されていたのね?」
「まんまと嵌められたってことかい?」
とても和やかな空気に、マルコは少し疎外感を感じ、拗ねたような表情になると、先を急ぐように声をかける。
「今日も四人席を使ってもいいかい?」
「はい、もちろんですよっ」
元気よく返事をしたクリスは、テーブル席へと三人を案内すると、熱いおしぼりをひとりずつ手渡していくのだが、マルコは待ってましたと言わんばかりにおしぼりを受け取り、手を拭いてゴシゴシと顔を拭く。
「これこれッ! やはり気持ちがいいな」
クリスとエヴァン、パメラの三人だけの会話にならないよう、なんとか話の中心に座ろうとマルコは独り気を吐くのだった。
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