第9話 肉豆腐(1)

 ガツガツと鶏肉の胡麻和えを口に入れて咀嚼すると、飲み込む直前にごはんを口に入れる。

 主菜を飲み込む前にごはんが口に入ることで、より強く風味が立ち上がるとリックは思っていた。

 だから、少し乱暴な食べ方であるが、飲み込む少し前にごはんをたべる。


「そんなに急いでも、『ごはん』は逃げませんよ?」


 呆れたような顔をして、リックに向かってクリスが言うのだが、リックには聞こえていない。

 胡麻の風味が強いので、飽きるのではないかとクリスは少し心配なのだが、赤い唐辛子の辛みや、なめこと豆腐の味噌汁、漬物などのおかげで、リックはゾーンに入っているようだ。




「ガララッ」


 店の引き戸が開く。


「いらっしゃいませ!」

「らっしゃい!」


 それならそれで、他のお客さんの様子を見ようと思ったところ、また新しい客が入ってきた。


 店の中に入るというのに、フードを深くかぶった怪しげな恰好で、明らかに他の客には顔を見られないように気をつかっているように見える。

 日本にいても、一部の芸能人は顔を隠して食べに来ることがある。お笑い芸人ではなく、アイドルとか、俳優さんと言われる職業の人たちだ。クリスがテレビに出てからというもの、なかなか来てくれなくなったタレントさんのことを思い出し、シュウは少し寂しい気分になる。店は繁盛していてありがたいのだが、それで店に来づらくなったお客さんもいることは確かなのだ。


 フードの男は、たまご朝食を食べている男と、リックの間の席に進み、腰を掛ける。

 実はこの客、フードで顔を隠しているが、シュウもよく知っている人間だ。

 シュウと同じように気が付いたクリスは、おしぼりを持って行って訝し気に声をかける。


「おとうさま?」


 明らかに動揺したような動きで、椅子から飛び上がろうかとする男はカウンターに太ももを打ち付けながら立ち上がる。すると、膝裏で椅子を後方に跳ね飛ばし、その勢いで今度はカウンターに頭突きをするかのように額を打ち付ける。


「あいたーっ!!」


 両腿をカウンターに打ち付け、頭突きをしたのだから痛いに決まっている。

 だが、そんな男を素早く庇う姿があった。


 クリスのお父さまとあれば、ここでお近づきになっておき、いざという時は外堀から埋めていくという覚悟であろう。

 そのまま後頭部から地面に落ちそうになったフードの男をリックが立ち上がって支えていた。


「だいじょうぶですか?」


 これが女性相手で……クリスが相手なら間違いなく惚れているはずだとリックは思うのだが、相手はいい歳をした男である。

 だが、リックにとってそんなことは関係ない。ここで点数を稼いておけば、必ずあとで役にたつ……リックは確信にも近い思いでフードの男がゆっくりと立てるように力を貸す。


「かたじけない」

「いえ、クリスさんのおやっ…お父さまですか?

 オレはリチャード・ウェルズ。リックって呼んでくれください」


 リックは、たどたどしい敬語で自己紹介を済ませる。


「ああ、門兵のリックだな。

 こちらこそよろしくたのむ」



 さて、人が驚いた時の顔というのは、その時の状況によって変わる。


 ドッキリで驚かされたときは戸惑いが混ざったような驚き顔になることもあるし、お化け屋敷の場合は恐怖感と驚きが混ざった顔になる。

 いま、目の前でフードを取り去った男の顔を見て、驚いているリックの顔は、目の焦点はあっているものの、口はパクパクと動いており、心なしか絶望感と畏怖の念が入った瞳をしている。

 リックのなかで、唯一まともに機能している瞳が焦点を合わせている場所には、彼が門兵として仕える領都マルゲリットで一番偉い人、エドガルド・R・アスカが立っていた。



「もう、お父さまったら……突然来ないでって何度も言ってるじゃないっ!」

「す……すまん……

 来るな来るなと言われると、実は来いと言われてるのかと思ってだな……」


 リックの前では少し大きな態度をしていたエドガルドであるが、クリスの前では威厳というものが微塵も感じられない。


「日本の芸人じゃあるまいし、わたしはそんな冗談を言わないでしょ!」


 実は日本の土産話として、熱湯風呂に入る男たちの話をしていたので、エドガルドに変な伝わり方をしていたとクリスは少し反省する。

 一方、リックにとっては非常にショックであったのか、丸盆ごとカウンターの一番隅っこに持って行って、チラチラと様子をみながら食べている。これでは、リックではなく料理がかわいそうだ。


「リックさんも小さくなって、たぶん料理の味もわからないくらい怖がってるじゃない!」


 クリスが畳みかけるように領主、エドガルドを責める。


「お前のことが怖いんじゃないのか?」

「そんなこと、あるわけないでしょ!」


 この状況で一番かわいそうなのは、たまご朝食を食べていた男なのだが、運よく食事も終える頃合いだったので、逃げるように帰っていったのだ。ただ、クリスは十分にもてなすこともできなかったと感じており、なかなか気がおさまらない。

 そういう意味ではリックもかわいそうといえば、そうなのかも知れない。


「まあまあ、お義父さんも心配で様子を見に来てくださったんでしょう?」


 シュウが気をつかって尋ねると、救いの手をガッシリと掴むかのようにエドガルドが食らいつく。


「ああ、そうなのだ。初日は全然客が入らなかったと聞いていてな。

 少し心配になったのもあるが……婿殿の料理も食べたくてな」

「そういうことなら、お代はいただきますが、よろこんで」


「……カララーン」


 金属製のフォークが落ちた音がしたので、クリスとシュウは慌てて音の方へと顔を向ける。そこには更に落ち込んだ顔をしたリックがいた。

 同じ店の中にいるのに、リックの周囲だけが色を失ったかのように冷たく、暗い空気が漂っている。

 クリスがこのナルラ領マルゲリットの街の領主の娘であることを知り、いま目の前にいる男こそがクリスの父親であることを知ったのは約一分前。

 これは王子に見初められて第一王妃になるという夢物語の男子版ではないかと少し……ほんの少しの夢と希望を抱いたリックであったが、その夢も希望もシュウに対して発せられた「婿殿の料理」という一言でガラガラと音を立てて崩れ去った。

 いま、ここにいるリックは抜け殻であり、リックのような形をした何かでしかない。


 さて、シュウにとって、軽い親子喧嘩のようになっているクリスとエドガルドのことは気になるが、それ以上に気になるのはリックである。何があったのかはわからないが、フォークを落としてしまっては食べづらいだろうと、厨房から出てきて新しいフォークをリックに渡す。

 リックはとてもぎこちない笑顔をつくり、フォークを受け取ると、何か吹っ切れたかのように食べ始める。

 茶碗に入ったごはんは冷めてしまっているので、熱いお茶を頼み、それをご飯にかけると、漬物を食べる。

 空になった茶碗にお櫃からごはんをよそい、鶏のササミと隠元豆の胡麻和えを食べ、味噌汁を飲む。


 ガツガツと急いで食べるリックの姿を横目で見たエドガルドは、その食べ物がとても気になる。

 さっきからクリスの説教を聞かされており、小さな声で「申し訳ない」や「すまん」という言葉を並べてはいるものの、シュウが作る朝食を食べたくて仕方がないのだ。


「ああー、ところでクリス」

「なに?」


 クリスは怒ると怖いということがよくわかったシュウも、その返事には驚く。

 一応、リックとはいえ、他のお客さんもいることだし、そろそろ窘めるタイミングである。


「クリス、他にもお客さんがいるんだからほどほどにね」


 ただ、シュウはその怖さに、少し控えめな窘め方になってしまう。


「あ……ごめんなさい。で、お父さま、どうしたの?」


 クリスが尋ねると、エドガルドは恐る恐るという感じで続ける。


「わたしも注文をしたいのだが……」

「ああ、しかたないなぁ……じゃあ、今からお父さまも普通のお客さまとして扱いますからねっ!」


 そういうと、クリスは改めておしぼりとお茶を用意し、エドガルドへと差し出す。


「何になさいますか?」

「うーん」


 悩んでいるのではない。両手を拭き、まだ熱いタオルを広げると、顔を包むようにタオルを乗せて気持ちいいと言わんばかりに声を出しているのだ。


「リック、そりゃなんだ?」


 突然のご指名に驚き、リックの動きが固まる。


「もう!リックさんがビックリしてるじゃない……。

 あれは、『鶏のササミと隠元豆の胡麻和え』よ」


 そういえば、先ほどから胡麻の香りが漂っていて、妙に食欲をそそってくるなとエドガルドは思った。

 鶏の肉のササミ部分ということは、とても脂が少ないが、肉そのものの味はしっかりと味わえる部位である。一羽から取れる量が少ない分、隠元豆で増やしているのかも知れない。ならば、他の料理も確認しようと考え、エドガルドはまたクリスに尋ねる。


「他はどんな料理があるんだ?」

「えっと、『鶏』の卵を使った料理、『牛肉』を使った料理、『豚肉』の料理と、野菜料理があります。いつもは魚料理も用意しているけど、今日は売り切れなの」

「なにっ!魚料理かっ……」


 エドガルドは少し後悔した。

 もう少し早く抜け出してこれたなら、魚料理を楽しむことができたかも知れないのだ。

 盆地にあるこの街では、海の魚は期待できないが、父親だからこそ知るこの店の素性を考えると、海の料理も食べられるかも知れないと、今気が付いたのだ。


「う・り・き・れ  聞いてた?」

「ああ、では『牛肉』の料理にしよう」


 エドガルドは牛肉でも、柔らかくて濃厚なテンダーロインなどを普段から食べていることが多く、牛肉に抵抗がないのだ。


「『牛朝食』、承りましたぁ」

「あいよっ」


 初めて注文された牛朝食であり、クリスの父であるエドガルドに出す料理なので、シュウは少し気合を入れる。エドガルドには一度食事を出したことがあり、健啖家であることも知っているので、濃厚な料理を出すことにする。


 調理台の上に並んだのは、九条ネギと玉ねぎ、牛肩ロースの薄切り、焼き豆腐である。調味料は日本酒と醤油、砂糖だけだ。四角い白い塊……牛脂がゴロンと転がっている。

 玉ねぎはくし切り、九条ネギは幅広の斜め切り、焼き豆腐は二分の一丁を六等分に切っておく。


 フライパンに牛脂を入れて火にかけると、ジュウジュウという音を立てて溶けて広がる。最初は少しずつだが、だんだん溶ける量が増えてくると、フライパンの上の脂は粘度が下がり、馴染んでくる。そこに食べやすく切っておいた牛肉を広げて入れる……。


「ジャーーーッ」


 まずは音から美味そうだが、牛脂で焼いた牛肉はメイラード反応を起こし、甘い香りが厨房に広がる。

 すると、シュウはすぐに砂糖、醤油と日本酒を加える。

 先ほどよりも更に甘い香りが漂ってくると、このまま卵液につけて食べてしまいたくなるがぐっと我慢し、玉ねぎと、焼き豆腐を入れて煮る。

 焼き豆腐に火がとおる頃に、焼麩を少しと、九条ネギをたっぷりと入れ、熱が入ればできあがりだ。

 これに合わせるのは、豆腐の入った味噌汁ではなく、ほうれん草と油揚げでつくっている。



 丸盆に白いごはんと味噌汁、肉豆腐をのせてシュウは声を上げる。


「あがったよ」


 「「ゴクッ……」」


 店内に広がった甘い香りに、つばを飲み込む音がいくつか聞こえると、追いかけるように朝三つの鐘が街に鳴り響いた。


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