第10話 肉豆腐(2)

「ぐぎゅるぅぅぅぅうううう」


 クリスの腹が盛大な音を立てる。

 牛脂で焼いた肉の匂いは、それだけで温かいごはんを食べられそうなほど、いい香りがする。

 クリスも初めて見る料理なのだが、「間違いない」美味しさを感じさせる料理が目の前にある。


 だが、非常に残念なことに、この料理はクリスの賄いではない。

 クリスの父親である、エドガルド・R・アスカのために作られた料理だ。

 それに、お腹が鳴った音と同時に朝三つの鐘が鳴ったのだから、早々に配膳して店を閉める準備をしないといけない。マルゲリットでの営業を終えると、一時間後には日本で朝食屋をはじめるのだ。


「おまたせしましたぁ」


 そういうと、クリスは父エドガルドの前に料理を差し出すと、急いで閉店準備へと取り掛かった。




 エドガルドはクリスが配膳した丸盆の上の料理を見る。

 純白のごはんと、味噌汁があるのだが、エドガルドはすぐにその奥にある肉料理に目を奪われる。

 褐色に染まった牛肉は、焦げ目のついた白い豆腐という食べ物とタマネギと共に煮込まれており、更に香り高い青ネギの葉と煮汁を吸った焼麩が添えられている。先ほどから漂っている甘い砂糖や果物の汁、甘い果実酒などを煮詰めてもこのような甘さと香ばしさを兼ねた香りにはならないと思わせる「旨い匂い」はこの皿から放たれている。


「ゴクッ……」


 気が付けば、口の中に溢れかえるような唾液を飲み込みむ自分に、エドガルドは少し驚く。

 アスカ家には複数の専属料理人がおり、その腕前は現王家のそれと比べても遜色がない。

 その料理人が焼く牛肉は、柔らかくて非常に美味であるのは間違いがないが、単に牛脂をつかって焼いただけの肉が、今までに嗅いだこともないような甘く、芳ばしい香りをたてることはない。そのことを思い出すと、エドガルドは素材のレベルで雲泥の差があることを感じる。


 だが、エドガルドは最初から肉に手をつけるということはしない。

 クリスやシュウから教わったマナーがあるからだ。


 最初は味噌汁に少し箸をつけ、具材を吸わないように汁だけを飲む。

 主菜の料理が濃い味になるせいか、わざと控えめな具にされていて、素直にいりこと昆布の出汁を味わうことができる。明るい褐色の具は豆腐を揚げたもののようだが、汁の上には油が一切浮かんでおらず、味にも油の風味を感じることがない。

 ただ、味噌汁の味がじんわりと舌に染み込むように伝わってくる。


「ほぅ……」


 思わずエドガルドの口から、溜息のような声が漏れる。

 気持ちは急いているのかも知れないが、このスープには、一口で落ち着きを取り戻させる力がある。


 そんなとき、すぐ近くにいたリックが立ち上がる。


「ごちそうさまでした……」


 元気のない声だが、その目はエドガルドの丸盆へと注がれている。

 彼がこれまで避けてきた、硬いはずの牛肉なのだが、薄くスライスされてふんわりと深皿に盛り付けられている。さすがに、領主に対して一口でいいから食べさせてくれとは言えず、諦めて帰ることにしたようだ。


「ありがとうございました。お代は五十ルダールです」


 クリスが代金を言うと、リックは巾着袋から大賤貨を取り出して手渡すのだが、そんなリックに対し、クリスはクイクイと服の袖を引くと、耳を貸せと言わんばかりの仕草をする。


「すみません、いろいろと騒がしくて……

 明日は七日に一回の休みの日なので、明後日お待ちしていますね」


 クリスは耳元で囁くと、店の入り口へと走り、引き戸を開く。


 いつものようにクリスの髪から漂う花のような香りがリックの周辺を包み込むのだが、リックの心は晴れない。この香りに心惹かれてはいたものの、クリスとシュウが夫婦だということを知らなかったからだ。クリスも成人しているのだから、既に相手がいるかもしれないのに、勝手にフリーだろうと思い込んでいた自分が悪いのは理解しているが、すぐには立ち直れない。

 リックは力なく店の出入り口である引き戸をくぐり、マルゲリットの街に出ると、また来ると言って帰っていった。

 いつものように背中が見えなくなるまで見送るクリスだが、哀愁漂うリックの背中に、少し心配そうな表情を見せた。





 クリスが店内に戻ると、エドガルドは既に肉豆腐を堪能している。

 他の客は既におらず、クリスも自然とわがままを言えるような状態である。


「ねぇ、お父さま」


 クリスが声をかけると、エドガルドは返事をせずに食べ続けている。


「お父さまったら、ねぇ!」

「ヴァ?」


 焦れたクリスが再度声をかけると、エドガルドは面倒臭そうな声をあげる。

 食べることを楽しみ、とても集中していたのか、口の中に食べ物が入ったままの状態で何かを言おうとしたのだろう。


「ひとくちちょーだい!」


 クリスの一言に、エドガルドはあからさまに嫌そうな顔をする。


「いやだ」

「そんなこと言わずにー」


 茶碗を持つ左腕につかまり、ひとくちだけでいいからと強請る娘に、嬉しそうに嫌がるフリをする父親……ではなく、本気で嫌がっている。


「いやだ! これはワシのものだ。意地悪なクリスにはやらんっ! こうしてやる!!」


 そう言うと、エドガルドはペッペッペッと唾をかけるフリをする。

 実際には唾液は飛んでおらず、あくまでもフリなのだが、いい歳をした父親がすることではないし……領主の姿には見えない。


「あーもぅっ!」


 クリスはさすがに唾液まみれなら食べたくないのか、諦めたようだ。

 すると、厨房からは先ほどと同じ、肉豆腐を作る音と匂いがやってくる。


 パッとクリスが厨房を見ると、シュウがちょうど仕上がった肉豆腐を深皿に盛り付けるところだ。


「今日のまかないだーっ!!」


 天使や女神でもここまではないだろうというほど、美しくかわいらしいクリスの笑顔にシュウはドキリとしながら、丸盆にごはんと味噌汁、肉豆腐を乗せて運び、エドガルドとクリス、シュウの順になるよう、カウンターに座る。


「「いただきます」」


 今朝のまかないには、エドガルドと同じ油揚げとほうれん草の味噌汁が並んでおり、クリスとシュウは、同じように味噌汁から手をつける。


「ほぅ……」


 昨日も同じだが、クリスはこのひとくち目に、朝の仕事を終えたという実感が湧いてきて、つい息が漏れる。

 そして次にごはんを食べて、待望の肉豆腐に手を伸ばす。


 醤油と砂糖、日本酒で焼いてから煮込まれた牛肉は、タマネギの甘みや酵素もあって柔らかく煮えている。


「あ、ちょっと待って」


 何かを思い出したようにシュウは立ち上がり、厨房で鶏卵を呑水とんすいのような皿に割り入れて持ってくると、クリスの丸盆の上に置いた。


「よくかき混ぜて、肉豆腐をつけて食べるといいよ」


 そういうと、シュウも同じようにたまごを溶くと、肉豆腐の肉から食べ始める。


「『鶏』の卵を生でたべるのか?」


 明らかに嫌悪感をもった表情でエドガルドが漏らす。

 鶏の排卵口は肛門の中にあるので、生でたまごを食べるというのは、異世界であってもサルモネラ菌のような細菌で食中毒を起こすことがあって嫌がられているのだろう。


「だいじょうぶですよ、日本の卵は鮮度が高く、おなかを壊すようなものはまずありませんから」

「うん、生の卵を炊き立てのごはんにかけて、醤油を垂らして食べると絶品なんだから!」


 実はクリスも最初は食べられなかったのだが、会員制の焼鳥屋で「たまごかけごはん」を食べてから、食べられるようになったのだ。

 そして今も、肉豆腐をつけて食べるために鶏卵を溶いている。


「うーん」


 エドガルドは先に食べ始めているのだから、そろそろ満腹に近い状態だろう。

 さすがに今から「たまごかけごはん」には進めないようだ。


 クリスは肉豆腐の肉を摘まみあげ、溶いた卵に潜らせると、口に運ぶ。

 たまごで薄くコーティングされた牛肉は軽く表面に焦げ目がついているが、卵の香りがふわっと広がると、次に肉の焦げたときに出る濃厚な香りや醤油、日本酒の香りが口の中にドンッと広がる。一瞬、この香りだけでもごはんが食べられそうだと思ってしまうが、肉を咀嚼すると、その考えが間違いであったことに気づく。

 とても味のよい牛肉の旨味と牛脂の甘み、獣肉臭さを消し去って柔らかさを与える日本酒の香りと、そこには少ないグルタミン酸の旨味と塩味を加える醤油、その醤油の塩味を中心に全体的に角を取り一つの美味い肉料理にまとめてしまう砂糖の甘み……ただ、それでは濃厚に過ぎる料理になるところを、溶き卵がやさしく包み込んでくれる。


「これはご馳走の味ね!」


 そう言うと、クリスはごはんを口に入れる。

 いつものように炊き立てのごはんは美味しい。だが、それだけではない。

 やはり、口に残った肉の味をふんわりと呼び覚まし、そして優しい甘みだけを残して最後に消えていく。

 そうしてリセットされた口には、また肉を入れるという楽しみが生まれる。


 次に肉豆腐の主役のひとつ、焼き豆腐を箸で摘まみあげると、溶き卵の入った呑水に入れて箸で割る。

 クリスも箸の使い方が上手になった。最初は豆腐なんて絶対に無理と言っていたが、木綿なら掴めるようになったのだ。

 焼き豆腐はまだ中心まで熱々なのだが、生たまごをつけることで少しだけ温度が下がる。それでも湯気はとまらない。


 クリスは、呑水から半分になった焼き豆腐を口の前に持ち上げる。


「フーッフーッ」


 艶々と輝くぷっくりとしたピンク色の唇が小さく開くと、焼き豆腐に息をふきかける。

 なかなか湯気はおさまらないが、クリスは焼き豆腐を口に入れる。


「ホフッホフゥホッホッ……」


 やはりまだ熱かったのか、舌の上に焼き豆腐をのせたまま口を小さくあけて、息を逃がすことで冷ましている。

 だんだん冷めてきて舌でその味を味わうと、木綿豆腐のボロッとした舌触りがするが、牛脂や牛肉、玉ねぎの旨味と醤油や砂糖、日本酒の味を吸っていて牛肉に負けない存在感を感じさせる。

 そして、九条ねぎと玉ねぎは共に野菜ならではの甘みを感じさせるのだが、しっかりと煮汁を吸っており、とろりとした玉ねぎ、シャクシャクとした葱の食感が肉と豆腐だけでは単調になる料理を楽しませてくれる。


「ほんっとーにおいしい!」


 そういうと、クリスの肉豆腐とお茶碗は空になっていた。

 シュウは自分のおかわりごはんを茶碗によそうと、皿に残った肉豆腐の汁を呑水の溶き卵に入れて混ぜ、ごはんにかける。


「わっ! シュウさんずるいっ! そんな食べ方があるなら教えてよっ!」


 クリスは頬を膨らませ、拗ねたような顔をする。

 普段、クリスは茶碗に一杯しかごはんを食べないのだが、今はすごく悩んでいる。シュウが食べているたまごかけごはんを見て、明らかに葛藤しているという雰囲気なのだが、おかわりを決断したようだ。無言でシュウに茶碗を差し出す。

 シュウはごはんを少しよそうとクリスに返す。


 仲睦まじいシュウとクリスの姿を見て、なんとも微笑ましいものを見るような目をしていたエドガルドだが、食事を終えてすることがなくなると、二人に対して願いごとがあることを思い出す。


「ああ、そういえばだな……」


 エドガルドが声をあげたのを見るクリスとシュウに対し、エドガルドは二人が食べ物をしっかりと嚥下するのを見届けてから告げる。


「日本に行ってみたいのだ……」

「「ええっ!!!」」


 当然、クリスとシュウは驚く。

 いや、驚かないわけがない。


「ダメだというのか?

 だったら、お前たちの関係は認めん」

「はぁ?! それでいいの?」


 エドガルドの隣に座るクリスが平然と答えると、エドガルドはしまったと言わんばかりの顔で俯いてしまう。

 クリスはシュウと一緒にいられればそれでよく、エドガルドが認めないというなら日本で暮らせばいいと思っている。


「いいの?」


 クリスはそれがわかっていて、エドガルドを責め立てるように尋ねる。


「いや……ソフィアとクリス、二人とも行ったというのに、わたしだけ行ってないというのは……」


 少し涙目になったエドガルドに見つめられると、シュウも言葉に詰まる。

 ソフィアは四か月ほど前に亡くなった、エドガルドの妻であり、クリスの母である。

 その一か月ほど後に、クリスは日本へとやってきてシュウと出会ったのだ。


「クリスと相談するので、明日の夜二つの鐘の時間に来てください」


 真摯な目でエドガルドにそう告げると、シュウはこのあとの仕事に備えるべく、立ち上がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る