別れの準備期間 8


「ひゃぁっ…!」



首筋に、ヌルッとした感触。



「紫津木の奴、アンタに会えなくて、かなり苛ついてたよ。 だから、オレが代わりに、アンタを堪能しに来た。」



耳の中にまで、侵入してきて…



「…いや…っ…それ…やだっ…!」



なんで、オレの弱いところ知ってるの?


やだ…!


もがいても、もがいても、この腕の中から抜け出せない!



もしかして…この人が犯人?


ああっ! だとしたら?


怖い…!どうしよう!


本当…オレって馬鹿だ!



藍…!藍、ごめん!藍!


助けて! 藍! オレ…どうすれば?



その時、チッ と、男の舌打ちが聞こえた気がして顔を見上げると、切なそうな顔をしているのが見えた。



「ぇ…あの…?」


「…身体だけじゃねぇ。心も届けに来たのに…。」



ぇ…?



意表を付かれたオレの唇は、男によって塞がれた。

あっさり男の侵入を許してしまった口の中で、縦横無尽に動きまわる男の舌。

その中で、イイところを的確に攻め立ててくる。



「……んっ…は…ぁ…」



やだ…イヤなのに…声が…


自分の声の甘さに驚く…



怖いはずなのに、どうして?



一旦、唇を離すと、吐息が触れる距離で囁いてきた。



「…いい加減気づけよ。…オレだよ。」


「ぇ…ぁ…あの…ど…どこかで、お会いしましたか?」


「…ったく。まぁ、そこが可愛いとこだけど?」



チュッ と、軽くふれるだけのキスをしてから、距離をとる彼。



「たった3日で、恋人の顔も忘れちゃった?」



拗ねたように呟いて、前髪をかき上げる仕草は…



…藍…そのものだった…。



や…



ぅ…う…そ…



あ…お…?



「…藍…なの…?」


「やっとかよ。オレ、結構ショックなんだけど?」



ゃ…ゃ…だ…



ょ…か……た…っ…



「オイ!」



気が抜けて、崩れ落ちる身体を支えてくれた。


藍の腕の中に収まりながら、彼を見上げた。


藍なんだ…。そう思ったら、気が緩んだと同時に、涙腺も緩んできて、



「怖かっ…た…。怖かったんだから…!」



制服のワイシャツを掴みながら、藍の胸に顔を埋めた。



「ごめん…ホント…ごめんな。」



そう言って、オレが落ち着くまで、背中をポンポンとしててくれたんだけど、

その頃には、ワイシャツは、オレの涙でビッショリだった。



「…会いに…ヒック 来てくれたの? ヒック…」



喉の痙攣は、まだ収まらなかったけど、

オレを見つめる優しい瞳と、犯人と勘違いしてしまった後ろめたさもあり、分かってはいたけど訊いてみた。



「早朝ロケがあったんだけど、実はオレ代役で…、」


「…え?…藍でも、代役なんてやるの?ヒック…」


「あるある。で、どうしても黒髪じゃなきゃいけないみたいで…まあ…こんな感じになりました。」


と、照れくさそうに、髪をつまんでみせた。



「瞳は、カラコン?」


「そう。黒のカラコン?…まあ…こんな感じに…。」



イチイチ照れる藍が、可愛いと思った。



「…何だよ?」


「…別に。」



無意識に、口許が緩んでたみたい。



「……黒髪だし…犯人が見ていても大丈夫だと思って、折角登校前に会いに来たのに…まさか、愛にも分かってもらえないなんてな。

ショックで、ちょっと意地悪した。」



ちょっとどころじゃないけど…



「…度が過ぎた。ごめん。」


「……いいよ。会いに来てくれただけで、凄く嬉しい…。」



改めて愛おしそうに、オレの事を抱きしめてくれた。


そもそも、オレが気づかなかったのは、見かけだけじゃなくて、匂いも違ったし…たぶん、染料の香りとか混ざったからだと思うけど、それよりも、声…。



「声…どうしたの?」


「…んー、風邪?」



いつもより、さらに低くて掠れた声。


不謹慎かもしれないけど、「大丈夫?喉痛い?」なんて訊きつつ、色っぽい声にドキドキしたりして…


この時のオレは、まだ、どうにかなるんじゃないか?なんて、どっかで、軽く考えていたのかもしれない。




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