別れの準備期間 5
朝食の後、一条さんが車で送ってくれる事になった。
玄関で靴を履き、振り返って葵さんを見る。
葵さんとも、最後かもしれない。
もう、オレからは、会う事もないだろう…。
「…お邪魔しました。」
「…愛ちゃん。」
ぁっ…
葵さんの表情が、あの日の葵さんと重なって、実は、ずっと気になってた事を口にした。
「あの…ジャージ…ずっと借りっぱなしで、ごめんなさい。」
「…ああ。いいよ。別に。」
「……お返ししなきゃ…て…ずっと思ってて…」
「気にしなくて、いいよ。オレも忘れてたから。」
ぇ…忘れてた…?
葵さんは、オレに気を遣ってそんな言い方をしたんだろう。それは、判る。
判るけど…
オレは、忘れた事なんて無い。
忘れたくても、忘れられなかった。
ジャージが入った紙袋は、クローゼットの奥の奥に入ってる。
怖くて近寄れない。
触れる事も出来ない。
見てしまえば、あの日の光景が、フラッシュバックされそうで…怖い…!
「私が、この後部屋までお送りした時に、ついでに預かって参りましょう。」
え…っ?本当に?
背後の一条さんが、そんな提案をしてくれた。
オレが振り返ると、オレの肩にそっと手を置いて、優しい笑顔を向けてくれた。
良かった……。
オレがホッとしてると、葵さんが掌を差し出してきた。
「それじゃ、それは、オレが預かろうか?」
それというのは、オレが胸に抱え込んでる藍のジャージの事だ。
オレは、無意識にジャージをぎゅっと抱きしめていた。
い…や…いやだ…!
嫌…!
嫌だ。これだけは、絶対取り上げないで!
オレには、断る権利は無い。
そんなの、判ってる。
でも…!
オレは、顔をジャージにうずめながら、首を横に振った。
それが、今のオレに出来る精一杯の抵抗。
でも…そんな僅かな抵抗、もう一度、葵さんに、『貸して』と手を差し出されたら、渡さなければいけない。
オレに、それ以上は、許されない事。
「愛ちゃん?それ、」
きた…!!
「それでは、失礼します!」
一条さん?
一条さんは、オレの腕を引っ張り、外に出て扉を閉めた。
腕を引かれ、無言のまま、エレベーターめがけて走る。
背後で、葵さんが扉を開ける音と気配があったけど、怖くて振り返れなかった。
エレベーター前に着き、一条さんが下矢印ボタンを連打してる。
感情を露わにしてる一条さんは、レアだ。
エレベーターが到着し、乗り込むと、気持ちが少し落ち着いた。
「あの…ありがとう…。」
操作ボタン前に立っている一条さんを見上げた。
「昨日も、申し上げたでしょ?
私にとっての第一は、愛さまなんです。その気持ちに、偽りは御座いません。」
相変わらず表情は、堅いけど、どこか安心出来た。
「紫津木さまなら、あの場合、葵さんに掴みかかってたでしょうね。」
「…え?」
「…忘れてたなんて…あり得ません。 私でさえ、カチンときました。 まあ…葵さんは、悪気は無いんでしょうけど。」
…一条さん。もしかして、ずっと、怒ってた?
「日曜日までの一週間、紫津木さまの代わりを私が、務めさせていただきます。」
は?
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