エピソード4 真昼に月が笑う

 土曜日、俺が目が覚めたのは、もう昼過ぎのことだった。昨夜は会社の奴らと飲み明かし、朝方帰ってきたと思うが、たぶん彼女は寝ていたのだろう、寝室から千佳は出てこなかった。俺は気を使ったつもりで、服を着たままリビングのソファーに横になったまでは、かろうじて覚えている。

 朦朧とした二日酔いの頭で、冷蔵庫から水のボトルを取り出し、コップになみなみと注ぎ込んで一気に飲み干すと、全身を冷たい水が駆け巡り、体が目覚め始めた。

--おうぅ

 言葉にもならない唸り声を出しながら、ダイニングの椅子に座ると、テーブルの上のメモが目に入った。

--なんだよ、出かけたのか

 そう思いながらメモを手に取ると、千佳の少し丸い文字で「さよなら」と書いていた。

--はっ?意味わかんねー


 嫌な予感がして、のっそりと立ち上がり、寝室のドアを開けた。綺麗にベッドメイクはしてあるが、クローゼットを開けると吊るしていた千佳の服がないことに気づいた。慌てて整理ダンスの引き出しを開けると、千佳の下着がなくなっていた。

「おいおい、何やってんだよ」

 誰もいないはずの部屋の中で大声を出しながら、携帯を手に取ると、「千佳」の名前を探して発信ボタンを押した。


 確かに昨日の朝、俺が会社へ行く前、千佳はなぜか不機嫌で口も聞かなかった。女という生き物が、男からすれば意味もなく突然不機嫌になるのは世の常だが、そんな理不尽な態度に俺も腹が立ち、昨日は誘われるまま飲みに出た。そのことを怒って出て行ったのかもしれないが、それは元はと言えばお前のせいだろう。

 俺は虚しく呼び出し音だけが聞こえる携帯を左耳に当てたまま、近所を探すつもりで玄関のドアから飛び出した。


 マンションの廊下に、千佳は大きなスーツケースと並んで壁にもたれ、空を見上げながら座っていた。

「遅いよぉ」

 ふてくされたように言う千佳の態度に、余計に腹が立った。

「お前、ふざけんな…」

「座って」

 俺の言葉を遮るように、強い口調で千佳が言う。

「はっ?」

「いいから、ここに座って」

と、千佳は隣の床を右手でポンポンと二回叩く。とりあえず言われるままに俺が座ると、

「ほら、月が出てるでしょ」

と言いながら、千佳は空を指差した。

--今、真昼だぞ。そんなわけあるかい!

 俺は怒りを抑えながら、千佳が指差す方向を見ると、確かに空には月が見えた。真昼の空に浮かぶ月を、俺は初めてみたような気がした。


「昨日、何の日?」

 月に心を奪われている俺に、千佳がポツリと言う。一生懸命考えても何も思いつかない俺に、千佳が続けて言う。

「私たちが出会った記念日」

「お前なあ、結婚記念日とか誕生日とかならわかるが、男は普通そんなことまでいちいち覚えてるやつはいないだろ」

 心に少しだけチクリと刺すものを覚えながら、まだ強気な俺に千佳が言う。

「真昼の月ってさあ、あんなに明るいのに、見ようとしない人は、ずっと気づきもしないのよね」

 膨れっ面の千佳と黙った俺の前を、お隣の玄関から出てきたおばさんが、「あら、いつも仲がいいのねえ」と笑いながら通り過ぎて行った。


「お腹空いた」

 突然、千佳は何事もなかったように立ち上がると、玄関のドアを開けて中へ入っていってしまった。訳がわからないまま廊下に取り残された俺は、仕方なく千佳が運び出した大きなスーツケースの取っ手を握り、玄関のドアノブに手を掛けた。


 ふと振り向くと、雲ひとつない真っ青な空に、俺を嘲るように三日月が笑っていた。

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