見とれる

 私、近野陽花こんのはるかは今絶賛受験勉強中。

 目前に迫ったセンター試験、何故か私より余裕に見えるクラスメートたち。親からのプレッシャー、わからない問題、張るしかないヤマ、環境問題、地球は何故青いのか、スピンアトップスピンアトップ……うぅ、実家で寝ている猫たちが羨ましい……。

 


「うえぇ……わかんないぃ……」

「次はどこ?」



 机に突っ伏して腐る私を、腐らずに勉強を見てくれるのは大事な親友の久遠寺澪奈くおんじれいな

図書室の隣の席から身を乗り出して、私の手元の参考書を覗き込む。すると、澪奈の長い、綺麗な黒髪が少しだけ私の指に触れたりする。彼女はそれを気にも留めないけれど、上質な絹のようなその肌触りに私はこっそりドキドキしてしまう。



「ここ……」


 

 私は数学Aのある問題を指さす

 でもこれくらいなら、もう慣れてきた。澪奈は凛とした雰囲気とは裏腹に結構無防備で、髪の毛が私に触れるなんてことは日常茶飯事。そのたびにずっと激しくドキドキしていたのなら私は身が持たない。慣れてくるというのは、少し寂しい事でもあるけれど。

 

 

「んーと……」



 問題文をよく見るために、澪奈の顔が近づいてくる。そうすると流石に髪の毛が前に垂れて邪魔らしくて、澪奈はそっと髪の毛を耳にかける。綺麗な黒い滝が、方向を変えて再び流れ出す。

 清流は爽やかなジャスミンの香りを以て、私の鼻腔をくすぐる。シャンプー、変えたのかな?

 澪奈の髪は近くで見れば見る程、近所の地主さんの家にある真っ黒な車のボディよりも艶やかで煌めいていて、子供の時に憧れの目で見ていた縁日の綿菓子よりもふわふわで、その実触れてみると、触れたことを忘れてしまうくらいには滑らかな手触りをしていて、その美しい黒いカーテンは私をいつも魅了する。少し触れるくらいなら慣れては来たけれど、改めて全体で感じようとするとその黒曜石の奔流が私を捕らえて離さない。

 今すぐにそれに触れたい。その流れに人差し指を差し込んで、滝の裏側に侵入したい。そこは、私が犯してはならない聖域かもしれないけれど、かつて原罪を被った人たちも似たような気分だったのだろうか。やってはいけないと知りつつもそこに強い興味を持ってしまう。甘い誘惑。

 今は勉強中。だけど、少しくらいなら……。自分の息が荒くなっていくのを感じる。

 

 

「……陽花、聞いてる?」



 唐突な声に私の意識は急転する。いや、あるいは澪奈はずっと話しかけてくれていたらしい。

 

 

「目がヤバイ……」

「ご、ごめん」

「話も聞いてなかったし」

「まことにごめん……」



 また、やらしかてしまった。私は、澪奈の髪の毛を目前にすると思考がどうしてもそちらに移ってしまうのだ。

 きっと、澪奈はさっき私がわからないと言った問題の解説をしてくれていたのだろう。だけど、1ミリも聞けていなかった。

 

 

「ごめんね、澪奈」

「いいよ、慣れてるし。 私の髪の毛、大好きだもんね」

「れ、澪奈の事も好きだよ?」

「はいはい、ありがと。 じゃあ問題の続きやるよ」



 少し拗ねた風に澪奈が言うので、恐る恐る言葉を放つと、それを聞いた澪奈は少し噴き出してから参考書の問題に目を戻した。

 いつもこうして、私のミスを簡単に受け流してくれる。そして私はそれに甘える。甘えてしまう。

 

 

「す、少しだけ」

「んー、じゃあこれがちゃんと解けたら」

「やった!」



 私はおねだりをする。そうすると、澪奈はちゃんと私の眼前にニンジンを垂らしてくれる。私はそのニンジンに夢中になる。

 

 

「問題一つにつき、指一本で一撫でまで」

「そんな殺生なぁ……」

「大学、一緒の所行くんでしょ」

「頑張ります」

「よろしい」



 澪奈はふふっと笑った。私は、一瞬それに見とれる。その瞬間は、澪奈の髪の毛の事は忘れて、純粋に澪奈の笑顔に見とれる。

 

 

「ほら、手と頭を動かす」

「がってん!」



 そして当人に促されて、私はシャープペンシルを持つ手に力を込める。

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