教壇
「おっきくなったら、きょーこのがっこいく!」
「そうだね、
「うん、やくそく!」
約七年程前の夢を見て、
アルミサッシの窓の向こうから差し込む、既に少し昇った太陽が彼女の顔を照らした。
教子は布団を被り直す気にもなれず、四月の陽気をただ顔に受けてぼーっと天井を見上げる。
「学校……」
夢に見た内容を思い出してぽつりと呟く。
教子は高等学校の教師を目指していた。そしてその夢は五年前に叶って、つい先月散った。
端的に言えば理想と現実の違い。理想を思い描き、邁進すれば邁進するほど、心の表層と深層で自分自身が乖離していくことに教子は耐えれなくなっていった。
最後はせめてやりきってからと、三月迄を耐え抜き年度が変わるとともに教子は教壇を降りた。校門には桜が咲き始めていた。
たっぷり十分程天井と睨めっこをして、教子は上体を起こした。スマートフォンのホーム画面を表示させると、時計は午前十時過ぎを現していた。
「着替え……なくていいか」
上下スウェットのまま起きだして階下へ向かう。玄関は閉ざされており、家の中には誰もいない。
教子の父母は健在だが、共にまだ働く身であった。
リビングの閉じたカーテンを開けることもせず、教子はまだ目覚めてない頭で冷蔵庫を物色する。「朝ごはん」と付箋の貼られた目玉焼きを見つけてそれを電子レンジにかける。その間に洗面所で顔を洗い、歯を磨く。そうして、教子の益体もない一日が始まる。
次の目標もなく、ただ惰性で生きる日々が既に数週間経過していた。教子の中にも当初はあった漠然とした不安も、日々を過ごしているうちに少しずつ、少しずつ怠惰の中に溶けて消えていった。
それでも、時に彼女の中をふっとよぎるのだ。
「わたし、どうすればいいんだろうなぁ」
誰もいないリビングでぽつりと呟く。しかし、教子は考えることができない。
結局、教子は朝ごはんを平らげた後に二度寝を決め込む事にした。
ピンポーン、と電子音が鳴った。
教子の部屋にはインターフォンの音を鳴らす機器はなかったが、それでも二度寝で眠りの浅かった教子は微かなその音でも目覚めることができた。
ピンポーン、ピンポーン、とたて続けに鳴らされる。
「そういえば、宅配が来るんだっけ……」
親から頼まれていたことを今更思い出し、教子は寝起きのぼさぼさの頭を掻きながら玄関へと向かった。
「はーい、どうも……」
「きょーこ!」
「え、
「はいはーい、お邪魔しまーす」
「ちょ、ちょっと?」
玄関を開けると、しかしそこには教子の予想していた配達員の制服姿はなく、代わりに見知った女子が怒り顔で立っていた。
無理矢理に玄関に押し入ってくる彼女を止めることもできず、ずかずかと上がりこまれる。
女の子は、高校の制服を身にまとっていた。それは教子にとってはとても目に馴染む物で、先月まで教子が教鞭を振るっていた学校の制服だった。
勢いのままに教子の部屋まで乗り込んできた女の子――
「きょーこ、先生辞めたってほんと?」
「ほ、ほんと……」
「ほんと、なんだね。 どうして私に教えてくれなかったの?」
「辞めようって思ってからは、忙しくって……」
「それでもさぁ……あー、まぁいいや。 済んだことだし」
観月は自分を一旦落ち着かせるように、大きくため息を吐いた。その大きなため息に、教子は反射的に肩を震わせた。
「……きょーこ?」
「え?」
「何か、あったんだよね」
その反応を見逃さない観月ではなかった。
観月は、教子の昔からの知り合いだった。年こそ十三の差があれど、もう七年もの付き合いになる。
二人の家が近く、公園で小学生の観月を相手に遊んであげる、大学生の教子というのが最初だった。
観月の真剣な眼差しに、教子は教師生活の顛末を話した。特段、隠しておくことでもなかった。
ただ、教子は怖かった。
過去に自分に憧れ、懐いてくれた観月に今の自分を知らせることが。それでも、今のこの状況は誤魔化す事はできなかった。
「だから、ごめん、ね。 もう、観月の先生にはなれないんだ」
その意志だけは強かった。もう、自分は教師に戻る事はできない。それだけは教子の中に強く、そして呪いのようにこびりついていた。
たっぷり数秒間をおいて、観月は深呼吸をしてから口を開いた。
「なーんにも言わずに突然きょーこの高校に入学したら、驚くかなぁって思ってたのに。 失敗しちゃったなぁ」
「ごめんね」
「ううん、いいんだよ。 選んだのは私だし、この高校で勉強したいこともあるから。 それよりも」
観月は唐突に膝立ちになり、対面に座した教子の頭を抱いた。
「お疲れ様、きょーこ。 ごめんね、力になれなくて」
その瞬間、教子は時が止まったように感じた。そしてその一瞬の停止の際に様々な感情が凝縮され――
「うっ、うあ、ああああぁぁぁ…………」
教子は
教子の涙が落ち着いた頃、観月は再び対面に座して口を開いた。
「きょーこ、教えるの好きだったよね? 私にも勉強よく教えてくれたし」
「え? うん」
「塾の先生とか、しないの?」
「それ、は……」
「あ、まだ考えられないよね。 ごめんね」
「うん……」
俯きがちな教子に、それでも観月は明るく言葉を続けた。
「私ね、学校の先生になりたいんだ」
「え……」
観月のその言葉に、教子は嫌でも顔を上げざるを得なかった。困惑の表情を浮かべた教子に、観月は優しく笑いかける。
「先生をしてる教子はついぞ見れなかったけど。 それでもきょーこは私にとって憧れのせんせいだったから」
教子は悩んだ。どう声をかけるべきか。自分の境遇を先ほど伝えたばかりで、それでも観月はその道を進もうとしているのか。
教子が手の伸ばし方を迷っている内にも、観月は言葉を続けた。
「だからさ、先生になるのは私に任せてよ」
観月の言葉の意味が教子には最初よくわからなかった。
「あーっと……つまり、さ。 えっと……きょーこの、夢を、二人の夢に……とか」
顔を赤らめながら言う観月に、教子は初めてその真意を悟った。そして考えた。自分はどうするべきか。
そう、考えてしまった。大人になるということは嫌な事だと、教子は心の中で自嘲した。
「そう、それも、いいかもね……」
けれど教子は、途切れ途切れではある物の、確かにそう答えた。そこには少しの希望と、少しの闇を孕んでいた。観月が自分を引っ張り上げてくれるかもしれない。
自分が観月を引きずり込んでしまうかもしれない。それでも、願わくば教子はこの光に照らされていたいと思った。
そして教子の目の前の観月は嬉しそうにはにかむと、今度は年相応にはしゃぎながら教子の胸に飛びついた。
「うん、やくそく! だから、待っててね」
教子はゆっくりと、観月の頭を撫でた。
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