触れる

 彼女、近野陽花こんのはるかは非常に悩んでいる。

 つい先日に始業式を終え、新たな学年、新たな学級での高校生活がスタートした彼女の前にそれは立ちはだかった。

それは、彼女の席の前に静かに座していた。久遠寺澪奈くおんじれいな、その人である。



「陽花ー、帰るよ」

「あっうん……えと、今日はちょっと先帰っててっ」

「んーそっか、じゃねー」

「また明日」



 いつも一緒に下校をする級友を先に帰し、陽花は目を瞑って口を堅く結ぶ。

 

 

(もう、我慢できないッ)



 今、陽花の前の席で澪奈は帰り支度を進めている。数分と経たないうちに彼女はスクールバッグを提げて帰ってしまうだろう。そうなる前に陽花は彼女の声をかけようとしていた。

瞑った目を開き、今まさに席を離れようとしていた澪奈に向かって陽花が手を伸ばす。



「あ、あのっ、久遠寺さんっ」

「ん、わたし?」



 勢いよく発した陽花の言葉は、澪奈が振り向くにつれて徐々に尻すぼみとなった。

腕を取ろうとしたのか、伸ばした手もすごすごと引っ込められていく。



「ちょっとだけ、時間大丈夫?」

「いいけど」



 陽花に呼び止められ、澪奈は学校指定のカーディガンのポケットに両手を突っ込んだまま正面を向き直った。腰のあたりまである澪奈の髪の毛が控えめにふわりと舞った。

 すらりとした、女子の中では高い身長。陽花とは10センチメートル近くの差がある。化粧っ気のない澪奈の顔はそれでいて凛としていて、氷像を彷彿ほうふつとさせるような美しさが在った。



「あ、あのね……」



 澪奈の視線を避けるように、陽花は下を向いた。大きくなるから、と少しゆったりしたサイズで購入した学校指定のカーディガンは、果たしてその目論見通りにはいかずに未だ手の指先しか出ておらず、その指を弄びながら陽花はぼそぼそと呟いた。

 

 

「……れない?」

「え?」



 放課後に入ってすぐの教室の喧騒は、陽花のぼそぼそとした言葉をかき消すには十分だった。

澪奈は、覗き込むようにして陽花の言葉を聞き返す。



「髪の毛っ! 触らせて……くれない……かな?」



 またしても勢いよく発せられた陽花の言葉は、結局尻すぼみとなっていった。しかし、その言葉は間違いなく澪奈に届いたらしい。

驚いた様子で澪奈は目を丸くする。陽花の声に驚いて少しのけ反った拍子に、髪の毛が小さく揺れた。



「うぇ……っと……だめだよね、ごめんね、変な事聞いてごめん! それじゃ、また明日――」

「いや、待って。 ダメじゃないけど」

「え? ダメじゃないの?」

「あー、一応理由は聞きたいけど」

「でも、なんか引いてない?」

「いや、声のでかさに驚いただけ」

「おぅ……ごめんなさい」



 羞恥から捲し立てて会話を切り上げて立ち去ろうとした陽花を、澪奈は極めて冷静に引き留めた。

澪奈に取って陽花はこの春からのクラスメイトだ。会話は、始業式の日に一度した程度である。そんな陽花が、何を思ってこのコンタクトを取ってきたのか澪奈には純粋に興味があった。



「私、綺麗な髪の毛が大好きで……その、初めて見たときから好きでした! 触らせてください!!」

「告白?」

「わ、わ。 ちがくて、久遠寺さんのことじゃなくて――いや、久遠寺さんの事は! その、よく知らないけど、兎に角髪の毛が綺麗だなってずっと見てたら、もう我慢できなくって……」



 慌てふためいて両の手を振りながら弁明する陽花に、澪奈はくすりと微笑んだ。

そして振り回される陽花の手を、カーディガンから出した手でぱしりと掴む。



「いいよ、悪戯しないならちょっとだけ」

「ほほほほほ、ほんと!?」

「うん、どうぞ」



 そう言って、澪奈は再び自分の席へと腰かけた。

陽花の方に、後頭部が向けられる。



(つ、つむじは触っていいのかな……? ええい、ままよっ!)



 澪奈は一言も発さずに座していた。陽花の前には無防備にさらけ出された澪奈の頭髪がある。

 

 

「失礼します……」



 心の中の掛け声とは裏腹に、陽花はおずおずと手を伸ばした。

澪奈の毛髪へ向かう陽花の手。陽花は、自らの鼓動が高鳴っている事を十分に自覚していた。人生で一番の鼓動の速さであることを確信していた。



(つむじ……)



 陽花は人差し指で澪奈の頭頂部に触れた。頭皮と髪の毛の生え際が少し見える。

澪奈の天辺に触れて陽花はそこから、ついと人差し指で髪の毛をなぞった。澪奈の滑らかな黒檀こくたんの髪は陽花の人差し指に押されて揺れた。

 人差し指を髪の毛の先まで落とすと、陽花は手の甲でゆっくりと澪奈の髪を持ち上げた。

絹のような肌触りが陽花の手の甲をくすぐった。すくった先から零れ落ち、勢いよく流れた髪の毛からふわりと爽やかな香りが漂って陽花の鼻腔をついた。



(フレグランス……何か使ってるのかな)



 陽花にとってそれは大好物の香りだった。以前から知っていた香りではない。今まさに、直感的にそう感じたのだ。

 手の甲に乗った髪の毛が全て零れ落ちた後、陽花は大胆にも髪の毛の滝を割るようにして手を差し込んだ。美しい黒の滝は、斜陽の光を受けてつややかに煌めく。

陽花の手を包み込んだ澪奈の髪の毛は、滝壺のようにひんやりとしていて興奮した陽花の熱を下げてくれるようだった。



「お手入れとか……してるの?」

「んー、特にはしてないつもりだけど」

「うっそ……こんなに綺麗なのに」

「お母さんに言われたことはしてるけど。 しないとうるさいし」

「し、してるじゃん……」

「はは。 自分で考えてないからしてるうちに入らないかなって思っちゃって……と、そろそろいいかな?」

「わっ、ごめん。 ありがとうございました」

「いいえ、どういたしまして」



 澪奈の問いかけに、陽花は弾かれるように手を離した。澪奈から切り出されなければ、恐らく陽花は日が落ちてからも触り続けていそうな勢いであった。

 

 

「髪の毛、ほんとに好きなんだね。 なんか、触り方でわかったよ」



 改めてスクールバッグを背負って立ち上がった澪奈が言った。

 

 

「うん、ちっちゃい頃からずっと。 自分の毛はそうでもないんだけどね」

「そうなんだ?」

「なんでだろうね。 おかしいよね」



 陽花は、自嘲気味に笑った。その表情に翳が見えたのは夕陽のせいであろうか。澪奈はふっと気を抜くように笑って口を開けた。

 

 

「おかしくはない。 趣味なんて人それぞれでしょ。 そもそも、本当におかしいと思ってたら触りたいだなんて言わないでずっと隠してるでしょ」

「えっ……そ、そうかも?」



 優しく語りかけられた声に、陽花は少し顔を赤くして答えた。陽花にとって、今までは決して肯定的ではなかった自分の趣味を前向きに認められたのだ。

 

 

「私のでよかったらどうぞ、また触らせてあげる」

「ほ、ほんと!?」

「ほんと。 じゃ、また明日」

「ま、また明日っ!」



 にこりと笑って澪奈は踵を返した。翻った黒のカーテンから爽やかな香りがまたしても陽花を甘く誘った。

 

 

「へへ……えへへへ……」



 一人残された陽花は自分の手を見やった。自然と笑みが零れ、きっと今年度の学校生活は楽しい物になるに違いないと陽花は確信した。

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