第7話

バタン、部室のPCに向かう背中で、扉を勢いよく開ける音が響き渡った。


「あ、どうだった? 雄志」

桃子はディスプレイから目を離して、飛び込んできた面長の顔に問い掛けた。


「いや、「もう少し待ってくれ」って言うんだけどさ」

短い髪を掻きながら、ファッショングラスの下ですかし気味の目が、ふぅ。

「そっか。

仕上げてくれるよね、圭。いつもはあの調子でも、やる時は……」

薄めの唇をキュッ、桃子が言葉を繋ごうとした時、足音がタッ、タッ、タッ、廊下から響き近づくのが聞こえた。


「おい、雄志、副部長!」

ざんばら髪に黒眼鏡の男子が衝立の向こうから現れ、小さなメモリースティックをテーブルの上にポン。

「あ、上がった? 山本くん」

飾り気のない顔が、ウンウンと頷く。


そして、隣に立った雄志と手をパチン。


「ま、とにかく見てくれよ。まだ、直し入れられるからさ」

コネクタにメモリーを差し込み、ファイルを開くと――。


今まで編集していた連続画の上に、新たなウィンドウが現れ、真っ赤に染め上げられた廃工場が表示された。


白いYシャツの袖が、ぐいっと傍に近寄るのがわかる。

桃子もディスプレイへ顔を近づけると、制作されたきたCGを追おうと……


「あ、全然」

「んん、違和感ないな」


天井へとパンアップした画は、錆び付いた鉄骨を通り抜け、破れた天井を後に、空へと舞い上がる。

そして、葉の落ちた木々の重なりを、山の尾根から尾根へとかかる電線を、吹き抜ける風を、さらに、晩秋の夕空を超え――。


もう一度。

再生ボタンをクリックして、目を凝らす。


あのドラム缶がある辺りが、ニヤと佳奈美が座る場所。

そこから舞い上がって、空へ、宇宙へ、心の中へ――――


うん。

桃子は満足げに頷くと、CG担当の同級生に向けてにこり。天然色の唇の端を和らげて見せた。


「いいよ、山本くん。うん、思った通り。

ね、雄志」

「ああ、オッケー。これで、あのシーンと繋げば、絵の方は完成だな」


「ふぅ~、よかった」

桃子は大きく伸びをすると、逆さになった窓の外の景色に、上目遣いの視線を伸ばした。


外はすっかり夜の闇に落ち、冷たげな風が、中庭の木々を揺らしている。


「おいおい、まだホッとするには早いだろ」

前髪をかき上げ、秀でた額を露わにした「相棒」を横目で見下ろすと、下がり気味の目を軽く見開いた。

「メインテーマがまだなんだからさ」


「んん」

桃子は身体を起こし、白いブラウスの肩を回すと、

「だね~。もうひと頑張りしなくっちゃ」

芝居っ気混じりに言って、ふふ、と笑って見せた。


「……じゃ、俺は帰るから。PC室も閉めないといけないしな」

俺は邪魔らしいな――二人の雰囲気に、踵を返しかける男子生徒へ、桃子が声をかけた。

「ありがと、山本くん。作品、大事に使わせてもらうから」

「ああ、よろしく」

と、もっさりとした顔に似合わない、にやり笑いが投げ返される。


「おたくたちも、遅くなりすぎるなよ。特に雄志」

「ん?」

「送りオオカミにならんようにな、マジ」

「うるさいよ」

ふん、と鼻で息をしながら返すと、ドアの閉まる音が続いた。


「まったく――」

しょうがねぇなぁ、雄志が同意を求めて斜め下を見下ろすと、きりりとした視線は、もう、こちらに向いてはいなかった。


「送りオオカミだって? また、そんなことばっかり言って」

淡々とした言葉が返ると、もう、桃子はディスプレイ上に並んだサムネイルを追って、マウスを熱心に繰っている。


「……ん、どうよ。うまくつながりそうか?」

腰を屈めると、未知=ニヤ、美悠=佳奈美が座る、夕暮れの絵を覗き込んだ。


「大丈夫。きちっとパース、合っているし。色も微調整で済みそうだね……やっぱり、山本っちゃんだ、いい仕事、してる」

知性で満ちた顔から、創作の喜びが溢れる。大きく見開かれた半月型の瞳が、紛れなく前に注がれ――

「ん?」

雄志の視線に気づいてか、一瞬向けられる薄い茶の入った瞳。


どうかしたか?――軽く眉を上げて返すと、見開かれた瞳はすぐにディスプレイに戻り、「ほら、ここが」、CGへのつなぎ部分の説明に入る。


雄志は一瞬目蓋を半分落とし、自分にしか聞こえない小さな息を吐くと、桃子以上に熱心に、画を追い始めた。


『ライティング、きつ過ぎたかな』

『ここは、生音でどう?』

『そうだな、ロードムービーのコンセプトは、外したくないしな』


『未知ちゃん、いい感じだね』

『んん、引き出しが上手なんだよ、美悠ちゃんの』

『そうだね……確かに。女優向きかもしれないな、あのケモノ的な感性は』


『お、ちょっと待って。今のコマ』

『なに? ああ、少し、ね。でも、いいんじゃないかなぁ』

『……んん、そうだな。ライブ感が出てるかもしれない』


二人並んで編集に没頭し始めれば、時は風のように過ぎる。

3日後の本番、ミルキーウェイフェスティバルの映像祭に向けて、映画部渾身の一作、『Breathless』は最終仕上げに差し掛かっていた――。


「さて、ここら辺にしとくか、今日は」

「んん、そうだね」


そして、いつのまにか。

部室の壁を見上げれば、時計の針は9時を指そうとしているところ。

文化祭の特別日程とは言え、門限まであとわずかだった。


『まもなく、9時になります。銀河祭の準備をされている生徒のみなさん、作業を中断し、片付けに入るようお願いします』

申し合わせたように、放送用スピーカーが鳴る。


ファイルを保存、電源周りを確認すると、二人でバタバタと整理を終わらせる。


最後に桃子がDVDのケースをくるり、持ち上げて手に取ると、雄志は「お」と口を尖らせた。


「持ってくのか、データ」

「うん」

桃子は頷くと、開いたカバンの中にケースを入れた。

「もうすこし、詰めたいところがあるから。……ダメかな?」


「いや」

平たいカバンを肩に担ぐと、下から真っ直ぐ見上げる視線をすかしつつ、

「よくやるな、と思ってさ。さっき見た感じなら、ほぼオッケーだろ。

俺なら、後は圭からテーマが上がってくれば、完成、ってとこだろうから」


「またまた」

桃子はふふ、と笑うと、雄志の腹の辺りに拳を作った。

「去年の文化祭で、二晩完徹した人の言うことじゃないでしょう」


「ああ、まあなぁ」

六葉噴水を中心に、柔らかいライティングの中浮かび上がる学園のエントランス。

横目に夜景を映しながら、雄志は口の端をすぼめて見せた。


「あの時は、あそこまでやらないと勝負にならないと思ったからなぁ」

そして、ふっ、鼻から笑いを漏らした。


「そう? わたしは、きっちり仕上がってるって思ってたけれど。あの段階で。

雄志、『こんなんじゃダメだ』って、猛烈にこだわってたじゃない?」

「そんなんだったなぁ。おお、若い若い。俺も」

夜景を映す横顔に、影のようなものが見えた気がした。


その時初めて、桃子は「同志」の普段とは異なる様子に気付いた。


「もう、らしくないこと言うじゃない。

ルイ・マルのように引き締まって、無駄のない、しかもリリシズムな、でしょう。

編集は映画の命。私も、及ばすながら少しでも詰めて、のつもりなんだけどなぁ」


「そうだな。それは、間違いないよ」

穏やかだけれど、どこか他人事のような声。

……雄志?


と、桃子の機先を制するように、ポンと声が上がった。

「そう言えばさ…」

視線の下で、エントランスのライトが消える。


ええと、去年の学園祭の時、どんな感じだったか。

とにかく気合を入れなきゃ、でバタバタしてた気がするけれど――。


「…桃子、未知ちゃんにずいぶんキツク言っただろ」

「え? 何が……あ、ああ」

スッと前を向き、さっき一瞬見えたものが幻だったかの相棒の表情。

唐突な言葉に答えを探していると、


「美悠ちゃんとメールもやり取りするな、って。

『先週撮った分のところ、佳奈美のパートも参考にしたかったのに、どうして』ってちょっとおかんむりだったぞ。桃子には言ってなかっただろ?

遠慮してるからな、桃子には。彼女」


「あ……それはね。でも、これは、わたしの責任だから。あの子を引き込んだ時、ある程度予想はしてたことだし。

雄志もわかってるでしょう? それくらいの押さえをしておかないと、去年の『武-タケル-』を撮った時だって、遥先輩を誘って、亜衣ちゃんと大騒ぎ――」


去年の、笑い話にもならない上へ下への痴話騒ぎ。そう、実際も上へ下への――ああ、考えただけで頭痛がするような。

『亜衣、それならいっそ、遥も一緒で挟んじゃおうか』――清廉な武道シーンのはずが、滅茶苦茶になって……ああ、まったく。


「ま、わかるけどさ」

思い出し笑みを堪えるような表情は、お馴染みの――じゃ、さっき見えたのは、気のせい……?


「あの時より、美悠ちゃんも「わかってる」感じはするけどね、俺は」

「いやいや、甘い。雄志は。だいたい、この間のロケの時――」


言いかけた時、雄志のカバンの中でジャズのメロディが鳴った。

マイルス・ディビスの「死刑台のエレベーター」のテーマ。


「お、ケイ? ん、おお、そか」

急いで携帯を取り出し、頷く横顔。

その時、何かが頭の中をよぎった気がした。


なんだろう?

やっぱり、『武-タケル-』を撮った頃、かな、その頃を思い出すような……。


少しの違和感と、デジャビュと。

こんな感じ……でも、どこか違っていて、「西涼さん」、まだそうやって呼ばれていた頃の……。


「おお、オッケー。今から行くよ。ん?いや、送らなくたっていいよ。

直接、取りに行く。生で聞きたいしさ、桃子も一緒に」


パチン、携帯を閉じる音が響くと、すぐさま発された声が、そんな些細なことを上書き《オーバーライト》。

「テーマ、出来たってさ、桃子。行く時間、ありそうか?」


「あ、うん、大丈夫。父さんには言ってあるから。

やっぱり、やる時はやるね、圭。きっと、いい曲だと思う」

「だな、間違いなく」

桃子は雄志の顔を見上げると、手を上げた。


パシン――手と手が合うと、視線もオッケー。


余分なあれこれは全部吹き飛んで、二人は夜の部室を後にした。


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シュッ!

光速で空気を裂く、しなやかな切っ先。


バシッ――サンドバックに行く手を遮られると、鋭い音を上げて止まり、それが足先だとわかる。


反転、背中から繰り出されたかかとは、ハンマーのように反対側を打ち抜き、天井から吊ったチェーンが揺れる。


そして。


後ろ回し蹴り、後ろ回し蹴り、後ろ回し蹴りの連打。

一打ごとに黒いサポーターを巻いた足首が高さを増し、ギシギシと鈍い音を響かせる。


並みの格闘選手では到底届かない頭上まで足が伸び、それはむしろ、バレリーナが踊っているかのよう――。


ふぅ。


笑みとも安堵ともつかない表情が浮かぶと、黒いタンクトップの肩口でハードレイヤーの黒い髪が揺れ、軽くジャンプアップ。


淡い琥珀色の肩がしなやかに動き、抑えても溢れる二つの膨らみが、引き締まった上下動で存在を際立たせる。


オープンフィンガーのグローブで、左ジャブを軽く二発。ストレート。


ワントゥ、ワントゥ、ワントゥスリー。

初め軽く――やがて激しさを増した拳は、ショートアッパー、ショートアッパー、右フックへと勢いを強める。


「セイッ!」

フック、フック、フック、ストレートで沈めると、ホーッと大きく息を吐いた。


上を仰ぐと、打ち付けコンクリートの天井と鉄骨が目に入る。そして、耳に流れ込んでくる軽快なリズム。


お、あの曲じゃん。


流しっぱなしにしていた有線放送から浮かび上がった、最近マストなファンクチューン。


美悠はトレーニングマシンにかけてあったタオルを手に取って、トゥ、トゥトゥトゥ、と生のままの肩を揺らしながら、流れ落ち始めた汗をひと拭き――。


「Love,sex,music,dreaming~♪」


髪を抑えていたヘアーバンドを外すと、弛みの一つもない頬の稜線に、艶やかな黒髪が落ちる。

わずかに肩にかかる程の長さ――鎖骨からは汗がにじみ、流れ伝い、黒いタンクトップを着けた琥珀の肌は、薄布一枚さえもどかしいように、身体のラインをビビットにうかがわせ……。


南面の壁に埋め込まれたミラーに、しなやかな全身が映る。


美悠は歩きながら、おもむろに手を組み合わせると、タンクトップの裾に手をかけた。


そして、立ち並ぶマシンの間を抜けながら、軽快に脱ぎ捨てる。


押さえを効かしていた布から開放されると、非の打ち所のない二つの膨らみが豊かに溢れ出した。


脱衣カゴに服を投げ込むと――その先はシャワールーム。


全面が鏡になっている壁の前で立ち止まると、美悠は横目で鏡に映る全身を眺めた。


額に、肩に、胸元に、まだ流れ落ちることをやめない汗。

両手の指を髪のサイドに差し入れると、肘を高く上げ、斜め45度で軽いポーズを。


長い睫毛に彩られ、流れる眦から視線を流すと……ふふ。


胸をグッと張ると、斜め上方にツンと突き出した桃色の突端から、ぜい肉ゼロ――滞りの一部もない腰の曲線へ、右手をスルリ。


ん、いい感じかな。


いつの間にかアンダーもオフ、乳白色に照らし出されるフルヌードのBody。


斜め後方から乳房の下、腕で支え当てるように振り向くと、左手をクイと引き締まったHipに添わせる。


まだ汗で輝く背中、柔らかさの中にも強く雄弁な肩口へ戻すと、ざっくばらんに散った黒髪がミスマッチ、しかし、それがいっそうBodyの印象を際立たせる。


黒も、確かにいいんだけどなぁ……。

首筋から背中を拭うと、そのタオルも銀の脱衣カゴに放り込んだ。


佳奈美の役作り、そして、来月の柔道大会のために黒に戻した髪。まだしばらくは染めるわけにはいかないけれど――。


気分次第でカラーリングできるのが最上。でも、3日に一度は道場に顔を出すとなると……。


ここのところ、夜のお出かけもままならない。確かに、道場で会えるあの子達は、両手一杯の花には違いないけれど。


さすがに、稽古そっちのけでお誘いモードというわけにはいかない。


鏡へと乗り出すと、生のままのラインでほぼ完璧な眉に指先、ムッと顎を突き出し、思い巡らすこと一瞬。


そう言えば、トンとご無沙汰だよ。まったく、どうしてくれるって言うのか、これだけPerfectに準備ができてるものを。


そう、みっちゃんだってねぇ……。


想いは連なり、至るべき場所へたどり着く。


夕焼けの廃工場、唇キスをGET!した時の表情――んん、もう、間違いなく。

目はトロン、唇は緩んで咲くばかり。心の声が聞こえたよ、あたしは。


ミユさん、ミユさん、わたしを、未知を、このまま……。


少しラフさを増したおかっぱ頭を思い浮かべると、腰の奥がギュ、胸の先がキュンと鳴った。


手をクロス、胸のふもとに添えた手のひらをグッと押し上げるように――と、雄弁な桃色の突端がさらに赤みを増し……


「ん……」

喉から、低い、しかし密やかさは薄い吐息が漏れる。


広げた指が、ふもとからねるように胸の形を押し変え、やがて、赤く突き出した頂点へ、爪先を届かせる。


目蓋を半分落とした、燃え出す官能の行方を追う表情。


肉厚の唇は緩み、小さな吐息を漏らし続ける――しかし、表情全体は、どこか笑みを浮かべているよう。


ん、いい感じ……。


乳首を、しなやかな2本の指が捉え、挟む。くすぐるように、引っ張るように、動きを変えながら。


ミラーに映る全身、乳房は形を変え、腰が揺らめく。

そして、右手が身体の線を辿り、足の間の奔放な叢に忍び入る。


すぐに、指先がそのパーツを捉えた。


ん、やっぱり。


子犬のような懐こい顔がよぎり、唇をツゥ、笑み混じりに軽く噛むと。


固さを増した根元に指をそろえれば、強く迫り出した突端は、ガードを落として、姿を露わにしているはず……。


じっくり、みっちり愛してあげた後――みっちゃんなら、ちょっと恥ずかしがりながら、でも熱心にクンニしてくれるだろうなぁ。


溢れ出す愛欲のしるし。自然に指先に絡むと、小指の先ほどの大きさで濡れて輝くそのパーツを、軽く挟み込んで上下に擦る。


少し背を反らせると、乳白の膨らみを強く押し上げ、腰を突き出すように――。


ジン、とした感触が腰から背へ、そして、下腹部の奥へ。

「ん、ンふ……」

身体に広がっていく快感の波。中心へ引き寄せると、グイグイと胸を捏ね、茂みの奥の真珠を剥き出しにして弾く。


ジン、と大きな潮。

美しい頬の稜線の中で、まだまぶたを落としきっていない瞳が、幻を追う。


「また、愛してくれますか? ミユさん」

可愛いうなじ、肩に手を当てた時に気付いた、思ったよりずっと豊かな身体。


いっそう迫り出される腰。顎が上がり、少し傾いた頭から黒髪が下に流れ――眉根が寄せられ、目が閉じられた瞬間。


「ン、ン、ンふ!」

ひくつきがヴァギナの奥から、腰へ、押し当てた手へと伝わり。


「ンッ!!」

しばし時の空白。


広がり続けるジンとした潮をあいまいに追って、ふぅ。


ほのかに皮肉めいた笑みが口元、すでに半分開いていた目蓋が、すぐに見開かれる。


そう。

……ふふ、今日こそは絶対。


身体から手を離すと、ふぅ~と肩を開き、息を吐いた。


あれ以来、ほとんど不可能だった未知とのランデブー。

桃子の差し金にうんざり気味だったとは言え、今日ばかりはそうはいかない。


銀河祭の華、映像フェス。

舞台挨拶から、受賞作の発表まで、主役二人が揃っていないなんて、あり得ない!こと。


首筋に光る、先刻までとは異なる起源の汗。くるり、と一糸まとわぬしなやかな身体が翻ると。


シャワールームのガラスドアを引き、磨き上げられたタイル張りの床を踏む。


まず、気合入れて磨き上げて、と。さて、どのスタイルで行こうか。アクセも選ばないとなぁ……フレグランスは、少し刺激が強い奴の方が、あの子にはシグナルかも。


ドアが閉められると、間髪入れずシャワーの音が響き始めた。

そしてもれ聞こえる、アップテンポな歌声。


Love,sex,music,dreaming~♪

Love,sex,music,dreaming~♪

Love,sex,music,dreaming~~


**************************************


コロッセウムさながらに円形に並べられた座席、装い色とりどりな学園生の背中の連なりが、眼下へと緩やかな坂を作り、中央では小さな舞台が光に浮かび上がっている。


そして、ドーム状の天井からは、星々を模した7色のイルミネーション。


「Let's sing together!」


熱気が渦を巻く扇形の舞台から、マイクを通した声が響き上がる。

同時に、目もくらむほどの激しい光の洪水があふれ出して――。


「うぉぉ!」「サイコ~」「カンジ~!!」

嬌声が、全方位からホールを包み込む。


L.エルO.オーV.ヴイE~イー♪ real thing♪ L.O.V.E~♪ real thing♪」


リードギターがエモーショナルにかき鳴らすリフ。

細身のジーンズ姿のリードボーカルが左右に走りながら腕を振り、大合唱が続いた。


熱気に溢れる大講堂は、今や、コンサート用のアリーナ。

いや、生徒の間でも「天乃星スーパーアリーナ」で通っているわけで――。


きらめく光の中、飛び交う歓声/とどろく電子音。

思うままに身体を動かし、音楽に身を任せる大観衆。


未知は、光輝く舞台を小さな瞳にまるまる捉え、心奪われ続けていた。


中学校の頃から憧れだった、ミルキーウェイフェスティバルの華、映像フェス。

今わたし、その中にいるんだ。


「結構、いいんじゃない?」

横で聞き慣れた「憧れの先輩」の声が響くと、さらにその隣から、少し鼻にかかった男性の声が答えた。


「そうだな、悪くないよ。完次のとこ、スカウトあったらしいからなぁ」

「やっぱり。実力、あるんじゃないかな」

「相棒」の言葉に賢げな横顔が頷き、内側に少しカールした髪が揺れる。

再び舞台を見つめ下ろしたその表情は陰影鮮やかで――


「どう? 未知ちゃん」

優しい瞳が、未知の方に向けられる。


「はい、先輩。わたしもう、目がぐるぐる。なんか、凄いですね、やっぱり」

ほっぺたを掻きながら答えると、向こうから、ハスキーな声が飛んでくる。


「こらこら。こんなんで目回してちゃ、持たないぞ」

鋭く印象的な美丈夫――美悠の顔が、映画研究部コンビの向こうから現れ、ニッコリ。


「メインの上映が済んだら、間違いなくアウォード。お立ち台だよ。3000の大観衆釘付けでね。

主役が卒倒して、ファン獲得のチャンスを逃さないようにね。みっちゃん」

「え、そんな。わかんないですよぉ、ミユさん、受賞なんて」


「お、桃。あんなこと言ってるよ、みっちゃんは。渾身の自信作を」


「そういう話じゃないでしょ。緊張させてどうするの、あんたは」

桃子がきつめの言葉を飛ばすと、向こうから唐突な声が聞こえた。


「ああ、ったく話し辛いったら、この席順。

どうして主役二人が離れて座る必要があるんだ?

これじゃ絵にならないだろ、桃」


「うるさい。絵は映画の中で充分――賞は二の次、三の次。

だいたい、美悠、主役は未知ちゃん、あんたじゃない――」


はいはい、呆れ顔で引っ込む青い背中。

美悠が身に着けているのは、飾り気の少ないタイトなドレス――たぶん、佳奈美をイメージした。


桃子、雄志、美悠。

舞台の光に照らされ、いつもよりさらに印象を露わにした面々を傍らに、未知は視線を落とした。


学園NO.1バンドが歌い上げるバラードは、POPで弾ける次のパフォーマンスへと――。


落とされた全体照明に、七色の光の線が交差し、フラッシュが目の奥に残る。


「C'mon!!」

美悠のノリ全開の声が耳に届いた時、未知は制服の胸に手を当てた。


踊り出す大観衆。

猛烈な熱気と、歓声、そして、胸が鼓動する。


『Breathless』を撮影し始めた頃、友達に言われた台詞。


「未知、あなた、すごいよね。

だって、西涼さんに見込まれていて、今は紅さんと共演でしょう?

どんな気持ち? やっぱり、全然違うよね、二人とも」


その時は、少しも不思議に思わなかったけれど。


でも――。


ずっと、平凡すぎると思っていた毎日。

憧れて、無理して天乃星に来たけれど、やっぱり結局は変わらないと感じていた秋までの日々。


でも、それは、きっと――。


雄さん、桃先輩、ミユさん……隣にして、こうしてこんな真ん中の席に座っていると、わかる。


憧れていたフェスティバル。それは、自分でそこに立とうとしているから、ドキドキしているんだって。


あの、暮れた空の下で、ミユさんの鼓動を聞いた時から、わかり始めてきた。


『踏み出す足はあるのよ、ニヤには……』

本当だったんだ、あのセリフは。


きっと、わたし自身のこと。


少しも、気付かなかった――バカだ、わたし。


でも、ずっと、あれからぐるりぐるり、どこに下ろしたらいいんだろう、わたしの足。


突然目が覚めて、半分胸が熱くて、そのまま眠れない何度もの夜――。


「ふふ」――ミユさんの笑顔を見ると、少しだけ抜けていく気がする。

桃先輩は「連絡は極小」、そう言うけれど、さっきのにっこりを見た時も……。


似ているようで、少し違うような、ドキドキ。


よくわからない、自分でも。


こんな風に思うのって、名前を付けたら、「想い」になるのかもしれないけれ

ど。


……怖いけれど。


でも、きっと、わたし、ミユさんのこと――。


「未知ちゃん」

気が付くと、回りの雰囲気はすっかり静寂。


「あ、もしかして」

隣に目を見開くと、大きな瞳が頷いた。


「わたし達の番だよ」

密やかな声が届く。桃子の表情も、期待で溢れているような……。


照明が次第に消え、講堂は暗闇に落ちていく。


そして、白く大きなスクリーンが天井からゆっくりと下りてくる。


反射的に落としていた視線を戻して、桃子の横顔からスクリーンへと。


なんだろう――、今の鼓動。


胸に手を当てる。


桃先輩もわたしと同じように、この瞬間を待っていたんだ――思った瞬間に。


『それでは、第3部、ミルキーウェイ映像祭の開幕です。まず、一つ目の作品は、映画研究部による作品、題名は『Breathless』です』


波のように広がる拍手と、混じる口笛、「待ってました~」の掛け声。


ドキドキ、ドキドキ……収まらない。

わたし、おかしくなっちゃったんじゃ………。


そんな気分に覆い被さるように浮かび上がる、黒い背景に淡い白文字。


『Breathless』


そして重なる、はぁ、はぁ、はぁ、と苦しげな呼吸音。


Fade out。


見開いた目に、何度も目にしてきたはずの……でも、とても自分とは思えない誰かが映し出される――。


『ねぇ、ニヤぁ。本日はどうする~』

『あ~今日はダメだよぉ。もうねぇ、平日門限、1時間繰り上げ』

『おえ、マジそれ。9時までしか遊べないじゃん、それじゃ』

『しちゃえしちゃえ、プチ家出。だいたいニヤ、いい子過ぎだし』


当たり前の下校風景から始まる物語。


そして、秋の休日。「カレ」と待ち合わせた公園で。

思いもかけぬ出会い――決して交わらないはずの学園一の優等生と。


何度かの学校での会話、そして、招かれた家で。

佳奈美の声は自分の声と重なっていく。


『この先、生きて、何があると思う?』


『欲しいものなんて、何もないのよ。ただ、一人にして欲しい時がある』


『救いのない人はたくさんいる……わたしも、そうなのかもしれない』


どうして?

佳奈美さんほどできる人はいないのに。


誰もが羨む学園の華、県下一の声楽部の部長、試験の順位は一ケタを下ることはなく、アタシなんかでは想像もつかない名前の大学へ行くと言う……。


そして足を踏み入れた「壊れた家」。

――広い屋敷でしょう。でも、魂は住んでいない「タテモノ」よ。


父はできるオンナなんていらないの。

欲しいのは揺りかご。帰る場所だけ……だから、わたしはここには帰らない。

母は、死を生きているの。人生を食べながら、ただ息をしているのよ。


どうして、そんなことを言うの?

足りないものなんて、佳奈美さんには何もないのに。 


「理想の人」の中に見つけた影は、いつの間にか自分の中に宿る。

そして、同じ気流の雲となり、自分にも降りかかる。


『いつも思っていたのよ、パパが死んでくれたら、どれくらい楽かって。

でも、あなたがいたから……』


突然、自らの「家」にも沸き起こった争い。


どういうこと?

アタシのために「壊れる」こともできなかった、って。二十年繋がれていた、って。


アタシをダシにしないでよ。そんなの、言い訳じゃない。自分で選んだんでしょ?


昔、言ってたじゃない。パパとは大恋愛だったって!

じゃあ、何のために始めたのよ!!


それなら、アタシはいなくなる。いなくなれば、「普通に」生きられるんでしょ!


逃げ出した先は、佳奈美の家。

そして、彼女もまた――。


「もう、わからなくなっちゃった、私も。

ね、ニヤ、今から出かけよう。どこでもいいから、ずっと遠くに」


たどり着いた小さな温泉街。


当てもなく歩き、入り込んだ山間の廃工場。


迫り来る夕闇。揺らめく炎に浮かび上がり、星が降るまで言葉を投げ合って。


……そして。


『あなたは、前に、わたしは何でもできるからって、だからわからないだろうって、言ってたよね。


でも、わたしも同じ。ぬけがらになった建物、ぬけがらになった関係、ぬけがらになった人たち……どんなに綺麗に、早く泳げても、意味なんてない……』


赤で満ちたスクリーンの中で、二つの瞳が見つめ合い、唇が揺れる。

近づき、交わされる密やかなキス。――柔らかく、時を止めて。


「苦しかった?」


「……そんなこと。でも、空気がすごく……」


「……気持ちいいね。……今わたしたち、同じ空気を吸ってる」


ヒュゥ~。

あぁっ~。

感嘆交じりの小さな声が至るところで上がる。


そして、舞い上がった視点は、山を俯瞰し、空へ、宇宙へと――。


時は過ぎて。

佳奈美はどこか別の国のキャンパスを闊歩する。


――Hi! Annie! How's it going?


ニヤは、図書館でノートにペンを走らせる。


「ニヤ~、たまには遊ぼうよぉ」

「うん、ごめんねぇ。明日が正念場だからさ」

「もう、付き合い最悪~。まったく、どうしちゃったやら」


水で満ちた大きな水槽。

緑の水草が揺れ、色とりどりの熱帯魚が群れを作り、優雅に泳いでいる。


と、中空からいきなりハンマーが振り下ろされる。激しい音と共に水槽は砕け、四方へ溢れ、広がっていく。


そして、その水は遥か遠く、大河へと……。


はぁはぁ、はぁはぁ。


苦しげな息が響き、やがて。


ふぅ……はぁ……。


ホッとしたように息が吐かれ、画面はフェードアウトする。


数秒間の暗黒と、沈黙。


そして、キャストとスタッフロールが流れ始めた。


後は、漣のような拍手が、やがて歓声へと。


パッと天井で何かが輝き、目の前が真っ白になった。

横で、パフスリーブの制服の肩が揺れ、すっと立ち上がる。


……桃先輩? あ、そうか。


自分達4人に当たる、光り輝くスポットライト。


雄志も美悠も、すでに立ち上がってにっこり。

そして、青いドレスから伸びた優雅でしなやかな手が、自分の方に向けて、「どうぞ、主役はこちらだよ」と。


ど、どうしよう。


膝がガクガクと震えて、どうしようか、動きたくても動けない、どうしよう――思った瞬間。


「未知。ほら、みんな待ってるよ」

桃子の声が優しく頭の上から――。


おそるおそる立ち上がった瞬間、拍手と歓声の潮が、地から沸き起こるように。


後は、夢の中にいるような時が過ぎていく。

光の速さで、時折激しくフラッシュして――脳裏に焼き付きを残しながら。


桃子と雄志の満足げな頷きと、浮ついたところの一つもない言葉の交わし合い。


上映の合間合間、ニコニコと回りに手を振り、時々未知の方にも「オッケー?」、茶目っ気交じりの微笑をよこす、佳奈美≒美悠の顔。


次々にスクリーンに映し出される作品の数々。


そして、全ての上映が終わった後、派手なファンファーレと共に呼ばれた題名――


映像祭グランプリは……、『Breathless』! 映画研究部のみなさん、おめでとうございます!


足が宙に浮いたまま、上がった舞台で。


もらった大きな花束と、七色の光と人の気が埋め尽くすアリーナ。それはまるで、きらめく全天な星の海、Milky Way。


隣に並んだ青いドレスの肩が少し寄せられ、囁く楽しげな声。

「ほら、みっちゃん、お愛想、お愛想」


ニコニコと手を振る美悠に合わせて手を振ると、

「ニヤちゃん~」「可愛いぃ~」の歓声。


そして、舞台から降りた袖で、交わされた雄志と桃子の言葉。

「満足してるか、桃子」

「う~ん、それは、ないかなぁ。だって、山ほど……」

「んん、そうだよな」


やがて部の仲間、おめでとうの声、「未知ぃ、ウソみたい、あれ、あんた?」

終いには先生や、どう見ても外部の……業界人とおぼしき背広姿まで。


もみくちゃになりながら居場所を探していた時、しなやかな指の感触が、手首を引いた。

「こっちおいで。窒息死するよ、いい加減にしておかないと」


聞き慣れた声は、さっきまで桃子や雄志と一緒に、どう見ても「そういう分野の大人」と話していたはずの――


「……ミユさん」

「ほら、こっち。今なら、脱け出すチャンスだから」

脱け出す? え?

力強い手に引かれるまま、扉を開けた講堂の裏。


「はぁ、いい空気」

外に出てみれば、太陽はまだ午後の光を放ち、辺りを満たしていて。

大きく伸びをしたシックなドレス姿が、ふぅ――息を吐きながら、笑みを寄こす。


いつも通りの、少しからかった感じの――。


「参っちゃうよね、ああギュウギュウじゃ。

みっちゃんは背が低いから、余計じゃない? 人の背中、背中、でさ」


階段の手すりに背をもたれて、ぐっと胸を張る。


揺れる黒い髪。

わずかに開いた青い胸元から伸びる、淡い琥珀色のうなじ。

喉のくぼみでシックに輝く、銀のチョーカー。


「う~ん…」

どう返していいか、迷ったまま。

「…確かにそうかも。なんか、すごい空気で。

ほんとわたし、チビだから、イヤになっちゃいますよね。

でも、とっくに成長期終わっちゃってるし~、はは」


「あたしはねぇ、まだちょっと伸びてるんだよね。まったく、どうなってるやら、この体細胞は」

「え~! ミユさん、そんなにモデルさん体型なのに。うらやましい!」

ふふ、ピンクの唇が揺れると、黒髪をかき上げ――。


「……で、どうだった、みっちゃん。晴れの舞台は」

「え?

うう~ん。なんか、別世界って言うのか……。まだ、実感ないです。

マジで。わたしがあんなところにいていいのかなぁ、って感じ、なのかも」


「そっか」

そして、また、ニッコリ笑うと、

「ま、そのうち慣れちゃうよ。注目が快感~、って、クラブのダンスフロアみたいなもんかなぁ……あ、そうだ」


そして告げられた、思いもかけない言葉。

「みっちゃん、今日は私服持ってる?」

「え? 持ってないですけれど」――答えると、

「そっか。じゃ、正解だ。あたし、何着か持ってきてるから、貸してあげるよ」


ドキドキは続く。

足は、地面につかない。ふわふわと浮いて、夢の空間を歩いているような……。


どう?――上目遣いの微笑と共に告げられた誘い。

このまま脱け出して、お出かけしちゃわない?


「え、でも……」

「ん? 何か不都合ある? どうせ、今日はみんな三々五々のお帰りだし、用は終わってるでしょ」

「あ、はい。でも、部の打ち上げは……あ、明後日か……。

じゃ、桃先輩には言っておかないと……」


ダメダメ、そんなことしたら、××だよ。

指先で首を切る仕草。あ、そうか……、確かに。


いいのかな……? ううん、でも……。

「ほら」――太陽のように紛れない瞳と、ニコッと笑う輝く口元と。


いいんだよね、だって、わたし。

伸べられた手を取ると、「よし、デートデート!」

「えぇ?!もう。ミユさん」


そのまま、夕方の街へ。

ドレスから着替えて、ボディラインが鮮烈なレイヤードスタイルの背中は、あまりにも印象的で。


「こっちの方が、あたしらしいでしょ?」

親指で差したユーズドなジーンズの腰。

そんなこと言われても、制服姿と撮影時の佳奈美さんスタイルしか知らなかったから。


「はい、肩寄せて~。ギュッ、で」

チュ。

ええっ、フェイント。プリクラで、ほっぺにKissのストリートスナップ。もう、ホント、ミユさんは。


でも。

出来上がったスナップを見ながら、お茶をしたとっても素敵なスイーツカフェ。


ウェスタン系?な茶のチェックスカートとブーツで並んだ自分は、キレイ系、でもワイルドさが隠し味な美悠と、思ってもみなかったほどマッチしていて。


「んん、そこはねぇ、もうちょっと濃い目にしてもいいんだよ」

お店の中、メイクの仕方をレクチャーしてもらって。


ミラーに写った顔は、え~っ、ホントに?っていうくらい。

「これで撮影? はい、ポーズ。お、撮れた撮れた。

写メ、送っちゃおうか。桃とかに送ったら、卒倒もんじゃない」


「ああ、やめてくださいぃ、ミユさん。

わたし、明日から部に顔出しできなくなっちゃいます」

「冗談冗談。これは、あたしのベストショット。KISS」

携帯の画面にチュッ。ああ、もう!


「でも、みっちゃん、ホントにいい感じ。カワイイよ」

当たり前に言って、ニコニコ。


ええと、そんなこと、言われても……。


大きく開いた胸元には、ブルーの宝石が入ったクロス……。

赤めのルージュが入った唇は、ぜんぜん止まることがなくて。


何だか、背中に羽根が、足にも風が吹いて、空中を飛んでるみたい。


と、突然入ってきた携帯の着うた。

でも、断りもなしにピッ。モード変更されてしまって。


「ああッ」

「いいでしょ?

こういう無粋なもんは、今はナシ。せっかくのデートだもんね」


デート……そうかも、本当に。何だか、すごく自由。

ミユさんとこうして歩いていると、何もかもきれいに見えて、うん……わたし――。


え……今の?

柔らかい感じがリアルで、目を見開くと、いつの間にか川がゆっくり流れる公園。


ベンチに並んであれやこれや、話しているうちに……キス……。


ふふ――いつもの笑み、睫毛の長い瞳が離れる。


風が吹き上がってきて、黒い髪が揺れる。


そして、もう一度。

今度は、全然離れていかない。じっと、そのまま――。


聞こえる、ミユさんの息遣い、肩に当てられた手が、ドキ、ドキ、ドキ……。


風が、暖かい風が吹いてくる。胸の中がどんどん軽くなっていって……。


すごく、気持ちいい。


「苦しかった?」

唇が離れると、優しくて、湿った感じの目の中。佳奈美さんの、視線――。


ええと、次のセリフ……。

「……そんなこと。でも、空気がすごく」

「気持ちいいね。……今わたしたち、同じ空気を吸ってる」

言ってから、ニヤリ、目が笑うと、ふふふと口元が緩んだ。


「どうする? みっちゃん。続き、する?」

どうしよう、この続き……それは、もちろん、エッチ、ってこと……。


ううん、でも。こんなに……


「はい」

だって、こんなに気持ちがいいから。

ずっと風に乗って、広いところへ行けるような。


ニヤが、大きな海に泳ぎだしていったみたいに――。


そしてたどり着いた、白亜の豪邸。


どこが玄関かと迷うような中、一番の大扉を開けると、ひっつめ髪の中年女性が現れ、

「お帰りなさいませ、お嬢さま」


「ただいま、志乃バア」

服で一杯の荷物が、薄紺のワンピース姿の家政婦に預けられると、

「あたしのバスはできてる?」

「はい、いつもどおり」


淡々と答えた視線は、「いらっしゃいませ」――丁寧な言葉とお辞儀で優しく締められた。

「じゃ、誰も寄せないようにね。

……あ、この子は、ガッコの後輩。未知、みっちゃんね」


それからすぐのバスタイム。


「ずいぶん歩いたからさ、汗びっしょりだろ?」

見たこともない広さのドレッシングルーム、整えられた調度にどきまぎしていると、大きなミラーに映ったのはいつの間にかの美しい裸身。


張り出した肩に腰、それに、胸。にもかかわらず、しなやかで柔らかさが漂う……パーフェクトな。


ただでさえ慣れない服、鉄のボタンに苦しんでいると、「脱がしてあげようか、未知」――耳元で、からかうように。


「え、いいです、自分で、自分で脱ぎます」

視線を逸らしたまま慌ててボタンを外すと、ミラーに映った貧弱な身体を両手で覆った。


「お、やっぱり」

プリント柄の下着のままで固まっていると、両肩に手を添えて覗き込むように。


「みっちゃん、スタイルいいよ。思ったとおり」

「ウソです! だって、ミユさん――」

怒った声を上げると、やんわりと。


「ウソじゃない。ほら、見てごらん」

肩に当てられた手が、ゆっくりと身体に添って下される……と、自然に胸を覆っていた腕を解いてしまい……。


「ほら、ね」

耳元で囁かれて一緒に見つめると、あ……、待って。


手早くホックを外されたブラから、胸がスルリ。


「ほら、すごく可愛い形。あたし、好きだよ。未知みたいなきれいな胸」


きれい?――上目遣いに見ると、桃色の先端がツンとした盛り上がりが、白いライトに照らされていて――なんだかとても輝いて見える。


と、下ろした手が握られて。


背中に暖かい膨らみの感触――押し付けられて、耳元に息がかかると……。


「あ、ミユさん、ん……」

いきなり耳元にキス。

そして、すぐに手が腰の辺りに回ると、耳たぶを軽く、チュ……。


「きれい。みっちゃん」


薄目になって鏡の中に見えたのは、おかっぱ気味の髪が崩れ、乱れた首筋に、しなやかな裸身が屈みこみ、後ろから唇を這わせている図――。


いつの間にか、下腹部を覆うインナーまで下ろされていて、全てが露わになってしまっている。


もう、頭の中がぐるぐる回って、何もわからない。


「入ろっか、一緒に」

言われるままにバスルームに入ると、降り注ぐシャワー。


フンフンフンフン~♪

軽く口ずさみながら淡い琥珀色の背中が踊ると、はい、ボディシャンプーが投げて寄こされて。

「スポンジはこっちね。

……ん? 洗ってあげようか。あたしが」


にこっと笑った口元に、頭をフルフル、

「あ、自分で、もう、大丈夫です」


わずかに正気に戻って言うと、「だよね」、膝を手に覗き込んだそのスタイルは、もう。

――大きくて形のいい胸、屈んでもきれいに線が入る腰のくびれ、しなやかに張りつめた足は、どう考えても上半身より長くて。


「おいで。一緒に入ろう」

柔らかくて少し鼻にかかった声は、まるで魔法。


先に入った美悠に手を引かれて、足をつけると、ほんのり花の香りが鼻腔をついた。


さっきバスタブに向けて傾けていたビンのようなもの……バスエッセンス?


「いい香りでしょ。ゆったりできるよ。……ほら、おいで」

立ち上る湯煙、ローズ色に染まった湯船の上で、のぞいた肩口と膝が、手と足を広げて、ここだよ。


背中を預けるってこと?――で、でも。


「あ、あの……」

ためらって立ちすくんでいると、腰に手が当てられて、そのまま。


二つの膨らみの感触がして、長い手と足が後ろから包み込むと、柔らかくギュッ。


どうしよう、こんなの……。

頭を上げていると、耳元に「未知」――囁く声。

低く言われた瞬間、ジン、と何かが。


「あ、うん……」

反射的に言った後、頭を預けると、また、さっきよりもっと早いスピードで頭の中がぐるぐる回りだして……。


髪がすかれると、耳元に息。そして、チュッ。


背中で押しつぶされる柔らかな膨らみ。はっきり意識した時、少しだけ上下に身体が動いて……。


そして、

「あ……」

耳元に痺れるような感触。ミユさん、ダメ。


「見つけた。弱いんだ、耳」

そんなこと……。知らない。だって、されたこと……。


あ、あ……!

耳たぶに歯の感触、そして、生暖かい感じ……舌が……。


不意に離れると、今度は反対側の髪がすかれて、すぐに。


首を傾げると、さっきより少し苦しい体勢。

チュッ……ん、そっちの耳も……ああ、ウソ、ウソ。うそ……!!


「あ、あん、あん、ダメ!」

ジン、が背中から頭へ。


そのまま、耳たぶを噛んだ口は止まっている。


手と足に痺れが駆け上がって、唇を噛み締め、眉を寄せると、潮が通り抜けるのを堪える。


はぁ、はぁ、はぁ、しばらく息をついた後。


感じ、ちゃったんだ……。

頭を預けたまま、目を閉じていると、不意にギュゥ。

腰の辺りに回った両手と、挟み込まれた太ももに力が込められて。


「カワイイ、みっちゃん。ふふ、可愛い!」

瞬間、背中を預けている相手を思い出して、

「……あ、ウソウソ、うそ!」


燃え上がる恥ずかしさに、身体をよじって離れようとすると、抱え込んだ両手はそれを許してくれない。


「ダメダメ。逃がさないよぉ」

「ああ、ウソです。今のは……もう、ダメ、恥ずかしいから、離して」


くすくす、決してからかった風ではない、優しい笑い声が耳元で響くと、

「いいの。恥ずかしがらなくっても。ジンジンしたでしょ?

いい感じだったよ、未知」


頭だけを離して横目で伺うと、屈託ない表情の美悠は、まっすぐに頷きを返している。


何も言えなくなって視線を外すと、ほっぺたにチュ、Kiss。


「ほら、こっち向いて。ぜ~んぜん、恥ずかしくないから。ほら」

抗えなくなってちらっと見ると、顎に手、そして。

唇にキス。


ええ、もう、こんなのって……。まだ抜けていかない恥ずかしさ、またキスされちゃって……、そんなことを考えれていられたのは最初だけ。


合わせられた唇は、今まで交わしてきた柔らかくて優しいものとは違い――。


上下の唇が擦り合わされると、舌が割り込んでくる。

そして、「ほら」小さな囁きが漏れると、開かれた口の中へと忍び入り――。


身体をはすにして顎を上げている格好が辛くなって胸を反らすと、支えるように首筋から耳元に手。


指先が、耳たぶから耳の中へと撫で上げると、もう……、また、ジン、が広がり始め。


どんどん湯船へと反って、押し付けられると、口の中の舌がスピードを増して、吸い上げるみたいな……。


「あ、ぅぅ」

喉を鳴らすと、そのまま腰を抱き上げて立ち上がらされる。


何だか、もう、何も考えられない。


お尻のあたりに感触、撫で上げられて。


胸と胸でギュ、ギュ、ああ、なんだか不思議な……感じ。


何度もかき上げては、差し込まれる、耳元に添えられた指。頭全体が熱くなって、もっと、もっと、そんな声が響いてきて。


膝が押し付けられて、足の間に割り入ってくる。そして、微妙にこするように……どうしよう、わたし、思いっ切り……。


動き回る舌、吸い上げられて、そして、舌先が促すように。少しだけ自分から動かしてみると、絡みつくみたいに……ああ、もう、なんにもわかんない!


「あ、あ、ああん」

腰が動き始めてしまう。だって、だって。


ぐっ、お尻を引き寄せられると、もう、膝の上に乗っかって、足が宙に浮いた状態になってしまう。


そのまま、バスタブの端に腰掛けた美悠の、膝にまたがる形になると。

「おいで、未知。動いていいよ」

え、でも、そんなの。


「恥ずかしがらなくていいから。ほら」

真っ直ぐに見つめられると、豊かな唇がウン。


「すごくかわいいから。見ててあげるよ、未知のイクところ」

密やかな声。でも、ダメ、そんなこと、言われると、どうしたらいいか――。


「あ、あん……」

でも、止まらない。このまま、飲み込まれて、わけがわからなくなっちゃいそう……。


ウソみたいに、気持ちイイ。

こんなに、感じられるんだ、飛んじゃえるんだ――。


がむしゃらに腰を前後に動かしている自分の姿がおぼろげに想われて、そして、お尻に当てられた指先が、後ろから、奥の場所へ。


指先が入り口を確かめると、止まって、すぐ。

「ダメです、ああ、う……」

少しだけ中に入り込むと、耳元でふふ、何だかうなずきに似た声が聞こえた……あ、もしかして……でも、いい、そんなこと、わかっちゃったって。


乗っていた足がさらに上げられると、指がまた少し奥まで。


そして、前からももう片方の手が入ってきて、一番敏感な場所を――。


「あ、ダメ、ミユさん、ミユさ……」

両腕で挟まれて、奥に、指が……、そして、前からヌルッ、と、クリト……あ、ダメダメダメダメ!


「あん、ミユさん、わたし……」

イって……。

耳元で、小さな小さな囁き。そして、耳たぶを噛まれた瞬間。


何か、叫んで、わからない……真っ白、目の奥が光って、ああ………。


溶けて、何もかも、わかんない……。

 

すごく、じんわり、広がって気持ちがいい。

こんなに、気持ちいい、ウソみたい。


ああ、愛されちゃったんだ、ミユさんに……わたし。


女の子同士エッチ、だよね、これ。……しちゃった、なんだか、うン……でも、構わない、だって、すごく、すごく気持ち良かったから……。


気が付くと、ベッドの上。


柔らかい毛布にくるまれて、ミユさんの腕の中。

裸のままの背中を、暖かい指が何度も、何度もたどって、首筋にチュ。


ええと……よく思い出せない。何回、愛されちゃったんだっけ……。


後ろから抱きかかえられて、胸をぐいぐいされたり、足を持ち上げられて、舐められちゃったり、お尻の、ああッ、どうしよう、あんなところまで……。


最後はわたしも、そうだ、ミユさんのを、チュしてあげて……すごく、いい香りだった。不思議な感じ、同じ女の人のをしてる、なんて……でも、ぜんぜん普通だった。


すごく、ぜんぶが、気持ちよくて……。


「未知、経験あったんだねぇ。ちょっと意外かなぁ」

髪の生え際を撫でられながら、降ってくる柔らかい声。目を閉じたまま、

「あ、はい……。中学の時。あんまり、いい体験じゃ……」

口元に手がかぶさる。

「ああ、いいよ、話さなくても。別に聞きたいわけじゃない」


少しも気持ち良くなかった、何回かの夜。

すごく勝手で、ホント、なんで許しちゃったんだろう……。


でも、全然違った。びっくりするくらい。女の子同士って、こんなに気持ちが良くて、安心で、すごく……幸せ。


もしかして……。

もしかして、わたし……。


「ミユさん」

「ん?」

頭を少し上げて、整った稜線を描く横顔を見つめると、不意に沸き起こってきた言葉を口にする。


「……ミユさんは、経験あるんですか? その……男の人と」

「うん? ないよ。まったく」

腕枕をしたまま、当たり前、というように目を見開くと、


「処女膜とやらはとうにないけどね。激しい運動+セルフブレイクで。

って、合ってるのかな、その表現で。ま、ナチュラル・ボーン・ビアンってわけ。

オトコはもう、パンダかE.T.か、ってくらいな認識かな。いい奴は多いけどね、まあ」

少しも悪びれず答える様子に、未知はまじまじと美悠の横顔を見つめて一しきり、そして、クスクス、と一人笑いに近い感じの息を吐いた。


「ん、どしたの?」

「……ううん」

未知は首を振ると、そのままベッドにうつ伏した。


「……なんでもない。なんでもないです」

そして、目を閉じて口の端に笑みを浮かべると、

「ね、ミユさん。わたし、もう寝てもいい? 少し、疲れちゃったみたい」

「ああ、いいよ。いつまで寝ててもいいから。ここは音もしないし、起こす人間も一人もいないから」


「うん……」

呟くと、続けて低い声で、

「おやすみなさい、ミユさん。……ありがとう」

「んん、おやすみ、未知」


すぐに寝息を立て始めた幼さの残る横顔を見下ろした後、美悠は一瞬、考えを巡らすように視線を外した。


しかしすぐに、丸い頬にかかる黒髪に指を触れ、軽く愛しむと、もう一度。


「おやすみ、未知」

囁くと、頬に笑みを浮かべる。

そして、両腕を枕にベッドに身体を委ねると、きらめく追想/空想に心をさまよわせ始めた。


**************************************


銀河祭の熱気がまだ抜け切らない11月の初め。


美悠は、携帯に入ったメールを見ながら、ほくそえんでいた。

普段はあまり持ち歩かない携帯をカバンに入れていたのは、未知からの連絡を待つため。


『ようやく、体調回復&門限解除ですッ*^^* LUCKY~☆~☆

ミユさん、会って話したいです』

5分と開けずに入った2通目には、


『朝、早めに行きます。ミユさんは、来られますか?』

返したメールは、もちろん、『あたしも未知と会いたいなぁ』、それに、キスマーク10個。


銀河祭直後から、本人曰く「知恵熱かも」な熱発でお休み。続く土日も無断外泊のペナルティでお出かけ禁止だった未知は、一週間も学校に姿を見せていなかった。


メールのやり取りはできたものの、それはもう、リアルに比べればあまりにも貧弱。


あの夜のGET!具合を思い出せば、未だにふふふ――美悠の脳裏には、七色の風景と言葉がリフレインするばかり。


こんなにシアワセなのは久しぶり――、まったくのところ。


純だけど、跳ね飛ぶような茶目っ気が奥にあって、それでいて感性はGood。


そして何より、可愛くて恥ずかしがり、でも、エッチの時は弾けていて。

(だいたい、「ハジメテ」なのに、スゴイ反応だったし。将来性◎だよ)

もう、ギュッと何度でも抱き締めたくなるくらい。スタイルもミニサイズだし。


――んん。そうかも。

こんな気分、それに、いろいろな部分が、思い出してみれば――たぶん、亜衣と……。


おっと。

眉根を上げて、晴れ渡る秋の空。まだ抜けてなかったか、悪いクセ。


浮かんだキュート/茶目っ気/知的な顔をしまい込むと、白く聳える校門の前で、切り揃えられたおかっぱlikeな頭を探す。


みっちゃんはみっちゃん。きっと、あたしの一番星――。


「あ、ミユさん」

右手の木が密生している辺りから声が届くと、白と緑の制服姿が小さく手を振っている。


「ん、モーニン。みっちゃん」

近づいていくと、以前と少し様子が違うのに気付く。

ちまちました目と鼻、優しげな丸いほっぺたはそのままだけれど、髪が――。


「お、イメチェン。いい感じだね、そのワイルドな髪。

もしかして、これ、真似した?」


切り揃えてあった黒髪は、少しツンツンなショートレイヤーに。小ぶりな唇にも、そこはかとなく桃色のルージュが浮かんでいる。


「……ええと、似合います?

なんか、鏡で見たら、かつら被せてるみたいで……」

「そんなことないない。う~ん、いい子いい子。未知は」


あたしの真似して、健気だね、頭をトントンと叩くと、少し困ったように黒目を寄せて、上目遣いにする。


――ん?

ニュアンスの違いがピピッと感度、なんだろう――言葉を作ろうと思った時。


突然、眼下の頭がペコリ。

「ミユさん、この間は、ホントにありがとうございます」

ちょっと緊張気味な声が、朝の空気の中に大きく響き渡る。

一瞬、何のことか繋がらず……ああ。


「なになに。お礼を言うようなことじゃないでしょ」

「いいえ、わたし、ミユさんのおかげでわかったんです。本当に」

真っ直ぐに見上げる瞳は、いつもどおり人懐こく。

「わたし、女の人が好きな人なんだって」

少し唐突な宣言。


うん、それは、そうだろうね。でも、お礼はいいって。

「そっか、でもさ……」

発しかけた言葉が遮られると、

「――それに、できれば……、その、ミユさんみたいになりたいんだって。

もちろん、そのままじゃないけれど、自由で、自分らしく……だから、お礼が言いたくて」


???


「そっか。それは嬉しいなぁ。ま、いろいろお勉強させてあげられるよ、これから。未知、素質あるから……」


もう一度ポンポンと頭を叩き、髪に手を差し入れかけると、再び、深々と頭が下げられて。


「だから、すいません。もう、ミユさんとは、ああいうこと、できなくなっちゃって。わかっちゃったから、自分のことに!」


は? え? どういう意味?

オンナの子LOVEに気づいて、あたしにシンパシーなら、何が? どうして?


しばし混乱。


と、驚いたような声が響き上がった。

「あ!!」

未知は顔を上げると、少し下りになっている校門からバス停への道へ目を走らせる。


「……すいません、ミユさん。わたし、言わなくちゃ。

……でも、ミユさん、応援してくれますよね。ミユさんなら、絶対」


そして、歩み出しながら、小さく、「信じられない、信じられないよ。こんなタイミング」――呟く声が聞こえた。


は? 何がいったい、どういうこと?


わけがわからず、緑のスカートを揺らしながら走っていく先へ振り向くと、坂の下から、黒い頭が見え始めていて――。


桃?

呆気に取られたまま眺めると、いつも通りの……いや、2ボリュームくらいグレードアップした明るい声が、

「桃センパイ~!」


あっという間に豆粒++ぐらいになる未知の背中。小さく声が聞こえる。

「あ、未知ちゃん。あれ、髪……、凄いイメチェンだね……、え、あ?」

同じぐらいの背格好の桃子に、未知が腕を絡めるのが見えて――


「ど、どうしたの? 未知ちゃん」

「似合いますか? ちょっと、冒険したんですけど」


「あ、まあ……悪くないと思うよ。それくらいは、今じゃ普通だし」

戸惑い半分の答えが返る。と、明らかに嬉しそうな声が、

「本当ですか? あの……桃先輩? 今度、どこか出かけません? わたし、

桃先輩とお出かけしたいかなぁ、って」


「え……、いいけど。映画とか……どう?」

「あ、はい。わたし、恋愛映画がいいです。桃先輩となら、しっとり見られそう……」


周囲を歩いている、何人かの早出の生徒達。

未知はお構いなしに身体を寄せると、ゆっくりこちらに歩いてくる。


ははは、そっか、なるほど。そーいうことね。

美悠は眉根を上げると、両手を腰に当て、ふぅ~。


「で、でも、未知ちゃん? あんた結構、恋愛ものは苦手だって……ギャ!」


おお、積極的。頭を肩にちょこん、と。ははは、大したもんだ。


近づいてきた未知がこちらにニコッと笑いを寄こすと、しょうがないねぇ、のため息交じり、すぐにニッと笑って親指を立てる。

 

その瞬間、ハッ、桃子の顔色が変わるが見えた。

「もしかして……」

未知の腕を振りほどくと、子犬のような懐こい顔をギュッと見つめ……。


気付いてみれば、目にはハートマーク、頬はトロン、溶けかけたアイスのように緩んで、その表情は間違いなく。


「美悠! あんた、まさか!」

ふっと背中を見せると、そのままスタスタ、学園内へと早足に。


「美悠、待ちなさい! ちょっと、聞きたいことが………あ、あ、……ちょ、ちょっと」

「桃せんぱ~い、待ってください。

映画、行くんですよね。いつにします、わたし、いつでもいいです……」


あははは、ったく。

完全に一本取られたなぁ、みっちゃんには。


ま、そうだよなぁ、亜衣に似てる、なんて思ったわけだから。ふふ、突拍子さ加減では、ホント、どっこいかもなぁ。


は~あ、秋の朝日を照らし返す校舎を見上げながら、

「ま、もう少しかかりそうだよ、亜衣」


独り言を空に放つと、ん――後ろに感じた気配に振り返る。

「あ、美悠さま……、いえ、紅先輩、おはようございますっ」

柔道部で見かけたあの子。


「お。おはよう。朝練かい? 熱心だね」

「あ、はい。少し、興味が湧いてしまって。柔道って、奥が深いんですね」

「だろ? ん、そうだ、あたしもちょっと汗流そうかな。……付き合う?」


「え? いいんですか? でも、私じゃ、紅先輩のお相手は……」

「いいのいいの、初心者に稽古をつけるのも、結構訓練になるんだよ。

まして、可愛い子なら、なおさら」

「えっ……もう、そんな冗談、言わないで下さい。もう」


「ふふ、どうかな。ほら、行こうか」

「………はい」


こぶしふたつ分低い腰を押すと、制服に身を包んでなお、しなやかで魅惑的な背中が、武道場への小道へ姿を消していく。


秋はもうすぐ冬の入り口へと深まりを増す……しかし、天乃星のSuper Girlの回りは、いつも夏。燃える恋の太陽は沈むことなどない――。

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