第6話
どんなに追い払っても、消えていかない。いや、手で払えば払うほど、しつこくたかり付いてくる汚らしいハエ――。
柔らかな光の中、まどろみから目覚めの気だるさに身を任せる朝も。
車窓から見える、花競う校門前の集い。「おはよう」、微笑みながら園に降りる一日の始まりも。
丘の上から見下ろす、美しく広がる家々の屋根。穏やかな香りに包まれて、アフタヌーンティーとスイーツに溶ける放課後も。
そう。
お茶を楽しむ間、可愛いあの子達と交す愛しいやり取りにまで、ずうずうしく混ざり込んでくる。
そして何より、誰も入り込めないはずのあの時――。
今宵の愛しい子と、バスで頭からつま先まできれいに磨き上げ、フローラルな香りに包まれて、一糸まとわぬ姿で、宝石な一瞬を味わうあの時ですら!
ジャンッ!
鍵盤に乗せていた両の手を、思いっきり叩きつけた。
太く真っ直ぐに引かれた眉の下で、燃える。
長い
あの成り上がり女。
本物の品性が、シナプスの反応のみが売り物の低能な猿にわかるはずがない。
天乃星程度に群れて咲く、可愛いだけの花なら、あんなフェイクになびくかもしれないけれど。
……いいえ、それではあの学園で蕾のまま眠っている子達に可哀相な言い方。
そもそも『あたし、受け身はキライだから』――なんて押しつけがましい。
吊りあがりギラついた、欲望だけが色を占めた瞳。
押し付けられた唇に、お尻……を揉み上げる、無作法極まりない指先。
綾乃は、グランドピアノの鍵盤にほっそりとした指を置いたまま、頬に硬い色を浮かべ、身体の動きを止めた。
引き絞られた唇の中では、奥歯が音にならない軋みを上げる。
ギリ、ギリギリギリッ――心の中にまで。いや、それ以上に。
時が凍った数秒間。その後、指先が静寂を破った。
ポロロロン……。
十本の指が、空気の中を飛び始めると、水が満ち、波が起こった。
目蓋を半分落として、ピアノの音を追い始める、美麗な横顔。
あんな女のことを、考えても仕方ない――そう思い結ぶように。
南に開いた格子張りの大窓、天井から淡い照明が乱れ落ちる板張りの部屋に、幻想的な響きが満ちていく。
それは、レースのカーテンの向こうで輝く、月の光と呼応しているようで。
内へと少し巻いたセミロングの髪。
閉じられた大きな瞳が、天を仰ぎ、指だけが音を辿る。
今、月の光が射すこの部屋で。
このソナタのスコアを描いた時、楽聖の胸にあったのは……。
『裾、直しなよ』
さまよい始めた連想の影から、声が響く。
みっともなくドレスの裾を戻す自分。そして……!
ああっ!!
眉間に皺を寄せて――音だけで埋め尽くしたかったのに――でも、あの顔、瞳。
あんな無体をした後なのに、笑っている……ほくそえむようではなくて、優しい……
違う。
ピアニッシモになるはずの場所、しかし、鍵が強く叩かれ、唐突に演奏は中断された。
コンコン。
その時、入り口の厚い扉が、低いノックの音を立てた。
「入っていいかな」
男性の声が届く。
「お父さま。
はい、どうぞ」
ヴィクトリア風の流麗・荘重な扉が、風のように開いた。
「激しい『月光』だったね。
今のような弾き方は、聞いたことがないな……でも、悪くない意趣だったよ」
背広姿の長身の男性が現れる。
ノーフレームの眼鏡の下、静かに光る眼。しかし、口の端は、不釣合いなほどにこやかな。
「何かあったかな、綾乃」
190cmに届くだろう長身が、三歩半で真ん中へ。ピアノを横にポーズを作る。
ボ~ン。
落とした指、低い和音が鳴り上がった。
「いいえ、何も……」
秀でた額にかかる前髪が、視線に従って柔らかに下へと揺れ、
「真っ直ぐ気高い道を歩めば、いつもなさねばならないことが起こり続けるでしょう? お父さま」
ちらっと上目遣い、短く撫で付けられた髪の下から、泰然と見つめる父の
「なるほど、な」
それは、黒より黒色な――。
「で、それは……お前の前にあるのは、どんな壁かな。
お前達の学校を囲うレンガの壁か?それとも、かつてのベルリンの壁……いや、コンスタンティノープルの塁壁が如き、かな?」
「そんなたいそうなものではないわ、お父さま」
「……なるほど」
再び緩やかに音が連なり始める。白と黒のキーに目を落として、指をすべらせ始めた娘の横顔を眺めしばらく。
にこやかな笑みを崩さぬまま、葉谷川グループの総裁は、目を閉じた。
月光の響きが、窓の外に広がる夜空と和音を奏で、時がたゆとう。
艶やかな髪が、白いブラウスの肩の上で揺れ、指先から流れ出る静かな情感は、秘められた恋の色を浮かび上がらせ――。
「ジュリエッタ、か」
第一楽章が終わった時、身体を傾け、手を顎にした口元が、かすかに呟いた。
そして、低いがはっきりした声で、
「気になる人間がいるのかな、アー」
いきなり愛称を呼ばれ、綾乃はパッと瞳を見上げ開いた。
「そんなことは……」
口を開きかけて、大きくため息をつく。
やっぱり、かなわないわ、パパには。確かに、「あんな女」だけれど。
ケダモノ以下の、品性下劣。可愛い子達をいとおしむ資格など何もない色魔。
――でも、こびりついて離れないのは確かなのだから。
「少し、苛立つ小娘がいてね。パパ」
「そうか……」
口の端だけに浮かんでいた笑みが、深い眼窩にまで広がると、
「……で?」
父親風がかもされ、訳ききたげに目が見開かれる。
「美悠なんて言うふざけた名前で……」
どこが美で「ミュー」なのか!、呪詛の言葉を吐きかけて、頭を軽く左右。
しかし、すぐに綾乃は言葉のディレクションを変えた。
「……いいえ。
身の程を知らない人間には、きちっと分を教えてあげるから。
パパが気にすることじゃないわ」
そして。
豊かな黒髪に彩られた顔を上げ、決然と瞳を正面を向けた。
父と娘の視線が交わる。
「……そうか」
軽くうなずくと、長い手がポンとピアノを叩いた。そして、スッと踵を返す
と、再び大股、三歩半で扉前へ――と。
突然、スラックスの足が止まった。
「美悠、と言ったか? 綾乃」
背中を見せたままの低い声の問いかけ。
綾乃は、座ったまま、父の肩を見遣った。
「そうよ……。美悠。分を知らない、無礼な女」
「紅のところの、か」
色のない声が重ねて尋ねる。
「そうよ」
一瞬、沈黙が支配した。しかし、すぐに淡々とした言葉がそれを破る。
「なるほど」
ドアの閉まる低い音が、間髪を入れず部屋に響いた。
父の消えた先を見送ってしばらく。
綾乃は再びピアノの響きを空に浮かべ始めた。
今度は滞り一つなく、第二楽章を弾き終える。
リズミカルな音の連なりが心地よい余韻を残して、穏やかな吐息に変わった。
が、それは一瞬。
ピアノから手を離すと、楽譜台の横に置かれた小さなリモコンを押して、一言。
「
緑の樹木萌える壁の装飾、備え付けられた金色の時計を見つめること数分。
タッ、タッ、タッとリズミカルに駆けてくる音が近づき、カチャン――
「茜、春希、参りました」
「何かご用でしょうか、綾乃さま」
襟付きシャツの上からでも筋骨隆々。でも間違いなく性別♀な巨漢と、その胸下ほどしかないミニサイズ、少年かと見まごう――しかし、こちらも♀であろう――二人が、扉を背に立った。
「速やかだったわね。合格点よ」
時計から目を離すと、感情のほとんどこもらない声で言う。
パラパラ――手にとった楽譜に目を落としながら。
「ありがとうございます」
綾乃は小さく頷くと、やはり淡々と、
「その調子で気を抜かず、お仕えなさい。習慣が形になっていけば、変わっていくものがあるわ」
「はい」
高低離れた二つの声が、同時に答えた。珍妙な、しかし完全なハーモニー。
楽譜に落とされたままの綾乃の目の中に、微笑が兆す。
「……憶えていて? あの赤裸々女のこと」
前置きのない問いかけ。
しかし、太眉・獅子鼻のマッシブな片割れが細い目を見開き、間髪なく声を上げた。
「紅美悠ですか? 天乃星の」
「そうよ」
ちら、と二人を見遣る。そして、
「面白い話を小耳に挟んだわ。何でも、あれが、秋の柔道の大会に出るとか。
目的は、どうせ下世話な女漁りでしょうけれど、ね。でも……」
唇がキッと引き締まる。
「公の場所に出てくるなら……どうにでも、やり方はあるわ」
そして、ポンと立ち上がった。花の散らされたシメントリーなスカートが揺れ、髪が両側からかき上げられた。
「そういうことだから。後は、わかるでしょう。
……方法は、あなた達に任せます」
主人の動きを察してあとずさる二人――悠然と歩み、開けられた扉、横顔に向けてボーイソプラノが問い掛けた。
「どんなやり方でもいいの? 綾乃さま」
冷徹な瞳が、ベリーショートの子犬顔を見下ろすと、
「……任せます」
「はい」
再び、同時に上がる二つの声。
そして、そのまま廊下へと白い背中が歩み出て行く――と、そこですらりとした足が止められた。
「ところで、茜。
どうしてそこで、春希を持ち上げているのかしら」
ピアノ上の空間で、シャツから突き出た出た太い二の腕が、七部丈のパンツが愛らしいBoyish Girlを高い高~い……
「いえ、その、コトが柔道ということで」
ざんばら髪がどこかファニーな顔が、憎めない苦笑いを浮かべる。
「だから、それと、鍵盤の上に春希を掲げて、足を空中散歩させているの
に、どんな関係が?」
背中のまま、わずかにこちらに向けられた後ろ姿へ、二人の声が変奏した。
「いえ……」
「ええと……」
クスッ、鼻で息を吐く音がすると、
「まあ、いいわ。とにかく、あなた達に任せるから。
思いっ切り、恥をかかせてやりなさい。
……そう、二度と表を歩けないくらいにね」
そして、廊下の向こうへと薄布が翻り、颯爽と消えて行った。
抱え上げていた腕が下ろされると、Very Smallな片割れが、斜め上を見上げた。
「あか姉。どうして綾乃さまは、あんなに紅のことを気にするのかな」
太い眉が持ち上がると、描線の太い顎が振られた。
「さあね。お嬢様が何を考えていようと、あたしが詮索することじゃない」
そして、黒目がち・小さな瞳に問いかけを送る。
「とにかく、あたしらがやらなきゃいけないことは……」
大きな同意が、頭上へと返った。
「うん、……どんなことをしてでも、綾乃さまにご恩を返すこと」
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半分開けられた武道場の扉には、緑のスカート/白いブラウスの背中が一つ、二つ、三つ。
いや、剣道場側の扉にも、四つ、五つ、六つ。
さらに、二階の窓越しにも七つ、八つ、九つ……
どの窓口にも鈴なりで、主役の登場を待っている。
「ねぇ、美悠さま、今日はまだかしら」
「私、さっき見たよ。更衣室の方に入っていったの」
「柔道部に入部したって、本当?」
「バスケはどうしたの? 私、美悠さまほどコートで映える人、絶対いないと思うんだけど……」
「え、でも、聞いたよ。銀河祭の映画も、主役で出てるんだって」
「あ、それ、桃子さんの企画よね。すごい名作だって、噂噂」
「すごいよね、もう。でも私、美悠さまをこんなにそばで見られちゃうんだも
の、クマ先生にもちょっと感謝。マジラッキーって感じ、かな」
「まあ、紀恵さん」
そして一方、畳張りの道場からは――。
「おい、今日はまた、ちょっと多いんじゃないか」
「おお、そうだな。しかし、凄い効果だよなぁ。三四郎姉さんさまさまだ」
「にしても、ウチの女子もなぁ……なんか間違ってねぇか?」
「馬鹿野郎、その間違いをだな、俺たちが正してやる。ここがヒーローだろ」
「なぁおい、あの子、イケてないか?」
「あ、あれはなぁ、二年の――」
バン。
小さいが、皆の心に響く音が響き渡った。
そう、更衣室の扉が閉じ、畳の上に降り立ったのは。
「あ、スゴ、格好いい!」
「黒だ……この間は、青だったんだよ」
黒い道着の襟元で、黒い髪が揺れる。
肩口には、ライトブルーのアクセントが、小さく花弁の形で縫い付けられ――。
トントン。
しなやかな長身が軽く跳躍すると、手を組んで上へ、次に深く腰を落として足を伸ばし、屈伸運動。
さらに、背を伸ばして自然体。
流線型の眼が閉じられ、結んだ両手を脇に、一瞬、想いを深め、心を一点に集中しているようにも――。
パッと目が見開いた。
――よし。
切れ上がった
倒れ込むと、後ろ受身、横受身。そして、回り受身。
パシッ、ドシッ、と紛れなく通る音を響かせると、美悠はすぐに、回りを見渡した。
「さて、誰か相手してくれる? 今日はちょっと、激しくいきたいんだよね」
乱取りをしていた数人が動きを止め、しばし顔を見合わせる。
体格のいい、美悠より頭半分高いスポーツ刈りが、よし、と一息、こちらに近づいてきた。
「じゃ、俺が。よろしく」
「ん、ナガか。思いっ切りいかしてもらうからね」
「はいよ、姉さん。とは言え、簡単にひねられる気はないよ、俺も」
太い唇が、にやと笑う。
「上等。じゃ」
上背で一回り、横幅で二回りも違う二人が組み合うと――格闘技のセオリーから言っても勝敗は明白。
……が、それは美悠以外が相手ならば、のこと。
「あ、見て!」
「あ、まただ。弱~い、あの人」
「うわ、痛そう……ガシッ、っていわなかった?」
変幻自在の崩しに、まったくついていかない無骨な道着姿。
出足は払われ、引くところは入られ、終いには、きっちり横四方に押さえ込まれ――。
乱取りの横目、にやにや笑いに、はっきり頭を抱える部員まで。
『三四郎姉さん』がケタ外れなのはわかっていることとは言え……。
「ふう」
部のナンバー2をすっかりのして、一息。
美悠は額と首筋ににじんだ汗を拭いながら赤畳の外に出た。
ぐるりと武道場のまわりを見回してひい、ふう、みぃ。
うんうん、今日は一段と大盛況だなぁ。
いろいろな顔が見える。
お馴染みの面子から、大人しめな子犬系、ちょっと艶やか系な野花、それに――。
「紅さん」
と、ハスキーな声が肩口から。
「お、アズミ」
視線を落とすと、黒目がちな瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
ベリーショートの髪の下、きりりと引き締まった眉は、いつも通りのlike a boy。
しかし、そのまま言葉は発さない。見つめ上げる視線は何かを問いたげで。
「ん?」
美悠が眉根を上げると、襟元辺りへと下ろされる視線。
「どうかした? ああ。この道着、気に入らなかったかい?」
「いえ、そういうわけじゃ……。
まあ、気にならないと言ったら嘘になりますけど」
家が、町道場を開いているとやらなんとやら。男どもが言っていたのを考えれば、違和感あるかもね。
「そうかぁ。ま、ブラジリアン柔術だと思って、大目にね、アズミ。
あたしは、こういうのじゃないとノリが出ないんだ」
にっこり、的中率9割の視線殺――しかし、安海の表情は1%の変化もなく――あらら、何だか最近こんなのが多いような。自信なくすよねぇ。
「あの……」
美悠の思惑とは関係なしに、胸元に
「……憶えてます? 一度時間を……」
ん…?
「あぁ!」
ポン、美悠は手を叩いた。
「そうだ。約束してたっけ、ああ、そっか」
いつかの稽古の後、折り入って話があるとか――。
「ゴメンゴメン、すっかり忘れてたよ。話、聞くって言ったっけ」
美悠のリアクションに、黒髪の旋毛が左右、辺りを伺った。
そして、困ったように、
「紅さん、すいません、ちょっと……」
内緒、な様子。ああ、オッケーオッケー。
美悠は人差し指を振りつつ安海の顔を指すと、大きく頷いた。
「う~ん――、今日は、どう? この後、フリーだけど」
少し声をひそめて言うと、「あ、お願いできますか」――目がキラリ、口元
がニコッ。強め/和風の顔立ちに、色合い異なる明るい色が射した。
うんうん――思わぬコントラストに心で頷きつつ、まったく、あたしらしくもないよ、すっかり忘れてたなあ。
「じゃ、稽古上がったら、東門裏で待ち合わせ。どう?」
「あ、はい。それでいいです」
「うん。待ってるから――ただし、10分までね。それ以上はナシ。待つのも待
たせるのも苦手だから、あたしは」
にっと笑う(からかい――で、胸にドキ、を狙って)と、「わかりました」、黒目がちな瞳が上下、困った風な感じで。
う~ん、なんか、スウィートスポット突いてない気もするけれど、いいか。
「で、どう? 乱取りは」
タオルを壁際にかけると、襟を直した。
「あ、もちろん。お願いします」
「よし。じゃ、やろうか」
そして、帯をギュッ。サイドを流し、前を散らした黒髪に両手を当ててグイ、上腕と首筋を伸ばすと。
今度は一回り小さなboyish girlを連れての登場となり――
中央辺りまで歩いてくると、互いに一礼、あっさりと組み合った。
と、間髪入れず。
ダン! バシッ!!
響き渡る派手な震動音。
「あ~! 美悠さまが投げられた」
「誰ぇ、あの子?」
「ああもう、違うの。
あれは投げられてあげてるんだから。なんて言ったっけ、引き立て稽古?」
「へぇ、そうなの?
あ、ホントだ……また。
すごいね、赤塚さん。いつの間に」
「うん。でも、いいなぁ、あの子。そう言えば、前に見に来た時も、美悠さまとああして……そう、だって、女子の部員はあの人しか。ああ、いいなぁ、私も……」
ヌゥ。
と、巨大な影が、緑と白、鈴なりの制服の後ろに現れた。
頭部は突き立った剛毛、丸太が如き腕も足も、黒い体毛で覆われた、華奢な彼女らとはあまりにも異形なる生物。
髭の剃り跡も露わな、その無骨そのものな唇が動いた。
「構わないぞ、ちょっと、体験してみないか?」
え?――と、振り向いた先。
そこには、ジャージ姿の体育教師が仁王立ちに――いやいや、フレンドリーににっこりと笑みを浮かべながら……。
「クマせ……、いえ、田山先生」
うんうん、ゴツイ顔が(思いっ切り不似合いに)優しく頷く。
「いいんだぞ。少し、やってみないか。柔道。なかなかいいものだぞ――」
「えーっ! いいんですか!」
嬌声が、それ以下の言葉を打ち消すと周りからも。
「え、なになに、あの子達」
「あれ? 道場に上がってくよ、ほら、クマ先生と一緒に」
「ねぇ、もしかして。……ほら、下から紅さんも」
「本当だ。おいで、おいでって」
「あーっ、私も、私も」
「あ、待ってよ。私も一緒に行く!」
そして、武道場はその精神とは程遠い七色の歓声で包み込まれた。
後は、百花繚乱、万華鏡。くるくる回るMerry-Go-Round――。
いやいや、クマのセンセもなかなかやるもんだ。
制服の背に、道着と申し訳程度の薄っぺらなカバンを担ぐと、美悠は更衣室を後にした。
武道場には、まだちらほらと道着や制服姿の女子が残っている。
そして、なにやら紙を手に熱弁を振るう男子部員と、クマ教諭。
無骨な体育教師と視線が合うと、軽く手を握ってグッ、こちらへポーズを作ってみせた。
はいはい。
美悠は眉根を上、軽く頷いて返事を返すと、剣道場側の出口へと向かった。
ま、あたしもずいぶん楽しい思いをさせてもらったし、悪くない話だよね、これは。
ちょっと活発系の長身、ショートヘアーもスレンダーなあの子や、顔立ち/背丈も華奢だけど、元気ではちきれそうな一年生。それに、無口な、でも、想いは深そうなお嬢さま然とした彼女――
ほら、ここをこう持って、これが引き手。
そうそう、いい筋してる。きっと、うまくなるよ。
受身はこう。ほら、いい音がするでしょ。やってごらん。
色とりどり/香り芳醇、満開の花・花・花。
やっぱりまったく、幸せな時間だったことに間違いなし。
と、背中から、「美悠先輩~」、響き上がる高い声が。
「ああ、またね」
向こうへと手を振ると、ニコニコ、キャアキャア、色とりどりの顔が、華やいだ答えを返す。
そこをすかさず、「どうだ、考えてみないか」――ペンを差し出す体育教師。
まったく、あんたもワルだねぇ。クマセンセ。
フフフ――と、目の端に異質な眺めが入った。
ん?袖の膨らんだ白のワンピースと緑のスカートが群れる横に、まったく違う制服が見える。
ベージュのブレザーに、赤緑チェックでレイヤードなスカート――あれは隣の高校、美城の制服に間違いない。
背はそこそこあるけれど、細身で色白なその子は、道着姿の女子……安海と向か合っている。
「お、ひろみちゃん。やっぱり今日もアンアン目当てかい? 紅ねえさんには目もくれないとは、一途だねぇ」
「アズミ、ちゃんとしてやれよ。オトコがすたるぞ。ここまで思われてなぁ」
「うっさいな、そういうんじゃないって言ってるだろ!
ひろみ、今日はダメだって。用事ができたから」
「うん、でも……」
ミディアムロングの髪、はっきりした目鼻立ちの顔に、つまらなそうな表情が浮ぶ。
「でもも何もないって!
いい、いつもいつも、よその高校の子がこんなところに来ること自体が――」
遠目に眺めていると、安海の方も、道場を出かけているこちらに気づいたようだった。
「――とにかく、今日は一人で行って。わかった!」
そして、小走りに更衣室へと。
ふう~ん。
切れ長の目をクルリ、面白そうに息を吐くと、美悠は道場の扉から足を下ろした。
いつか、未知と待ち合わせした時に行き会った美城の制服の子だ。
なるほど、アズミの知り合いだったわけか。
いくつかの連想を右左、なかなか面白そうかな――秋の空を見上げながら裏門へと。
そして、長い影を落とし始めた木の下で、太い幹を背中に鼻歌交じりにしていると、はあはあ、息遣いと共に駆けてくる音が聞こえてきた。
「すいません、紅さん。……はぁ、はぁ」
「ん」
カバンを掲げ、吊るされた携帯のディスプレイを見ていなせに、
「ギリギリかな。9分遅れ」
からかい視線を送ると、「それじゃ、行こうか」。
何か申し訳を言おうとする安海を制して、街路樹が並ぶ中心街への道を歩き始めた。
今日は黒髪、すらりと伸びた背に道着を担ぐ美悠と、小柄ながら動作は俊敏、化粧っ気の一つもない安海が並んで歩く姿は、間違いなく武道系の先輩後輩。
薄暮にライトが散り始めたアフター5の繁華街では、ちょっと異色な取り合わせ、なわけだったけれど――。
「甘いものは好きかい、アズミは」
「え、まあ。嫌いじゃないです」
委細は気にせず、カクテルライト輝く、ガラスウィンドウのエントランスに足を踏み入れた。
そこは、ちょっと幻想的なスイーツカフェ。
そう、初めの目的は違っても、どう発展するかわからない。
出会いはオールウェイズ、恋はインプロビゼーション。そして、パッと燃え上がるのが、情熱の花――。
充分距離を取って置かれたテーブルとテーブル。
それとなく置かれたステンドカラーのアクリル衝立。話をするにも申し分ないロケーションのはず。
丸いテーブルを間に向かい合うと、美悠は、かしこまって座る安海の言葉を待った。
くるり、ストレートティーを差したカップで、スプーンを回してひと目。
クリームの添えられたベイクドケーキを一口、ゆったりと足を組み。
「食べれば? ここのベイクド系のケーキ、どれも絶品だよ。もちろん、その
マドレーヌも」
「あ、ええ」
申し訳程度に一口。
そして、ラテにスプーンを入れると、安海は視線を斜め下に、しばらく動きを止めている。
軽く引き結ばれた唇。
いつもとそう変わらない強気な様子をうかがわせていて、決して
「紅さん」
「ん?」
カップを持ち上げたまま、軽く身を乗り出した。
一重、でもきっぱりとした黒い瞳が正面から見つめ返してくる。
「紅さんは、いつも男子と普通に……って言うのか、自然に混じって、当たり前にやってますよね」
「ん? ああ、そうかな」
言葉の意味が半分。「……で」促すと、
「こう、意識しないでというのか、男子の方も、紅さんの性別をあまり考えていない、という感じの――」
「ああ、そうかもね」
美悠は頷くと、カップをテーブルに置いた。
「それはま、オンナとは意識しづらいだろうね。あたしの方も、別種族、程度の認識かもしれないしねぇ」
ははは、と笑うと、真剣さそのままな安海の顔を見下ろした。
なんとなく、言わんとしている肝が見えてきた気がする。
なるほど、あたしが約束を忘れるわけだ。
「……知っているかも、ですが」
視線を一度脇へと逸らすと、安海は小さく鼻で息を吐いた。
「私の家は、昔から柔道の町道場をやっているんです」
「うん、聞いたよ。柔道部の男どもから。何でも、オヤジさんで三代目だとか」
はい、少しホッとしたように視線を戻すと、ゆっくりと話し始める。決して話題を跳躍させるようなことはなく、しっかりと筋道を立てて。
上と下に男兄弟が3人、道場に通ってくるゴツイ面々も含め、安海は、男ばかりの環境で育ったと言う。
実際、小さい頃からの扱いも兄や弟同様で、着る服もほとんど男物。
時々母親が「少しは女の子らしいものを」と気遣っても、自分から、「シャツに短パ
ンがいいよ」と言い出す始末だった、と。
中学でも男子に混じって柔道部。向こうも半分仲間扱い、自分自身もそんな居場所に違和感なし、で過ごしてきたわけだが……。
「まあ、別に、きちっと自分は女だ、って自覚はあるわけなんです。昔から。
ただ……」
「仲良しこよしのグループ入会、私たち親友、あの子達はおかしい。で、ある日突然
クルっと手のひら返し、あんな子じゃなかったのに。イジメてやれ~」
フフフ、と笑みを投げると、「そうなんですよ」――額の覗く短い髪の下で、力強い頷きが返った。安堵を込めて。
「別に、女の子の友達もいたんですけれど、男子といる方が気楽で……」
「うんうん、なるほどね」
美悠は頷くと、カップを指差した。
「アズミ、冷めてない? もう一杯、頼むかい」
「あ……、はい。じゃあ……」
飲み物のメニューを見ると、安海はエスプレッソを頼んだ。
そして、ウェイターが持ってくるなり、小さなカップに口をつけて、一息。
「ふぅ、美味しい。ここのコーヒー、いいですね」
「でしょう」
組んだ足に肘、顎を手の上に乗せたまま、美悠はクスクスと笑った。
「どうかしました?」
「……いや。まったく、アズミらしいとこが見えて、ホッとしたって言うのか、
ね」
「なんです?それ」
冗談混じりに言うと、ムッとした表情で強めに言葉を吐いた。
「ああ、悪い悪い。からかったわけじゃないよ。ただ、なんか納得でね」
少し上目遣いにクイッ、眉を彫り深に、これで決まり!の殺視線を投げても、訝しげに目をパチクリ、唇を寄せる。
やっぱりねぇ――心の中で息を吐くと、仕切り直しかな、これは。
「で、アズミ。話は続きがあるんじゃない?
それだけなら、あたしにとやかく聞くことじゃないだろ」
モードチェンジ。
スパッと切れる調子で短く言うと、今度は、「はい」――ストレートに頷きが返った。
「実は、少し困ってるんです。……いいえ、かなり、かな」
はあ、と大きくため息をつく。
そして、すっかりネオンの海になったウィンドウの外へ、視線を流した。
そのまま、もう一度小さくため息、言葉を探すように口元を歪めた。
女の子にしては描線の太い、凛とした横顔を見せて、数秒が過ぎる。
「ふぅ」
さてさて――重めの空気へ軽く一息。クールに視線、見下ろし加減で腕を組むと。
「あの子のことじゃない、アズミ。ひろみ、って言ってたかな」
窓から振り向き、驚きに見開かれる目。
「どうして。誰かから聞きました? ひろみのこと」
「いいや」
首を振ると、
「さっき、帰り際にね。なんかモメ気味だったじゃない?
あの子ね、前にも見かけたことがあるんだよ。道場への通路で」
「そうですか……」
目を伏せてトントン、ガラスのテーブルを指先で叩く。
う~ん、じれったいなぁ。わからなくはないけれど、ねぇ……。
形のいい額を見せてしばらく。
安海は意を決したように顔を上げると、真っ直ぐに美悠を見つめた。
「実は、あの子――」
「オトコの子、だろ? 肉体性別」
空白。
「……あ。どうして。誰も――」
「いや、気づくんじゃないかな、普通。
それに、あたしが気が付かなかったら、それこそ、なぁ……」
組んでいた腕を頭の後ろ、あ~あ、まったくねぇ。
「え、え、じゃ、じゃあ、もしかして……」
「う~ん、そうだなぁ。だいたい。アズミの相談、てのも予想つくかな。
ずっと、あんな調子かい?ひろみちゃんは。
中学の同級生?それとも、昔っからの知り合いかな?――で、アズミはどう思ってるわけ? あの子のことは」
「す、凄い!」
大声を上げると、マジマジと。
「やっぱり、紅さんに相談して正解だった。ありがとうございます!
実は――」
後は、次から次へと言葉が出てくる。
小学校の頃からの知り合いで、「あずみ君」――男の子と誤解されていた?出会いから、だんだん「オンナの子」っぽく、可愛く振舞うようになったこと、中学時代は友達としてやってきたけれど、異なる高校に進学、でも、今でも頻繁に会いに、そして放課後のショッピングやお茶にと……。
そしてどうやら、高校へはあの格好で通い、すっかり馴染んでしまっているらしい……。
「なんだか、どうしたらいいのかわからなくて。ひろみのことは、嫌いじゃないんですが、そういう感情なのか……。
ああやって柔道部に入って、今までどおり男子に混じってやっているけれど、そのままでいいのか、まで考えてしまって。
中学校の頃から、買い物に付き合ったり、勉強の相談に乗ったりしてたんですが、私がたいがい、決めてあげる役回りだったんで……。
変に頼りがいがあるようにしていたのが良くなかったのか、とか」
「ふんふん」
美悠は頷くと、ようやく届いたホットサンドを受け取りながらウエイトレスに一言、
「もう少し、早めに持ってきてくれると嬉しいんだけど」
言葉とは裏腹、にっこり笑みで可愛いエプロン姿の彼女のハートを射抜きつつ、安海の話の続きへと視線を返す。
「ま、わかるけれどね。でも………」
天井を見上げて、う~ん。ストレートに言って意味があるやら……、ああ、やっぱりあたしは苦手だ、こういうのは。
「今は、もう少し様子見なんじゃないかな。そうキッチリ決めなくてもね。
とりあえず、ああやって男子と混じってやってるアズミに、あたしはあんたらしさを目一杯感じるし、男どももそう思ってるんじゃないかな。
無理に変えても仕方ないよ、自分は自分だし。後は……、ひろみちゃんの方だけど、これはまあ、本人のいないところで話しても、意味がないと思う」
ふぅ、残りの紅茶を口にして一息。ホンネ、70%――いや、半分も言ってないかもしれない。
しかし、安海の反応は思いっ切りビビット、すっかり納得、な表情なわけで。
「ありがとうございます、ホッとしました。自分らしく、でいきます、私も」
小一時間も話した帰りの駅前、別れ際に発した言葉には紛れの一つもなかった。
紅さんならきっと、わかってくれると思っていたんです――それはもう、道場での姿そのままの、一直線。
う~ん、まあね。
そのまま突っ切れるなら、それはそれで大したもんだけれど……恋の花は、繊細で敏感だから。
「来月の大会、頑張りましょう。できれば、決勝でやりたいですよね、紅さん」
「ああ、楽しみにしてるよ。手加減はしないからね」
道着を片手にスタスタと歩いていく姿を見送りつつ、ま、様子見はあたしもってとこか。
美悠は、七色の光弾ける夜のホームグラウンドを振り返ると一息、肩に担いだ道着に視線をやった。
まだまだ花はつぼみ。これからどうやって咲くか、神様だってわからない。
クスクスクス、中学生とおぼしき一団を見遣りながら忍び笑いをすると、さて、着替えて出直そうか――今夜は、秋が深そうだし、少し冬を先取りってのも悪くないかもね。
「可愛いね、そのアクセ」
脇を過ぎた、ジーニングのフラッパースカートで揺れるピンクハートを指差すと。
「え」
「誰だれ、今歩いてった人」
「うわぁ、あれだ。
すごく背が高い。柔道着?……でも、そういう人に見えない!」
背中にキラキラ、跳ね飛ぶ声を聞きながら――
歩き去っていく天乃星のスーパーヒロインの頭の中には、あれやこれや、数限りない花また花、星また星。
もちろん、凛とした顔立ちの道着姿の少女も、可愛い制服が愛し気な、美城のあの子も。
けれど。
万色のネオンの海より、空に光る星より、群れ咲く少女達より美しく、いや、蟲惑的に輝くのは――。
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