第5話

ベッドで広げっぱなしになった旅行用バッグを見つめたまま、未知はひとつため息をついた。


ぷにっと小さめな唇が、むぅ、これまた丸くて小ぶりな鼻に寄せられる。


ぬいぐるみの山に埋もれた星型の時計は、もうすぐ十時を指すところ。

桃子が迎えに来る時間になってしまう。


開いたバックの奥にグリーンのミニポーチを押し込んで、首を小さく左右に振る。

もう一度ポーチを取り出して、鼻から短く息を吐いて――今度は、ため息ではなく意を決したように――シャッとチャックを開けた。


そして、ベッドサイドにあった丸い鏡をポン、と机に置く。


取り出したのは、ベージュのコンパクトに、シルバーに輝く小さなスティック。

パチンとコンパクトを開くと、赤系/暖色の並ぶパレットをブラシでピッキング。

チークはほのかに紅く、眉は少しだけラインを出して、ルージュは甘めなナチュラルピンクに。


鏡に映った表情を見ると、小さく、うん。

メイクツールをしまい込んだ時、階下でゴ~ン、と呼び鈴の音が響いた。


「未知さ~ん」

母の呼び声が聞こえてくる。

「は~い、今行く」

バックをパーカーの肩に担ぐと、ドアを開けた。


吹き抜けになった玄関へと、木造りのらせん階段に足を掛ける――見下ろすと、柔らかく整えられた黒髪の頭が、母親と向かい合っていた。


「よろしくお願いしますね、桃子さん」

「はい、間違いなくお預りします。学校の方にも、きちっと届けてありますので」

母の背中が、ゆっくりと頷くのが見えた。


トントントン、足早に段を降りると、小ぶりな唇をぐっと引き締める。


そして、「桃先輩、おはようございます!」

元気よく声を響かせると、理知的な丸顔ににっこり笑いかけた。


桃子の目が未知の色づいた表情を捉え、一瞬、見開かれる。


すぐにバックを傍らに置き、パーカーの背を丸めて靴をはきかける。

と、母親の柔らかい声が頭上に響いた。


「未知ちゃん、西涼さんやみなさんにご迷惑をかけないようにね」

しかし、その口元は不安げに歪み、声はすぐに曇った調子を帯びた。


「え?未知ちゃん? あなた、もしかして」

すっと顔を上げると、ピンクに色づく唇で、まっすぐに――

「なに、ママ」


「お化粧……?」

自分とは似ても似つかない細面の顔に、うん、と頷く。

「そうだよ。行く途中にも撮影するから。これくらい、高校生なら普通でしょ」


桃子の方を伺う母から視線を外すと、

「ですよね、桃先輩。電車の中でも撮るって、雄さんも」


「うん、そうだね。

……では、お母さん、行ってきますので」

深々とおじきがされると、その手に押されるようにドアの外へと出た。


「言ったね、未知ちゃん。はっきり」

門扉を閉めた後、桃子は驚き半分、よくやったねの視線をよこした。

「はい。やっぱり、言うべきことはきちっとしないと。

いつも、桃先輩に言われているみたいに」

「うん、そうだね」

ミニサイズでCUTE、同じぐらいの背格好の二人は、バックを肩に街路を歩き始める。


そして、しばし雑談、午前の空気を吸った後。

おかっぱ頭が、秋の澄んだ地平線に目をやって、少し考え深げに言葉を継いだ。


「でも、桃先輩」

「うん?」


「今日、最初からバシッと行こう、って思えたのって、ミユさんのおかげでもあるんですよね」

「美悠のおかげ?」

桃子の深い眉がどういう?と曇る。


「はい。ミユさんが言うんですよ。

『退屈~とか、思ってるんじゃない、ニヤみたいにさぁ。なんにも、ちっとも変わらないよ~~って。どう、違う?

それ、誰かに文句のワガママ。だからさ、どうせワガママなら、わたし自分勝手!

あんたの思惑なんて、知りゃしない!って言っちゃえば、風が吹いてくるんじゃない?

ホントは、世の中、楽しいことばっかりだからさ』

……って」


「ふぅ~ん」

「なんか、桃先輩に言われたのと似てるような気がして。

『自分らしいって、人を傷つけるのを恐れないこと』って……」


一瞬視線が逸らされた後で、桃子の口の端に皺が寄り、

「なるほど、ね」


「ね、やっぱり、さすが桃先輩のパートナーですよね。

天乃星の無敵!コンビですもん」

「ああ、それはヤメ。あれは間違ってもパートナーなんかじゃないよ、未知ちゃん。もう、腐れ縁。わたしの方は、できれば関わりたくないんだから」


「……そうなんですかぁ?」

未知は納得いかないように桃子の横顔を見遣ってから、正面に視線を返した。

大通りが前を横切り、駅前のビルの立ち並びが見え始める。


「あ、今日の『逃避行』は完璧ですから。もう、気分はニヤそのものなんですよ!」

ぐっと未知がポーズを作ると、桃子はにっこり頷いた。

「頼もしいね。よくわかってると思うけど、今日のシーンが肝だから」


「はいッ、わかってます。目指せ、銀河祭一席!ですもんね」

おーっ、と軽く拳を上げると、

「その意気、その意気」

桃子のニコニコ顔に押されるように、未知はもう一度大きく拳を振り上げた。


「がんばるぞ~。目指せ、ミルキーウェイ・フェスティバル№1!!」


目の前に迫った駅前に、映画研究部の仲間が見えてきていた。

部長の雄志に、カメラの尚、小道具・美術の清佳。それに、もう一人、スタイル抜群、短い黒髪がかえって華やかな表情を際立たせる――。


近づいていく二人。

「お、元気だなぁ、未知ちゃん」

「じゃ、出発するとしますか」


ロケ地へ乗り合わせるグランドワゴンを横に、楽しげな声が響き上がった。


**************************************

 

ミユさんは不思議な人だ。


「やっぱりさ、人に頼ってちゃダメだな。親のせい、で言い訳できるのは、十二才までだよ」

ものすごく真面目な顔で言ったと思うと、

「わたし、桃先輩のこと、とても尊敬してるんです」

「尊敬、うんうん、いい言葉だなぁ。ソンケイ。でも、尊敬ってどんな尊敬のこと?」

「尊敬は尊敬ですよ。すごいなぁ、ってことです」

無意味にニヤニヤ、正直に話しているのに。


一緒になった昇降口で、バッサバッサのファンレターの山。


「んん~、花一杯は嬉しいけど、やっぱ、踏み込みがねぇ……おっ」

入ってきたメールをふ~んって顔で覗き込んで、「見る? ほら」


『背中に気をつけなさい。いつも空を飛んでるというわけにはいかないのよ、いく

らあなたが軽薄でもね。

もしかしたら、いつのまにか墜落、なんてのもあるかもよ。

気づかないうちにね』


「これって」

「人気者はつらいねぇ……。ん?大丈夫だって。

こんなメール寄こすってのは、度胸がない証拠。

ふふ、ゴメンねぇ。面白いと思って見せたんだけど」


全然気にしてない……嘘みたい。


「あ、このメールはいいね。Precious。

『ミユウさんは、天乃星の風。星の間を抜ける、銀色の風です』だってさぁ、うふふふ」


風、かぁ……。


「おおっ、今のはセリフNG!イエロー二枚で、レッドね」

「ええっ、でも……」

「言い訳はなし! はい、ペナルティ、ペナルティ」

自分のほっぺたをつんつんしてチュッの要求をしてきて──


「ああっ、そこそこ!

美悠、あんた、未知ちゃんをおもちゃにするんじゃない!」

「なんだよ、減るもんじゃないだろ、桃」

「ああっ、あんたの魂胆はわかってるんだからね。

ちゃんと演りなさいよ。だいたい今の、あんたの方が変な間入れるからでしょ!」


風……本当に。


「ん?」

きれいな横顔がこっちに気づいて、眉が上がった。

いいえ、何でもないです──首を振ると、すぐ台本に目を戻して、桃子に指差された台詞に頷いている。


でも、やっぱり、桃先輩と一緒にいる人だよ。そばにいると、すごさがわかるもの。


今は佳奈美に合わせて黒くなっている短い髪。わたしも、あんな風に軽くしたら、いい感じになるかなぁ。


ニヤの設定は少しざんばらなロング。

付け毛の襟元を指ですくと、未知は小さく息を吐いた。


赤さを帯びた始めた陽光が、角度浅く入り込んできていた。


低く、なだらかな山の稜線に四方を囲まれて、朽ちた工場の跡には、冷気を孕んだ風が静かに吹き込んでいる。


雑多に転がったドラム缶、錆び付いて動くことのないフォークリフト、窓が割れ、穴だらけになった作業場。

赤茶けた鉄骨が折り重なる一角に灯った光の中で、カメラやレフ板、照明スタンドが場所を探して動き回る。


「部長、そろそろ、次いく?」

「ああ、ちょっと待てよ。

桃子が美悠譲と話してるから──時間は?」

「5時10分前。だいぶ、赤くなってきたかな」

「カメラ、感度、オッケー?」

「ん、ばっちり。いい光だよ、マジ」


「未知ちゃんは、オッケ?」

部長の声に、

「はい、準備万端ですよ」

手で丸を作ると、大きな頷きが返ってきた。


ニヤが佳奈美と出会ったのは、駅前の公園――。

「彼氏」と待ち合わせる時計塔下のベンチの隣、激しい言葉の応酬を目にしたのが始まりだった。


『なんのつもりですか? さっきから断ってるでしょう』

「彼女」のすらりとしたスニーカー履きの足先が、いらいらと地面を叩いていた。


『いや~、そう怒らなくてもさぁ。キミにも悪い話じゃないでしょ』

『いい、悪い、の話じゃないでしょう。論理のすり替えはしないでもらえますか。

今、わたしはあなたと一切関係のない用事でここにいるんですから』


丁寧な言葉遣いとは裏腹、激しい拒否を伝える声の色。


『う~ん、頭いいなぁ。お姉さん。ますます、悪い話じゃないと思うんだよね

ほら、そういうヤバい勧誘とか、危険な話じゃないんだからさ』


『そうですか?見も知らぬ女性に、立場も考慮せずにそうして話しかけている時点で、前提が違うんじゃないですか』


すぐそばのベンチでやり取りされる、不毛な会話。

おそるおそる横目で見た瞬間、目じりが下がって親し気な様子の──しかし、どこか邪な空気を持った若い男は、こちらに向かってにっこりと笑いかけてくる。


『お嬢さんも、一人? 実はわたし……』

女性との会話を突然中断して、何か名刺のようなものを取り出そうとする。


と、その腕が止まった。

『言葉で言っても、わからないみたいね、あなたは』

そして、後ろからねじ上げられる男の腕──外側へと小指を折り曲げられて。


『何すんだよ。マジか、この女』

『迷惑。その単語、知ってる?

興味ない話なんて、誰も聞きたくないの。まして、いかがわしい儲け話なんてね』


再びいくつかの言葉が飛び交った後、捨て台詞を残して去っていく男。

『すぐ別の場所に行った方がいいわよ。

ああいうのは、すぐに仲間連れて戻ってくるから』


『え、彼と待ち合わせだったの? ごめんね。でも、携帯持っているでしょう?』

──にっこり笑って別れた、短い黒髪が涼やかなその女性は、実は同じ学校の先輩で。


繰り返す、穏やかな日常。

何ひとつ不自由はなくて、ゆっくりと日々は過ぎて。


遊んで、ふざけ合う友達に、楽しくてドキドキな恋の時間。


でも、どこかでささやく声が、消えない。


退屈、退屈、退屈。ソレデイイノ? コノママ、オワッテイクノ?


『あ、あなた。日曜日の、公園にいた』

そして、ある日の昼休み、再び声をかけてくれたその人。


校内一の才女――誰もが憧れずにはいられない三年生の花、合唱部部長の山花佳奈美さん。

名前だけは、入学した頃から聞いていた――。


そして、時折交わす言葉が、日々と共に密度を増していく。


『ニヤ、今度、家に遊びに来る?』


『広い家でしょう。でも、魂は住んでいない「タテモノ」よ』


『憧れなんて、泡みたいに消えてしまう。

本当の答えは、他人にはない。自分の中にしか』


『救いのない人はたくさんいる……結局わたしも、その同類なんだと思う』


「理想の人」の中に見つけた影は、いつの間にか自分の中に宿る。

そして、不意に起こった家族の争い。


『いつも思っていたのよ、パパが死んでくれたら、どれくらい楽かって。でも、

あなたがいたから』

アタシが?

どうして、ママ? そんなこと、言わないでよ。


じゃあ、今まで見せていたのって、全部嘘?

アタシがいなくなれば、パパもママも、普通に生きられるの?


家を飛び出して、携帯した先は、佳奈美さんの名前。そして、あてどもない「旅」に、佳奈美さんは付き合ってくれた。


名前を聞いたこともない駅で電車を降りて、拾ったタクシー。

小さな温泉街から離れ、奥へ奥へと歩み入った先で、寒気を避けて逃げ込んだ廃工場。


そして、集めた木切れと固形燃料で焚いた小さな炎。


夕闇が迫り始めた山間の紅の中で、炎の赤がさらなる陰影を彫り、答えを求めるでもなく交わされる言葉は、風だけが鳴る空気の中に、淡々と響いていく――。


――そのまま、動かすな。


カメラに向けて示される手の平。かすかに聞こえるバッテリーの音。


隣で炎を見下ろすしなやかな肩から、息遣いが聞こえる。

コトコトと鳴る古いヤカン。雄弁さを押し殺した唇が、小さな息を吐くと、


「あったかくなってきたね、ニヤ」

「……うん」

目の端で赤に彩られた横顔を捉える……少し、予定と違う台詞。ミユ、さん?


「言ったよね、ニヤ。あなたは。

『どうして? 全部が嘘だったの?

そんな風に生きるためにわたしが要るなら、わたしなんていない方がいいっての?』って」


無言で火を見つめ続けた。


「でも、それは、あなたの心が、その人たちに寄り掛かっているから。頼っているから。

行っちゃいけない場所なんて、この世界には、何処にもないの。自分で、檻を作っているだけ」


「でも、佳奈美さん……。アタシ、わからないんです。だって、アタシ……」


「踏み出す足はあるのよ、ニヤには」

一瞬の間。続くセリフは『それに気付かない振りをしてるだけ』のはず――でも、その唇は、「そ」ではなく、「あ」を形作る。


「あなたには、踏み出すためのステップが、もう用意されてる。

それが嘘で作りもの思えても、幻に見えても。

あなたは、気付かない振りをしてるだけ……」


なんて答えればいいんだろう。「でも、わたしは」がこの後言わなければいけないセリフ。「佳奈美さんは何でもできるから……」って。


でも、言葉が出ない。

炎から離れた瞳が、天井を仰ぐ。

そして、自らを嘲るように、小さな笑い声を上げた。


「偉そうだよね、わたし。

こんなこと言っても、わたしも同じ。ね、ニヤ」

「……はい」

はい、じゃない。ニヤなら、「うん」って。


にっこり笑った黒髪の下の瞳。僅かにのぞく、悪戯っ気のようなもの。

でも、すぐに。


「あなたは、前に、わたしは何でもできるからって、だからわからないだろうって、言ってたよね」


小さく頷く。


「でも、わたしも同じ。ぬけがらになった建物、ぬけがらになった関係、ぬけがらになった人たち……どんなに綺麗に、早く泳げても、意味なんてない」


思い直したように、整った頬の稜線が左右に振られると、

「ううん……、いいんだ……」


「佳奈美さん……」

一緒に天井を見上げる。


錆び付き、穴の開いた天蓋からのぞく、赤く染まった空。

そのスクリーンにほのかに浮かぶ、星々の輝き。


肩がそばにあった。

息遣いが聞こえる。


風がそよぎ、少しだけ、香りがした。

下ろした指先に、体温を感じて――


「ニヤ」

耳元に声を感じた時、大きく深い、赤を宿した明星が目の前にあった。

息がすぐそばにある。近づいてくる、唇。


静かに、目を閉じた。


……柔らかい、感触。

湿っていて、でも、暖かい。


声がする。

未知、未知、未知。


頭の中で、ずっと、回り続けている……。

ずっと………。


未知、未知、未知。


出会っていた唇が離れた。


「苦しかった?」

優しさを湛えた瞳が、密やかに問い掛ける。

「そんなこと。でも、空気がすごく……」

「気持ちいいね。……今わたしたち、同じ空気を吸ってる」

そして、二人は笑みを交し合った。


ファインダーの四角に切り取られ、時間が止まる。

「カット!」

声が響き渡り、空気が解けた。


二人の影、赤に包まれた画に引き込まれた一瞬が散って、桃子は心の中で小さく呟いていた。


(まったく、参ったなぁ……)


「ミユさん、ひどいですよ~、もう、いきなり」


身体を離した美悠が、ははは、と笑う。

「いや、あそこの台詞、なんかはまらなくてさ。暗いってのか――どう、雄志。

よかっただろ」

「ああ、オッケーだね。ナイス、インプロビゼーション」


機材を構えた他の部員からも声が飛ぶ。

「いやいや、いいモン見せてもらったわ」「ついに、紅さんに感染か、みっちゃん」

「そんなんじゃないですよ~。でも、もう、入っちゃってぇ」「唇だけだもんね、未知」「おお、唇だけ、だってよ」「もう、ミユさん!」


はあ――桃子は、大きく鼻で息を吐くと、一瞬抱いた感慨が、冷めた気分に落ちていくのを感じていた。 


「雄志」

腕を組んで頷いていた茶のジャンパーの背中が、桃子の方へと振り向いた。

「どした、桃子」


「……今ので、いいわけ?」

「不満か? 脚本通りじゃなくて」

「そう言うんじゃないけどね……」


「よかっただろ、今のキス。いやらしいもんじゃないし、桃子の言ってた『共感』出てたと思うよ、俺は」

「まあね……」


『どんなに綺麗に、早く泳げても、意味なんてない……、でも、重く積み重なった水が、身体全部を包み込んで、締め付けてくる……。

あなたの泳ぐ場所は、どこにもないのよって』

題名の『Breathless(息切れ)』――ずっと納得いかなくて、何度も直した末に妥協した台詞だった。


優等生の佳奈美と、普通の女の子のニヤ。


二人の本当の出発点――シナリオの肝を、ああやってキス一つで表現しちゃうんだから、やっぱ、認めざるは得ないけど……でも、ね。


ジーパンの腰に手を当てると、小柄な背中がツカツカ、炎の側で並んで座り、他の部員に囲まれた二人のところへ歩み寄る。


「よ、桃。どうだった」

「桃先輩、オッケーだったでしょ」

いなせな笑みと、懐こげな瞳と。


そのまま手を前へ持っていくと、二人の間を割って、

「はいはい、離れる、離れる」

「おいおい、桃。お褒めの言葉もナシかい。我ながら、会心の……」

「はいはい、よくできました。ありがとう。見事でした」


「おいおい」

「桃先輩、いい感じでしたよ、ほんとに」

桃子は一度目を閉じると、美悠の方を向いた。

そして、気を落ち着けるように、一息。


幼馴染のまさに「なじみ」な表情を見下ろすと、

「よかったよ、美悠。

わたしも、今ので「はまった」気がした。感じ、出てたと思う」

「うんうん、そうだろ、桃」


「でもね……」

屈託なくニコニコと笑う美悠の耳元に口を持っていくと、

「あんたの目論見、わかってるんだからね」


ん、何が?と眉根を上げて、天を仰ぎ見る表情。

でもね、その小鼻のひくつきが何よりの証拠でしょ。


まったく、相変わらず嘘っ気まで本気、ってのか。

「未知ちゃんにも、言っておくけど……」

と、一カ所に集まり始めた部員たちに声がかかった。

「お~い、最後のテイク、行こうか。準備、よろしくな」


「……桃先輩、何か?」

「ああ、いいの。メイク、行って」

首を振って未知を促すと、雄志の斜め後ろに戻る。


「桃子、気にしすぎじゃないのか。

美悠ちゃんだって、それぐらいわきまえてるだろ」

ディレクターズチェアに座ったままの背中が低い調子で返した。


「だめだめ。雄志は甘く見すぎ、あの子のこと。

どんな状況でも「そういうこと」しか考えてない色魔なんだから、あれは」


「ふぅ、そうかねぇ」

仕方ないか、という調子で雄志が息を吐いた時、

「あ~、失敗した!」

ライトに照らされた簡易テーブルの方で、驚きの叫びが聞こえた。


「どうかした? 清佳」

桃子が鉄骨を飛び越えて小走りに近づくと、メイクブラシを握った女子が、舌を出して細身の顔を歪ませていた。

目の前では、美悠と未知が二人並んでメイクを待っている。


「銀、切らせちゃってるよ、桃子」

パレットを示して、ブラシをパタパタと振る。

「え、マジで?」

「うん、ゴメ。失敗だよ~。最後、夜の重要シーンなのに」


軽めのショートボブの頭を「はあ」、うなだれるメイク担当の肩を、「ま、

仕方ないよ、別の色でいこう」、ポンポンと叩きかけたその時。


「あるけどね、銀」

美悠が言った。


「ホント、美悠?」

「24色パレット二つ、あたしの荷物の中に入ってるよ。取ってきてくれれば

ね。あたしは、動かない方がいいでしょ?」

「あ、そうだね。行ってくる……どのバックだっけ?」

「茶色のヴィトンの……わかるだろ?で、中のブラックのポーチ。

すぐ見つかると思うけどね」

「助かる。あんたのジャラジャラも、無駄ばっかりじゃないね」


「一言余分、桃。感謝、感謝」

はいはい。胸元に指を立てる美悠に軽く唇を尖らすと、

「清佳、ちょっと待っててね」


ドラム缶と鉄骨が転がる撮影場を走り抜けて、錆び付いたフェンスの向こうへ出た。

そして、空き地に停められたグランドワゴンのドアを引く。


「ごめんね、弘さん」

「あ、桃子さん。もう終わりですか」

ううん、もう少しかかる――雄志の家のお抱え運転手に首を振ると、荷物の積まれた最後部に頭を突っ込む。


美悠のバックは……と、真ん中にドンと置いてあるあれね。


手触りからして高級そうな茶色のバックを開けると、いくつかのポーチと携帯、ブラシなどが結構ていねいに入れてあった。


黒いポーチ……これ、かな。


灰色のブランドマークがコラージュされた少し大きめのポーチを取り上げると、小物

が入っているカラカラという音がした。


これだな――確認の為、チャックを開けると……ん?何か、ちょっと違うような。

細長い棒のようなものや、コードみたいな。

それに、ちょっと柔らかい手触り――。


手を伸ばして、天井にあるライトをつける。


「うぎゃ!」

な、な、な、何よ、これは!


「……桃子さん、どうかしましたか」

「う、ううん、何でもないから、弘さん」


ライトに照らし出されたのは、緑、ピンク、はては紫のラメに輝く、電動器具。

コードの先についた丸いものから、蝶々型、両側に突起を持つもの、ベルト付き、どう見ても「あれ」な形状のものまで……。


慌ててチャックを閉めると、別の黒いポーチが目に入る。

恐る恐る持ち上げると、こっちは……間違いなくメイクツールだ。


――ドン!


テーブルの上にポーチを置いた後、桃子は美悠の腕をつかみ上げた。

「な、なんだ、桃」

「いいから、ちょっと来なさい」

無理やり美悠を立ち上がらせると、

「ちょ、ちょっと桃子」「桃先輩?」


清佳と未知の声を無視して、ドラム缶の影になった一角へと押し込んだ。

「美悠!あんたねぇ」

ヘアピンで前髪を上げたままの幼馴染を見上げると、大きく息を吸い込んだ。


「どういうつもり。あんなもんまで持ってきて」

「あんなもの…」

眉根を寄せて、鼻先に指を当ててしばらく、

「…あ、あああ、そっか、あっちを開けちゃったか」


ははは、少し照れ交じりとは言え、あっけらかんと笑い声を上げる。


口の端がヒクヒク、もう、限界かも。


「持ち歩く神経が信じられないよ、わたしには。

だいたい、どうしてあんなものが必要なわけ?」

「ん?」


こんなこと、突っ込んだって、ね。でも、言わずにいられるものか。


「あんた、曲がりなりにも「女性が好き」なんでしょう。ああいうものを、使う必要があるわけ?」

「あ~あ」

訳知り顔で頷く様子。ますます苛立ちが指数曲線で上昇――


「何のための、同性愛? それなら、男でもおんなじでしょうが!」

「おお、まあ、ね。そういう人もいるけどね~」

ポンポンと肩が叩かれて、眦の切れた瞳が、前屈みに側へと寄る。


「あたしは全方位主義なんだ。使えるものはぜんぶ使って、GET!しないとね。

だってさ、あたしだけの一番星が欲しいんだから、あ~こう言ってられないだろ?」


桃子の目の中で、黒い瞳が一瞬赤に染まり、すぐに握った拳の中に消し去られた。

「わかった。言ったわたしがバカだった」


ザクザクと元の場所に戻ると、

「未知ちゃん、おいで」

「え、桃先輩、でも……」

背中を押すと、機材が置かれたもう一つのテーブルの方へ立ち上がらせる。


「桃子ぉ」

「悪い、清佳。あの色ボケのメイクは、頼むね。

ニヤの出番はあんまりないでしょ? 未知ちゃんはわたしがやるから」


「桃、そりゃないだろ、佳奈美とニヤは……」

「うるさい! 一緒に出るシーンは終わってるんだから、関係なし!」


「桃せんぱぁい……」

「いいの。もう、演技以外で半径5M以内に近寄らない、あれには」


「おいおい。監督、それでいいのか?」

撮影現場を横切って飛んでいく、美悠のよく通る声。

チェアーに座ったまま、雄志は両手を広げた。


『ひどいねぇ。この現場、監督より脚本家主導だよ~』

『黙ってなさい、公私混同の役者が言える台詞?』

『ああ、まったく、横暴だよ。ノーギャラなのに』

『部活なんだから、当たり前でしょう?』

『桃先輩、どうしたんですか?! 車から戻ってきたらいきなり……』


威勢のいい話し声が、星が輝き始めた秋の冷気の中に響き渡る。


「去年、『武-タケル-』撮った時にも思ったけどさ」

と、鼻にかかった男子部員の声が雄志の隣で響いた。


「副部長と美悠姫、ホントにいいコンビだよな」

「……ああ」

まったくだ、と桃子の「彼」は首を縦に振った。


そして、少し間を置いた後で、自分に話し掛けるように、

「本当に、俺もそう思うよ」

と、小さく呟いた。

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