第4話
頭上に空いた広く、ひんやりとした空間からは、淡い黄の光がにじみ降りてきている。
響くのは、セイ、オウ、オリャァの掛け声――そして、畳と身体のこすれる音に、ドシンッ!と振動まじりの投げ技効果音。
――うん、やっぱ力強いよ、この子。
視界の下でツンツン立った黒髪が揺れる。
袖が引かれ、右肩がグッと引き下げられ……。
セイッッ。
少年っぽいハスキーボイス、一回り小さな身体が激しく左右に動くと。
オッ…、ヤバヤバ。
美悠は釣り込まれた出足に神経を走らせると、奥襟を持った手をグッ。バランスを優位に戻す。
「ふふ。やるねぇ、アズミ」
余裕混じりの言葉に見上げてくる黒目がちな瞳は、無言。
きりりと引き締まったまさにlike a boyな眉はちっとも緩んだところがなく――
「サァ、フラァ! セイヤァァ!!」
あらら、ガチでマジ?
参ったなぁ……うわ、こりゃ……。
無骨な道着姿さえモデルそのままな美悠の長い手足の内で、小粒な黒髪が激しく動き回り続ける。
一息もつかず、次々繰り出される足技、投げ技への入り。
周りで組み手をする男子部員のまったりムードの中、まさに紅一点、そこだけスポットライトが当たっている……いや、自ら発光しているような――。
ホント、よく動くよ。
マジ入っちゃうなぁ、これじゃ。
真剣そのものの硬く引き締まった表情、にじみ始めた汗――額に、首筋に、Tシャツから覗く鎖骨のくぼみまで—―このシチュエーションじゃなければ、なんだけどな。
でも、悪くないか。こういうのも。
『さっきの話は付け足しなんだよ、正直言うとな、紅。安斎はホント見所あるからな』
クマセンセの言うことも、満更じゃないってことか。
いいね、どうせなら。これくらいやってくれなきゃ。
『紅、ちょっといいか』――柔道部顧問のクマ太郎こと、中年体育教師の田山に呼び止められたのは、前回の稽古が上がる時だった。
「すまんが、頼まれてくれんか」
それは、らしくない控えめな言い出しで始まった。
「何? 珍しいじゃない、センセが頼みごとなんて」
タオルを肩にかけたままざっくばらんに頷くと、生えそろったタワシ頭がこそこそと。
道場の端っこまで連れていかれ、眉根を寄せた四角い顔を窺うと、
「お前も知っているだろ、新しい部員の女子なぁ」
「ああ、
で?要点はなに?
回りくどいのは嫌なんだよね。本題入ってくれる、クマセンセー。
口を開こうと思った時、柔道部の顧問は「それでなぁ」と一息、言葉を吐いた。
「どうだよ、紅。次の大会、出てみないか? 個人戦でな」
何言ってンの、どうして今さら。
鍛錬と暇つぶし半分、週一でここに顔を出すようになってもう一年。しょっぱなでそういう話はナシ、そう断ってあったはず。
いや、それはわかってる――クマ太郎は大ぶりな口元の両脇に皺を作ると、説明を始めた。でもな、安斎の奴が入っただろ。だから、な。
何?一人じゃ可哀想ってコト?
今日は組む機会なかったけどさ、そういうタマじゃないだろ、アズミちゃん。
きっちり馴染んでるし、なんたって、黒帯でしょ?
しかし、中年教師の彫り深の目の中に、隠れた意図があるのは明らか。
「だからさぁ、はっきり言ってくれる?」――胸元、寸止めの正拳一発入れかけて、ん?
「人寄せパンダじゃないっての、あたしは………あッ」
眦の上がった大きな目が見開かれ、輝く明星が宿る。
その横顔を見た体育教師は、だろ、とニヤリ。
「女子部員も増やさないとな、このご時世だし。
お前と安斎が成績上げてくれれば目一杯宣伝になる……、それにな、来年の新歓でもアピールできるだろ」
そういうこと、ね。
そりゃもう、あたしにとってだって、その状況は!
色とりどりの、花、華、花!!
「悪い話じゃないだろ、お前にも。
華やかなのは俺も大歓迎だしな。週一とは言わん。
もっと稽古に来てくれても構わんぞ」
口元に一層のニヤリ皺。
「ワルよのぉ、クマセンセ―も」
華、花、華……ふふ。
「そうかぁ? 真っ当な経営努力だろ……ああ、紅。言っておくが、校外のことはノータッチだからな、俺は」
「わかってるって、お代官様。その辺は、もちろん、ね」
無骨な中年教師の肩をポンポン。
花・華・花・華・花……
そうそう、柔道着の帯がグルグルグルグル、アリエナイ!長さで解けて……
ミユ姉~、わたし♡ああんッ。
ふふふ、もう……。
楽しみ過ぎるじゃない。
と、眼下のツンツン黒髪が視界の外へ。次いで、袖が強く引かれるのがわかって――
ふわっっ!
あらら……淡く光る天井が見えて、と、ヤバッ。
バシッと右手を叩いて受身を取ると、震動が響き渡った。
仰向けになって見上げた視界で、きりりと小粒な顔が驚いたように目を見開いていて。
「はは、やられちゃったな」
心の中でもニヤリ、薄桃の唇の端にも、ニッコリ笑み。
――おおっ!
――やるじゃんか、アンアン。
驚きの声と、道場一斉の注目が集中線、美悠はスクッと立ち上がった。
道着を直してポンと太ももを一発、正面をクイッと見つめる。
小柄な道着少女の驚き混じりの惑い顔に、一瞬で戻る闘い色の熱視線。
「サア、もう一本! 来いッ!」
よく響くハスキーボイス。よし、そう来なくっちゃ。
「行くよ、アズミ!」
「はいッ!」
踏み出し、奥襟へ……と見せたところで低く沈み、一気の袖釣り込み。
「セイヤァ!」
バシッ!
出足払いから踏ん張るところを背負い……一瞬で転じて大外刈り。
「ホアッ!」
ダンッ!
次は、光速一線、高々と跳ね上げる内股。
「トウリャァッ!」
ズゥン!
「ホラ、まだまだ! 来いッ!」
「はいッ!」
交わされる息遣い、畳の擦れる音、交わされる技の数々、響く震動、そして、激しい掛け声……。
**************************************
熱入ってたな、サンキュウ――相変わらずのジャパングリッシュで肩を叩くと、柔道部の「クマセンセ」は騒ぎ合う男子部員の方へ歩いていった。
それを言うならセンキュウ。TH、TH、センセ――厳つい背中に言葉を投げた後、美悠は膨らみ袖の制服の肩をぐるり、グッと天へ両手を伸ばした。
うん、今日はいい汗かいたなぁ。
で、この後は……と、そうそう、みっちゃんとか。
高窓から夕陽の赤に染められた壁時計を見遣ると、時刻は六時少し前。
夕方からは脚本の読み合わせの約束になっていた。
門限厳守の未知のため、使える時間はジャスト二時間。
バシッと決めないとね、桃のためにも。
そう……桃のためにも、だよね、ふふ、まったく。
美悠は両手を頭に、鉄扉横の格子に寄りかかったまま、鼻から息を吐いた。
いつもほのかに茶目っ気な口元からは、こらえ切れずの笑み。
そして、ハードレイヤーに波立った髪の下では、輝く瞳が空想の景色を追う。
そりゃもう、役作りは当然のこと。
『ニヤ、わかる?答えは遠くにないのよ。いつも、ココ、胸の真ん中にあるの』
『わたしにも? だって、佳奈美さん、わたしは……』
『答えはあげられない。それは、ニヤにしかわからない答えだから。全ての人が、自分でしか見つけられない答えを持ってるの』
&、現実のみっちゃんにも秘密の扉に気づかせてあげて、で、芸域もグッと広がるなら、一挙両得。あたしは役得。
しばらく前に食堂で、また、ロケ予定の廃工場で見た、桃子を見つめる子犬のような瞳。
あれが「それ」じゃなければ、何だって言うんだろ。
まったく、ノンケな人は気が付かないんだよなぁ。……ふふ。
でも、乙女心・恋心、どこでどうやってくるりとするかわからないから、It's a miracleだよねぇ。
『あんなかっちかちな堅物センパイ、やめときなよ。
そのJewelな気持ちは大事にして、新しいステージにさ』
『え……はい……美悠さんとなら♡』
なんてね。ふふふ。
……と、肩先に風。
今日はなじみな気配に横を向くと、道着姿が凛々しい小粒な立ち姿があった。
「お、
どこか少年を思わせる顔立ちが、軽く会釈を返した。
「今日はサンクス。いい稽古になったよ~」
「あ、はい。こちらこそ、ありがとうございます」
口元に笑みが浮かぶと、きりっとした眉の下で、瞳がわずかに揺れた。
「……ん?どした?
悪いけどさ、もう一丁ってわけにはいかないんだよね。
先約あり、でね」
美悠が壁に寄りかかったままで笑いかけると、安海は首を左右に振った。
「いえ……稽古はまた。
そうじゃなくて、紅さん、いつかお時間取れますか?」
「お時間?って、柔道以外な?」
下目遣いに眉根を寄せると、一瞬目が伏せられて、思案交じりに、
「うう~ん、まあ……、そうです」
「いいよ~。何? 服選び? アズミ、地味系だからなぁ。
それとも、意外なとこで、クラブデビューとか?
いい店、紹介するよぉ……じゃない?」
軽い拒否の素振りに、じゃ、なに?のオーバーアクション。
スカートの膝に手を、視線を同じ高さにすると、
「はい、まあ。
その……、ぶっちゃけ、話を少し聞いてもらえると、うれしいかな、と……」
醸す雰囲気は逡巡まじり、ここでははっきり言えないって感じの。
ふぅ~ん、こんな顔もする娘なんだな。
ちょっと、ピンッ……うん、アンテナ感じたかも。
「いいよ。ムツカシイ話なら、ちょっとオミットだけどね」
胸の奥にじんわり始まるドキドキを確かめながら返した時、背中でガガ、と鉄扉の引かれる音がした。
「すいません、時間取らせませんから」
「はいはい。じゃ、来週の稽古の後ってのは?」
言葉を投げながら振り向くと、僅かに開いた鉄扉から顔を覗かせているのは、おかっぱ気味な黒髪に、懐こげな丸顔――制服姿の未知だった。
よっ――揃えた指で挨拶を投げると、緑と白の制服が鉄扉のぎりぎりの隙間、グッと身体をハスにして中へ……。
ハハハハ。
もうちっと開ければいいのに。みっちゃんらしいよ。
「じゃ、お願いします」
声に振り向くと、安海の方は二、三歩後ろに下がり、会釈交じりに踵を返すところだった。
「ん、じゃ、来週ね」
極上の笑みで手をパラパラすると、
「時間、過ぎちゃいました? もう、いろいろつかまっちゃって」
鼻にかかった高い声が響いてくる。
「十五分遅刻。
ペナルティは大きいよ、忙しいんだからね、紅さんは」
「ああ、すいません! ホント、断れない性格で、わたし」
「……どんな罰にしようかなぁ~」
「勘弁です。できれば、明日のランチとか……あ……、エッチめなことは、絶対バツですからね!」
「エッチめってねぇ。あたしは何だっての……」
と、未知は美悠の視線が道場の一角に投げられたままなのに気づいて、小さな目をパチクリした。
対角線側、用具室の前で、道着の集団が騒ぎ合っている。
『アンアン~、なにしてたんだよ、紅さんと』
『まさかアタックで爆死か? 男にゃ興味なしだぞ、三四郎姉さんは』
『うっさいなぁ、喧嘩売ってんのか。ダイゴ』
『それがダメなんだって、お前は。もっとおしとやかに、お・し・と・や・か』
『うぇ、キモ。アンがしなしな、カマじゃんか』
『それを言うなら、ナベだろ』
『チゲェって』
『はいはい、そうですか。わかった、わかりました』
整った横顔に浮かぶ、嬉しくて仕方ないような笑み。
未知はしばし、「桃先輩の幼なじみ」の様子を見つめていた。
「楽しそうですね、紅さん」
「ん?」
美悠は振り向いてにっこり笑うと、未知の制服の肩をポンと叩いた。
「行こうか、みっちゃん」
「あ、はい」
掛け声響く武道場を後ろ、二人は別館への回廊に足を落とした。
そして、板張りの床に足音がキュッキュッと鳴り始めた時。
未知より頭二つも高い背中が唐突に屈められ、頬っぺたをチョンチョン、ひとさし指で押して立ち止まる。
「え? 何です?」
パーツが真ん中に集まった小造りな顔が怪訝さを露わにすると、
「待たせたペナルティ。安いもんでしょ」
「え? って、それ……」
「そ。ほっぺに、チュッ」
長い睫に彩られて、横目になった瞳がキラリ。
「えーッ。だから、そういうのは、ナシって言ったじゃないですかぁ!」
「どこが? 挨拶代わりでしょ、こんなの。
人をヨコシマ扱いするからさ、みっちゃんは~」
「もう……」
これ以上混ぜっ返したらどうなるものか――吐息混じりに未知が、「じゃ、一瞬ですよ」、ミルキーホワイトの頬に薄桃の唇を近づけた時。
正面、別館への扉が開いて風が吹き込み、そこからベージュと赤緑チェックの制服姿が。
――チュッ。
ミディアムレイヤー、華奢で細身なその女生徒は一瞬、その場で立ち止まった。
ささっと身体を離した未知をよそに、美悠は少しビックリな瞳へニコッ。
見れば色白、目鼻立ちがくっきりな美少女系のその子は、驚いた表情を元に戻すと二、三歩近づき、イメージより低めの声を発した。
「あの……武道場は、こっちでいいんですよね」
「ああ、そうだよ。この奥」
美悠が親指で後ろを指すと、他校から来たに違いないその子は、ありがとう、明るい調子で頭を下げ、スタスタと歩み去っていった。
「あぁ、びっくりした。天乃星の子じゃないですよね」
「そ。あのレイヤースタイルは、美城の制服だよ」
「うわ、やっぱり制服でわかるんですか?
あ、でも、見たことある。あの二重のスカート、アイドルみたいですもんね」
「ああ……」
美悠は、女の子が消えた回廊の曲がり角を見つめたまま。
そして、鼻先に揃えた指を当てて、匂いを確かめるような素振り。
「どしました、美悠さ……、じゃない、紅さん」
「んん~」
後ろを向いたまま天井へ仰ぐと、しばし。
「ま、いいか」――ライトブラウンの髪をしなやかな指先が梳いた。
「行こか、みっちゃん。時間、無くなるだろ」
「はい、そうですね。行きましょか」
「ああ、そだそだ」
おかっぱな黒髪の下を覗き込むと、
「今、あたしのこと呼びかけてたけど、名前でさ……」
「ああっ、すいません! 紅さん!」
素っ頓狂な声が上がる。
「あの、いつも桃先輩が名前で呼んでるもので、つい……」
「はぁ?」
突然あたふた、手を胸の前で合わせてスイマセン!な姿勢を作る小柄な制服姿。
美悠は、目を見開いて、今日一番の楽し気な笑みを浮かべた。
そして、ハハハハ、思いっきりな笑い声を響かせる。
「……ったく、もう。みっちゃんが一番面白いな、やっぱり。
いいんだって、美悠でもミユでも。
いやね、堅っ苦しいのが一番苦手だからさ、あたしは。
その、紅さんってのはやめてもらおうと思ってね」
「……は、はい」
あたふたがくるりでびっくり顔、すぐに懐こい子犬な様子に戻る。
美悠は手に持った平たいバックを肩に担ぐと、
「じゃ、行こうか、未知。
で、どこだっけ? 部室……西館はもう閉めだろ?」
「あ、そうなんです……ミユ、さん」
「うんうん(にまにま)」
「ええと、今日は第二会議室です。許可取ってあるから」
「お、職員室の隣か~。いい場所だなぁ」
「でしょう? ギリギリまでできますね、読み合わせ」
……。
(ギリギリ、ね)
本気か冗談か区別のつかない調子。
美悠はもう一度カラカラと笑うと、未知の表情を見下ろした。
そして、回廊を抜け、本館の広間へと抜ける間も、二人はつかず離れず、佳奈美/ニヤ混じり、軽口・真面目にと色合いさまざまに。
そして、会議室のドアを開ける時には、肩と肩の距離は、平均50%?は接近していたかもしれなかった。
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