第3話

わたしの泳ぐ場所は、どこにもない。気付いたのはいつだったかな。

とても幼い時だったような気もするし、受験の二文字が聞こえ始めた頃だったかもしれない。


ね、ニヤ。


どんな綺麗に、早く泳げても、意味なんてない。

あなたは、「どうして」って今言ったよね。佳奈美さんなら何でもできるのに、って。


……でも、わかる?


重く積み重なった水が、身体全部を包み込んで、締め付けてくる。


何度も、今覚めたばかりの夢を見た。

本当に深くて、重くて、光もない水の底だから……どうやって息を継いだらいいの、って。


苦しい。もっとわたしの知っている場所に、どうしたら――。


でも、きっと、ここにわたしの息をつける場所はないから。

ううん、きっと……何処にも。


陽の落ちかけた山間の廃材置き場。固形燃料から上がる小さな炎が赤を揺らす。

ディスカウントショップで買ってきた安物のヤカンが、コトコトと湯の沸きあがる音を響かせる。


背中に当たる冷たい風、頬に当たる暖かさのコントラストが染みて、夜空を見上げ、目を閉じてしばし――。


「ミユ?」

ベッド上でうつ伏せになった裸の背へ飛んできた声。


「お」――毛先の散ったショートヘアが揺れ、視線が後ろへ向けられる。

その先には、白いタオルを身体に巻いた大柄な女の子。

アンティークなドアを背に立っている。


「どうしたの?」

「……ん、ちょっとね。

そうそう、わかった?レミさん。バスの使い方」


シナリオの印字された紙束を枕元に投げ出すと、美悠はくるりと裸身を上に向けた。


重力をまったく受け付けず、優雅なラインを描く二つの膨らみ。

頂きの薄桃色の乳首が、真っ直ぐ見つめる視線以上に雄弁で――。


射られて、子猫を思わせる瞳が逸らされる。


「あ、一応。

ホント、すっごいバスだね。

あれ、ミユだけが使うの?」


「ああ、そうだよ」


「なんかさ、」

つやつやと白銀のシーツが光るベッドの端、腰を下ろしながら「恋人」は肉づきのいい肩を窄めた。

「洗い場も広いし、ジャグジーだし、いろいろできちゃいそうかなぁ~、なんて」


「でしょ?」

少しはにかむ素振りに、美悠はクスクスと笑い声を立てた。


ふふ。今の、スゴ、可愛く見えたなぁ。


身体を起こすと、巻かれたタオルの背にしなやかな指を忍び入れた。


「続き、する? レミさん。2ラウンド目」

「え……?

ま、まあ……」


頭に巻かれたタオルが落ちると、長い髪が肩へ解ける。

ウエーブの残る前髪を指で払うと、少し張った頬骨、思案ぶった唇の端っこに、チュ。


まったく、お姉さんぶるもんだから。


肩口に唇を押し当てると、差し入れた指先が背骨のギュッを感じ取って――


「こ、こらぁ、ミユ」

「いいのいいの、さっきのじゃ物足りなかったんじゃない? ホラ」


今度は手を、剥き出しになった太ももから腰へ。


タオルがハラリと落ちると、フフ、やっぱり。

少し下づきな乳房の頂きには、真っ赤に染まった果実がツン。


優しく揉み解しながら抱きすくめると、息の乱れはすぐ、背中をギュッと握り締め返してくる腕へと潮を激しくして……。


小さな喘ぎ声。

濡れた髪の下、首筋に手を差し込んで唇を合わせると、閉じていた目が開いた。


「はぁ。

お、おかしいなぁ。もう、ミユって、なんか、任せちゃってもいいかなぁ……って」


「そ~う? なら、任せちゃえば?」


「う、うん、でも、受け身はね、前も言ったけど、ちょっとニガテってのか」


「どうして? あたしが2コ下だから?

いいのいいの、ホラ」


耳元に唇を寄せると、吐息混じりに取っときのヒトコト。

「可愛いよ、レミ。あたしのネコになって」


そして、耳たぶに歯を当てて、小さく甘噛み。


「はぁ……」

眉根が寄って、大きな吐息が漏れた瞬間、快感へのスイッチオンが以心伝心。

後は、全身に幾百のキスと甘噛みで。


「だ、ダメぇ」

そう? ここも、でしょ?


脇から腰骨、柔らかい太ももの外側まで。

ふふ、スゴイじゃない。どこがタチ90%なんだか。


洪水になった中心に指を三本。

そのまま身体をせり上がらせ、快感のさざ波に反り上がったままの口元に腰を持っていく。

「ほら、レミ」

見下ろした足の間で薄く目が開けられ、ん、さすがにわかってる。


張りのある内腿に唇が当てられると、辿り、戻り、そして、キラキラ雫に濡れながら顔を覗かせた桃色の突起へ……チュ……。


う、ん。

心地よい痺れに一瞬閉じた切れ長の目。でも、すぐ口元に笑み。


舌を突き出して念入りに舐め上げてくるとろけた表情かおを薄目に映すと、後ろ手に差し入れたままの指で、膣内なかを震わせるように――。


「あ、ダ……」

唇が離れると、肉づきのいい身体が軽く反り上がるのがわかった。


指を止める。

ほら、一回目。


はぁ、はぁ、目を閉じ、荒い息を吐きながらさまよっている横顔。

それに、指先に細かな震えを返すひだの包み込みに――まだまだ、だよね。


ROUND2、Start。


「こんなの、どう?」

ベッドトップの引き出しに手を入れて取り出す。


「あ……やっぱりそういうの、持ってるんだ」


双方向に薄紫の突起が突き出した、装着具付きのセクシャルアイテム。

ベルトを握ってにんまり笑うと、

「使ったことない?」


「えっと、オンナの子同士では、ね。

ほら、まだわかってなくて、彼がいた時には……」


それ以上は、唇で封印。


「心配なしってことね」

顔を離して見つめると、逸らされた視線と頬の赤みが、無言の同意を伝えて――ふふ、可愛い。


装着側の突起を押し込むと、背中にジン。

うん、久しぶりの感覚だ。


あ、そっか。だよね。


『全部あげたいな、ミユ姉に。カラダ中どこでも、ぜ・ん・ぶ』

――一瞬よぎる、愛しい顔。


こらこら、亜衣。ジャマはなし。


「ね、い、いいよ、ミユ。わたし」

胸の間で手を合わせて待っている様子に、にっこり。


「怖い?」

「う、ううん、そんなこと。

でも、ちょっと、ね。やっぱり、冷たい感じ、でしょ、そういうのって……」


「ふふ、大丈夫……」

グッ――いきなりに。

「あッ」

「……だって、レミの中、あったかくて、溢れてるから」


肉付きのいい腰を抱き上げ、突き出した胸に自分の胸を押し付けると、頬から耳元へへと手で撫でおろし、快感を深く追い始めた紅い顔に囁く。


「感じさせてあげる。真っ白にしてあげるよ」

「え、う、うん……」

「思った通りに叫んでいいからね、レミ。エッチな事、いくらでも」


そして、腰を奥へと進めると――。


**************************************


「はあ」

テーブルの上に肘を付いたままため息をつくと、美悠は淡い光を放つ幾何学模様の天井を見上げた。


あーあ、またSigh、だよ。


でもなぁ。可愛い子は星の数だけど、一等星となると、ね。

それも、あたしだけの、ってなると。


天乃星学園大食堂(≒高級ダイニングカフェ)の五つ星メニュー「ミルキーウェイランチ」を目の前に、思い浮かぶのはあれやこれや、彩なす女の子達のあられもない台詞と肢体の一コマ一コマ。


『ミユ、ダメェ、わたし、ダメだからぁ。

オカシクして、オカシクして。なりたいの、ね、アアンッ』


Erotic/Sexualなのはいくらでも、なんだけど、なぁ。

やっぱ、それはデコレーションだよねぇ。


フォークをくるり――白いソースがかかった柔らかそうな肉に突き刺すと、トレーを持って行き来するベージュとモスグリーンの制服の群れをぼんやりと。


あの子も、この子も、それぞれ元気♡印だし、あっちには可愛い子、大人しくて上品そうな子も……。

でも、アンテナ、こないよなぁ。


――注:ブレザー姿の半数(♂)は消去中――


高く聳え立った白い柱の間、「世界有数サイズの一枚ガラス」から注ぐ陽の色は、やけに紅く見えて……。そして、どこからともなく流れてくるのは、秋色にメロウなスタンダードナンバー。


~♪ 私の好きな場所~♪


ああッ、タソガレてる場合じゃないっての。


今日は白銀に染めた毛先を、両手で首筋からかき上げ。

モスグリーン/ホワイトのチェックスカートから、完璧な稜線を露わに見せる太ももを、グイッと組み合わせ。


そして、切れた眉を上げ、勝気な瞳に火をつけて――。


だよ、な。


いつも笑みを絶やさない口元に、更なる生気が溢れ出すと――楽しいことは、自分で作らないとね。


七色の野菜が彩り豊かなサラダに、勢いよくフォークを突き刺す。

クリームの掛かった柔らかそうなチキン、小麦に焼けたパンからデザートまで、サクサクと一気に始末する。


と、行儀よく並んだアンティークなテーブルの間を抜けて、見覚えのある姿が近づいてくる。

冬の白シャツにベージュのセーターは校則通り、ちまちま小柄なおかっぱの女子生徒――。


「紅さん~」

声をかけるより先に、真ん中にパーツが集まった子犬を思わせる顔が、微塵も陰りのない、ニコッニコを。


立てた親指を顔の前、サムアップ。

黒目がちで小さな目に視線を合わせて――。


「ニヤ」

アンニュイな視線が「彼女」の印象。

佳奈美かなみのイメージさながらに声色を落とす。

「行っちゃいけない場所なんて、この世界には、何処どこにもないの。

自分で、檻を作っているだけなんだ」


立ち止まった子犬な表情が、瞬時に色を変えた。


「でも、佳奈美さん……。

アタシ、わからないんです。だって、アタシ……」


「踏み出す足はあるのよ、ニヤには。

それに気付かない振りをしてるだけ」


「……うふふ」

憂鬱な迷い子の仮面がすぐに消え落ちると、屈託ゼロのニコニコ顔が再び現れた。そして、「本日のランチ」の乗ったプレートをトン。


「こんにちわ、くれないさん。

あ、スペシャルランチですね。いいなぁ」


「食べる? まだデザート、手ぇつけてないよ」


「え、いいんですか?!」

『桃子の後輩』は、胸の前で両手を組み合わせて、満面の笑みを浮かべる。


美悠はフォークをくるりと回すと、顎の下に指を置いて肘を付き、自分より二回りも小さな共演者を見下ろした。

「ほい、どぞ」


「わあ、ありがとうございます」


やっぱり、面白い子。って、今の感じ……?

胸の辺りで何かがピンと鳴りかけて、鼻にかかった可愛げな声が遮る。


「でも、紅さん、しっかりシナリオ読んでるんですね。

四日前に渡したばっかりなのに」

「ふふ、それは未知みちちゃんもじゃない? ニヤ入ってたよ、1000%」


……ああ、そうか。この胸の感じは。


よし。まっすぐ視線を合わせ――しかし、いきなりデザートにスプーンをつけた未知は、何のためらいもなく視線を外し、上品なクリームとフルーツの彩なしへと、「わあ~」。


「このプリンアラモード、前から食べたかったんですよ。……おっとっと、わたし、ほら、もう二ヶ月も前に桃先輩から台本ほんもらって、読み込んでたから。

ほんとう、役決まった時から楽しみで……んん、このクリーム、甘くなくって美味しいです!」


ベージュのセーターに包まれた小さな肩が嬉し気に窄められる。

おかっぱ頭の旋毛を見下ろしながら、初球空振りに、おっとっと。


でも、この感じは間違いなく、だよ。

こないだ桃に呼ばれて映研行った時には、全然気付いてなかった――。


「ね、みっちゃん」

「……はい?」


呼び方を崩して言うと、またしても屈託ない視線が答え。

プレートの横に置かれた左手に視線をやって……うん、華奢で可愛い手。


それとなく指先を伸ばして手の甲に乗せると、今度は的中率100%、角度70度・覗き込みの視線殺で。

「撮影、10月からだよね。ロードムービー風にするって言ってたっけ、雄志の奴」


「ああっ、そうなんですよ!」

フライに伸びかけていた手が止まり声が上がると、短いハの字の眉を寄せ、視線は逸れず真っすぐに――あらら、またダメ?


「二晩ぐらいは泊まりで撮る、って雄さんが言ってて。

わたし、お父さんに許可もらわないと……でも、頼み込んでも一晩が限界かなぁ……」

指先を当てていた美悠の手を、逆にギュッと握り締めてくる。


「紅さんは、全然オッケーなんですよね?」


「ああ、まあね」


「はぁ……、いいなぁ」

大きくため息をつくと、下を向く。

小さな手は、美悠のしなやかな指を握ったままだ。


「楽しみなのになぁ。あの脚本なら、すごくいい映画になるはず……」

心の中でため息混じりのクスクスクス。まったく、映研にいそうな子だよ。

今はとりあえず、戦略的撤退、かなぁ。


――と。

イタタタ!

突然、こめかみの両側にグリグリ、拳の圧痛を感じた。

「な・に・してるの。あんたは。真昼間の学食で」


……って、お。


「桃か」

クールな視線が斜め後ろに。

しかし、口元に作った深い皺は、静かな怒りを湛えて……。


「あのね、見境ないにもほどがあるんだけど。美悠」

「イタタ……ああ、違うって」

「どこが?

あ、あんたには境なんか見えないのか、そもそも」

桃子は美悠の隣にドスンと腰掛ける。


「こっちにおいで、未知ちゃん。ビョウキが移るからね」

不思議そうな表情を浮かべた未知は、いそいそと桃子の隣に移る。


「ひでぇなぁ。たく、人を色魔扱いか?」

まったく、相変わらずだよ、桃は。……まあ、仕方ないか。


「あら、違ったっけ? とにかく、ウチの部の子まであんたの無限煩悩宮入り

させるなら、わたしも考えがあるからね」


「はいはい、了解了解」

両手を上げて見せると、言われなくっても、そういう範疇じゃないよ、みっちゃんは……ん?


「あのぉ……、桃先輩」

当惑と思案を半分づつ、肩口から黒目がちな瞳が桃子を見遣っている。


「紅さん、すごくよくシナリオ読んでるみたいで。なんか、メチャクチャ

いい映画になるかなぁ、と思うんです」

「んん。そう?」

桃子が笑みを浮かべつつ、未知の方へ頷く。


「子犬ちゃん」は、さっきと同じまっすぐで曇りがない表情に見えるけれど……あ、へぇ、そうか。

小柄な身体をさらに小さく屈めて、テーブルに置いた手の親指を無意識にか擦り合わせて、言葉を待つ様子。


「まあ、この子が演技下手じゃないのは知ってるから」

美悠の方を見つつ、桃子は鼻先に指で触れると、

「……ね、美悠」


「ほう、言うじゃない。あたしがいなかったら、あの時どうなったやら」


桃子がほのめかした一年前の文化祭の記憶を蘇らせつつ、「先輩」を見上げる、子犬な表情を追う。


「あ、やっぱり、経験ありなんですね。それって、どんな……」

なーる。これはやっぱり、気付いてないな、自分でも。

……ってことは、逆にあたしにもチャンスあり、と。


いや、でも、下手なことすれば、桃に殺されるな。

うーん。


でも、可愛い子だなぁ。

「桃先輩、考えすぎですよぉ」「未知ちゃんは、わかってないの。この色魔はねぇ……」――まだ全然意識してない感じだし。


頭も良さそう。何より、気持ちが真っ直ぐなのがたまらない。

しかも、堅苦しい感じに隠れてるけど、意外に服の下は……。


っと、ヤパヤパ。


「……美悠」

ん?


「あんた、何にやけてんの?」

「ん?ははは」

にんまりと大きな瞳に笑いを投げる。

いや、それとは関係なしに、ちょっと面白いかも。堅物度ダイアモンド級の桃のことを考えると。


「ッ。あんた、また良からぬこと考えてんじゃない?」

「違う違う、ははは」

どうにも笑いがこみ上げてきて、美悠は鼻に指を当て、クスクスと声を立て始めた。

やがて、天井を仰いで肩を震わせ大笑いをひとしきり、息を吐いた。


ふう――つける薬なし。眉間をハの字に引き上げると、桃子は未知の方に首を振って見せた。


そんな幼なじみと共演者の様子にはお構いなし、期せず始まった撮影談義の間じゅう、美悠は邪心入りの笑み混じりに頷き続けていた。


**************************************


セピア色の空、セピア色の屋根の連なり、そして、セピア色の陽光が降り満ちる。

悲しみの壁で二つに分かたれた街へ、天から翼持つ者が降りてくる。


賑やかなはずの街角も、彼の目から見れば夢かうつつか。ただ、そこが彼の住処すみかでないことだけは確かで……。


座椅子から身を乗り出すと、桃子は、分厚い旧型、32インチの液晶画面に顔を近づけた。


う~ん、やっぱりいい色だよね。主人公の心象に重なってる感じがする。

と言うのか、彼自身の境遇を含めた全体のイメージとして、画が作られているんだ。


ロゴ入りのシンプルな長袖シャツと7分丈のパンツを着流した彼女が座る部屋は、テーブルと食器棚、TVを置けば目一杯な、名ばかりのダイニング。


背中にした座椅子も、それぞれの家具も、遠目にも痛みがわかる使い古したものばかりだった。


ただ、質素に並べられた食器も、TVの上の古い時計も、キッチン横にかけられた調理用具も、雑多なようでいて、どこかホッとする雰囲気を漂わせている。


それは、画面に映っている映画の穏やかな色合いと少し重なり合うようにも見えて――。


ガタン。


と、TV後ろの扉の向こうから音が響き、人の入ってくる気配がした。

桃子は手元にあったリモコンのストップボタンを押すと、腰を上げかける。


「ただいま」

ドアが開くと、軽く真ん中で髪を分けた中年の男性が、細身の背広姿を現わした。

「お帰りなさい、お父さん」

ん――眼鏡の下の穏やかな瞳、皺の見え始めた顔が、柔らかい頷きを返す。


「遅くなって悪かったな、桃子。もう、食べたか?」

「ううん、まだ。だって、今日は……」

と、桃子は、背広姿の父の手に、少し不似合いなファンシーな紙袋が下げられているのに気付いた。


自分で口元が緩むのがわかって、へへへ、と笑いをこぼしてしまっていた。


秋の花が飾られたテーブルの上を見て、桃子の父は、ほう、と唇を尖らせる。

向かい合わせの椅子の前に用意された、食器と小さなグラス。

その脇、木枠の写真立ての中で、桃子似の黒髪の女性がふくよかな笑みを浮かべていた。


「そうか、覚えてたか」

「忘れるわけないじゃない。

お父さんも、急いで帰ってきたんじゃない?」

「どうかな。庁舎前も回ってきたしな」

「……あ、座り込み、まだ続けてるんだ、支援の会の人達」

無言の頷きで答えが返り、桃子は置かれた紙袋に手を伸ばした。


「これ、冷蔵庫に入れたほうがいい?」

「いや、今食べようか」


桃子が大きく頷くと、父はずっしりと膨らんだ革カバンを下ろし、グレーの背広を脱いだ。

「お、ヴェンダースか」

固い意志を覗かせる口元が、画面を見遣りながら笑みを浮かべた。


写真立ての前には、今食べ終わったものと同じ料理が、一箸もつけられることなく捧げ置かれている。

そして、大好物だった洋菓子店のデザートが今、それに加わった。


「彼のを観るなら、一度小津の映画に当たるのもいいかもな。

ええと、何て言ったかな、東京に来て……」

「『東京画』。

そうなの、わたしも小津の映画はもっとちゃんと観ないとなぁって思ってたから」

大きな丸い目がさらに見開かれて、清しい光を放つ。


桃子の父は、すっと視線を外すと、白いものが見える旋毛を向け、デザートをすくい取った。


「お、やっぱり美味いな、これは。変わらない、何年経っても」

桃子は小さく頷くと、自分もスプーンを口に運びながら呟いた。

「15+5で20年かぁ」

母がこの世を後にしたのは5年前、そして、命日は結婚記念日と同じ日――。


父は眼鏡の奥の瞳を一瞬だけ写真立ての中に向けると、スプーンを置いた。

「それにしても、ロードムービー風か。雄志君も、いろいろやるな」


「身のほど知らず。思いつきでいろいろやりたがるのはいいけど、まとめる方

の気にもなれっていうの、まったく。部費が無限にあると勘違いしてんのよ。

ホント、貴族様。天乃星じゃ、誰でも多かれ少なかれそうだけどね」


「はははは」

桃子の父は、今度は心底楽しそうに笑い声を上げると、うんうんと頷いた。

「いいんじゃないか。それに、美悠ちゃんが主演だって?

どう、元気かな、彼女は」


「主演じゃなくて、助演。主演は未知ちゃんの方なのよ。

……そう、そうなの!」

 桃子は机を軽くパンと叩くと、唇をへの字にした。


「まったく、相変わらずで頭痛いんだ、わたしは。ほんっっと、友達やめたく

なるから。どうすればああ、無頼無軌道、恥ナシ社会性ゼロになれるものだか。

ああ……細かく話すとびっくりするからやめとくけれど」


それでもふぅ、と息をつくと、

「でも、わたしが付き合わなきゃ、誰も面倒みれないからなぁ、あの子の場合

は。ホント、参っちゃう……」


繰り返しため息をつく様子に、桃子の父は娘に柔らかな視線を向けた後、眼鏡を外して手元に置いた。


「ねぇ、お父さん」

「ん?」

「恋愛って、一番の約束は心の問題だと思うでしょう? そういうの、わから

ない人が増えすぎてるんだよね」

「そうだな」


「身体も同じように必要って言っても、たぶん、言い逃れだと思う。

心に忠実であるのは、とても苦しい事だし、それが人間にできる一番のことでしょう?」

桃子の父は、目元に優し気な笑みを浮かべながら、うんうん、と頷き続ける。


そして一しきり。

思うままに恋愛観を述べた桃子は、父親の肯定とも否定ともつかない表情に気付いた。


言葉を止めて、残っていたデザートに口をつける。


もどかしいような、ちょっと悔しいような。

でも、そんな気持ちはすぐに解けて、心の中で淡く考えを紡いだ。


わたしと違うものが、父には見えているのかも。

わかっているつもりでも、きっと、年齢がいかなければ見えないものがあるんだろうな……うん、多分、そうだ。


「お父さん……」

そしてひと息、頭に篭っていた熱を冷まして。


前から聞きたかった質問を口に出したくなった時、TVの横でパラパラと着信音が響いた。


『ねぇ、どうして、美悠の家の顧問弁護士をしているの?

企業や権力に権利を侵された、立場の弱い人の弁護を主にしているお父さんが』


『あ、どうもです~、桃先輩。

LINE、見ました?』

席を立ってスマホを取り上げると、耳元に響いてきたのは、未知の元気一杯の声だった。


「あ、ゴメン、未知ちゃん。ちょっと映画見てたから」

テーブルの方に視線をやると、父は外していた眼鏡を再びかけたところだった。


「え、うん、美悠との読み合わせ?

ああ、わたしも行く。月曜日に決まったの?

でも、あの子、柔道部のアシスト頼まれたって………ああ、その後?わかった。

うん、うん、ああ、あの部分はね、ニヤが佳奈美の気持ちがわからなくて……」


話しながらドアを開け、自分の部屋へと消えていく娘の背中を、眼鏡の下の穏やかな目が見送る。


そして、話し声がかすかに聞こえるだけになると、父はカバンの中から小さなワインのビンを取り出し、紫を注いだ。


それから、グラスを写真立ての前のデザートカップにカチンと合わせ、満足そうに飲み干した。

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