GET！

第2話

朝の太陽が、真白なレースカーテンを輝かせ、部屋の真ん中に置かれたキングサイズのベッドまで曙光（しょこう）を届けている。

豪奢（ごうしゃ）な木目の台座の上、オールホワイトの寝具からのぞいた艶やかな肩口が揺れると――。

「う～ん」

裸の腕が伸ばされ、絹の上掛けごしでもはっきり見て取れる、流麗な身体の線（ライン）が動くと、宝石の輝きがまぶたからのぞいた。

眩しげに、朝日輝く大窓の向こうの景色を瞳に映すと、

「ふぅ～」

息を吐いてすぐ、毛先の散ったショートの髪の下、整った顔立ち全てに光が宿る。

ボン、勢いよく上掛けをはねのけて立ち上がる。

淡い琥珀色の身体が、部屋の中央に降り立った。

一糸まとわぬ、伸びやかでしなやかな裸身。

両手を高く掲げて伸びをしつつ、目覚めの笑みを浮かべる。

ツンと張った胸をゆっくりと揺らしながら、３歩、４歩。

大窓のカーテンを両側に引くと、背丈の２倍もあるだろう窓の向こうの景色を見下ろした。

うん、今日もいい天気だ。さあて、ピシッといこうかな。

美悠（みゆう）は、伸ばした両手をしなやかなうなじに持っていくと、乱れた髪を軽く梳（す）きながら柔らかく目を閉じた。

――コツコツ。

と、部屋の反対側、両開きの扉でノックが響く。

「ほ～い」

くるりと振り向くと、ガチャッという音とともに、薄紺のワンピースにエプロン姿の中年女性が現れた。

「おはようございます、お嬢さま」

胸の前には、捧げ持たれた白い盆。そこに乗った、鮮やかな赤色が映えるタンブラー。

「あ、サンキュ」

大股で近づいた美悠は、ドリンクを手に取ると、ゴクゴクと飲み干した。

タオルを受け取って唇を一拭き――そのまま部屋の北側に置かれた木製の衣装棚へと踵を返す。

「ん？」

空になったコップを盆の上に置いたまま、子供の頃からの家政婦は、笑いとも憂いともつかない色を口元に浮かべている。

「どした、志乃バア」

「前にも言いましたけれど、そろそろ、少し寒い朝もありますからね」

「ああ」

ウンウンとうなずくと、ライトブルーのタンクトップに身をくぐらせつつ、にっこり。

「サンキュ。でも、大丈夫。そんなヤワな鍛え方してないからね、あたしは」

誰びともあらがいようのない、影一つない笑み。

中肉中背の家政婦は、それ以上言葉を重ねず、静かに扉の向こうに消えた。

“天乃星の美神（ミューズ）”は、その後いつも通り、別棟のジムで軽いウェイトと打ち込み、そして、汗で濡れた身体をプールに放り込むと、制服に着替えて食卓についた。

ホールとも言えそうな広大なリビング、大きな丸テーブルの上には、厚切りハムにフルーツ、スープに色鮮やかなサラダ、バゲットやバタールもパン籠に盛られて……が、そこに着席する人の姿はない。

今日は父だけでなく、母の姿も。

「ん？乃璃絵（のりえ）は？」

口に出してから、美悠は、ああ、と思い返した。そっか、今日は――。

湯気を立てつつ注がれたモーニングティーにミルクを落として、ふむ。

「ドレスの方がいいかな、志乃バア」

ひっつめ髪の丸顔が、そうですね、わたしではお答えしかねますが……首を傾げると、奥の小テーブルで食事を取っているスーツの男に視線をやった。

「ご心配なく、美悠お嬢さま。いくつかみつくろっておきますので」

執事の南郷が頷くと、後ろに控える長年の世話係も、

「お嬢さま、今日はくれぐれも遅くなりませんように。

旦那さまも奥さまも、今回のレセプションは……」

「オッケー」

紅茶を飲み終えた美悠は、メイドの言葉が終わるより早く、すっと立ち上がった。

雇い人たちを見遣った視線は、クールに笑みを浮かべて見えるが、どこかほのかに優しい――。

「ちょっと野暮用はあるけど、ささっと済ませて I'm Home! するからさ。じゃ、よろしくね」

そして、風の速さでハートジュエルのピアスを耳元に。

「……お嬢さま、また、そんなに飾られていくと」

「いいんだって、朝のレクリエーション。羊ばっかじゃ、センセもつまんないだろ」

――いつも通りの空、変わらない一日の始まり。

でも、やはり今日も特別な一日。

さて！　パシッと行きますか。

豪邸の入り口に聳（そび）え立つアンティークな鉄扉、脇の通用口から陽光満ちる街路へ出ると、白とモスグリーンの制服姿は、軽やかに歩み去っていく――。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

乱取りを続ける道着の群れの中に、見慣れた姿があると気付いたのは、ロケハンを始めて少したってからだった。

それは、「お、美悠ちゃんじゃん」

武道場の周囲を、光の具合を確かめながら歩いていたＹシャツの背中が立ち止まり、赤で囲まれた畳の方を伺う素振りを見せたせいだった。

「あ、本当だ」

（ここからパンダウンして）――心の中で天井の梁を四角いスクリーン型に切っていた桃子は、道場の中心で男子と組み合っている女子の姿へと……あ。

柔道部員と向かい合えばさすがに華奢に見える長身が、ぐっと相手の胸を押し、それを力任せに押し返されようとした瞬間――。

バンッッ！！

男子部員が、その大きさにはまったく不釣り合いな軽さで宙を舞って一閃、鋭く畳に叩きつけられていた。

ヒュ～！！

横に並んだ面長の顔が、驚きに唇を尖らせて見せた。

「見たか、桃子。やっぱすごいよな、美悠ちゃんは」

「うん？　そうかなあ」

素っ気なく応えると（そりゃ、今さらだもの）、映研の相棒は身振り足ぶりで解説を始める。

こう、出足払いってのはさ、で、踏ん張るところを入り込んで……。

簡単に見えるけど、センスだよ、ああいうのは。

畳の上では、乱取りを続ける部員たちの間をぬって、美悠たちの所へ近づいてきた顧問――通称「クマ太郎」が、腰に手を当てて一しきり。

おまえな、素人かよ。なにバタバタしてんだ――。

……あ～あ、かわいそうに。

まあ、細かいことはわからないけれど、あれだけ大きな人を投げるのは、大したもんだよね。

運動分野で、この派手な幼なじみに驚かされることにはもう、慣れっこだった。

別の部員に声をかけられて、また組み合いを始めた道着姿から目を離すと、あごに手を当てて見つめる相棒のわき腹を肘でつつく。

「やっぱり、意外と暗いよね、武道場。いい感じで撮れるかなぁ」

「ん？ああ」

次々回に予定しているタイトルでは、剣道の朝稽古が大きなシーンになる。

この光の具合で、さらに早朝の雰囲気を出すとなると……。

木の壁に寄りかかって一しきり、撮影時間やライティングについて言葉を交わす。

窓の位置や天井を指差しつつ、細かく映像テクニックを語り始めた眼鏡の下の目は、いつものちょっとすかした感じではなく、真剣そのもので……。

「相棒」の言葉にうなずきながら、セイ！　オウ！　バン！と響きが環境音（ＢＧＳ）。

これなら、また、いい絵ができそうだなぁ。やっぱ、雄志だ。

と、映画と関係のないことを思っているのに気づいて、あ。

なに、恥ずかしなごんでるんだろうか、わたしは。

スカートをはさんでしゃがみ込み、肘を膝に、手にあごを乗せてうんうんしている己の姿。それを外の視点から考えて、ハッと周りを確かめる。

（誰も、見てなかっただろうね……）

「ギャ！」

いきなり背中に気配。

そこには、白い道着に身を包んだ、しなやかな姿が見下ろしていた。

「……よ、桃」

肩に掛けたタオルで豊かな胸元を拭いながら、にやりと口の端を上げたいたずらっ気な表情。

い、いつの間に。

「映画の下調べかい？　ご苦労さん」

「どうも。美悠ちゃんも、また助っ人？」

隣の雄志の方を向きつつ、美悠が歌う鼻歌は《アイラァ～ァブユゥ～♪》

「……美悠ぅ！」

はずかしメーターが頬まで駆け上がって睨みつけると、美悠は「何？」シラッと眦（まなじり）を上げただけ。

「ちょっと気合入れてやってくれって。クマさんにね」

面白げに視線を空に向けた雄志に美悠が答えた時、目の前にある道着の胸元が妙にはだけていることに気付いた。

「なるほど。女子にやられてりゃ、未熟さがわかるだろうって？」

「そいうこと。まったく、人を何だと思ってるんだか」

「ちょっと、美悠、あんた」

肩を押して雄志に背を向けさせると、目配せをする。

豊かな谷間がはっきりと見て取れる胸元。まさか、ブラだけ？

「……ああ」

美悠は屈託なく胸元を広げると、ニッコリ。

「あのＴシャツ、重っ苦しくてさ。デザインも、生地も」

道着の下にあったのは、ＴＶなどでお馴染みの白いＴシャツではなく、大きく胸元がＵ字にカットされた青いタンクトップだった。

「しょうがない奴らだよねぇ。道着がずれた瞬間に、「おっ、スキあり」だっての。修行が足りない足りない」

肩から力がいっぺんに抜けていく感触。

はあ、まったく。

「そういうこと……。あんたねぇ、ひょいひょい見せて、恥がないわけ？」

「どこが？　あいつらに見られたからって、減るもんでも。

そりゃ、カワイイ子にジッと見つめられたら、あたしだって……」

と、突然、パンと手を叩くと、

「あ、そうだ」

くるりと振り向き、雄志の耳元に口を寄せると、

「あそこ、見える？」

……今度は何よ？

相変わらずのクルクル千変万化ぶりに、いつもの諦めモードが兆しかけた時、「へぇ～」という雄志の声と共に、二人の視線の先にあるものに気付いた。

休憩時間、めいめい壁の近くでくつろぐ野郎の群れの中に、異質な姿がある。

髪はベリーショート、ちょっと見には紛れてしまいそう――でも、華奢な肩とその立ち振る舞いは、間違いなく。

「どう思う？」

「う～ん。どうかなぁ。ボーイッシュ、って感じだけど」

美悠と肩を並べ、答える雄志。

柔道部には女子はいなかったはずだけれど……ああそうか、少し前に噂で聞いた。

最近になって、ずっと柔道やってた子が……、じゃない！

「いいねぇ、ああいう子も」「美悠ちゃんも、レンジ広いね。オレは……」

臆面もなく女の子の品定めに同町する相棒の横顔、それに、美悠、あんたは……。

「ちょっと、何やってんの。失礼でしょうが、二人とも！」

立ち上がって言うと、お、ゴメンな――指を顔の横に掲げて上目遣いにする相棒。

何が？――タオルで顔を拭いながら形のよい眉を上げる幼なじみ。

怒りのディレクション、定まる。

「そもそも、美悠、あんたは。

パートナー、見つけたって言ってたでしょう？　この間」

「は？……ああ、ああ」

にっこり笑みを流すと、

「優希かぁ。なんかね、新しい恋を見つけるってさ。うん。いいよなぁ……」

「新しい、恋ぃ？」

「ああ、そうだよ。あたしとは、恋の入学式、ってとこかな。

大丈夫、優希なら、いい子が見つかるよ。素直だし、カワイイし」

……って、つい半月前まで、「美悠センパイ～」とか言って、くっつき歩いてたじゃない。

ああ、アタマが痛くなってきた。やっぱり、普通じゃないよ、この子の周りは。

それでも、口が動いてしまう。

「それ、“いい子”が見つかるって……聞かなくても、だけど」

「ああ、そうだよ」

再び、無敵の微笑み。

「あの子なら、可愛がってくれる優しいコがベストだろうなぁ」

やっぱり。

まったく、無邪気に広げないで欲しい、そういうシュミの輪は。

桃子は、薄い茶の入った大きな瞳を諦め色で全てにすると、胸の中で、Sigh。もう慣れっこだけど。

と、野太い声が向こうから飛んできた。

「お～い、紅。頼むぞ」

自分より頭一つ高い頭がくるりと振り向くと、

「Sorry、クマ先生。本日は、ここまで」

「おい、もうバテか？　持久力ないのが、お前の欠点だからなぁ」

美悠は、カラカラと笑うと、手を振った。

「違うって。もうちっとスキッとしたいけど、オフィシャルなおつとめあり、だから」

濃い顔立ちの体育教師の口が、おうっ、と開かれた。

「おお、おお、そうか。例のエセプションか」

平板なイントネーションにハハっと一息、見事なブレッシングで、

「リセプシャン、ね」

それじゃ、また来るからさ――部員たちに手を上げた背中へ、隣から声がかけられた。

「やっぱ、行くんだ、レセプション」

美悠は振り向くと、

「あ、雄志、あんたも？」

「まあね。ちょっと社会見学込みで」

「ふ～ん。……桃、あんたは？」

桃子は眉を上げて、首を軽く振った。

ここに来る前にちょっと雄志とも話題にしていた、政財界のお歴々の集うパーティ――。

「まさか。わたしの家とは縁のないところでしょ」

「そうかなー。ウチのお父上は、あんたのとこの親父さんも、って言ってたような気がしたけど」

ま、いいか――そんな様子で踵を返す美悠。

歩み去りながら部員達に手を振る道着の背を見つめて、ため息混じりの呟きが耳に届く。

「やっぱ、大したもんだ。美悠ちゃんは」

桃子は、雄志の面長の顔を視野の端に、鼻で息を吐いた。

その気持ちは、わかる気がする。

こうして近くにいれば、くるくると七色に様変わりする空気。

普通なら、顰蹙（ひんしゅく）を買ってもおかしくない振る舞い――でも、当の柔道部の男たちは屈託なく、じゃあな～、と手を上げ返している。

それでも、続けて放たれた入学以来の映研の相棒＋Somethingの一言に、ちょっと待ってよ、と言いたくなる。

「考えてみないとなぁ。『Breathless』のキャスト」

……と。

「すいません」

後ろからきりっとした声が響いて、桃子は背筋をビクッとさせて振り向いた。

「はい？」

この子――あれ、さっきまであそこに……。

しかし、視線の先には、もう誰も立っていない。

雄志もやあ、と手を上げる。

真っ直ぐにこちらを見つめているのは、やはり、さっき話題に上っていた柔道着の女の子だった。

「あの、映画研究部の西涼さんと、小田桐さんですよね？」

ベリーショートの黒髪の下、引き締まった眉と黒目がちな瞳。

それは、緩みなく清々とした、「武道系」イメージそのままの表情だった。

「そうですけれど」、自分とさほど身長差のない小柄な下級生にまっすぐ視線を返すと、小ぶりな顔が一瞬下を向いた後で、またこちらを見つめた。

「すいません、突然で……」

わずかに逡巡（しゅんじゅん）する様子に、雄志が柔らかく、

「どうしたの？　何か聞きたいこと？」

唇を結んで頷くと、ボーイソプラノの声音（こわね）が、意を決したように、

「お二人、紅先輩のお友達なんですよね」

「……それはまあ、そういうことになると思うけれど」

唐突な出現と質問に、不可解さが背中をもどかしくくすぐる。

彼女は目を瞬くと、

「紅先輩って、以前からあんな感じなんでしょうか？」

さらに唐突な問いかけ。

「あんな感じって？」

「男の子っぽいって言うのか、さっぱりしているって言うのか……」

「まあ、あんな感じだよな。俺は、中学からしか知らないけどさ。どう、桃子」

雄志は気にした風もなく、こちらを向いて同意を求める。

「ま、まあ、ね……」

答えると、女の子の小ぶりな唇が、一瞬何かを想うように引き締められ……美悠の消えていった方に向けた表情……何か、思い巡らせている？

少なくとも、先輩～っ、と朝に夕に雲霞の如く湧き出てくる女の子たちとは、違う様子だった。

「すいません。ありがとうございました」

ぺこり、と深く礼をすると、道着の女の子は足早に畳の方へ戻っていった。

「へぇ～。また、新規会員誕生かな？　ファンクラブの」

軽い調子のコメントを聞き流しつつ、男子部員の中に紛れていく小柄な道着姿を目で追っていた。

頭が小突かれ、何か高笑いしている周り、屈託なく言葉を返す風の身振り手振り。

遠くから見ると、すっかり空気に馴染んだ柔道部員にしか見えない。

ふ～ん……。

桃子は少し考え深げに視線を落とすと、雄志に言った。

「さ、ロケハン、次に行こう。プールサイドだったよね」

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

ウェイターの手の上、優雅に捧げ持たれた銀のトレイの上では、パステルカラーのデザートが、盛り付けられたグラス越しに七色の光を散らしていた。

「一つもらえる？」

ダークグリーンの三つ揃えが折り目正しい長身のウェイターに呼びかけると、ブルーのブレスレッドが光るしなやかな腕が、透かし彫りの入った小さなグラスを受け取る。

手の平にひんやりとした感触。

白・赤・紫が重層的に交じり合ったデザートをスイッと切れ長の瞳の高さに掲げる。

「トライフル？」

「はい、少々特別な製法でお出ししております。どうぞお召し上がりください」

「よさそうじゃない」

穏やかに微笑むと、中年のウェイターは華やかなドレスに和服、イブニングフォーマルが集うテーブル群へと、滑るように歩み去っていった。

シャンデリアの輝きが作り出す、金と白銀の陰影。

毛足柔らかな薄紅色の床に、光のロンドが映し落とされている。

銀色のスプーンで、アイスとビスケットで衣づけられた赤いベリージャムを口に運んだ。

お、結構お酒が入ってる。かなり高級なブランデーだ、これは。

うん、おいしいおいしい。

少し前まで目まぐるしく動き回っていた人の流れが緩慢に、歓迎会は落ち着きを見せ始めていた。

今日のレセプションの始終を思い浮べながら、美悠は青い光をまとう手首を指で押さえて、くるくると回した。

繊細に絡んだ細いチェーンにアクアマリンのブルーが散らされたブレスレッド。

そして、同系色のネックレスとイヤリングが光る乳白色のうなじから下って、しなやかな身体に纏うのは……。

今日は薄茶に大人しく整えられたショートヘアーの下の目が見上げた先には、中央の大シャンデリアから流線形に白い梁を延ばす、薄紫色の天蓋――そして、とりまく小シャンデリアの下では、白い肌にカラード、もちろん日本人まで、どこか覚えのある面々が、グラスを手にあちこちで歓談していた。

半世紀ぶりに訪日した、欧州大国の皇太子。

何より家族を重んじる、かの国の王族を迎えるにあたって、家族、子供たちも交えたレセプションが催され――とは言え、それはうわべだけで。

『王子さま方も、成長なされましたね』

うやうやしい英語のやり取りの後、そつない立ち振る舞いで父親が紹介したのは――

『私の娘も、ちょうど同じ年頃なのです』

『そうですか』

温和な表情で頷く、でもジャラジャラとセンス古め、正装の皇太子夫妻に、

『妻と、娘です』

そして、にこやかな歓談、数分。

いつもは豪快に笑うゴツイ系の父が、秘めた頷きを寄こした瞬間、はいはい、オールオッケーってことね。

そして、ちょっと重めのドレスを引きずる母と腕を組んで人の海の中へと。

『美しく、聡明なお嬢さんですね。この国での、息子の友人になってくだされば嬉しいです』

年かさの「皇太子」が視線をくれて（まあ、落ち着いたいいお父さんって感じではあったけども）、少しタイトで、ロマンスブルー／シースルーなこのドレスをにっこり見回した時、父上の思惑は9割方成功、というわけか。

ビジネスも大変だ、まったく。

食べ終わったデザートグラスを真白いクロスがかかったテーブルに置くと、えんじの長いカーテンがかかった大きな飾り窓をちらと仰ぎ――

と、素肌の肩口に、人の気配。

「お一人で、退屈ではないですか？」

ロマンスグレーの髪の、自信家そうな男。

「いいえ、少し人いきれに当たったので」

にこやか、目蓋を落とし気味に答える。

続けて、30代半ばか、黒い髪、これでもか、と整髪料で撫で付けた男。

「紅さんのお嬢さんですよね。わたくし……」

「ごめんなさい。今、あちらに行かないと」

ったく、場所が高貴になろうが、人は変わらないか。

窓側をもう一方の端へと歩きながら、おっと……。

くるぶしへと斜めに切れ上がったフリルの裾が、足首に絡まりかけた。

ああッ、やっぱりこういう格好はあたし向きじゃない。

……とは言え、先に引き上げるわけにはいかないな、さすがに今日は。

お開きの時間はまだかいな――王子様たちも引き上げたし、そう時間はかからないはず。

ニコッ。

と、オードブルが乗った丸テーブルの向こうに何となく目をやった時、輝く瞳、目を引く姿がそこにあった。

ん。

へえ……あんな子、いたっけ？

あちこちにあしらわれたレースが繊細、ただ、大きく胸元が開いたピンクのフレアドレスをまとったその女の子は、どこか悪戯っ気をのぞかせるネコちゃんで。

ドキ。

うんうん、退屈ばっかりじゃね。これは、GOD BLESS ME、かな。

となれば、さて。

胸の内のふつふつに、グッ。心のスイッチをオン―――

「こんにちは。紅さんですよね」

……え？

「あ？　はい。ええ、そうですけど」

こちらから歩み寄るより先に、近づきつつの声。

おっと予想外。ともあれ、いつもより丁寧にしないと、ね。

「ああ、やっぱり。

先ほどから、そうではないかと思っていました」

優雅な声に、こちらも優しく、にっこり、極上のスマイルを送る。

肩口へ巻いたセミロング、内に秘めたものはありそう⇔上品そうなこの子のドアノブ、見つけなきゃ。

……へえ、背が高い。

あたしとそう変わらない。

「わたし、葉谷川（はやかわ）綾乃（あやの）と申します。紅さんも、お父様のお付き合いで？」

「ええ、まあ」

にっこり、まっすぐこちらを見つめ返してくる大きな瞳。

ちょっと尖った顎に、白くて柔らそうな肩口。それに……。

「お互い、暇で困りますね。……綾乃さん」

「ええ、本当に。紅、美悠さんでよろしかったですか」

カチッと、胸の中でスイッチが鳴った。

ボリュームのありそうな身体が、すんなり、息がかかるほどそばに立った時に。

「舞踏会などは、催されないんですね。今日は」

冗談めかしながら、薄桃色のジュース（アルコール？）の入ったグラスを持って、斜め横に肩を並べてくる。

「それは、ね。

もっとオフィシャルな歓迎行事なら、わからないだろうけれど」

開いた胸元に視線を落としつつ、少しくだけた調子で答えると、

「でも、女性同士では踊れませんものね。どちらにしろ」

密やかに返ってくる、唐突なレス。

……なるほど、ね。

「ふふ。悪くないんじゃない？　ドレスの女の子が二人で踊るって言うのも」

ストレートに返すと、真っ直ぐな線を描く太めの眉、流線型を描くまつ毛の下で、もの思わしげに伏せられる瞳。

そして、緩やかな三角をつくる頬の稜線が、薄く染まったように……けれど、それは。

手の甲に、柔らかい感触が添えられた。

「どこかで、また、お会いできるかしら」

囁き。そして、こちらの手を包み込むように動いた指先は、微妙に誰からも見えない、テーブルの影で。

「できたら、この後でもいいのだけれど……」

ホールの片隅とは言え、ほんの少し先ではたくさんの来賓たちが行き来している。

普通なら、何か答えを返さないといけない状況か。

でもね、あいにく――

「うん……、どうしようかなぁ……」

オードブルを探す素振りをしながら、さらに壁際へ。

――あたし、受け身はきらいなんだよね。

手首をグッと握り（ん、結構華奢なんだ）、ふわり、えんじのカーテンをひるがえし、布の向こう側へと引き入れる。

握った手首を、寄せた身体の間にはさみこんで、肘ごと腰を抱きすくめ……まんまるに見開かれた大きな瞳が、ズームイン。

そんなに、固く窄（すぼ）めなくても、ね。

有無を言わせず押し付けた唇。それは、少し塩辛いテイストで。

「やめ……」

空いていた右手が肩を押しのけようと抗う。でも、ダ～メ。

ドレスの上から、胸のふくらみに手を添え――抱き寄せた右手の下で、びくっとする腰。

喉の奥で、あらがう音がくぐもり聞こえて。

少し開いてくる唇。離さない。

太ももを押し付けると、続けて体全体を密着させる。

そして、空いていた右手も身体の間で拘束――ほら、もう、動けない。

お尻と胸に添えた手、同時に柔らかく、キュムッ。

手の平に返ってきたのは、ふんわり柔らかい、薄布を間にしただけの感触。

へぇ、そんなにファウンデーションしてない。生のままで、このスタイルなんだ。

唇が苦しげに開くのと同時に、見つめ返していた瞳が、少し潤みかけた。

……さ、もう許してあげようかな。

身体を離すと、見開いた瞳は、そのまましばし停止。

「裾、直しなよ」

そして、カーテンを開けて光の下に戻ろうとした瞬間。

ヒュッ！

……っと。

飛んできた平手を肩口で受け止めると、

「どういうつもり！」

高い声が響き渡る。

「どうって？　あたし、受け身はキライだから」

周りをハッと伺うと、女の子は唇を引き締める。きれいに真ん中で分けられた前髪の下では、燃えるような色の瞳。

そして、低い声で、

「……わかって？　あなたのした事…………無理に。訴えてやるから」

「どうぞ、ご自由に」

美悠はうんうんと頷くと、涼やかに、

「誘いかけてきたのは、そっちだと思うけど。それにさ、恋は邪心ナシでいかなきゃね。余分なモンは挟まないで」

握り締めた拳の強さが、離れていてもわかる。

さらに、顔全体がランランと臨戦体勢。

……あらあら、こりゃ、大ネコだ。

「どういう意味？　何を根拠に」

「どんな意味も。何となく、カンかな。でも、外れてないでしょ」

奥歯の軋みが顎に浮かんで……ギリギリギリ。

「……このままじゃ、すまさないから！」

頭をそびやかすと、肩先を風が通り抜ける。

と、にっこり見送る視線の先で、突然、足がガクッ、腰がくだけかける。でも、何事もなかったように立て直すと、ピンク色の背中は、出口の方へ歩いていく。

はは、やっぱり、ヒールか。背の割には、華奢だと思った。

消えていく背中を見届けると、小さく一つ、息。

……ふぅ。にしても、まったくどんなつもりなのかねぇ。

綾乃ちゃん、って言ったかな？

カワイイ＆柔らかそうなコなのに。

その時、視野に入り込んできた、見慣れた顔。

後ろを振り返りつつ、短髪＋細面の男子がこちらにやってきた。

「お、雄志」

胸の前で軽く手を上げると、向こうも手を上げてから、もう一度後ろを振り返った。

「どうも、美悠ちゃん」

「こちらこそ。やっぱ、来てたんだ」

自然にもう一度軽くもれる鼻息、はぁ。

「ん？やっぱ退屈そうじゃない」

「まあねぇ。

でもさ、似合わないなぁ、それ」

ダークブルーの三つ揃え、いつもと落差な出で立ちに笑いが漏れてしまう。

「ひどいな。これでもさ、目一杯何とかしようと思ったんだぜ……それより、今の、葉谷川のお嬢様じゃなかったかな？　えらく肩怒らせて出てったけれど」

「ああ、綾乃ちゃん、ってたかな」

「そうそう、綾乃嬢。知ってたんだ、美悠ちゃん」

「まあね…。あ、葉谷川……ああ、そっか」

華族の流れを汲むとか言う……我が家なんかとは歴史が違う、名家、だったか？

「あんたこそ、知り合い？　気になるみたいだけど」

まだ振り返っている幼なじみの彼氏に問うと、いつも通りちょっとすかした調子で、

「知り合いってのか……まあ、そういう階層の中じゃ、外せないって言うのか、ね。いろんな意味で」

「ふ～ん。あんたもいろいろ大変そうだねぇ」

代々政治家の雄志の家を思い浮べつつ、自分や桃は気楽かな、と思う。ホント、退屈そうな世界だわ。

まわりくどく儀礼的に行われたレセプションの始終、さっきの唐突な出来事をもう一度思い浮べつつ、Sigh。ああ、今日はこればっかりかも。

雄志としばらく話している間に、ようやくざわざわと人の解ける気配。

じゃあね、帰るから――手を振りかけて、言い忘れた一言に気付いた。

「そうだ、雄志」

「ん？　何」

今日は伊達メガネなしの細い目を、軽く睨んで、

「桃、たまにはどっか連れてってやりなよ。この間、ブツブツ言ってたからね。

映画ばっかにかまけてると、別のオトコにさらわれるよ。あれで、結構もてるからね、桃は」

「ああ…」

ちょっとびっくりしたように唇を閉じた後、目元にいつもの調子が浮かんだ。

「…わかったよ。サンキュ、美悠ちゃん」

そして、何かを隠したような、少し鼻にかかった笑いが漏れる。あ、こいつ。

「ほら、気に入らないんだよね、その笑い。今日武道場でも思ったけどさ。

なんか、自分だけわかってる、って感じでさ」

おっ、という表情で、雄志は顔の前に手をかざした。

「ゴメンゴメン。クセでさ。まったく、美悠ちゃんには敵わないよ」

「わかったならいいけどね。気ぃ悪くしないでよ。ま、友達としての忠告ってとこかな」

口元に笑みを浮かべると、くるりと踵を返して歩み去っていく後ろ姿。

非の打ちどころのない優美なボディラインをうかがわせつつ、少しマーメイドに広がったドレスの裾を揺らす背中を見つめながら、雄志の唇は小さな呟きを漏らした。

「うん、やっぱり。美悠ちゃんしかいないな……」

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

学生会館への長い回廊は、午後の陽射しで溢れ、ベージュの壁に並んだブラウンの格子窓は、先へ先へと自分を誘っているよう。

足取りが、軽くなる。

今日は、授業当番の御用聞きがあって、少し遅れてしまった。

時々、思う。

別に嫌だってこともないけれど、変わり映えのない、学校での日々。朝のホームルームが始まった時、その後永遠に一日が続くような気分の時もある。

誰もかれもが優しくて楽しいけれど、それ以上ではなくて。

でも、放課後が近づくにつれて、陽が差し始める。

……部室に行けば、今日も、きっと。

そう。

多分、わたしは、この時間を過ごすために、学校に来てるんだよね。

階段を上がって一番上、「映画研究会」と大きく書かれたドアを開けると。

「部長、遅れてすいませ～ん！」

カメラや照明器具、編集機材やパソコンが所狭しと並んだ奥には、モスグリーンと白の制服の小さな背中が見えていた。

「あ、未知（みち）ちゃん」

内側に毛先が散ったショートの頭がくるり。

なだらかなやま型の目が、落ち着いた様子で頷く。

「あれ、他の人は？　雄さんとか……」

子犬を思わせる懐こい表情が、おかっぱ気味の黒髪の下で、ちまっとした眉を寄せた。

「もしかして、撮影ですか？　いつも雄さんの、『この光だ！』って」

「ううん、今日はお開き」

桃子は首を振ると、胸元、緑のリボンを軽くもてあそんだ。

「……どうかしました？　桃先輩、ちょっとブルーですよぉ」

「ああ、そうでもないけどね」

ふ～ん、と息をついてから鼻の頭に手を、そして、まっすぐに視線をくれると、

「ね、未知ちゃん」

「はい？」

いつも思慮深い先輩が、わたしに何を？　ちょっと胸にグッとしながら待つと、薄く知的な唇がトーンを落として、

「なんか、ちょっと考え込んじゃってね」

真面目な調子に、未知は桃子の隣のパイプ椅子にちょこんと腰掛け、丸い肩を乗り出しした。

小柄な二人が、機材満載のテーブルの間、埋もれるように向かい合う。

「雄志がねぇ、『Breathless』のキャスト、あの子に振ってみようか、って言うのよ」

「え、もしかして、『佳奈美さん』のキャスティング？」

「そう。あの役。

未知ちゃんも、困ってたでしょう、決まりがつかなくて」

次回作「Breathless」の主役は、未知に決まっていた。

ただ、ストーリーのポイント、主人公・ニヤの「逃避行」、そこで一緒になる憧れの人、佳奈美の配役が……。

「難しい役どころですよね、すごく影があるし。

わたし、改めて思っちゃいましたもん。雄さんと部長、よくこんなの書けるなぁ、って」

「それは、ね。でも、全然念頭になかったから」

また桃子はため息をついた。

誰だろう、こんなに桃先輩が悩む人って。

「よかったら、聞かせてもらえません？　っていうか、聞きたいです」

「うん、それは、未知ちゃんに言わなきゃ始まらないもの」

そして、桃子は「その人」の名前を口にした。

「ええ～ッ！　紅さんですか！　う～ん……」

一瞬驚いた後、すぐに脚本と絵が頭の中で重なるのがわかった。

「………、でも……」

桃子の大きな目と視線が合った時、そこにあるのが、同じ思いであることがわかった。

「やっぱり、そう思う？　ぴったりだって」

「はい……。全然、違うタイプなんですけど」

膨らんだ袖から伸びた両手を首筋に当てると、桃子はあ～あ、と声を上げた。

「参ったなぁ」

「どうしてですか？　紅さんなら、すぐにオッケーくれると思いますよ。

何でもやる人、なんですよね」

「まあね……」

納得していないのが、口ぶりからよくわかる。

そんな桃子を目にするのは、初めてだった。

「あの子が参加して、タダですんだこと、あんまりなかったから」

「え？　前にもウチの作品に出たこと、あったんですか？」

「ううん、そういうことじゃなくって。長い付き合いだから、何度か、一緒にコトを運んだこともあるの」

へぇ……。未知は、小さく頷いた。

それは、紅さんがいろんな意味で「スゴイ」人だってのは、知ってるけれど。

「大丈夫ですよ、桃先輩。わたし、がんぱっちゃいますから。紅さんと競演なら、やる気もまた出ちゃいますし」

桃子は、くすっと笑うと、パイプ椅子から身体を起こした。

「いいなあ、未知ちゃんは。いっつも前向きで。

よし、わかった。わたしも腹が決まったかな。雄志にも、オッケーって言っとく」

桃先輩の明るい顔。うん、よかった。

そっか……。「Breathless」、主役が決まっただけでずっと楽しみだったけれど、紅さんとか。

いい映画が、できそうだなぁ……。