04.目標は一分
可憐の顔が、
長いストレートの黒髪だけが
視線を、上げる。
ショートパンツから伸びた可憐の白い太腿を掴む、腐りきった肉のような、黒ずんだ緑色の巨大な手。
突如、ギュルカカカカカ……と、例の気持ち悪い喉鳴らしの音が大音量で鳴り響き、窟内に大きく木霊した。
「リッ――」
リリス……と叫ぼうとして、途中で言葉が途切れる。
恐怖に強張った可憐の顔が、グールと共に音もなく遠ざかり、闇に同化した。
「どうした? 何があった!?」と、上から勇哉の声。
「可憐が……グールにさらわれた!」
プラプラと、白い背骨だけになったケイブドッグの下半身が脳裏を
急速に心を蝕んでゆく最悪の想像。足が
――だめだ! あれこれ考えてる暇はない!
悪夢を振り払おうと二、三度首を振る。
可憐が落としていった松明を拾い、不安定な足場に何度もバランスを崩しながらも、一気に岩礫の山を駆け下りた。
「きゃあっ! ちょっと! 紬くん!」と、肩から聞こえるリリスの悲鳴。
「しっかり、シャツか髪の毛に掴まってろ!」
――転んだら転んだんで、その時はその時!
そう思って思いっきりダッシュをしていたのだが、よろける度に反射的に加重移動を繰り返し、転倒することなく底に辿り着く。
火事場の馬鹿力とはよく言うが、まさに奇跡だ。
「あいつは、どっちに行った!?」
「川の方! 可憐ちゃんの悲鳴が聞こえた!」
――悲鳴? 何だ? 何があった!?
骨と肉を噛み砕くような不気味な音が、ずっと耳の奥にこびりついている。
――無事でいてくれ!
「かれ――ん! どこだぁ――! かれ――ん!」
「……紬か?」
「かっ、可憐!?」
――生きてる! かなり近い!?
意外なほどあっさりと求めていた反応を得ることができて、逆に戸惑いながら。
――でも、どこだ!?
暗闇の中で声だけが反響して、方向がよく分からない。
「紬くん、あっち!」
リリスの指差す方向を確認して足早に駆け寄る。
本能が、暗闇に潜む危険に警鐘を鳴らしている。しかしそれ以上に、早く可憐の無事な姿を確認したいという渇望が勝っていた。
二、三十メートル程走った所で、突如、眼前の暗闇に可憐の姿が浮かび上がる。
そこでようやく歩を緩めて辺りを警戒するが……。
――グールはいない?
片膝を着き、低い姿勢でショートソードを構えている可憐。
心配していた太腿は、強い力で圧迫されていたせいかやや黒ずんで変色はしているものの、大したことはなさそうだ。それよりも……。
視線を上げる。
左側頭部から血が流れ、白くて綺麗だった左頬を覆い尽くすように掠り傷が広がっている。
左腕もダラリと下がり、ボロボロに破れた袖の隙間からも、血が滲んでいた。
急いで鞄からポーションを取り出し、蓋を開けて可憐の口に流し込む。
「大丈夫か!? 何があった?」
「運ばれている最中、あいつの体に向かって思いっきり剣を突き刺したんだが……それで驚いたのか、放り投げられて、この
「その傷――」
顔を
「地面に落ちたときに、暗くて受身を取り損ねた。軽い脱臼だと思うが……左肩だし、大丈夫だ」
――これで、大丈夫だって?
元の世界の年頃の女の子であれば、真っ先に肌の傷を気にするところだ。
しかし可憐は、冷静に、戦闘力に影響がありそうな負傷のみを申告する。
――可憐が特別なのか?
いや、多分、これがこの世界での常識なんだろう。
ごく当たり前のように、命の心配を最優先で考えなければならない日常。
そんなことは何も考えず、気楽に書いたノートの設定だったが、それによってこの世界に生きる人たちは過酷な日常を強いられているのだ。
胸の中に、なんとも言えない罪悪感と申し訳なさが沸々と湧き上がってくる。俺がここにいるのは、もしかしたら、こんな世界を作り出した罰なのかもしれない。
「グールは……どこに行った」
「分からない。でも、まだ近くに潜んでいると思う。感じるんだ、視線を……」
「リリスは? 分かるか?」
「ダメ。完全に気配を消されてる」
俺たちに悟られることなく岩礫に登って可憐をさらっていったような奴だ。
今もジッと、息を潜めて暗闇の向こうからこちらを伺っているんだろう。
――どうする? 逃げるか? それとも……。
「……
片手剣を構える可憐の横で俺も、六尺棍を持つ手に力を込める。
この暗闇の中を自由に動き回り、完全に気配を消せる優秀な
逃げたところで、逃げ切れはしないだろう。
それは、覚悟を決めた表情で暗闇を見据える可憐の横顔も物語っている。
――やはり、迎撃一択だ。頼みの綱は……。
「リリス。俺の指示は待たなくていい。奴を発見したら即座に
「リリスたん?」
「デカくなってやっつけろ、ってことだよ」
「分かった!」
俺たちの会話が耳に入ったのか、可憐が小首を傾げる。
「もしかして……トゥクヴァルスのあれは、やっぱりリリスちゃんだったのか?」
――やっぱり、可憐はメイド騎士モードのリリスを見ていたのか。
「ああ……。魔力の消費が激しくて気安くは使えないんだけどさ」
「見間違いかと思っていたが、やはり戦闘能力があるんだな、リリスちゃん」
「
「謝る必要はない。おまえが自分の身の危険も顧みず、仲間のために行動していたことは分かっている」
「そんな、買い被りだよ……」
〝一生懸命頑張りました〟で評価されるのは、何度でも失敗を挽回できるような世界での話だ。
死と隣り合わせのこの世界では、力の
次は間違いなくボスキャラだ。
そして、俺は今、リリスという武器を持っている。
――今度こそ、魔力が尽きるまで、全力を以って役目を果たす!
「リリス……」
「何?」
「出し惜しみはしなくていい。最初から全開でいけ。目標は一分だ」
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