11.月明かりの下で

 ロビーへ消えていく優奈ゆうな先生を見送って、ゆっくりと立夏りっかに向き直る。


 腕やひざなどあちこちに付いた土汚れ。

 夜の山道が涼しいとはいえ、真夏だ。汗もかいているだろう。


「と、とりあえず……温泉でも入ってきたら?」


 露天風呂が夜九時までの営業だったのを思い出して入浴を薦めると、立夏もうなずいて従う。


 その間に俺も、今日見つけた立夏の縦笛を部屋まで取りに行った。

 傷だらけの笛を見て、再び心が痛むが――。

 それでも見つけるべきだと思ってここまで来たんだ。覚悟は決まってる!


 再び露天風呂の近くに戻ると、表のベンチに腰かけて立夏が出てくるのを待った。

 山の上……というのもあるだろうが、この世界ならではの澄みきった空気。

 月はほぼ半分に欠けているが、それでも、外灯がいとうでもあるかのごとく世界を青白く照らしている。


 なぜ、立夏が来たんだ?

 口の堅い可憐かれんが話すことはないだろうし、うちの誰かと通話でもしたんだろうか?


 今日、いもうとと話したのが夕方四時頃だったから、俺がここに泊まることを立夏が知ったのもそれ以降。

 仮に四時直後だったとしても、この時間にここにいるってことは、そこで直ちに家を出た計算になる。


 何か急ぎの用事でもあったんだろうか?


「その時の紬はまだ、これから起こる惨劇を知る由もなかった……」

「変なナレーション付けるな!」と、ウエストポーチの中で横になっているリリスを睨みつける。

「だって、そんな傷だらけの笛を渡したら、絶対怒られるよ? 下手したら絶交だよ」

「ま……マジ?」

「さあ? っていうか、もう食事もできなそうだし、暇だし……私、眠くなってきたんだけど」

「うん、寝てていいぞ。っていうか、是非!」


 それから三十分ほどが経ち、立夏が脱衣場から出てくる。

 俺を見つけるとゆっくりと近づいてきて、三十センチほど間を空けて隣に座った。


 どう切り出していいか分からず、少しの間沈黙が流れるが――、


「えっと……これ……」


 見つけた縦笛を差し出すと、立夏が黙ってそれを受け取る。

 特に驚いた様子も見せないし、どうやら俺がここに来た理由は察しているらしい。

 暗い中でも手触りで状態を感じ取ったのだろう。受け取った瞬間、一瞬だけ動きが止まる。


「増水した川に流されてて……下流で見つけることはできたんだけど、かなり傷がついちゃってて……ごめん」

「うん」

「お兄さんの容態のこと、可憐から聞いた」

「………」

「それを聞いてなおさら、どうしてもそれ見つけなきゃ、って思って……」

「………」

「大切な品物だったのに、そんなふうにしちゃって、ほんとに……」


 ごめん……と、もう一度謝ろうとした時、月明かりの下、隣でスゥ――ッと息を吸い込む音が聞こえた。


「いい」


 俺の言葉をさえぎるように呟いて、今度はゆっくりと息を吐き出す立夏。


「もういいって、前にも言った」

「う、うん……」

「傷がつくのも嫌なほど大切だったら、最初から貸してない」

「そうかもしれないけど……」

「使われずに引き出しにしまっておくよりも、あなたの役に立てる場面があるなら、活用した方がこの子・・・も喜ぶと思ったから貸したの」

「うん……」

「なくなったのは不測の出来事のせいで、あなたの責任じゃない」


 それに……と、そこまで話して立夏が口をつぐむ。

 これほど饒舌な彼女は本当に珍しい。

 昨日、可憐の家でも感じたことだが、この世界の立夏は少し性格が変わっているんだろうか? それとも、俺と立夏の距離感が変化している!?


 何かを言おうか言うまいか……。

 覗き見た立夏の花唇かしんがわずかに開いては、再び閉じる。

 そこに見止めたのは、明らかな逡巡の色。


 しかし、急かすことはしない。

 俺は黙って、次の言葉を待つ。


「それに……」と、再び立夏が口火を切る。

「笛の傷だって……大切な思い出」

「傷が……思い出?」


 あごを引いた立夏に釣られて視線を落とすと、膝の上で、彼女の右手が縦笛を優しく撫でていた。


「あなたが……みんなのために戦ったからこそ付いた傷」


 みんなというより、自分のためでもあったけど……。


「それから、私のためにも……」

「立夏の?」


 キルパンサーに襲われたとき、立夏の目には、俺が確固たる決意や信念に基づいて行動していたように映っていたのだろうか?

 だとしたら、明らかに買い被りだ。

 あの時は、とにかく視界に入った仲間を助けることに必死で、何が最適解かも分からずに右往左往していただけだ。


 でも、それが大切な思い出?


 そこまで考えて、漠然とした期待……いや、不安?

 そんな、もやもやとした感情が頭をもたげる。


 次の立夏の言葉が、俺と彼女の関係に決定的な変化をもたらしそうな予感――いや、不確かな確信がざらりと心臓を撫でつける。

 そしてそれは、必ずしも望ましい変化であるとは限らない。


 いつの間にか、大して話していない俺の喉までカラカラに渇いていた。


 立夏は――この小柄なクラスメイトは、一体どんな考えでトゥクヴァルスまで来て、どんな気持ちでここに座っているんだろう?

 必死に想像を巡らせようと努力してみるが、納得のいく答えを得るには、俺はあまりにも立夏のことを知らな過ぎた。


 言葉を呑み込んだまま、束の間の沈黙……。


 五秒か、十秒か……恐らくその程度の時間だったとは思うが、早鳴る鼓動のせいで三十秒にも一分にも感じられた。

 結局、この件で立夏がそれ以上言葉を続けることはなかった。


 長い沈黙の後、「ふうっ……」と青白い溜め息を漏らすと、「笛のことは、もういい」と、立夏が話を締めくくる。

 とにかく、彼女の中で納得のいく結論にたどり着き、そしてそれは、縦笛を見つけることができたからこそたどり着けたのだということだけは察することができた。


 やっぱり、探しに来て正解だったんだ!


 そう胸を撫で下ろした俺の隣で、しかし、立夏はまた別の件で剣呑けんのんなオーラを身にまとってゆく。

 一息ついた、次の瞬間。


「そんなことより……」


 立夏が発した言葉の抑揚トーンに背筋を撫でつけられた気がして、肩が跳ね上がる。


「そんなことより……綾瀬紬・・・くん」


 え? なぜフルネーム?


 慌てて立夏の方を見る。

 月明かりの下で、半分閉じられたまぶたの向こう側から、焦点がぼやけたような藍色の瞳がじっとこちらを見据えていた。

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