最終話
翌朝目が覚めると、僕はすぐに起き上がって父の様子を見た。彼は初めに出会った瞬間から寸分違わぬ姿勢で眠り続けている。
カーテンを開くと、朝日がいやに眩しく感じられた。
表に広がる海の色は普段よりも一段階明るく、窓を開けるとチョコミントのアイスを食べた後のような清涼感を含む、すっきりとした空気が僕の頬を撫でつけた。
麗子さんと藤沢、それに小夜子は朝早くに病室を訪れた。
昨晩起こった現象について、僕は誰にも話す気になれなかった。ひどく個人的な見解で、自分本位の解釈に過ぎないように感じられたからだ。
二人はひと晩で小夜子とずいぶん親しくなったようだった。三人を包む空気には、今では自然な一体感すら感じられる。
彼女の息子のことも二人は話してくれた。昨夜は一緒にハンバーグを作ったそうだ。
「ほら、これ見ろよ」
藤沢はスマートフォンで撮影した動画を僕にしつこく見せてきた。
ひき肉を捏ね、ハンバーグのタネを作る小さな男の子。彼は生き生きとした表情を浮かべ、無邪気に笑っている。
「これって……」
男の子は小さな手のひらでタネの空気を抜きながら、父がよく口ずさんでいた曲を歌っていた。
昔の僕がそうであったように、彼もまた歌詞は曖昧で、「Sunday morning ――」というフレーズだけをしっかりと発音している。
「あの子、ずっとこればっかり歌ってたよね?」
「夏目は、何の歌か知ってる?」
麗子さんと藤沢は、左右から動画を覗き込みながら僕にそう尋ねた。
「いや、どうかな」
僕は曖昧に答えると、スマートフォンを藤沢に返した。
父には少なくとも、ここに来てから幸せな瞬間があった。たとえそれがほんの束の間のことであったとしても、存在した事実はきちんと残っている。
小夜子に見送られながら病院を後にした僕らは、その足で押切山管理組合に向かった。僕らが見聞きしたことを語ると、河本さんは父の容態にひどく悲しんでくれた。
「わざわざ知らせに来てくれて、ありがとうございます」
深々と頭を下げる彼に向け、「河本さん、ひとつお願いがあるんですが」と僕は言った。
「何でしょう?」
「押切山の登山口まで案内してもらえませんか?」
僕らは河本に連れられ、押切山の麓に歩いて向かった。登山口の目の前には鬱蒼と木々が生い茂っている。
見上げると、遥か彼方に先端の尖った頂上がほんの少しだけ顔を覗かせていた。
そこに立った僕はしばらくの間山頂を見つめながら、父や彼女について思った。
そして最後に、山頂を含むそれらの風景をカメラで撮影すると、心の中を風が通り抜けた。
「何かこざっぱりとした顔だな。気は済んだのか?」
「今度は『登りたい』とか言い出さないよね?」
僕の撮影を後ろで見守っていた二人は、隣に来てそう言った。
僕は二人の顔を順に見ながら、「いや、帰ろう。お休みはもうおしまいにするよ」と答えた。
「へいへい」
「それじゃ帰りは、藤沢君が運転ね」
「えっ、俺ですか? 昨日あんまり寝てないのに……」
車へ乗り込む前に、僕は母に電話をかけた。ここ数年の間、こちらから話しかけたことなんて一度もなかったあの人に。
「もしもし、僕だけど」
「…………っ」
電話口では衣擦れのような音が聞こえ、その後で小さく息を吐くのが聞こえた。咄嗟に受話器を持ち替えたのかもしれない。
「今、どこにいるのよ」
ずいぶん間を置いてから母は尖った声で尋ねてきた。
「そんなに遠くないところ」と言うと、またしばらく無言が続いた。
そして、「何も言わずに、もう帰ったのかと思ってた」と彼女は静かに答えた。
「ううん。まだこっちにいる」
僕は少し間を空け、「今から、……家に帰るから」と付け足した。
母は返事を寄越さないものの、確かに僕の言葉を聞いている。受話器をギュッと押し当てているのか、小さな息づかいまで僕の耳に届いていた。
「今日の晩御飯って、何?」
「……何よ。急にそんなこと聞いて」
「お腹空いたからさ、帰ったら何か食べたいなって。……母さんのハンバーグとか」
再び黙り込んだ母は「……ごほっ……んっ」と一度咳払いをしたのち、大きく息を吸い込み、「とにかく、早く帰ってらっしゃい」と言った。
「うん」
電話を切った後、僕は暗くなった携帯電話の液晶をいつまでも見つめていた。心臓が今になってばくばくと音を立て始めている。
数年ぶりの母との会話はとてもギクシャクしていて、とても親子の会話と呼べる代物ではなかったかもしれない。
けれど深い深い森の奥の暗闇で、僕は手探りではあるものの、小さな一歩をようやく踏み出せたような気がした。
冬の終わりは、もう始まっている。
車に乗り込んだ僕らは窓を全開にし、夏の風を浴びながら走った。
山道を越える僕ら三人を乗せた車は、大好きな歌を大声で歌い上げている。
藤沢は僕が暮らす街を訪れてみたいと言っていた。
どこであろうと僕らがすることは夜の街を徘徊しながら飲み歩くことに決まっているが、その相手をするのもまた、今ではどこか楽しみにしている自分がいた。
友人が出来ること、迷惑をかけられること、普段は馬鹿に思えることをしてみるのもたまには悪くない。
麗子さんに駅まで見送られ、プラットフォームで帰りの列車を待ちながら、僕はファインダーを覗き込んだ。
どう足掻いたって、僕らはいつか老いぼれてしまう。その時の僕らを支えるのは、きっと大好きな瞬間の積み重ねであるべきなんだ。
色褪せたその時を嘆くより、それまでの過程を分かち合える者同士で過ごすこれからに僕は全力を尽くそう。
頭の中では、今もあのフレーズが流れ続けている。
「Sunday morning ――」から始まるメロディライン。
その歌を口ずさみながら、僕はまた新たな一枚を撮り始めた。
カムバック・ホーム 扇谷 純 @painomi06
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